ベンベベン
おれは胃腸が弱い。子供の頃からずっとそうだった。運動会の前日に腹が痛くなるのはいつものことだった。不安なことや嫌なことがあると決まって胃が痛くなるか、腹を下すかした。脂っこいものを食べるのも駄目だ。翌朝はたいてい下痢に見舞われる。辛いものを食べるのはなお悪い。下痢に加えてカプサイシンの刺激で肛門が焼けるように熱い。酒を飲みすぎるとすぐに吐いてしまう。というのも食道の括約筋が弱いのだ。胃だけでなく腸もアルコールに弱いらしくよほど慎重に飲まなければ翌日は水のように下す。
今日にかんして言えば朝からストレスの連続だった。取引先のトンチンカンがとんでもないミスをやらかしたおかげでおれがコツコツ片付けてきた仕事が全部塵屑になってしまった。おれだけの問題であればまだましであったが無理をして準備させていた現場からはジャンジャン電話が掛かってくる。
「おいこの野郎さんざんこき使っておいてやり直しとは何事だふざけるな」
「おめえとは二度とやらねえ」
「くたばっちまえ」
という具合で1分おきに各現場から順繰りに怒鳴られる。頭がおかしくなりそうだった。
「おまえのせいだくびになっちまえ」
どう考えてもおれのせいではないのだがそれでも頭を下げて回るのはおれの仕事の一部であるらしかった。そして頭を下げ続けているといつの間にかどうやらおれも悪かったのではないかという気がして不安になってくる。
昼ごはんは控えめにすべきだったがおれはむしゃくしゃしていた。会社を出て地面をガンガン蹴飛ばしながら歩いていたらあつらえ向きのラーメン屋があった。背脂ラーメンを注文すると期待したとおりのこってりした脂まみれのラーメンが出てきた。おれはテーブルに置いてあるにんにくのフレークを大さじですくって山ほど入れた。隣の一味唐辛子を二十回くらい振りかけた。これをズビズビと啜った。こってりした脂が太い麺に絡んで喉をズルズルと流れ落ちていった。甘くて旨い汁が舌の上を渦巻き、にんにくの香ばしいにおいが喉の奥から鼻腔へ駆け抜けていく。唐辛子の辛味が口の中でビリビリと刺激的だ。最後に残った汁をゴクリゴクリと飲み干しておれは店を出た。
午後の仕事はなお酷かった。トンチンカンの尻拭いのとんでもなく先の長い仕事に取り掛かった直後どういうわけかおれまでもとんでもないミスをやらかしてしまった。後ろから画面を覗き込んだ同僚が素っ頓狂な声を上げた。
「うひゃあ」
そのときおれは事態の酷さに気づいていなかった。どうせ同僚がおれを騙して笑いものにするつもりなのだと思った。
「そんなに驚くことはないだろう。たまにはこれくらい失敗することもある」
しかし反対側から覗き込んできた先輩も目を白黒させた。
「なんだこりゃあ」
するとおれもちょっと不安になってきた。目配せをすると離れた席で仕事をしていた上司もやってきてパソコンの画面を覗き込んだ。
「どひゃあ」
上司はひっくり返らんばかりに体をのけぞらせて白目をむいた。こうなると同じフロアの連中も異変に気づいて次々に集まってくる。
「おい大丈夫か」
上の階から経理部長がやって来た。
「始末書なら書きますよ。十万円ぽっちで会社が潰れるわけじゃあるまいし」
とおれは言った。
「一億円だ」
経理部長が顔を紫色にして指差した。小数点だと思っていたのはコンマだった。
「今年度の利益が全部消えた」
「そんなばかな」
「潰れる」
「もうだめだ」
そしてついに社長がやってきて同じように画面を覗き込んだ。
「ひい」
社長は断末魔の叫び声を上げて泡を吹いてその場に崩れ落ちた。すぐに会社じゅうが大騒ぎになり常務は頭がおかしくなって踊り狂い救急隊員が担架で社長を運ぶのがお祭りの神輿のようだった。騒ぎが落ち着いた後でおれは役員室に呼び出されてくびを告げられた。
もうどうせくびになったのだから明日のことなんて考える必要もあるまい。おれは駅の近くの便所みたいに薄汚れた居酒屋に入って片っ端から注文していった。胃腸の具合はどんどん悪くなっているがどうでもいい。まずはビールだ。それから日本酒、焼酎。えびの刺身に、えびの天ぷら、えびフライ、焼きえび、えびチリ、えび餃子、えびの沖漬け。ここまで食べてカウンターの奥を見上げたところえび料理の専門店であるらしかった。ぱあっとやろうと思って来たのにずいぶんと変な店に入ってしまった。まあよい。とりあえず料理はうまいし酒もたくさんある。主人はひどい猫背でえびみたいだったし女将さんの服はえびのように真っ赤だった。離れたカウンターに座っている常連もえびみたいに髭が長かった。愉快な夜だ。
案の定帰りの電車の中でおれの胃袋が暴れ始めた。グルグルと音が鳴って腹のあたりがひくひくと痙攣した。ついに食道の括約筋が開いて中身が逆流を始める。おれは両手を口に当てて押しとどめた。食道が焼けるように痛い。しかし一回逆流を収めてしまうとその後は案外平気だった。と思ったのもつかの間つぎには腸の具合がおかしくなってきた。ぎゅるぎゅると怪しげな音を立てて腸管が蠕動運動を開始した。トイレに行きたいが東京の通勤電車はトイレがないのである。おまけに快速電車に乗ってしまったものだからしばらく駅には止まらない。吊革を握りしめて眉間にしわを寄せて便意に耐えていたら隣に立っていた見知らぬ男が話しかけてきた。
「ご気分がすぐれませんか」
低音のよく通る声だったので空気の振動であやうく漏らしそうになった。なにがご気分がすぐれませんかだこの偽善者めおれは今にもうんこが出そうなんだぞ。と言ってやりたかったが言ったら漏れるので何も言わずに我慢した。このくそったれ七三分けの真面目くさった顔をしてやがる。
「それならば非常ボタンで列車を」
そんな余計なことをしてくれるなと思いおれは男を睨みつけた。おれの顔がよほど恐ろしかったのか男は魔物でも見たように顔を恐怖にゆがめて後ずさった。と思ったのだがそうではなくおれが屁をこいたのがひどく臭かったため鼻がひん曲がってしまったのであった。おれはそれからしばらく体をえびのように折り曲げながら駅に到着するのを待った。
駅に到着するやおれはえびのように体を曲げたまま階段を全速力で駆け下った。この姿勢は空気抵抗を減少させるらしくいつもより二倍くらい早く走ることが出来た。おれは改札の横にある男子トイレに駆け込んだ。腹の中では腸管がひどく暴れまわっていた。肛門から出られなければ腹を食い破って出てきそうなくらいだ。おれはズボンとパンツを一気に下ろしながら和式便器にしゃがんだ。それと同時に大きなものが肛門から勢い良く飛び出してきた。めちゃくちゃな下痢便であろうと予想していたがそれに反してきちんとした固体状の感触である。おまけにぷるんぷるんとしてぷりぷりしてぴちぴちとしていた。尻の穴を抜けるときにプリュプリュプリュと気持ちのいい音がした。便器に落ちても底に溜まった水の上でぴちぴちと音を立てていた。これは妙である。
「いったいどうしたことか。便器に落ちてもぴちぴちと音がしている」
おれは自分が排泄した便の様子がおかしいので股の間から便器に落ちた便を覗き込んだ。そうして絶句した。たしかに焦茶色の便色であったが肉厚でぷりぷりとしていていかにも弾力があり表面はつやつやしている。そればかりか赤くて硬そうな尻尾が付いていた。おれの大便は尻尾をぷりぷり振りながら便器の中で飛び跳ねた。まるでえびのむき身である。つやを見れば歯ごたえがありそうであり新鮮そのものだ。口の中でぴちぴち飛び跳ねるに違いない。
しかし――とおれは思った。これは便である。おれの肛門から出た便。その証拠に世も末と言うほどの強烈な悪臭を放っている。おかげでおれの鼻はひん曲がってしまった。おれはレバーを回して便を流した。