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阿波天坊の散沱入道

 天正元年十一月廿日、夜。宇治橋の北詰にひとりの武者が立っていた。大きな鍬形の付いた兜の下の顔貌は陰となって明らかでないが、篝火に照らされた頬に深い刀傷が一筋刻まれているのが分かる。鼻の頭は赤く変色しているのは鉄砲による火傷の痕であろうか。古びた鎧に残る無数のささくれを見ればこの男が数々の戦いを潜り抜けてきたことが窺い知れよう。

 男の名を、戸名(とな)甲斐守(かいのかみ)という。剣の腕は優れたものだが素行悪く、仕官の夢は叶わず傭兵稼業で糊口をしのいでいる。数年前の戦で大功あって拝領した備州長船の刀を誇らしげに腰に下げているが、そのときの主人――三好某の顔をこの男は覚えてもいない。召し抱えられるのでなければ、殿様も道端の野垂れ死にも同じであった。

 そこへ、ひとりの大男が橋を渡ってやって来る。真っ赤な鎧と揃いの頭巾を被り、手には錫杖(しゃくじょう)、背中に槍を負っている。色黒の顔には無数の皺が刻まれ、白い髭で顔の半分ほどを覆い隠している。背丈は六尺をゆうに超え、篝火の灯りの下に現れた姿は鬼のようですらあった。

 戸名は自らの体が震えたのを感じて驚きを禁じ得なかった。こんなことは未だかつてない。戦場で組み伏せられ刀を突きつけられた時ですら、負けるなどとは思ったことはなかった。

(俺は必ず勝つ)

 その自信こそが戸名をここまでの武者に育てたのであった。

 ところが今はどうであろう。

(今日は、首を取られるやも知れぬ)

 恐怖が湧き上がってくるのである。このままでは、負ける。

 戸名は恐れを振り払うべく右足を大きく踏み出し、大音声で呼びかけた。

阿波天坊(あわてんぼう)散沱(さんた)入道とお見受けいたす。それがしは戸名甲斐守と申す者」

 大男が立ち止まり、頭巾を右手で傾げて戸名を見た。黒い肌に浮かび上がるような三白眼。まるで(うす)のような体型から黒臼(くろうす)と渾名する者もある、この大男こそ大和興福寺の塔頭(たっちゅう)阿波天坊に身を寄せる大和国随一の槍の名手、散沱入道である。

如何(いか)にも」

 散沱が低い声で答えた。手に持った錫杖を二度三度と橋に打ち付ける。鈴の音がシャンシャンと、宇治川の暗闇に響いた。

 戸名は刀の柄に手を掛けた。一度は恐れをなしたこの男、しかしさすがは幾多の戦場を潜り抜けてきた強者である。既に恐怖は去り、散沱を見据えている。

(この坊主を倒せば、俺にも遂に仕官の道が開けるに違いない)

 この時代の浪人というのは、こうであった。少しでも強い者を倒すことで名を売り仕官先を探すのである。

「御免」

 戸名は言うが早いか、刀を鞘から抜き払い、散沱へ斬り掛かった。戦国の世においては未だ剣道などというものはない。現代においては卑怯とされる技を使うのも、鎧兜で身を固めて戦うのも、相手を殺すのが目的であるから善悪を問う意味がない。

(ふん)

 と散沱は鼻を鳴らし、手に持った錫杖で戸名の刀を受けた。火花が散り、鈴がシャンと鳴った。無双の散沱と言えども咄嗟のことで体勢悪く、また片手では戸名の刀を押し返すことはできず、ずりと後ろへ押し下げられていく。それでもわずかな不安すら見せず戸名を睨みつけているのはさすが百戦錬磨の名手といったところか。

 戸名は刀を左へ払い、返す刀で袈裟懸けに斬りつけた。散沱が錫杖で再び受け止める。戸名は足を右へと滑らせながら間合いをさらに詰め、散沱を端へと押しやっていく。

(しめた)

 と、戸名は思った。

 今年は例年になく長雨が続いていた。この度の宇治橋は普請が良かったのか宇治川の増水にもよく耐え幾度となく水に没しながらも遂に流されることがなかった。だが、何度も水に浸かったが故に腐食が進んでいる。

(狙い通りだ)

 散沱が一歩、足を下げた。と同時に、火薬が弾けるような音がして、散沱の巨体が一瞬にして沈み込んだ。黒臼と称される巨体の重みが、長らくの増水にも耐えてきた橋板を遂に破壊せしめたのだ。散沱も、「おう」と低い驚きの声を上げた。板がはじけ飛び、散沱は右手一本で辛うじて宇治橋の欄干を掴みぶら下がった。増水した泥の宇治川に落ちなかったのはさすがの身のこなしと言うべきであろうが、もはや散沱は無防備である。

 それにしても実にあっけない。無双の阿波天坊散沱(あわてんぼうさんた)といえどもこうなっては負けを待つのみである。

(さて、どう仕留めてやるか)

 散沱の岩の如き右手を見ながら戸名は思案した。このまま右手に刀を振り下ろせば散沱の右腕は切り離され、体は濁流に飲まれて、随一の槍の名手はあっけなく最期を遂げることになるだろう。その右手をもって散沱に勝利した証とし、戸名は散沱を倒した剣豪として名を知らしめることになるだろう。

 戸名は刀を構え、狙いを定めるべく橋に開いた大穴を覗き込んだ。

 そのときである。視界に橙色の光がきらめいた。

「ぬう」

 戸名はすんでのところで身を反らした。

(槍――)

 である。篝火の橙色を跳ね返して輝くそれは、戸名の兜の鍬形を掠めた。次の瞬間には、散沱の巨体が宙を舞った。散沱は右手で宙吊りになっている間に、背負っていた十文字槍を構え、片手で橋上へ飛び上がったのである。

 大岩でも落としたかという揺れと共に戸名の眼前に散沱が立ち塞がった。腐った宇治橋が落ちなかったのは奇跡的と言ってよい。

「よくも――」

 と散沱は唸った。腐った木片にまみれた色黒の顔には憤怒が浮かんでいる。勝負を決する一瞬のこと、長々と敵を諌めるようなことはしない。

(えい)

 と一言発して、槍を打ち下ろした。槍は突くものと思われがちだが、阿波天坊において僧兵達が生み出した槍術は十文字槍を振り回すのが常である。戦場で敵を倒すことに特化しており殺傷力が極めて高い。

 戸名は身を転がした。脇腹のわずか三寸ばかり左に槍の穂先が突き立ち、橋板が紙細工の如くめくれ上がった。

(この距離ではまずい)

 戸名は身を翻し、一気に間合いを詰めた。阿波天坊流の弱点は長槍を振り回すが故に懐が甘くなることである。散沱が槍を手繰るよりも早く、戸名は散沱の懐に飛び込み、刀を腋に目掛けて打ち込んだ。並の剣士ならば左腕が切り離されていたであろう間合いであったが、散沱は巨体に似合わぬ素早さで身を沈めた。

(こいつは――)

 驚きつつも戸名は刀を返す。狙いは足だ。体の大きい者は足に傷を負うと立ちどころに動けなくなるものだ。

 だが散沱は横薙ぎに一閃した刀を跳び上がってかわした。戸名は直後、頭へ打ち込んだが、散沱は身を反って逃げる。無防備になった腹を狙ったら、宙返りで避ける。

(なんだ、こいつはまるで――)

 戸名の切先はことごとく空を切った。

(踊ってやがる)

 散沱の口元にニヤリと笑みが浮かんでいた。楽しそうに、踊る芸者のように、身を翻している。

 ここに至って戸名は散沱の術中に迷い込んでいたことを悟ったのであった。

 散沱が槍をくるりと回して持ち替えた。これにて、長槍は短棒となる。懐の甘さは弱点ではない。

「阿波天坊流、変化(へんげ)

 戸名は目前に大槍の柄を見た。直後、頭のなかに火花が散り、しびれるような感覚とともに仰向けに投げ出された。体が宙に飛ばされている間、戸名は気を失っていた。橋板に体を打ちつけられ、一瞬の失神から目覚めたときには、鼻先に槍の刃が向けられていた。

(あ――)

 負けはあっけなく決まった。

(死ぬ)

 そのことに気づいたとき、戸名には恐怖も悔恨もなかった。ただ、鼻水が出てきた。呆けたように頭上の星を見て、散沱の髭だらけの黒い顔を見た。相変わらず愉快そうに笑っている。

(俺など、その程度だったか)

 戸名は目を閉じた。これで終わりだ。最期というのはこういうものであったか。これまでに戦い抜いてきた戦場のことが思い出された。楽に生き延びたのではなかった。いつも死と隣り合わせであった。今度こそは死ぬのだと戦の度に思った。

(その俺が、死ぬときにはこうも簡単に、何の思いもなく、待っているだけなのだ)

 不思議なものだと戸名は思った。川の流れる音を聞きながら、戸名は最期の時を待った。

 しかし、いつまで経っても散沱の槍先は動かない。

「早くなされよ」

 目を閉じたまま、戸名は言った。

 すると散沱は、大声で笑った。

 戸名は何事かと思い目を開けた。散沱は既に槍を戻し、背を向け、橋の上に仁王立ちして天に向かって愉快そうに笑っていた。

 宇治川に野獣の咆哮のような声が響き渡った。橋の下を寝床にしていた鳥が驚いて騒ぎ始めた。犬の遠吠えが聞こえる。

「愉快、愉快。実に愉快」

 散沱は橋の上に取り落としていた錫杖を拾った。二度三度と振ると、シャンシャンと音が響いた。鳥が応ずるように鳴き、欄干を鼠が走っていく。

「戸名甲斐守。中々の者ぞ。だが志はいかにも小さい」

 都まで届くかというほどの大音声で散沱は言った。

 錫杖を鳴らす。

 鈴がシャンシャンと響く。

「願わくは暗き戦国の世を照らす灯火とならんことを」

 阿波天坊散沱入道はそう言うと、錫杖を二度鳴らし、懐から数珠を取り出して合掌し、経を唱えた。低い声が野山を覆うようだった。鳥も犬も鼠も、いつしか鳴き声を潜めていた。

 経を唱え終えると、散沱は振り向きもせず言った。

「また来よう。さらばだ」

 戸名甲斐(となかい)守は宇治橋の上に身を投げだしたまま、散沱(さんた)の大きな後ろ姿が去っていくのをぼんやりと見送った。宇治の夜に、錫杖の音が遠ざかってゆく。戸名はまるであの世から蘇ったような心持ちであった。

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