五月
五月の暖かい(というかすでに暑い)午前七時半の日差し。駐輪場に自転車を停めてグラウンドの脇を通る。いかにも朝って感じの新鮮な風が吹いてる。これが夕方になるとなんだかダラッとしてやる気のない空気になるのだ。朝は張り詰めてて木や草や水が動き始めたばかりの、透明な匂いがする。
そろそろ朝練が始まるくらいの時間だから、野球部とサッカー部と陸上部のジャージ姿がグラウンドに集まりつつある。部室棟の向こうのテニスコートにはテニス部がいて、体育館にぞろぞろ入っていくのはバレー部かバスケ部だ。表玄関に集合してるのは朝ランに向かう吹奏楽部。楽器を吹くのは体力が必要なんだ、って同じクラスの高見(集まりの中にいる背の高い男子だ)が言ってた。
吹奏楽部と入れ違いに玄関に入ると、さっきまで外にあった朝のみずみずしい空気からうってかわって、古い校舎のカビっぽいにおい。十年以上もずっとそこにあり続けてるんじゃないかというくらい古臭い空気だ。でも、窓から見える景色はたしかに五月の日差しを受けていて、ちゃんと季節は動いてるんだなあと思う。
階段の踊場の窓から真新しい緑色に染まった山が見える。五月だ。遠い山裾の採石場にショベルカーのオレンジ色が太陽光を浴びて鮮やかに見える。
二階の廊下。たぶん今日足を踏み入れたのは僕が二人目。国語科準備室に向かうのも二人目。この古びた動かない空気を吸って歩くのも。すり減った引き戸に手をかけるのも。
そして手をかけてわかる。その向こうの準備室には五月の日差しと新鮮な風が満ちているのが。
僕の周囲に沈んでいた古い空気が吹き飛ばされていく。ふわっと膨らんだ五月の風がカーテンを膨らませて弾ける。朝が廊下に流れ込んできて窓ガラスを揺らす。そして日差し。普通の教室の半分の広さしかない国語科準備室が光に満ちている。野球部のランニングの掛け声。サッカー部のボールを蹴る音。明るくて賑やかな五月の朝。
「一人目」はその国語科準備室の窓際の席に座って本を片手に将棋盤を見つめている。
「おはよ」
と、僕は片手を上げて言った。さて、どうせ聞いてはいないだろう。僕が教室に来たことすら気づいていないかもしれない。熱中すると周囲の物事が何も目に入らなくなる「一人目」は――いつも僕より早くやってきて詰将棋に熱中する上野目りん子は――しかし予想に反して僕の方を見た。少し大きすぎるメガネのレンズを通して歪んだグラウンドの白線。サッカーボールがフレームの中を転がる。まとめきれずにボサボサしているポニーテールが風をはらんでバサリと広がった。
「うん」
と無表情のまま頷いて、すぐに視線を将棋盤に戻す。いくつかの駒が盤の右上に固まって睨み合っている。りん子の右手が飛車を挟んで隣のマスで反転させる。すぐさま敵陣の玉が身体を捩って逃げる。銀を引く。たちまち玉の退路は絶たれる。猫背で小柄な彼女は細い指先から最後の刺客を放ち、一撃で討ち取る。喜びを表現するでもなく、傍らの本のページを静かにめくって、淡々と駒を並べて次の問題に入る。
静かに淡々と。五月の暖かい(しつこいようだけど、むしろ暑い)午前八時の風と騒がしい朝練の声と彼女の姿は全然混じり合わない。まるで黄色い絵の具の流れに取り残された群青色みたいに。
僕は少し離れた席に座って、その机上に昨日から投げ出されたままの盤面を見た。先手玉の頭上に迫る香車の槍先。圧倒的勝利を目前にして、無慈悲な敵将はしかし、最後の一撃を保留したのだった。下校チャイムが鳴ったから、というのが理由だ。
戦場は古びた冷たい夜気の中で一晩凍結され、今になっても保留されたままだ。僕は保留が解除されるのを待っている。しかし彼女は受話器を取らない。少し離れた席で金将をつまみ、玉を逃し、その玉を歩兵で追い詰める。静かに淡々と。
もしかするとこれは彼女なりの慈悲なのかもしれない。いや、無いか。彼女の指先は冷たい夜気の如き、無慈悲な女王。古びた校舎の中で淡々と敵を討ち取り続ける。横顔はいつでも無表情。黄色の風の中でも流されず混じり合わない群青色。
彼女の指先が止まる。玉は何度めかの討ち死にを遂げ、盤面から退場する。五月の風が彼女を包み、僕の周りを渦巻いて、廊下へ五月を送り込んでいく。しかしそれでも、彼女は淡々と、駒を並べる、かすかな黄色をまとった群青色。