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将棋とか

「足を舐めるのと舐めさせるのとどっちが好き?」

と彼女は言った。

僕は歩兵をつまみ、静かに置く。

「舐めさせるほう」

「そう」

彼女はその歩兵を盤外へ出し、そこへ自陣の飛車を進める。

「じゃあさ」

と彼女は盤を見つめたまま言った。

飛車で取るのは予想しない手だった。

「負けたほうが勝ったほうの足を舐めることにしよう」

僕は飛車の動きの意味を考えたがよくわからなかった。

「うん」

僕の方には良さそうな手がいくつかあった。

しばらく考えて、敵陣に歩兵を打った。



放課後の将棋部部室で、僕は小佐野美香の足を舐めた。

ただそれだけのことである。

冬が近く、窓の外は薄暗かった。

安っぽい蛍光灯の明かりは何も感慨を生まなかった。

彼女も退屈そうだった。

「思いのほか楽しくない」

と彼女は言った。



「山田君、あなた小佐野さんの足を舐めていたでしょう?」

ひどい雨の降っている日だった。

休校になってもおかしくないような雨だった。

生徒指導室で豊部先生は僕を詰問した。

僕は頷くしかなかった。

先生がそう言うのは、記録が残っているからに違いないから。

「校則では、健全な、」

雷が鳴った。

先生の像が乱れて声が途切れた。

そのまま先生の姿は消えた。

先生のいたところには鰹節が残されていた。

僕は鰹節を拾った。



家庭科の調理実習は木之本と同じ班だった。

彼の父親は料理屋をやっていて、彼自身も料理の心得がある。

この実習はうまくいくだろう。

「ときに山田」

と彼は言った。

エプロンが似合わない男だ。

「お前の持っているのは何だ」

「わかるのか」

「わかるさ。匂いがぷんぷんしている」

僕は鰹節を取り出した。

彼は受け取って匂いをかいだ。

「いい節だ。どこで手に入れた?」

僕は経緯を説明した。

なるほどと彼は頷いた。

「とすると小佐野の足はうまかったはずだな」

「なぜわかる」

「料理をする人間にはわかる」

彼は引き出しから削り器を取り出して鰹節を削った。

いい匂いがしてきた。

「料理ってのはな、そういうことなんだ」

ちょうどお湯が沸いた。

木之本は火を止めて削り節を入れた。



山本さんは奇妙な人だ。

授業中に愛について考えていたりする。

そして考えていることが常に頭の上に浮かんでいる。

今日も、愛、という文字が。

鰹節の匂いに包まれた愛が。

「木之本君は、」

と山本さんは言った。

「出汁をとるのがうまいね」

木之本は少し照れて「おう」と答えた。

愛の字は黄色くて、丸ゴシック。



あるとき、生徒会が世界を滅ぼそうとしているという噂が立ったことがあった。

信じる人もいたが、当然、嘘やデマの類である。

同じ頃、僕が山本さんに恋をしているという噂も立った。

こっちは本当だった。

しかし誰も信じなかった。

いや、ひとりだけ信じていた。

当の山本さんである。

ある日僕は山本さんに呼び出された。

誰もいない空き教室に。

誰もいないので山本さんもいなかった。

ただし山本さんの思考だけは存在していた。

山本さんは世界について思考していた。

僕はその思考が次から次へと形を変えるのを見ていた。

とても美しいと思った。

僕は思わず、「好きです」と言った。

その瞬間、山本さんの思考は消滅した。

教室から美しさは消え、ただの誰もいない空き教室になった。

僕の恋は終わった。



前生徒会長の城山先輩は普通の人だ。

それなのに世界の滅亡を画策した嫌疑をかけられて辞任した。

かわいそうな話である。

「世界を滅ぼせるとしたら、うちの高校では山本くらいだろうに」

と、先輩は言った。

僕はどきりとした。

「できますか、山本さんは」

「いや、わからないけど。雰囲気的に」

先輩はコーヒーを飲んだ。

駅前のカフェ。

僕はさほどおいしくはないカフェオレを飲んだ。

先輩のおごりではない。



「山田君、あなた小佐野さんの足を舐めていたでしょう?」

豊部先生は先日の発言をコピペして言った。

よく晴れた日だった。

天気予報は外れた。

適切な乱数。

「校則では、健全な青少年の育成が掲げられています」

先生は、やる気がない。

なんでもかんでもコピペで済ませる。

「ですが」

と、僕は反論した。

「足を舐めてはいけないとは書かれていません」

禁止されているのは、法令に反する行為と、風紀を乱す行為、不健全な行為。

「そうね」

と先生は言った。

そしてしばらくじっとしていた。

検索中。

「直接は書かれていない」

けれど、と先生はやる気のないため息をついた。

「謹慎一週間」

そうして僕は謹慎処分になった。



謹慎中は通信が切断されていた。

しかたなく僕は自宅にいた。

小佐野さんがどうなったか気になる。

気になるので鰹節を削っては味噌汁を作る日々です。

「おい山田」

と声が聞こえた。

鰹節が喋った。

木之本の声だ。

「鰹節になったのか」

「なりたくもない」

木之本によればこうだ。

この鰹節はシステムエラーでできたものだ。

僕が小佐野さんの足を舐めたことがその発端である。

そこで小佐野さんの足と鰹節を接続して通信を試みている。

「山田、聞こえる?」

小佐野さんの声だ。

「聞こえる」

と僕は鰹節に言った。

「将棋を指そう」

「なんで」

「私たちは将棋部だから」

なるほど、と僕は言った。

「目隠しで?」

「目隠しで」

そして僕の先手7六歩から始まった対局は僕の見落としで二十一手で終わった。

「負けた方は足を舐めること」

「どうやって」

「その鰹節を、」

そこで通信は切れた。

僕は鰹節を舐めた。

ひじょうにうまかった。



鰹節の生成に豊部先生も関わっていたことを忘れてはいないだろうか。

少なくとも木之本は忘れていた。

通信はすべて豊部先生にも筒抜けだった。

「あなた、謹慎中なのにまた小佐野さんの足を舐めたのね」

薄曇りの肌寒い日だった。

僕は生徒指導室に呼び出された。

「いえ、舐めたのは鰹節です」

僕は反論した。

「鰹節? 見せなさい」

僕は懐から鰹節を出した。

僕の懐は鰹節の匂いになっていた。

先生はそれをいろんな角度から点検した。

「これは」

と、先生は鰹節を爪で弾いた。

澄んだ、高い音がした。

「これはいけない」

先生は不安そうな顔をした。

「没収します」

「そんな」

と僕は言った。

しかしどうにもならなかった。

先生は鰹節を懐に入れて去った。

生徒指導室に冷たい風を残して。



「さいきん豊部先生の様子がおかしい」

という話を聞いたのは城山先輩からだった。

例の駅前のカフェで。

珍しく先輩はコーヒーをおごってくれた。

とするとこの話はただではないのだろう。

「世界の滅亡に関わる話だ」

「大変な話ですね」

と僕は言った。

ちょっと信じられなかった。

先輩はそれを察して言った。

「俺がやられたようなデマじゃない」

僕は少し考えた。

「デマじゃないといえる根拠は?」

僕は慎重に言った。

先輩もまた思案して慎重に答えた。

「このコーヒー」

「コーヒー?」

僕はコーヒーを見た。

渦を巻いている。

システムエラー。

「豊部先生を中心に何かが起こっている」

「これもですか」

「これもだ」

先輩は僕のコーヒーにミルクを入れた。

それからグラニュー糖の小袋を破いた。

中から削り節が出てきた。

香ばしい。

「飲んでみろ」

先輩に言われて僕は恐る恐るコーヒーに口をつけた。

とてもまろやかだった。

「どうだ?」

「これは……」

僕は言いよどんだ。

そして口を開いた。

口から出てきたのは青い明朝体の愛だった。



山本さんに会わねばと思った。

世界の滅亡についてなにか知っているかもしれない。

そして愛は、世界の滅亡についてのなにかかもしれない。

「山本さんの居場所を知りたい」

と僕は小佐野さんに言った。

「私に勝ったら教えてあげる」

彼女はあやしげに笑った。

「負けたら?」

「足を舐めればいいんじゃない?」

そうして対局は十六時ちょうどに始まった。

僕は振り飛車、彼女は居飛車。

早々に戦端が開かれ、激しい中盤戦から終盤戦になだれ込む。

僕はなにがなんでも勝ちたかった。

そして一秒でも早く。

額に汗がにじんだ。

形勢は少し有利と思えた。

そしてついに決定的な勝ち筋を見つけたと思った。

震える手で銀を敵陣に打ち込む。

小佐野さんがふっと息を吐く。

「それはさあ、」

それだけ言って彼女は手を進めた。

九手の後、僕は投了した。



「いま豊部先生に見られるのはまずい」

僕はカーテンを閉めた。

薄暗い放課後の部室。

小佐野さんは机に座り、靴下を脱いで足をぶらぶらさせている。

僕はその前に両膝をついた。

彼女の足を手に取る。

あたたかい。

鰹節のかぐわしい匂いがする。

「鰹節とレモンはよく合う」

と彼女は言った。

その通りだった。

彼女がスカートの裾をぱたぱたと揺らす。

スカートの中からレモン味の愛が、小さな愛が、たくさん落ちてきた。

僕はそれをひとつ拾い、齧る。

鰹節の風味とレモンの酸味が調和している。

「おいしい」

と僕は言った。

彼女は右手を僕の頭にのせて軽く撫でた。

「それでいい」

「いいんだ」

「いいよ」

もしくはなにか夢のようなものだったのかもしれない。

カーテン越しの夕日がやけに明るく見えていた。

「でも、世界が滅ぶかもしれない」

僕は不安だった。

頭の上の彼女の手にさらに手を重ねる。

彼女はまた左手を重ねる。

「いいよ」

と彼女は繰り返した。



その夜、木之本から連絡が来た。

いわく、重大な話がある。

僕は彼の家に行った。

比較的庶民的な日本料理店。

入ると彼はカウンター席についている。

他に客はいない。

彼の父がカウンターの中で無言で料理を作っている。

「来たか」

と木之本は言った。

「来た」

と僕は言って隣に座る。

鰹節のいい匂いがした。

「その鰹節の話だ」

と彼は言った。

カウンターに吸い物の椀が置かれる。

ゴシック体の愛が浮かんでいた。

僕たちはそれを手に取り、汁を啜る。

「うまい」

と僕は言った。

目をみはるうまさ。

「そうだろう」

木之本は特に表情を動かさずに言った。

続いてカウンターには鮨が置かれた。

シャリの上にやわらかそうな愛が載っている。

僕はそれを食べた。

とろけていくような食感。

「これもうまい」

と僕は言った。

「そうだろう」

と木之本は繰り返した。

「なぜ」

と、僕は疑問を口にした。

木之本は黙った。

しばらくして立ち上がり、僕を奥の部屋に手招きした。

僕はついていった。

そこは八畳の和室だった。

たくさんのバケツが置かれ、天井から落ちてくる愛を受け止めている。

無数の、小さな、愛。

「愛が溢れ落ちてくる」

と木之本は言った。

「原因は」

と僕は尋ねた。

おおむね心当たりはあった。

木之本は言いよどんだ。

そして、

「山本」

とだけ言った。



山本さんは無口だ。

そして同時に透き通るような美少女でもある。

それゆえ存在感がない。

「そこにいたんですか」

と僕は言った。

「ずっといた」

と山本さんは答えた。

朝の空き教室。

「ずっと?」

「そう、ずっと」

窓の外には山並みが見えている。

冬枯れ色の、もしくは緑色の、あるいは青色の。

朝の光はやわらかく、それでいてやさしくはない。

開いた窓から入ってくる朝ご飯の匂いの風がカーテンを揺らす。

近所のどこかの家の朝ご飯の匂い。

「なぜ」

「演算をしていた」

と山本さんは言った。

「学校を、丸ごと」

と。

ねっとりとまとわりつくような鰹節の匂い。

喉が渇く。

「愛は重い」

と山本さんは続けた。

「こんなものは、なくなってしまえばいい」

山本さんの左手に錆色の愛が握られていた。

とても重そうだった。



「困ったもんだよ」

と木之本は言った。

冬の日だった。

寒い。

彼は山本さんからプレゼントされたマフラーを巻いている。

夕日の色のマフラーを。

編み糸はあちこちで意味不明に繋がっている。

エラーの内包。

つまるところ、僕ではなく木之本だった。

山本さんの力になれたのは。

「しかし重そうな愛だ」

と僕は言った。

木之本は頷いた。

「世界はなぜ滅ばなかったのか」

僕は尋ねた。

「詳細を知りたいんだ」

木之本は答えた。

「俺も知らん」



あるいはまだ、世界の滅亡について考えるとするならば。

存在感をさらに薄めた山本さんのことだったり。

何事もなかったかのように普通に戻った豊部先生のことだったり。

なにも変わらない小佐野美香のことだったり。

次の手は5四歩。

「それでいいの?」

と彼女は言った。

「いい」

と、僕は答えた。

彼女は軽やかに僕の陣地に歩兵を打ち込む。

「負けたら?」

と、彼女は楽しそうに言った。

「鰹節を舐める」

と、僕は答えた。

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