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美少女と一緒に多摩川を流れていく

 急に瞼の向こうが明るくなった。何も感じなかった体が、周囲を包む(ぬる)い水を感触として捉えた。耳から優しい水音が聞こえる。鳥のさえずりが聞こえる。重力を感じる。体は水に浮き穏やかに流されている。柔らかくて暖かい。ここは――。


 わたしは目を開けた。一面の青空。伸び始めた草の匂いと堤防を彩る若草色。強い日差しに熱せられた土の匂いが水面を滑り抜けていく。上流に見える鉄橋をオレンジ色の電車が渡っていく、腹に響く重低音。


 多摩川。初夏の多摩川。手を動かせば水が跳ねる。息を吸うと初夏の空気が肺に染み込んでくる。世界は明るく生命に満ちて、空は広く宇宙へつながっている。昨日までひどく落ち込んでいたはずの気分が今はじつに爽快だった。体が軽い。世界はこんなにも希望に満ちて安らかだったのかと思う。


 ゆるやかな流れに乗って、わたしは多摩川を下っていく。思いのほか水量は多く、透明度も高く、体の下をゆっくり泳ぐ鯉や鮒が見える。小さな魚が飛び跳ねて、鏡のように落ち着いていた水面に波紋が広がった。わたしも手足を動かして同じように水を波立たせてみた。体の向きが変わる。視界がぐるりと回って、河川敷の草野球や中央高速の橋を渡るトラックや橋の下のホームレスの小屋や遠くの山並みが次々に巡る。午前。河原に引っかかったスタバの紙コップを見て、朝のコーヒーもいいかな、と思う。流されていると飲めないな、と当たり前のことを思う。


 四谷橋の下まで来たところで、多摩川は浅川と合流する。右半身に当たる浅川の水は多摩川よりも冷たかった。わたしは四十歳を過ぎたおじさんなので、少し出っ張ったビール腹で冷たい水を受け止める。浅川の水は体の下に潜り込む。それがなんだかくすぐったい。


 ふと上流を見ると、その冷たい浅川からもう一人、流れてくる。小柄で、セーラー服を着ている。

「おおい、君も流されてるの」

 とわたしは尋ねた。セーラー服の美少女は仰向けに浮かんで流されながら右手を振った。

「おじさんも?」

 わたしは仰向けのままバタ足をして緩やかな流れの真ん中で魚みたいに流れに逆らって留まった。流れが遅いので美少女が追いついてくるのに少し時間が掛かった。

「こんにちは。人に会うとは思いませんでした」

 と、美少女は言った。華奢な体はわたしよりもずっと喫水が浅かった。腹によぶんな脂肪が着いていないというのはうらやましいものだ。

「わたしは中央線の鉄橋から。君は?」

「私もです。中央線の鉄橋から」

「そうか、八王子と豊田の間の」

 中央線は多摩川と浅川を渡る。だから、どちらの川に下りる可能性もあるのだった。


「いい季節でよかった。こんなに晴れやかな気持ちで下っていける」

「そうですよね。あんまりいい気持ちだから、ほんとにこれでよかったのかなあって思ったりもします」

 美少女は青空に向かって腕を伸ばした。すらりとして、白くて、表面を濡らした水が明るい空色を跳ね返す。指先から滴った水が柔らかい頬に落ちて、跳ねて、川に戻る。おでこに水玉が流れ落ちる。

「後悔ってわけじゃないですけど、ちょっと違う見方をしてたら世界の違う部分を見れたかもしれないですよね。反省です」

 と、美少女は笑った。

「おじさんはどうですか?」

「わたしはね、全然そういうのがないんだ。後悔も、反省も、未練も、何もない。ただ、こんな晴れやかな場所にたどり着けたことが嬉しい。すごく、嬉しい気持ちだ」

 わたしはそう言ってから、二人の感じ方の違いは、つまり少女とおじさんの違いなのだと気づいて、いつの間にか自分が頭の中までもおじさんになっていたことを思い知ったのだった。いつのまにか年を取っていた。わたしはひとり苦笑いをした。


「もうすぐ河口ですね」

 と、美少女が言った。川幅はいつしか広くなり、京急の赤い電車が橋を渡っているのが見える。釣り船が海へ向かっていく。

「河口に出たら私たちはどうなるんでしょうね」

「さあ、どうなんだろう。とても安らかになれそうな気がするよ」

 わたしたちを取り巻く多摩川の水は、徐々に乳白色になり片栗粉を溶いたみたいにとろとろとして、暖かい。綿菓子みたいな甘い雲がふわふわと浮かんで、その下をミルクの香りのする霧が覆っていく。さっきまでうるさかった飛行機の音が柔らかく綿菓子に包まれて聞こえなくなっていく。

「静かだね」

 静寂だった。わたしは広い広い乳白色の海の真ん中に浮かんでいる。水面は鏡のように、真っ白な暖かい霧の世界を映している。だから上も下も真っ白だ。もう体を動かす必要はない。わたしたちは世界に包まれているだけでいい。

「静かですね。いまはとても幸せです」

 と、美少女の声が聞こえた。声だけが聞こえた。

 小柄な美少女はわたしよりもずっと早く、真っ白の世界に溶けてしまったのだ。わたしはつかの間のひとりぼっち。しかしそれも、ああ、ほら。わたしの右手は世界に溶けて、足も溶けて、視界が緩んで、嗅覚と視覚が真っ白になっていく。暖かくて、明るくて、幸せな気分だった。

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