サンタン・ルブラの向こう側
秋なんてろくでもないもんだよとミョールーンが言っていたっけ。秋が深まるともう冬が来るだけ。だから秋の終わりは一年のどん詰まりで憂鬱なばかりなのさ。彼はまあ、そんなことを言う奴だ(現にそう言った)。肩ほどまで伸ばした金色の髪にところどころ茶色の髪が混ざっている、女の子みたいなやわらかい頬と猫みたいに気まぐれな人懐っこさが印象に残る、私よりもひとつ年下の少年。
いつの間にか秋が来てしまっていた。ベッドに光が差し込んできたので目を覚まし、薄汚れたシーツから這い出して濁ったガラス越しに見上げた空は絵の具みたいに真っ青だった。窓を押し開けると昨夜よりもずっと冷えた空気が床を這うように侵入してくる。太陽の光はガラスのようにまぶしい。草の匂いと、牛の匂いと、まだ人の少ない石畳の匂い。ベッドと机の他に何もない狭苦しい部屋から見る世界はあらゆるものがあってどこまでも続いている。なにしろ世界は広いのだから君も旅をしてみるべきだよ。とミョールーンは言った。彼がこの街を出る前日のことだ。
「さしあたってはサンタン・ルブラの向こう側へ行ってみるのがいい」
そこに何があるのかなんて彼は言わなかった。そういう奴なのだ。彼もまた私と同じく貧乏で生きる宛も頼るものもなく、才能も実力もない。だから、きっと彼が行くべきだというそこには大したものはない。にもかかわらず私がそこに行こうと決めたのは、いよいよ本格的に貧乏が極まってきたからでもあり、すなわち持ち金は銅貨一枚しかなく今日のパンを食べれば食料も尽きてしまい、ともかく足掻かねばならないという焦燥によるのである。あるいはこの秋の高い青空と冷たい空気が私の冒険心を鋭く掠めたというのがもっと大きな理由であるかもしれない。ともかく私にとって秋はどん詰まりではない。冬が来るまでにやれることはたくさんあるし、冬は終わりではなく春のために眠る季節なのだといつかミョールーンに言ってやろうと思っている。
寝癖を無理やりポニーテールにまとめて、最後のパンのひとかけらを入れた背嚢を背負い、私は秋風の吹く街へ出た。牢屋のように狭くて居心地の悪かった住処も、もう戻ってこないのだと思うと名残惜しい気がしてしまう。鼠の出入りする穴のような貧相な崩れかけの入口の奥の寝床を、いつかどこかで懐かしく思ったりするのだろうか。もしそんなことがあるなら私の人生は大いに幸せになったと言える。
清々しい秋の朝だった。街と草原を隔てる川の流れは夏の間よりずっと澄んでいたし、朝露のついた草は今日が爽やかな一日になることを告げていた。荷馬車が橋のたもとで止まり、馬は澄んだ水を舐めている。御者はかたわらに立ち、寝ぼけ眼であくびをする。
「おはようございます。行き先はどちらですか?」
私が声をかけると、御者が答えるより先に馬が尻に尻尾を叩きつけた。ぺしりと音がして蝿が飛び立ち、それが彼の鼻にとまって彼はくしゃみをする。
「ええい、なんだって? 行き先? モースンだよ」
モースン! 何という偶然! しかし私は自分の幸運に気分が逸るのを抑えてなるべく平静を保ち表情に喜色が浮かばぬようにした。それが交渉術というものさ、とミョールーンの得意顔が思い浮かぶ。あんまり喜ぶと足元を見られるぜ。自分にとってはそれほど重要なことじゃないって顔をしておくべきなんだ。
「私はモースンの先、サンタン・ルブラへ行くところなんです。もしよければご一緒できませんか?」
私がそう言うと、御者は眉を寄せて眉間に三本の皺を刻んだ。私はよく見ていた。三本だ。もちろん本数に意味はなく、単に彼の特徴のない顔の中では眉間が最も特徴的であるというにすぎない。彼の顔はつるりとした丸顔で、多少脂ぎっているほかはどこにでもいる中年男性なのである。本数の少なくなったといっても三本よりは本数のある髪の毛が秋風にそよいでいる。
「サンタン・ルブラ? いったい何の用があるんだ? どん詰まりじゃないか。国境の村、未開の地。世界の端っこだ」
彼はそう言って眉間に皺を寄せたまま私のポニーテールの先からぼろぼろの靴の爪先まで、やせ細った右手の人差し指の先から左手の薬指の先までをじっくりと三往復は検分した。それからパンひとかけらと銅貨一枚しか入っていないぺたんこの背嚢を見て、ため息をついた。
「ま、盗賊でもなさそうだし、事情があるってのはなんとなくわかる。乗りな。だがタダじゃないぜ。そうだな、暇つぶしに歌でも歌ってくれ。退屈な旅も少しは気が紛れるだろう」
そういう具合で私はまこと首尾よく荷馬車に潜り込むことができた。荷物が乱雑に積み込まれた荷台の上で、私も荷物と同じようにうずくまり、揺れに合わせて歌を歌った。草原にも秋風が吹いていた。太陽が土を乾かし、土埃の匂いがした。私の歌声は、ミョールーンに言わせるとガラスを通り抜けようとする太陽の光が振動し共鳴しているようであるという。その例えは私にはよくわからなかったけれど、草原の上から照らすあの太陽の光のようなものだと思えば、たしかにそうなのかもしれない。
「あまり上手くはないが声はいい。歌も異国の情緒がある」
とは御者の感想である。私の知っている歌のほとんどは子供の頃住んでいた街の街角で、ムニョン・ゴモリという流れ者の歌うたいが歌っていたものだ。背が高くやせていて、尖った鼻が特徴の、無愛想な年かさの女だった。私は毎日夕方になると広場に出かけ、少し離れた物陰から彼女の歌を聞いた。一度だけ、歌っている彼女と目が合ったことがあった。彼女が口元に笑みを浮かべた気がしたが、あるいは単に歌に合わせて表情を変えただけかもしれない、その程度の思い出だ。そのうちに彼女は街からいなくなり、私も次の街へと移り住んだ。だから私が覚えている歌の数には限りがあり、荷馬車の上で歌う歌もついには尽きてしまい、昼間の太陽が夕日になり、それすらも地平線の向こうへ沈もうとしている。ただ幸運なことには、歌が尽きたところがモースンの街の入口だったということである。
「上手くはないがいい歌を聞かせてくれた礼だ」
そう言って、御者は荷馬車を宿屋の前に止めた。宿屋の主人、すなわち鼻の下に髭を生やして体格がよくそれなりに健康そうな中年の男が出てきて御者と何か話し合い、値切ったり値切られたりというようなやり取りのあと、私が手招きされた。
「サンタン・ルブラへ行くのかい?」
と主人は言った。秋の宵のことだ。街のあちこちから夕飯の支度をする匂いが漂い、闇に沈みゆく街にかぼそい灯りがぽつりぽつりとともっている。子供の頃に住んだ街のようだと思った。懐かしいムニョン・ゴモリの歌が聞こえてきそうな気すらした。しかし私の背は伸びて大人と同じになり街はすこし背が低くなってムニョン・ゴモリはもういない。
「サンタン・ルブラへ行くのです」
と私は答えた。主人は少し微笑んでくれた。ただそれだけのことである。そして、ただそれだけのことではあるが、私は夕飯のおこぼれをもらい、宿の屋根裏部屋を一晩借りることができた。夕飯は残り物だが味はきちんとしていたし、屋根裏部屋は夜風を遮るに足る壁もなくほとんど外で寝ているようなものだったが居心地は悪くなかった。なにしろ秋の夜風は心地よく、虫の音が聞こえて、隙間からは星空が見えた。モースンは私にとって夜を過ごした何番目かの街になった。そして次は、サンタン・ルブラ。
夕飯の席で主人が言ったのを思い出す。
「サンタン・ルブラには、かつて王に追いやられた不遇の姫の墓がある。だから何ってわけじゃないが」
主人の声は荷馬車の車輪が草原を踏む音に似ているかもしれないと私は思った。
「まあとにかく、不遇の姫の墓がある」
ただそれだけのことである。私が向かうその村には不遇の姫の墓があり、だからといって何かをするわけではなく、私はその向こうへ行かなくちゃいけない。もしも運良く道すがらに花が咲いていたならば、その花を不遇の姫の墓に手向けてあげよう。ミョールーンが同じように秋の日にサンタン・ルブラへ向かったとしたら、私と同じようにしたかもしれない。




