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サンクチュアリ

 おじさんは目を覚ました。朝だ。カーテンのすきまから差し込んでくる光でそれがわかる。枕元の時計を見ると六時二十分、いつもより少し早いけれど起きることにする。キングサイズのベッドから出て、パジャマを部屋着に着替える。首輪をつける。カーテンを開ける。さわやかな朝日。おじさんはさえない小柄な体で目いっぱいに背伸びする。今日も一日が始まる。広いリビングに移動してテレビをつける。朝のニュースは今日も平和だ。椅子に座ってテーブルに肘をつき、ぼんやりとテレビを眺める。北欧から取り寄せたという高級な椅子とテーブルは、おじさんにはまだなじまない。


 しばらくして、玄関の鍵が開く音。ドアを開いてJKが入ってきた。長い髪は美しく、顔立ちは柔らかく、大人びて優雅な身のこなし。きちんと着こなした制服。美少女。冴えないおじさんと並ぶと美しさはより一層際立って見える。


「おはよう」


 JKは言った。高く澄んだ声で。


「おはよう」


 と、おじさんも言った。


 JKは靴を脱ぎ、丁寧に揃えてから高級なスリッパに履き替えた。京都の履物屋に特別に作ってもらったという高級なスリッパだ。おじさんのとは色違い。おじさんはうぐいす色で、JKは淡い紫色。


 JKにつづいて、お手伝いさんも入ってくる。


「おはようございます」


 礼儀正しく一礼してからドアを閉める。


「おはようございます」


 と、おじさんは言った。


 お手伝いさんは深い青色の高級なスリッパを履き、キッチンに荷物を置くと、手早くエプロンをつけてお湯を沸かし始めた。すらりとして、きびきびと動く。JKとはまた違った美しさだ。


 JKはおじさんの向かいの椅子にふわりと座った。かすかに花のような香りがした。


 お手伝いさんはお湯を沸かし、コーヒーを淹れた。それを二人の前のテーブルに置く。湯気が立っている。いい香りがする。JKの花の香りと混ざり合い、ほどよく調和している。いつものことだけれど、おじさんは感心してしばらく湯気を眺めていた。キッチンからは卵を焼く音が聞こえる。


 JKは優雅にカップを持ち上げてコーヒーをひとくち飲んだ。


「おいしいよ。おじさんも飲んでいいよ」


「うん」


 おじさんもコーヒーを飲んだ。とてもおいしかった。お手伝いさんのコーヒーはいつもおいしい。


「どうぞ」


お手伝いさんが卵焼きとサラダとトーストをテーブルに置いた。三人分。それから、椅子に座る。


「いただきます」


 JKが言って、おじさんたちは朝ご飯を食べ始めた。


 卵は、飼育法にこだわっていることで有名な養鶏場から毎日届けられる。お手伝いさんの料理の腕と相まって、とろりと濃厚な半熟に仕上がっている。サラダは、近くの有機栽培野菜だけを扱うスーパーでお手伝いさんが選んだ野菜を使っている。新鮮な植物の香りとくせのない味が朝の空気によく合っている。トーストは、交差点の脇にあるパン屋さんの朝の焼き立てを、お手伝いさんがほどよい厚さに切ってほどよい焼き加減にして出してくれる。表面はサクサク、中はふわふわしている。


おじさんは、お手伝いさんが作ってくれる朝ご飯が大好きだ。


「今日はテストだっけ」


 おじさんは卵をほおばりながら言った。


「うん」


 JKはトーストをさくさくと噛んでから答えた。


「頑張ってね」


「ありがとう。でも今日のはそんなに難しいテストじゃないから、全然だいじょうぶ」


 そして柔らかい笑顔をおじさんに見せた。


 JKはとても優秀な高校生だ。勉強がよくできて、立ち居振る舞いも美しい。それだけじゃなくて、JKのお父さんがやっている会社の役員もしていて、会社経営の才能もある。ピアノを弾くのも上手だ。やることがたくさんあるので、毎日とても忙しくしている。おじさんはJKのことをすごいと思う。


「ごちそうさまでした」


 JKが優雅に言った。


「もう、行くんだね」


「うん。早めに行って、音楽の先生にピアノを聞いてもらおうと思って」


「それはいいね」


 お手伝いさんがとても自然にさりげなく、JKの食器を下げる。


「ありがとう」


 JKはお手伝いさんにそう言い、優雅に荷物をまとめると、席を立った。玄関で振り向いて、おじさんに呼びかける。


「外は危ないから、あまり出ないようにね」

「うん。わかってる」


 おじさんの返事に笑顔を見せて、JKは出ていった。



 食事が終わると、お手伝いさんが広い家をくまなく掃除してくれる。おじさんが使うのは寝室とリビングくらいのものだけど、お手伝いさんはおじさんが使わない部屋まで毎日ぴかぴかにする。おかげでおじさんは毎日の暮らしをとても快適にすごしている。おじさんは掃除の才能が無くて、だからおじさんはお手伝いさんにとても感謝している。


「毎日ありがとうございます」


 と、おじさんは毎日言った。


 お手伝いさんは、「どういたしまして」とだけ優雅に答えて、自分の仕事を淡々とこなした。


 お手伝いさんが掃除している間、おじさんは邪魔をしないように、晴れた日はベランダに出た。ここはJKがおじさんのために借りてくれた家で、高級マンションの二階にある。眺めはいいとは言えないけれど、ほどほどの高さがおじさんにはちょうどよかった。


 ベランダには座り心地の良い木の椅子が置いてあって、おじさんはそこに腰掛けて階下の庭を眺めるのが好きだった。周囲の建物は低いので、日当たりがよくて、庭には季節ごとに花が咲いた。そしてときどき、猫がやってきた。


 猫は、人間の姿をしていた。JKよりも少し年下に見える美少女で、耳と尻尾のある白い猫の着ぐるみを着ていた。日向ぼっこをして、昼寝をして、どこかへ行く。おじさんと目が合うこともあるけれど、お互いに言葉をかわすことはなかった。なんとなくそういう友達のような関係なのだった。


 おじさんは猫を見ながら思った。猫はひとりで生きていてえらいなあと。おじさんはひとりでは生きられない。住む家も、着るものも、食べ物も、全部JKにお世話してもらっている。お手伝いさんがいないと掃除もきちんとできない。


「ぼくも本当は猫のように生きないといけない」


 と、おじさんはつぶやいた。それが聞こえたのか、猫は少しおじさんの方を見て、しかし何事もなかったように日向ぼっこを続けていた。


 お手伝いさんが帰った後、おじさんがベランダでうつらうつらとしていると、だんだん空が暗くなって雨が降り出した。そういえば朝の天気予報で雨が降ると言っていたっけ。おじさんは部屋に戻った。


 ふかふかのソファに座って窓の外の雨を見ていると、おじさんは少し暗い気持ちになった。雨の日は好きではないから。雨の日は、おじさんがとてもつらかったときのことを思い出してしまう。


 あの雨の日、おじさんは途方に暮れていた。どこに行けばいいのかもわからなかった。家はもう自分のものではなくなってしまった。お金は財布の中に千円が残っているだけだった。何もできないおじさんには、働くこともできそうになかった。雨宿りのために公園のあずまやの下に座った。薄暗い街灯だけがおじさんを照らした。そこへJKが通りがかった。JKは高級な傘をさし、学校から帰るところだった。美しい少女は薄暗い街灯の下なのにとてもまぶしく感じられた。


「おじさん、おうちはあるの?」


 JKは澄んだ声でおじさんに問いかけた。おじさんは首を振った。


「家はあったけどもう僕のものじゃないんだ。だから住むところはない。僕はどうしたらいいんだろう」


 JKはおじさんの隣にしゃがんだ。


「家族や親戚はいないの?」


「いない」


 と、おじさんは答えた。


「そう」


 と、JKは悲しそうな顔をした。そしてしばらく一緒にしゃがんでいた。やがてJKは思いついたようにスマホを操作して、誰かと連絡しているみたいだった。そしておじさんにこう言った。

「わたしが飼ってあげる。うちにおいで」



 夜までに雨は上がった。そのかわりに少し肌寒くなった。今夜はいつもより少し遅く、JKが来た。


「忙しいの?」


 と、おじさんは尋ねた。


「うん、そうだね。テストは終わったけど、会社の仕事がいっぱい入っちゃった。でも、だいじょうぶ」


 いつものように優雅に微笑んで、右手に持った袋を掲げてみせた。


「今日はお寿司を買ったよ」


 テーブルの上に広げたお寿司は、JKのお父さんが経営する会社の近くにある高級なお寿司屋さんのものだった。晩ごはんの時間にはお手伝いさんは来ないので、こうしてJKが晩ごはんを買ってきてくれることが多かった。そうでなければ、出前だ。


 おじさんはにこにこしながらお寿司を食べた。なぜならとてもおいしかったからだ。


「この白身は特においしい。何という魚だろう」


 と、おじさんは言った。


「それは鯛」


 と、美少女は答えた。


「すごいな、何でも知っている」


 おじさんは尊敬のまなざしでJKを見た。JKはにこりと笑った。


「おじさんはお魚が好きだよね。猫みたい」


「ぼくが猫? そうかなあ」


 それで、おじさんは昼間のことを思い出した。


「そういえば、今日も猫が来たんだ」


「前にも言っていた、白い猫?」


「そう。それで思ったんだけど、」


 おじさんは喋りながら赤身のお寿司を口に入れてもぐもぐと食べた。これはまぐろだ。それくらいならわかる。とてもおいしい。


「猫はひとりで生きていてえらいよね」


「そうだね。猫はえらい」


「僕もあんなふうにひとりで生きられたらなあ」


 おじさんはひとりごちた。


 JKはそんなおじさんを見ながら、白身のお寿司を箸で優雅につまんで、醤油を少しだけつけて、食べた。


「無理しなくていいからね。おじさんはわたしが飼ってるんだから。ひとりで生きられなくたってだいじょうぶ」


「でも、何もかもしてもらうばかりだ」


「いいんだよ。わたしはいつかおじさんを飼いたいと思っていたんだし、今も飼えて楽しいよ」


「そうか……うん、それならいいや。僕も楽しい」


 おじさんは少しもやもやした気持ちになったけれど、JKが楽しいと言ってくれたので満足した。そしてお寿司をおいしく食べた。


 帰り際、JKが思い出したように言った。


「お手伝いさんのことなんだけど、怪我をしちゃったらしくて一週間ほど来られないんだって。しばらく朝ご飯はわたしが作るね」


「いいの? 忙しいんじゃないの?」


「だいじょうぶ。仕事のことはお父さんにも言ってあるし、一週間くらいなんとかなるよ」


「そうか。それならよかった」


「うん、まかせて」


 JKが笑顔なので、おじさんは安心した。



 翌朝は、言ったとおりにJKがひとりでおじさんの家に来た。土曜日なのでJKは学校に行かなくてよくて、だから制服ではなかった。薄曇りの天気も相まって、やわらかい印象に見えた。


 JKはお手伝いさんがやってくれているのと同じようにコーヒーを淹れて、少し違うのは卵ではなくベーコンを焼いてくれたことだった。


「得意先の社長さんがくれたやつだよ。どうかな」


 少し焦げ目のついたベーコンはとてもいいにおいがした。いつものようにいただきますをして、早速口に入れて噛むと、旨味がどんどん出てくるかのようだった。


「とてもおいしい」


 と、おじさんは言った。


「それはよかった」


 と、JKは嬉しそうだ。


 コーヒーは、お手伝いさんが淹れてくれたのよりも少し苦い気がした。でもこれはこれでおいしかった。おじさんはコーヒーが好きだ。


 食べ終わると、JKが皿洗いをして、掃除もしてくれた。おじさんはいつもと勝手が違って落ち着かないので、ベランダには出ずにソファに座って掃除の様子を見ていた。JKの手際の良さはお手伝いさんほどではないけれど、丁寧でぴかぴかに仕上がった。


 掃除が終わるとJKが言った。


「一休みしましょうか」


 テーブルに向かい合って、ふたりでおやつを食べた。


「これも得意先からもらったクッキー。フランスのお土産なんだって」


 たしかにフランスのような味がするぞとおじさんは思った。でもそれよりもJKのことが気になった。ひとくちも食べずに、紅茶にすこし口をつけただけだった。


「疲れてるの?」


 おじさんは尋ねた。


 JKは少し驚いた様子だった。


「そう見える?」


「すこしだけね」


「そう……うん……疲れてるかもね」


「じゃあやっぱり掃除は、ぼくが、」


 とおじさんが言いかけたのを、JKは右手で制した。


「いいの。おじさんを飼ってるのはわたしなんだから。わたしがやる」


 それは、有無を言わせぬ感じがした。だからこの場では、おじさんはそれ以上は何も言わなかった。


 それでも、JKが出ていってから、おじさんは自分の力で掃除ができるかどうか試してみることにした。お手伝いさんやJKがやっていたのを思い出しながら、テーブルや棚を拭いて、掃除機をかけた。洗剤を使って窓ガラスを拭いた。けれどもどうしてだか、ちっともきれいには見えないし、かえって散らかったような気すらするのだった。


 夜、またいつもより少し遅くJKがやってきた。


「ごめんね。今日は時間がなくて。晩ごはんはお弁当ね」


 デパートの地下にあるお弁当屋さんで買ったという和牛ステーキ弁当は、小さいけれどもとてもおいしそうだった。JKはそれをレンジで少し温めておじさんに出してくれた。おじさんはそれをほおばった。予想通りとてもおいしかった。


「おじさん、ひとりで掃除したでしょう?」


 と、JKはおじさんの対面に座りながら唐突に言った。


「どうしてわかるの」


 と、おじさんは言った。


 JKは部屋の中をひとつひとつ指さした。


「だって掃除機も洗剤も出しっぱなしだし、テーブルの上は散らかってる」


 おじさんは、リビングにおいてある掃除機を見た。なるほど、これでわかったしまうのかと思った。


「しなくていいって言ったのに」


 JKが視線を落として残念そうに言ったので、おじさんはとても申し訳ない気持ちになった。


「ごめん。頑張ればできると思ったけど、やっぱりだめだった」


「いいんだよ。頑張らなくてもいい。焦らなくてもいい。おじさんはおじさんのままでいいんだから」


 JKは優しい声でそう言った。


 おいしいお弁当なのに、おじさんは申し訳ない気持ちでのどにつかえてしまうような苦しい感じがした。JKが家に帰ってしまってからも、おじさんは自分がひとりでできることについて考えてみた。でも結局のところ、おじさんがひとりでできることはなさそうだった。



 おじさんが小学生の頃、勉強も運動もちっともできなかった。どちらも下から数えたほうが早かった。背もあまり伸びなくて、背の順で並ぶといつも前のほうだった。でも、努力だけはした。おかげで、高校にはなんとか合格することができた。


 大学は落ちたので、いくつかのアルバイトをした。どんなアルバイトでも、仕事の出来は下から数えたほうが早いくらいだった。そのせいでときどき首になり、また別のアルバイトを探した。そんなことを何度か繰り返した。アルバイト先で怒られることはしょっちゅうあった。そうしているうちに外に出るのが怖くなってしまった。 


 家で落ち込んでいるおじさんを、おじさんのお父さんとお母さんはなぐさめてくれた。


「お前は頑張っているよ。ゆっくり休んだほうがいいよ」


 じっさいに、しばらくはそれでよかった。おじさんのお父さんとお母さんは働いてお給料をもらっていたので、家族三人が暮らすのに問題はなかったのだ。


 けれども、時は流れた。おじさんのお父さんとお母さんは年をとってしまった。年をとって、死んでしまった。二人が貯めていた貯金が少しだけあり、しばらくはそれで暮らしていたが、すぐに家賃を払えなくなってしまった。おじさんは小さい頃から住んでいた家を追い出されてしまった。


 家から出ずに暮らしていたおじさんにとって、外に出るのは久しぶりだった。どうしていいのかわからなかった。またアルバイトをしなければいけないと思って、財布に残っていた少しばかりのお金を使って電車に乗り、都会に出た。都会は目が回るほど大勢の人がいた。駅前で、何もできなくて途方にくれた。


 駅前広場には銅像が立っていた。それで、子供の頃おばあちゃんと一緒に行ったお寺のことを思い出した。おばあちゃんはお寺に行くのが好きだった。子供の頃のおじさんも一緒にお寺に行った。おばあちゃんは仏様の前で手を合わせた。おじさんも真似をした。


「観音様はね、困ったときに助けてくれるんだよ。だからお前も困ったときは観音様にお願いをするといいよ」


 そうだ、観音様にお願いをしよう、と思った。


 駅前広場の銅像は観音様かどうかわからなかった。でも、おじさんは銅像の前に立って、観音様にお願いをした。目を瞑り、手を合わせた。観音様、お願いです、ぼくはこれからどうしたらいいのか教えてください、僕をたすけてください。


 そうしているうちに雨が降り始めた。おじさんは仕方なく雨宿りできる場所を探した。近くの公園にあずまやがあり、その下に座った。うつむいて、途方に暮れた。


 すると、


「どうしたの?」


 と、澄んだ声が聞こえて、おじさんは顔を上げた。目の前に、やわらかく輝くような美少女が立っていた。それが、JKだった。



 月曜日になった。朝、JKはさらに忙しそうにおじさんの家にやってきた。朝ご飯を作る間もなく、商店街のパン屋さんのサンドイッチをテーブルに置く。


「ごめんね。忙しくて朝ご飯を作る時間がないんだ」


「いいよ。パン屋さんのサンドイッチは好きだから」


 と、おじさんは答えた。パン屋さんのサンドイッチは、ときどきお手伝いさんが買ってきてくれることがあった。おじさんのお母さんが作ったサンドイッチに似た味で、食べるとなつかしい気持ちになるのだ。


 それから、JKはもうひとつ手に持っていた袋を冷蔵庫に入れた。


「お昼は、カツサンドね」


「ありがとう。それも大好きだよ」


 JKはにこりとして、優雅に、でもいつもより少し忙しそうに、玄関を出ていった。


 おじさんはひとりでパン屋さんのサンドイッチを食べた。JKもお手伝いさんもいないリビングは、少し寂しく感じられた。お父さんとお母さんが死んでしまった頃のことを思い出して悲しくなった。


 あたたかいコーヒーを飲めば気分が紛れるかもしれないと思って、おじさんはコーヒーカップを棚から出した。でも、コーヒーはなかった。お手伝いさんもJKもいないので、コーヒーを淹れることはできなかった。


「そうか」


 と、おじさんはひとりごちた。やっぱり、ひとりでいろいろなことができないと、こんなときに困ってしまう。少し、つらかった。自分では何もできないのだろうか。


 それで、猫に会おうと思った。猫はひとりで生きていけるからおじさんは少し尊敬している。おじさんはベランダに出た。すると、猫はいつもより早く庭に来ていて、壁にもたれかかって日向ぼっこをしていた。気持ちよさそうに目を閉じている。着ぐるみの白い毛がふわふわとしている。


 おじさんは、初めて猫に話しかけてみた。


「おはよう」


 猫は目を開けた。緑色の目をした美しい少女だ。猫は何も言わずにおじさんを見た。


「ぼくはひとりでは何もできないんだ。コーヒーを淹れることもできない」


 おじさんは話しかけた。猫はじっとおじさんを見ている。


「きみはコーヒーの淹れ方を知らないかい? ぼくに教えてほしいんだ」


 すると猫は初めて口を開いた。


「知らない」


 そうか、とおじさんは思った。そして、猫が知っているはずはないなと思った。


 けれども、猫は続けた。


「わたしは知らないけど喫茶店の人間が知ってる」


「喫茶店?」


 と、おじさんは聞き返した。


「うん。商店街にある。行く?」


 おじさんは少し考えた。商店街はすぐ近くだ。でも、おじさんは長い間外に出たことがなかった。商店街に行くのは想像しただけでも不安だった。ひとりで行くことができるのだろうか。いや、ひとりでいろいろなことができないといけない。おじさんは、頑張ってみようと思った。今なら猫もいる。だから、


「行く」


 と言った。


 猫は、


「じゃあ、玄関行く」


 と、言って立ち上がり、庭の向こうへ行ってしまった。


 おじさんは急いで外行きの服に着替えた。家に住めなくなったときに、最後に残しておいた背広だった。胸ポケットには財布があり、おじさんの全財産の千円が入っている。


 おじさんは玄関の鍵をひねり、ドアをおそるおそる開けた。外から新鮮な空気が流れ込んできて、その鮮やかな匂いにおじさんは圧倒されそうになって、ドアを閉めてしまった。心臓がどきどきした。やっぱりやめておこうと思った。すると、ドアを叩く音が聞こえた。


「来た」


 と、ドアの向こうで猫が言った。


 それで、おじさんはふたたび、おそるおそるドアを開けた。すきまから猫がおじさんを見ていた。


「早く行く」


 と、猫が言った。おじさんはまだ怖気づいていた。


「外に出たいけど怖いんだ」


 おじさんがそう言うと、


「じゃあ手、つなぐ」


 と言って、猫は手を差し出してきた。おじさんは汗で湿った手で猫の手を握った。着ぐるみの肉球はふわふわとしていた。優しい感じがした。おじさんはくたびれた革靴を履き、そっと足を踏み出した。


 猫は首輪をしていなかった。きっと飼い猫ではないのだ。


「あ、ちょっと待って」


 おじさんは玄関に戻り、首輪を外して靴箱に置いた。


「首輪いらないの?」と猫がたずねた。


「いいんだ」と、おじさんは言った。「今日はひとりでいろんなことをやるんだ」


 ふたりは手を繋いで道を歩いた。外は、おじさんが思っていたほどは怖くなかった。猫が一緒にいるからかもしれない。天気がよくて穏やかだった。すれ違う人たちも穏やかな顔をしていた。


「かわいい猫ね」と、すれ違ったおばさんが笑顔で言った。


「はい」と、おじさんは答えた。


 ふたりはアーケードの商店街を歩いた。人がたくさんいた。おじさんにとって、こんなに人が多いところを歩くのは久しぶりだった。少し、めまいがしそうだった。


 アーケードを半分ほど進んだところで猫が立ち止まった。


「ここ。よく来る」


 古びたレンガの外壁の、喫茶店だった。どうして喫茶店だとわかったかというと、「喫茶店」という看板があったからだ。それなのに屋号はわからなかった。


 猫は慣れた様子でドアを開いて中に入った。ドアに付けられた鈴がチリンと鳴った。おじさんもその後に続いた。ドアはパタンと小さな音を立てて閉まった。


 中は外よりも少し暗かった。古そうなオレンジ色の照明が天井からいくつもぶら下がっている。ゆっくりとしたピアノの音楽が流れている。四角い木のテーブルが五つあり、それぞれに揃いの木の椅子が四脚並んでいた。全体的に同じような木の内装で統一されていて、なんだか居心地がよさそうだなとおじさんは思った。


 カウンターの向こうからお姉さんが出てきて言った。


「いらっしゃい」


 茶色の髪をひとつにまとめた、明るい印象のお姉さんだ。


「めずらしい。今日はひとりじゃないんだね」


「うん。おじさんと一緒に来た」


 猫はそう言って、入口から二番目のテーブルの手前の椅子に座った。


「ここが定位置なのよね」とお姉さんは笑った。「おじさんもこちらでよろしいですか?」


 おじさんは頷いて、猫の向かいに座った。初めてのお店なので緊張していて、小さな体をさらに縮こまらせている。


 お姉さんが水とおしぼりをテーブルに置いた。


「二人はお知り合いですか?」


 とお姉さんが尋ねた。


「知り合い」と、猫が答えた。


 おじさんはとっさに言葉が出てこなかったので、何も言わずに頷いた。JKやお手伝いさん以外の人と話すのは久しぶりのことだった。


「ときどき、」と、おじさんは緊張しながらゆっくりと話した。「ときどき、猫が来るんです。なので以前から顔を合わせていました。会話したのは今日が初めてで」


「まあ」とお姉さんは目を大きく開いた。「初めて話した日にさっそく一緒におでかけなんて、フレンドリーですね」


「フレンドリーなんて、そんな」


 おじさんは謙遜した。すると猫が言った。


「おじさんはコーヒーの作り方を知りたいんだって」


「コーヒーの作り方?」


 お姉さんは少し意外という顔をした。そしてにこりと笑った。


「うちのコーヒーは秘伝ですよ。お客さんには教えられません」


「そうなんだ、残念」


 猫は少し残念そうに言ったけど、さほど興味があるわけでもなさそうだった。


「どうしてコーヒーの作り方を?」


 と、お姉さんはおじさんに尋ねた。


 おじさんは少し間をおいて、話すことを頭の中でまとめてから話すことにした。そうすれば緊張せずに話せそうだった。


「それはですね」と、おじさんは言った。「いつもはお手伝いさんがコーヒーを淹れてくれるんですけど、怪我をしてしまって来られなくなって、かわりにJKが淹れてくれることになっていたんですけどJKも来られなくなって、途方に暮れていたんです」


「へえ」


 と、お姉さんは少し驚いたそぶりを見せた。


「お手伝いさんがいるんですね、すごい。きっと大きなお家にお住まいなんですね」


 その返事におじさんが戸惑っていると、


「すごく大きい」


 と、横から猫が言った。


「まあ、やっぱり」


「でもおじさんの家じゃない」


「そうなの?」


「JKの家」


「あ、でもJKは住んでないです」と、おじさんが横から補足した。


「複雑なの」と、猫が言った。


「そのようですね」と、お姉さんが苦笑いをした。それから、思い出したようにポンと手を打って、エプロンから注文票を取り出した。


「ところでご注文は、猫さんはいつものでいい?」


「いい」


「おじさんは何にします?」


「コーヒーをください」と、おじさんは言った。


「おすすめはブレンドコーヒーですが、それでいいですか?」


「はい、お願いします」


 おじさんがそう言うと、お姉さんは注文票にそれを書き込んだ。


「それじゃあお持ちしますので、しばらくお待ちください」


 お姉さんはカウンターの向こうに行ってしまった。


 椅子から垂れた猫のしっぽはゆらゆらと揺れていた。このしっぽは着ぐるみではなかったのかとおじさんは思った。


 しばらくして、お姉さんがやってきて、猫の前にホットミルクを置いた。それから、おじさんの前にコーヒーを置いた。コーヒーはお手伝いさんやJKが淹れたのとはまた違ういい香りがした。


 猫は肉球のついた両手でマグカップを持っておいしそうにホットミルクを飲んだ。


 おじさんは熱いコーヒーをそっと一口飲んでみた。いつものコーヒーよりも苦くなくて爽やかな味がした。初夏の晴れた日のようだと思った。二口飲むと、なんだか幸せな気がしてきた。さらに飲むと、少し元気が出てきた気がした。


「おいしいです」


 と、おじさんは思わずお姉さんに言った。お姉さんは嬉しそうに笑った。


「秘伝の味ですから」


 おじさんは、ますます元気が出てきた。すると、例のことがまた頭をもたげてきた。つまり、


「ぼくはひとりで生きられるようになりたい」


 ということである。


「どうやったらひとりで生きられるか、知りませんか」


 と、おじさんはお姉さんに尋ねた。


 お姉さんは顎に人差し指をあてて少し考えた。そして、


「ひとりで生きるんですか」と言った。「それは難しいですよ。人はみんな助け合っていんですから、本当にひとりで生きている人なんていないと思うんです。それに、他の人と協力して生きていけるなら、じゅうぶん素晴らしいじゃありませんか」


「なるほど」


 と、おじさんは納得した。お姉さんの言うことはその通りだと思った。でもおじさんの心にはもやもやとした気持ちが残った。


「でも、やっぱり、今のぼくは全然なにもできないんです。少しでもなにかできるようになりたい。たとえば、」


「たとえば?」


「そう、たとえば、ええと」と、おじさんはしばし考え込んだ。考えて、ふとひらめいたことがあった。


「遠くへ行くとか」


「遠くへですか。行くあてはあるんですか?」


「ええと……」


 おじさんは口ごもった。


「行くあてはありません。どこに行けばいいか、わかりません。お姉さんはいいアイデアはありませんか」


「アイデアですか……」


 お姉さんはこんどは腕組みをして考えた。そして、


「駅から電車に乗ってどこかへ行くのはどうでしょうか」


 と言った。


「おじさんはお寺は好きですか?」


「お寺? はい、好きです」


 おじさんは小さい頃におばあちゃんと一緒によくお寺に行った。おばあちゃんのことも、お寺も、好きだった。


「よくおばあちゃんと一緒に観音様にお参りをしたものです」


「観音様!」とお姉さんは手を打った。


「それなら、電車の終点に、観音様をお祀りしているお寺がありますよ。乗り換えもないし、おじさんも行けるんじゃないかなあ」


 それはすばらしい提案だった。おじさんは頑張ってみようという気分になってきた。


「ありがとう。行ってみます」


「それならわたしも行く」


 と、猫が言った。ホットミルクはもう飲み終わったみたいだった。


 でも、猫といっしょに行ったらひとりで生きることにはならないんじゃないかと思った。おじさんは少しむずかしい顔をした。でもお姉さんはおじさんの胸の内を察したのか、にこりと笑いかけた。


「いいんじゃないですか? 猫はひとりで生きているんだし、いっしょに行けばきっと参考になりますよ」


「なるほど」


 と、おじさんはまたもやお姉さんに納得させられた。お姉さんの言うことはいつも一理あると思った。


「じゃあ、いっしょに行こう」


「うん」


 と、猫は答えた。


「気をつけてね」


 と、お姉さんは優しく言った。


 おじさんはコーヒーの代金を払って、猫と一緒に喫茶店を出た。猫のミルク代は、ただにしてもらった。貴重なアドバイスをくれたお姉さんにはまたこんどきちんとお礼を言おうと思った。


「駅はどっちだろう?」


「こっち」


 猫は慣れた様子で歩いていった。おじさんはついて行った。そしてすぐに駅についた。


 おじさんは券売機で終点までのきっぷを買った。


「君のはいらないの?」


 と、猫にたずねると、


「いらない。猫だから」


 と、猫は答えた。なるほどとおじさんは思った。


 改札を抜けるとき、太った駅員さんが猫に話しかけた。


「やあ、またお出かけかい?」


「うん」


「気をつけるんだよ」


「わかった」


 猫は肉球のついた着ぐるみの手を駅員さんに振った。


「電車にはよく乗るの?」


 と、おじさんは尋ねた。


「たまに」


 と、猫は言った。


 二人は電車の座席に並んで座った。すぐに発車ベルが鳴り、ドアが締まり、電車が走り始めた。


 古い銀色の電車だった。レールの継ぎ目を通るたび、電車は上下に揺れた。おじさんと猫の体も一緒に上下に揺れた。


 乗客が増えたり減ったりしながら電車は進んだ。よく晴れていた空はしだいに雲に覆われ、いまにも雨が降りそうなくらい薄暗くなった。電車は終点に到着した。おじさんと猫は電車を降りた。


 改札を抜けると、目の前にお寺の参道があった。木の門にたくさんの提灯がぶら下げられて、「歓迎」と書いてある。おじさんと猫は参道を進んだ。


 道の両側にはたくさんの店が並んでいた。おいしそうな饅頭の店や茶店もたくさんあった。商店街ほどではないが人もたくさんいてにぎやかだった。


「あら、かわいい猫ちゃん」


 と、饅頭屋さんの店先に立っていたおばさんが声をかけた。


「形の崩れちゃったおまんじゅうがあるの。よかったら食べて」


「食べる」


 猫は遠慮なく受け取って食べ始めた。


 それを見ているとおじさんもお腹が減ってきた。それで、おじさんはきちんとお金を払って買った。できたての饅頭はおいしかった。ふたりで饅頭を食べながら一緒に歩いた。


 参道は長かった。途中からは石畳の坂道になった。お線香を売っている店や旅館もあった。最後に長い階段を上った。さすがに猫は身軽だったけれど、おじさんは運動不足なので息が切れそうだった。


 階段を上った正面に大きなお堂があった。建物は古く黒ずんでいて、長い歴史を感じさせた。まわりは広々としていて、空が広く見えた。ふたりはお堂に入った。


 中はしんと静まり返っていた。石敷きの広い空間になっていて、大きな古い柱が並んでいる。空気が張り詰めて冷たく感じる。奥の畳敷きの空間は薄暗く、ろうそくの明かりが揺れている。一番奥に、鈍い金色に光る観音様が暗闇に浮かんで見える。


「観音様だ」


 と、おじさんはつぶやいた。


「観音様?」


 と、猫は言った。


「困ったときに助けてくれる仏様だよ」


 おじさんはおばあちゃんに教えてもらったことを猫に教えた。でも猫は、


「ふうん」


 と、興味がなさそうに答えた。猫だから仕方ないなとおじさんは思った。


 おじさんは賽銭箱に小銭を入れて、手を合わせた。そして、ひとりで生きていけますようにと心の中でお願いをした。お願いが観音様に届いたかどうかはわからなかった。不安は不安のままだった。どうしたらひとりで生きていけるのか、アイデアは思い浮かばないままだ。


 おじさんはずっとそうして観音様の前で手を合わせていた。どれくらいの時間が経ったのかわからない。ふと隣を見ると猫がいなくなっていた。おじさんは本堂の外に出た。薄暗かった空はいっそう暗くなって、もう日暮れどきに見えた。


 おじさんはお腹がすいていた。でもお金はもうなかった。コーヒー代と電車代と饅頭代とお賽銭をあわせたら、千円はなくなってしまったのだ。ひとりで生きていける方法を知っている猫もいない。おじさんは途方に暮れて本堂の脇で体育座りをした。


 しばらく時間が経った。すると、猫が参道のほうから歩いてきた。両手に饅頭やどら焼きやせんべいをいっぱい持っている。


「どうしたの?」


 と、おじさんは尋ねた。


「もらった。売れ残りだって。食べよう」


 猫はおじさんの横に座った。饅頭をおじさんにくれた。


「うれしい」


 と、おじさんは言った。


 饅頭は、こしあんで、しっとりとした、おじさん好みの味だった。どらやきは大きくて食べごたえがあった。せんべいはぬれ煎餅だった。


 全部食べ終えて、おじさんと猫は満腹になった。


「お金がなくなっちゃった」


 と、おじさんは言った。


「そう」


 と、猫はさほど心配ではなさそうに言った。猫はお金がなくてもひとりで生きていけるので、おじさんとは違うのだ。


「どうしたらいいんだろう?」


 おじさんが心配そうに言うと、猫は立ち上がった。


「眠い」


 猫は目を眠そうにこすった。そうか、もう夜だ、とおじさんは思った。


 猫が本堂に入っていくので、おじさんはついて行った。猫は柵を越えてそのまま畳敷きの広間に上がり込んだ。


「上がっていいの?」


「いい」


 おじさんはちょっとためらったけど、ひとりで生きていける猫が言うのだから大丈夫だろうと思った。


 猫は観音様の前の、お坊さんが座る座布団の上に座り、丸くなった。


「もう寝る」


 と、猫は言った。そして目を瞑り、すぐに寝息を立て始めた。


 おじさんは仕方なく、猫のとなりで畳の上に寝転がった。観音様の前のろうそく以外には灯りはなく、ほとんど真っ暗だった。まるで宇宙の暗闇の中に金色の観音様が浮かんでいるみたいに見えた。


 明日からどうしようかとおじさんは考えた。もうお金はなくて、どこへも行けない。もし猫が饅頭やどら焼きやせんべいをもらってくれなかったら、飢え死にしてしまうかもしれない。やっぱりひとりで生きていくのは自分には無理なのだと思った。そう思ったら、寂しくて涙が出た。JKやお手伝いさんのことを思い浮かべた。また一緒に暮らしたいと思った。そうしているうちにいつの間にか眠ってしまった。



 目を覚ますと、周囲はうっすらと明るくなっていた。外からすずめの鳴く声が聞こえる。朝だ、とおじさんは思った。おじさんは体を起こした。


「おはよう、おじさん」


 澄んだ声が聞こえた。JKの声だった。おじさんは声のするほうを見た。畳の上にJKが座っていた。本当にJKだろうかと思った。夢かもしれないとも思った。でもどう見ても本物のJKだった。


「心配かけて、だめじゃない」


 と、JKは笑顔でおじさんをたしなめた。


 おじさんはとても嬉しくなった。もう寂しい思いをしなくてよかった。おじさんはJKの前まで這い寄った。いろんな言葉が思い浮かんで、すぐに声にならなかった。


「寂しかった」


 と、おじさんは言葉を絞り出した。JKは、うんうんと頷いた。


「ひとりで生きていこうと思ったけどだめだった。やっぱりぼくはJKがいないと生きていけない」


 おじさんの目から涙が落ちた。本当はもっとたくさん話したいことがあったけど、だんだん嗚咽になって言葉にならなかった。


「おじさんは」


 と、JKは言った。


「偉いね。喫茶店でコーヒーを注文できたんでしょ。それで、きっぷを買って電車に乗って、ここへ来られた。ちゃんとできたじゃない」


 優しい声で、おじさんを褒めた。


「どうして」おじさんは泣きながら行った。「どうして知ってるの?」


「喫茶店のお姉さんから聞いて追いかけたんだよ。きっとお寺にいるって」


 おじさんの心に、お姉さんへの感謝の気持ちが浮かんだ。それで、余計に涙が出てきた。涙はとめどなく流れて畳に落ちた。


 猫が座布団の上で起き上がり、大きく伸びをした。そしておじさんとJKを寝ぼけた目で見た。


「猫ちゃんもありがとう」


 と、JKが言った。猫はあまり気にしていない様子で眠そうに目をこすった。


「じゃあ、帰ろっか」


 JKは楽しそうに言った。


「うん」


 と、おじさんは答えた。JKのおかげで、少し楽しい気持ちが出てきた。


「これ、つけるね」


 おじさんが家に置いてきた首輪だ。ひとりで生きるつもりで置いてきたけれど、やっぱりこれが必要なのだとおじさんは思った。


「うん」


 おじさんは頷いた。


 JKはおじさんの首に、美しい指で首輪をつけた。首輪はおじさんにとてもよく似合っている。


 三人は一緒に本堂を出た。外はもう日が昇っていて、きれいな青空だった。参道の店はまだ開いていなかった。石畳の道を三人で並んで歩いた。


「あら、猫ちゃん」


 と、饅頭屋さんのおばさんが声をかけた。


「お饅頭、おいしかった?」


「おいしかった」


 と、猫は答えた。おばさんは嬉しそうだった。


 帰りの電車は特急列車だった。座席はふかふかで、電車はとても速かった。座り心地がよくて、おじさんと猫はうたたねをした。JKはそれを笑顔で見つめていた。



 それからは、おじさんにとってはとても平穏で幸せな日々だった。お手伝いさんの怪我が治り、これまで通り毎朝お手伝いに来てくれた。JKの仕事は軌道に乗り、学業も順調そうだ。少し余裕が出てきたのか、おじさんと一緒に過ごすことも多くなった。


 おじさんの家には猫がときどき訪ねてくるようになった。おじさんはJKに頼んで、猫のためのホットミルクや饅頭を準備して待っている。猫はふかふかのソファに座って、それをおいしそうに食べた。ときどき、一緒にゲームをした。またときには一緒に喫茶店に出かけた。


 おじさんは猫と一緒に喫茶店の常連になった。お姉さんとJKはずっと前からの知り合いらしく、コーヒー代はJKが払ってくれることになった。おじさんと猫が一緒にいるのを、お姉さんはカウンターの向こうから笑顔で見ていてくれた。ときどき、ためになる話をしてくれた。


 おじさんはひとりでは生きていけないけれど、みんなのおかげでなんとか生きている。おじさんは幸せだった。

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