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タイムスリップ

 これ、ヤバくない? ていうか絶対ヤバい。私の本能がヤバいって言ってる。だから避けて通りたいんだけどいまのヤバさは避けようがないところなんだよね。いや、避けてもいいけど避けると心が痛むってのがいまのヤバさ。

 あのね、通学路に人が倒れてる。すっごい分かりやすく倒れてる。倒れ姿から「私倒れてます」って感じが伝わってくる。全身を地面に投げ出して倒れきってる。ある意味すごい。

 前に電車の中で気分悪くなって倒れちゃった人を見たことがあるけど、最初はなんかフラフラしてるなーって感じで、そのあとゆっくりしゃがむように体勢を崩したから、しばらくは倒れたんだって分からなかったんだよね。たぶん倒れる人ってできるだけ頑張ろうとするから大の字には倒れないんだと思う。

 なのにこの人はめっちゃ倒れてる。超倒れてる。倒れるのを超越してる。あ、でも倒れてるだけならこのヤバさはたぶん感じないと思うよ。助けたらいいだけじゃん。すぐに救急車呼べばいいもん。そうじゃなくてこの人絶対に元気なんだよ。さっき薄目開けたの見たもん。ほんとに具合悪くて瞼しか動かせないとかって可能性もあるけど。

 でもそれだけじゃなくて見た目もヤバいんだよ。まず筋肉がめっちゃガチムチ。ボディビルかよ。いや、これボディビルの人を馬鹿にしてるわけじゃないんだよ。この人ほんとヤバいっぽいの。だいたい筋肉がガチムチだって分かるってことはさ、上半身裸なんだよ。ムナ毛もワキ毛もすっごいモサモサしてるし。哺乳類って感じ。あと裸足で、足の甲毛っていうの? そこんとこすごい毛。スネ毛はもっとすごい。というか服って腰に布一枚巻いてるだけでもしかしたらノーパンかもしんない。

 あと、これ。一番ヤバいのは(にお)い。動物園のペンギンのとこのニオイがするの。ペンギンのとこ、超臭いじゃん。あれだよ。ほんと泣きそう。目に染みる。

 あーもうどうしようマジこれ。たぶん助けたらすごい面倒なことに巻き込まれる。私そのへんの予感超当たるよ。でも十回に一回くらいは外れる。どういうことかっていうと、おじさんは本当に病気で倒れてるのかもしれないってこと。あー、どうしようほんと。おじさんこういうのもうやめにして。「あ、元気なんで大丈夫ス」とか言ってどっか行ってほしい。ほんと困る。どうしようかな。



 まったく、困ったことになった。どうしたものか。

 さっき目を開いて周囲の様子をうかがってみたら、ここが都でないことは明白だった。石造りの四角い建物が立ち並び、地面は何やら分からぬ黒い石が敷き詰められて固い。しかもそこを車輪のある馬のようなものが行きかっている。奇妙な世界だ。

 困ったことというのは、この世界の者と思しき女子(おなご)が近くに立ってこちらを見ていることである。たかが女子であるから儂が首を掻かれることもあるまいが、この奇妙な景色は忍びの術によるものかもしれず、用心するに越したことはない。そこで儂は死んだふりをして相手が動くのを待っている。しかしあちらも動かない。気配から察するに困惑しているようだが、それとて不用意に動くのはまずい。状況は膠着してしまっている。つまり、どうしたものか、困っている。

 少し、整理してみよう。まず今朝のことからだ。まだ朝日も昇らぬというのに、殿の小姓が儂を呼びに来おった。こんなことは滅多にない。儂は重大な危機が迫っていることを察して、布団から出るや殿の御座敷へ向かった。

「お呼びでございますか」

 布団から出るや、と言ったが、まさか寝間着のままやって来たわけはない。枕元の袴を穿き、脇差を差し、最低限の戦闘ができるように整えている。これこそが武士たる者の心配りである。特に儂は御側衆筆頭として殿の御身をお守りする役目を長らく仰せつかっているのである。抜かりがあってはならない。

「入れ」

 言われるがままに儂は御座敷へ入った。殿は正面の上段の間に座っておられた。眼光は鋭く、周囲の空気が張り詰めているように見えた。傍らに置かれたのは備前長船の名刀である。これは殿が戦のときに佩かれる太刀であるから、重大な何かが起きているのだな、と儂は察した。また、下段の間には御家老様や小姓衆も控えていらっしゃる。これはますます一大事の様相であった。

 しかし殿は意外なことを仰る。

「なんだ、脇差を持って来たのか」

「一大事と察しましたもので」

 儂はかしこまって答えた。しかし殿はいかにもどうでもよいという様子で命じられた。

「今は必要ない。兵衛(ひょうえ)に預けよ」

 兵衛様というのは、御家老様のことである。儂は妙な命令に首を傾げたが、殿のお言葉に従わぬ理由などない。腰から脇差を抜き取り、兵衛様に手渡した。その瞬間、兵衛様の口元が歪んだ。にやりと不敵に笑ったかと思うと、同時に苦悶の表情が浮かんだ。

「兵衛様」

 どうかなさいましたか、と言おうとした。そのとき、儂は鉄の匂いと背後から迫る殺気を感じた。ひゅんと刀の空を切る音がして、右肩に激痛が走った。血飛沫が上がった。それが自分の血だと気づくのに少し時間がかかった。小姓の一人が血まみれの刀を上段に構えて儂にもう一太刀浴びせようとしている。

「殿っ、これはどういう!」

 儂は叫んだ。だが殿は立ち上がるや備前長船の鞘を抜き放った。

「もはやこれまでと思え」

 切っ先が儂の喉元に突きつけられた。殿は儂を殺そうとしている。なぜか。なぜなのか。思い返してみても理由らしきものは何一つ見つからなかった。殿が幼少の頃より忠実な家臣として仕えてきた。戦では必ず殿のお側をお守りした。叩き斬った敵の数は一人や二人ではない。御側衆筆頭は儂でなければ務まらなかったはずだ。それなのになぜ殿は儂を殺すのか? 儂の代わりはいないのだぞ?

「なぜ()がお主を殺すのか、理由が分からぬという顔をしておるな」

 見透かしたように殿が仰った。

「一言だ。お主は臭い」

「何と」

「二度も言わせるな。口を開きたくないくらいお主は臭いのだ。口を開けば口腔に悪臭が入ってきて鼻がひん曲がってしまう。しかしこれも最後であるから我慢して教えてやろう。お主は風呂に入れと何度も言うたにも関わらず一度も風呂に入った(ためし)がない。城中に腐った獣の如き体臭を振りまき兵の士気も下がっておる」

 殿は備前長船を構えた。天下の名刀は鋭い輝きを放っている。

「お待ち下さい! そうであれば、それがし今すぐにでも風呂に入り、生まれてよりこの方の垢を流して参ります!」

 しかし殿は眉間に皺を寄せるばかりだ。

「お主が敵の間者であるという噂もあってな」

「そんな馬鹿な」

 儂は横を見た。ご家老様の顔はニヤニヤとしてまことに愉快そうであった。まさか御家老様が左様な讒言(ざんげん)をなさろうとは思いもよらぬことであった。

「なにゆえ御家老様が」

 思わず儂は言った。すると御家老様は立ち上がり、顔をしかめながら儂に近づいた。

「臭いものには」

 と言って儂の首筋を扇子でとんとんと叩いた。

「蓋でござる。もはや我慢がならぬ」

 御家老様が鼻をつまみながら後ずさった。

 ひゅん、と風を切る音がして、儂の記憶は途切れた。

 


 橋を渡ろうとしたところで女子の制服が見えたので立ち止まった。立ち止まって後ろ姿をよく見た。

 ヤバ。

 何がヤバいかというと、そこに立っていたのが最上(もがみ)結衣(ゆい)だったからだ。別に最上がヤバい奴なのではなくて、どちらかというとたぶん俺の精神のほうがヤバいんだ。後ろ姿を見た瞬間から心臓が高鳴り始めた。嬉しいのとワクワクするのと怖いのが五分五分。あ、それじゃ十にならねーじゃん。じゃあ三分三分三分。合わせて九かよ。

 ともかく俺は最上結衣のことが好きである。フォーリンラブってやつ。あ、でも本人には言ってないよ。

 見たところ最上は一人だ。さりげなく通りかかったふりをして、というか本当にさりげなく通りかかっただけだし、軽く「おはよう」って声かけるのがいいかな。でも噛んだら超恥ずいよなあ。「おおお、おはようございますっ」とか言っちゃったらキモすぎてやべーよ。俺オタクかよって感じだし。いっそ何も気づかなかったふりして通り過ぎるってのも手だけど、って俺ヘタレかよ。超ヘタレ。やべー。

 ん、でも変だな。最上の様子がおかしい。っていうか人倒れてんじゃん!

 俺は自転車を停めて最上のところへ走った。走りながら119番に電話をかけた。そっか、最上の奴、人が倒れててどうしていいか分からなくなってるんだな。でも俺は冷静。すぐに助けを呼んで超かっこよくね? いやー、いいところ見せられてよかった。



 うわあ、もうダメ。ヤバさが三倍くらい上がった。こいつバカだ。ただでさえ面倒くさそうな状態だったのにもうメチャクチャ。気づかないふりして通り過ぎろよ。あー、ほら救急車の音聞こえてきちゃったよー。



 先程の女子(おなご)の他にもう一人若い男の声が加わった。ますます起き上がる時機を逸して困り果てていると、けたたましい音を立てて何かがやってきた。これにはさすがの儂も驚いて薄目を開けて様子をうかがってみた。白い馬だ。例の車輪で走る馬。赤い光を発して神の馬かと見紛うばかりに美しい。男が二人、馬から降りてきた。

「大丈夫ですか!」

 大丈夫である。しかし儂は死んだふりをしているので答えるわけにはいかない。男は儂の手首を握り、口元に手のひらをかざした。

「呼吸あり、脈正常……うわっ、くさっ!」

 男が尻もちをついたのがわかった。大きな鉄の台を運んできたもう一人の男も立ち止まって、心底うんざりした声で言った。

「うわー、こういうのか……」

 二人はくさいくさいと言いながら儂の体を持ち上げて鉄の台に載せ、そして馬の中へと運んだ。馬の中は空間になっていて、儂は台ごと収容された。いったいどこへ連れて行かれるのであろう。しかしともかく、当面殺される心配はなさそうに思えた。

「あー、君たち、一応最初に見つけた人なんで、病院まで同行してもらえる?」

 外から声が聞こえてくる。

「やっぱりそうなっちゃうんですよね……」

「臭いのに申し訳ない……」

「いえ、隊員さんも大変ですね臭くて……」

「仕事ですからまあ……」

「あ、俺は平気っすよ。なあ、最上。隊員さん、俺がいますから大丈夫っす」

「はあ……」

 連中が皆この馬に乗り込んできた。くさい、くさいと言いながら。

 儂はけたたましい鳴き声を上げる神馬に揺られて、何処かへ運ばれてゆく。

  

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