中州
僕は美しい世界にいた。空が高く、青く澄んでいる。やわらかい日差しと暖かな風。コンクリートでできた高い建物の間を縫うように張り巡らされた道を、人の形をした大勢の人が歩いている。人々は色鮮やかな服を身にまとい、喜怒哀楽の表情を自在に操って会話する。道沿いの商店には、木からもぎ取ったばかりの果物や、獣の体から切り出した赤身の鮮やかな肉が並んでいる。
僕は人の形をした店主に野菜を一束手渡して、果物一つと交換した。果物をかじると甘い汁があふれだし、唇からしたたり、甘い香りが幾重にもなって喉の奥から鼻へと広がっていく。
このいい匂いは何だったかと思いながら、滑らかに舗装された道を僕は歩いている。道はまっすぐ川の中州へ続いている、僕たちの家へ。
「松葉」
と僕は人の名前を呼んだ。美しい名前だと思った。あの果物の匂いはその人の匂いだっただろうかと思い出す。美しい匂いだ。しかし風が吹くと果物の匂いは僕の手から消えてしまい、記憶は薄れていった。そしてそれが美しいのだという余韻だけが残った。
列車の音が近づいてきた。ゴトゴトと不器用にレールの継ぎ目を踏む音。鉄橋が震えて轟々と反響する。僕は列車に乗り、まどろんだ。意識が甘く澱む。この世界に沈んではいけない気がした。抜け出ようと人の形の体をばたつかせる。でも思うように体は動かなくて、どうやっても世界は動かなかった。もどかしくて叫んだ。
「これは僕の体じゃない!」
その瞬間、木組みの天井が目の前にあった。視界ははっきりしている。僕は手足を動かし、体が思い通りになるのを確認して、夢から目覚めたことを知った。
・
列車の音は遠ざかっていった。かわりに川の流れる音が聞こえる。そういえば昨夜は大雨だったけれど、雨音はもうしない。
隣のベッドでは黒鼠が真っ黒な体を横たえていびきをかいている。黒鼠は朝が遅い。僕よりずっと力があってよく働くからたくさん眠らなければならなくて、仕方のないことなのだ。僕は黒鼠の邪魔にならないように静かにベッドから這い出した。
松葉はもう起き出して台所へ行っているみたいだ。ベッドの掛け布団はきれいにたたまれて、台所から食器を並べる音がする。松葉は黒鼠のような力仕事はできないけれど僕や黒鼠よりもたくさんのことを知っていて、手先が器用で、難しいことを考えられる。僕たちは松葉がいなくては生活できない。
僕は灰色の体を波打たせて台所に入った。開け放たれた窓から鮮やかな朝日が差し込んでいた。透明な空気が流れ込んでくる。
「おはよう」
朝の空気のように澄んだ声が僕のかつて耳だった器官を震わせた。いくつもの明るい音が重なったように響く。これが人の持つ本来の声なのか、松葉が世界に適応するときにそうなったのかはわからない。竈の前にしゃがんで、朝のひだまりの中で、松葉の髪はとてもきれいに見えた。頭の後ろで一本にまとめた髪が濃緑のような金色のような光を反射している。竈には小さな火が起きていた。
「おはよう。何かやることはある?」
僕がそう尋ねると、松葉は竈に薪を放り込む手を止めた。そして少し思案して、
「そうだね、じゃあ、水を汲んできてもらおうかな。そのやかんに一杯と、こっちの鍋にも」
と、鍋を差し出して言った。僕はうなずいた。
「わかった。行ってくるよ」
特技のない僕にとっては、松葉に頼まれてこういうちょっとした雑用をしたり、黒鼠の手伝いをしたりするのが主な役目だ。
外に出ると昨日とはうって変わってよく晴れていた。空気が乾いている。高くて深い青空にいくつかの綿雲が浮かんでいる。昨夜は相当降ったようで、廃材を組んだ家の軒先からはまだ雨の名残が滴り、雨水を貯めるドラム缶はほとんど満水に近くなっていた。
僕は川の様子が気になって、水を汲むのを後回しにして、上流側へむかった。僕たちは大きな川の大きな中州で暮らしているから、大雨の後の流れで護岸が削り取られると家や畑が浸水しかねない。
川は予想通り増水して、濁った水が轟々と押し寄せていた。中州の上流にそそり立つ鉄橋の橋脚に阻まれた水流が渦を巻いて白波を立てている。いつもなら石ころが転がっている川原も水に飲み込まれている。それでも、僕と黒鼠がセメントで固めた護岸は、強い水流を受け止めて中州の内側が浸水するのを食い止めていた。
背後の少し離れたところから眠そうな低い声がした。
「先月直したところ、大丈夫そうだなあ」
黒鼠の声だ。振り向くと、黒鼠は朝日を浴びた黒い体をもぞもぞさせてこちらへ向かってくるところだった。
「うん。びくともしなさそうだよ」
と僕は言った。黒鼠が隣に来て、かつて口だった器官を大きく開けてあくびをしてから、水流をかき分ける護岸を満足そうに見た。
「じゃあ次は西側だな。岸を固めて嵩上げすれば畑にできそうだ」
黒鼠がかつて指だった器官で示した先は、今は増水した水面下に沈んでいるけれど、水位の低いときには湿った地面が見えている川原だ。
「資材の残りはあるか?」
「セメントが少なくなってたと思う。あと、嵩上げするなら土がたくさんいるね」
と、僕は納屋の中の様子を思い出しながら言った。
「そうか、じゃあ松葉に頼んでおいてくれないか。量は多ければ多いほどいいが、食料の都合と合わせて考えないとな」
「うん、そうする」
支給物資はいちどに受け取れる量が決まっているから、必要な食料や道具と合わせてちょうどいい量を計算しないといけない。それは僕と黒鼠には難しすぎるので、いつも松葉がやってくれているのだ。
僕は松葉が机に向かって難しい計算をする様子を思い浮かべた。美しい指が小さな木の玉を弾いて、数字を編む。
「あれ、詩じゃねえか?」
と、黒鼠がふいに言った。
「どれ?」
「あれだ」
黒鼠が指し示したあたりに、緑色の蔓が複雑に編まれたものが流れ着いている。
僕は水際に降りてそれを拾った。数本の緑色の蔓が絡んだり、結ばれたり、経糸と緯糸のように編まれたりして、複雑な平面形状をなしている。僕や黒鼠はそこに織り込まれた言葉を読み取ることができないけど、松葉なら読むことも編むこともできる。
しげしげと詩を眺める僕の横から黒鼠が覗き込んだ。
「読めるようになったのか?」
「ううん。全然だめだよ。僕たちには無理なんだと思う」
「そうか。じゃあやっぱり松葉はすごいんだな」
「そうだね。松葉はすごい」
僕は編み目を崩さないように気をつけて詩を体にしまって持ち帰った。家に入る前にやかんと鍋に水を汲んで松葉に渡した。もう火はとっくに強くなっていて、たかが水汲みに時間がかかったことを少し怒られた。僕が水汲みを後回しにしたせいだから仕方ない。でも松葉はそれ以上は怒らなかった。いつものように楽しそうに朝食を作ってテーブルにのせた。
「今日は珍しい食材を使ってみたよ」
皿の上に小さな丸い玉がいくつかある。
「なに、これ?」
「うずらの卵だよ」
「うずら?」
「小さな鳥の卵」
ためしに食べてみると、とてもおいしかった。うずらの卵を食べるのは初めてだ。黒鼠は卵を切って中を調べている。にわとりの卵よりずっと小さいけど、外側が白くて中が黄色なのは同じだ。
「支給物資に入ってたってことは、線路の先のどこかでうずらを飼ってるんだろうな」
と黒鼠は言った。それから、ばらばらにした卵を食べて「うまい」とつぶやいた。線路の先の探検を再開しようとか言い出すのではないかと思ったけど、黒鼠はそれ以上なにも言わなかった。線路の先を探検するのは以前にも計画していて、冬が来る前に試してみたけど、危険が多すぎて結局鉄橋より先に進めなかったのだ。僕はもうあまり乗り気ではなかったので黒鼠が何も言わなかったことに少しほっとした。うずら卵はおいしいけど、それだけのためにわざわざ危険を冒すほどではないと思う。
僕はいつもと同じ支給物資のパテをかじり、茹で野菜を食べた。黒鼠はさっさと食べ終えるといつものようにベッドに戻って眠り始めた。すぐにいびきが聞こえてきた。
僕はひょろ長くて緑色の野菜の茎を食べた。そうしたら、川原で拾った詩のことを思い出した。
「詩が流れ着いてたよ」
僕は体にしまっておいた詩を取り出して松葉に手渡した。
「どれどれ」
松葉は細くてきれいな指で詩をつまんで読み始めた。連なった結び目を沿って止まったり戻ったりしながら、松葉のきらきらした瞳が動く。僕は詩を読む松葉を見つめている。
川の上流からはときどき詩が流れてくる。雨が降って水量が増えた後は特に流れ着きやすい。上流で僕たちのように暮らしている誰かが、数少なくなった仲間に向けて言葉を流しているのだろう、と松葉は言う。
「『美しい君の、』」
と松葉がつぶやいた。澄んだ声と吐息が混ざって美しい和音になる。僕のかつて心臓だった器官がどきりとして、全身がぎゅっと引き締まる。
「『高く鼻毛の、太陽の。』」
「鼻毛?」
意味がわからず首をかしげると、松葉がふふふと笑った。
「きっと他の言葉と間違えて編んだんだ。なんだろうな。『稲穂』かな、これは」
「『高く稲穂の、太陽の。』ってこと?」
それなら僕にもなんとなく言葉がつながっているのがわかる。
「そうだね。でも『高く鼻毛の、太陽の。』って面白いね。私、こっちのほうが好き」
「そうかな」
「そうだよ」
松葉はそう言って続きを読んだ。
「『ビルのようにかたい太陽の。綿毛のような光線。』ここで途切れてる」
美しい君の、高く鼻毛の、太陽の。ビルのようにかたい太陽の。綿毛のような光線。
「難しいな。僕にはよくわからない」
「わからなくていいんだよ」
「そういうものかな」
「そういうものだよ」
僕は椅子の背もたれに灰色の体を預けてぐにゃりとした。松葉が立ち上がり、食べ終わった皿を台所に持っていく。テーブルの上に残された詩。複雑に絡んだ蔓のどこをどう見ればこんなに難しい言葉が出てくるのだろう。僕にはわからない。でももしかしたら頑張れば読めるようになるのかもしれない、という思いもふと浮かんでくるのだ。
戻ってきた松葉は緑色の蔓を持っていた。玄関のあたりに生えている草の蔓だ。
「続きを編むの?」
と僕がたずねると、松葉はうなずいた。
「僕にも詩を編むことはできるだろうか?」
「君が?」
松葉は意外そうだった。僕は以前にも読み方を教えてもらったけど、結局身につけることができなかったのだ。それでも松葉は、
「読み方、またやってみようか」
と言ってくれた。そしてテーブルの上に緑色の蔓を並べた。
「じゃあ今日は私たちが話している言葉の音を表すところからやってみよう。たとえば『あ』という音は」
松葉は蔓の端を丸く結び、その中にもう一方の端を通して引っ張った。できあがった輪の片端を爪で折る。
「これが『あ』だよ」
「これが『あ』」
いつも僕たちが簡単に発している音なのに、蔓の編み目は複雑で、簡単に覚えることはできなさそうだった。
「難しいな」
と僕は言った。
「そうだよ。とても難しい」
そして松葉は『あ』の下を折り、さらにもう一度折り返し、折った蔓の間に、経糸に横糸を通すように蔓の一方の端を刺した。
「これが『い』」
「これが……」
編み目の形と『い』の音を結びつけようとしたとき、急に頭の中がきつく締め付けられるような感じがした。痛みと目眩が襲ってくる。頭の中が熱い。
「あ……い……。ああ、だめだ」
僕は全身をどろりとさせて、しばらく何も考えないようにして力を抜いた。目を閉じると、思考にまとわりついていた言葉が遠ざかり、感覚だけに覆われた瞼の裏の灰色が戻ってくる。
「やっぱり」と、松葉が心配そうに言った。「やめておこう」
僕は力なくうなずいた。
「僕たちの体では文字を理解できない」
「そうだね」
「やっぱり松葉はすごいな」
僕は椅子の上でぐにゃりとして目を閉じた。深呼吸をして頭痛が収まるのを待つ。聞こえてくる黒鼠のいびきにつられて、だんだん眠くなってくる。鉄橋をゆっくりとわたる列車の音が薄れゆく意識の端にこだましている。
・
松葉は僕や黒鼠と違い、人の形をしている。だから松葉は、僕たちが失ってしまった昔の記憶を今も持っている。僕たちが滅んだ世界に適応するために多くのものを捨てたのと反対に、松葉は適応力を最低限に抑えて記憶を留める選択をした。
「昔は……」
川を渡る鉄橋を見上げながら三人で話していたときのことだ。そのときはたしか、黒鼠が昔の世界について松葉に質問をしたんだったと思う。
「私たちは世界を夢のように作り変えて暮らしていたんだ。今よりおいしいものをたくさん食べられたし、大雨のときも危険がない家に住むことができた。街には人がたくさん住んでいて毎日にぎやかだった。いろんな物がお店に並んでいて、お金さえあれば好きなものを買えた」
松葉が説明する昔の世界のことは、僕の知らないことばかりでうまく想像できなかった。たとえばお金というものについて松葉が何度か教えてくれたことがあったけど、僕は理解できなかった。
「よくわかんねえなあ。俺たちが暮らしてた世界のはずなのに」
隣で黒鼠が言った。
「まあでも、畑で野菜がたくさん穫れて食べ物の心配がなくなれば俺たちはもっと幸せだ。そこんとこは同じだな」
捨ててしまった記憶のことはわからない。昔は僕は幸せだったのか、楽しかったのか。どんなところで暮らして、何をしていたのか。思い出そうとして頑張ると、頭が熱くなって締め付けられるような気がして、それ以上考えられなくなってしまう。
「難しいことを考えすぎんなよ」
と黒鼠は言った。たしかにそのとおりだ。でも僕はどうしても気になって、昔の世界のことをときどき松葉に訊いた。そして理解できないことは理解しないことにして、理解できることだけを理解して、夢の中で昔の世界を想像した。
夢の中の世界はいつも青空が高く澄んでいた。街にはたくさんの人が楽しそうに歩いていて、店にはおいしい果物が並んでいる。楽しい気持ちで人々の隙間を縫うように歩き、固いコンクリートでできた高い四角い建物の間を抜ける。青く澄んだ空にいくつもの鉄橋が架かり、いくつもの列車が渡っていく。駅のホームに列車が次々にやってきて、たくさんの人が降りてきて、乗っていく。運転席から顔を出した黒い車掌が言う。
「中州行き、発車しますよ。お急ぎください」
僕は遅れないように走った。列車のドアが閉まる。走り出す。どんどんスピードを上げて鉄橋を渡りたくさんの列車とすれ違う。僕は座席に座って窓の外を眺めた。大きな川を渡っているところだった。僕たちの川。中州が見えてくる。黒い車掌が運転する列車はレールの継ぎ目でガタガタと騒がしく音を立てながら走っていく。中州では松葉と黒鼠が僕の到着を待っている。
夢から覚めると僕はいつもの朝と同じようにベッドの上でぐにゃりとしていた。黒い車掌の運転する列車の騒がしい音が遠ざかっていくところだ。まだ寝ている黒鼠を横目に、松葉が朝ごはんを作る音を聞きながら、僕は外に出た。
鉄橋は昨日までと同じ錆びた茶色の姿で川に架かっていた。空は灰色だった。頭の中に残っていた夢の名残が徐々に朽ちていく。
鉄橋の下に詩が流れ着いていないだろうかと僕は探してみた。でも昨日より水量の減った川はゆっくりと穏やかに流れていて、上流からはなにも流れてきていなかった。
・
黒鼠が体をうねうねとくねらせながら橋脚を降りてきて、川の浅瀬に盛大にしぶきを上げながら着水した。もちろんずぶ濡れだ。僕は身を広げて水しぶきを全身に浴び、やはりずぶ濡れになる。背後の松葉に水がかからないようにするためだ。僕と黒鼠はずぶ濡れになっても平気だけど、松葉は人の形のままだから、あまり濡れると風邪をひいてしまう。
「準備万端だ。いつ来ても大丈夫だぜ」
黒鼠は得意げにかつて指だった器官で橋脚の上を指差した。僕が集めた布で松葉が縫った五色の旗が青空にはためいている。緑、黄、赤、白、紫。かつて人々が信じていた神様に捧げるための旗の色。派手で目立つから黒い車掌も絶対に見落とさないだろうと松葉が提案してくれたものだ。
「しかし鉄橋もずいぶん錆びてきてやがるな。鉄橋と列車と、どっちが先にくたばるかな」
黒い体についた鉄さびを払いながら黒鼠が言った。鉄橋はこのところ目に見えて錆が増えて劣化がひどく見える。その上を走る列車にしても同じだ。
「補修用の物資が底をついたのかもな」
それは困ったことだと僕は思った。食料や護岸を補修するセメントが最近は希望通りの量が届かなくなっていて、供給元が物資不足になっているのかもしれないと松葉が言っていた。だから畑で野菜の栽培を始めたし、護岸工事を急いでいるのだ。
「黒い車掌も元気が無いように見えるよね」
ぽつりと松葉が言った。僕にはわからないけど、松葉は人のちょっとした変化を読み取るのが上手いから、きっとそうなのかもしれない。
「細胞が弱ってきているのかも」
「ぞっとしねえな」
黒鼠が体を震わせた。黒い車掌は人の形を残してはいるけれど、体をほとんど作り変えてしまっているという点では僕や黒鼠と同じだ。黒い車掌の細胞が弱っているなら、僕と黒鼠だってそうなってしまうのかもしれない。
僕たちは世界を夢のように作り変えて暮らしてきた。世界が滅んだとき、自分たちの体を作り変えて生き延びた。松葉は人間としての力を少しだけ、僕と黒鼠は体の形と記憶も、そして黒い車掌は考える力を捨てたらしい。どのやり方が正解なのかはわからない、生き延びるための実験なんだ、と松葉は説明してくれた。
ごん、とハンマーで叩いたような音が鉄橋から響いてきた。堤防の向こうから機関車が貨車を引っ張って走ってくるのが小さく見える。音は同じ間隔で、だんだん大きく響いてくる。
「君たちは大丈夫だよ」
と松葉が言った。それと同時に機関車の警笛が鳴った。だからなぜ僕たちが大丈夫なのか聞きそびれてしまった。警笛は黒い車掌が松葉に気づいた合図だ。
「おーい!」
と松葉が列車に手を振った。
すると機関車の窓から真っ黒の制服を着て真っ黒の制帽をかぶった真っ黒の人が上半身を乗り出して、
「おーい!」
と手を振り返した。黒い車掌だ。服も体もすべて真っ黒で、白目の部分だけがぎょろりとしている。いつも全く同じ身のこなしで無表情のまま仕事をする。
列車が甲高いブレーキ音とともに止まった。鉄橋と同じようにあちこちが錆びて、黒鼠が言うようにそのうちくたばってしまうのかもしれない。
黒い車掌は機関車を出て二両目の貨車の扉を開けて、中に入っていた大きな包みを引っ張り出す。それを見て、
「行くぞ」
と黒鼠が言う。
「うん」
僕はその後ろに続いて川の浅瀬に入った。黒鼠が走り出す。僕も鉄橋の下へ向かって走る。
黒鼠の数歩先、僕の十数歩先の浅瀬に水しぶきを上げて包みが落ちた。
「よし、すぐに押せ!」
水を吸うと重くなって大変だ。先に取り付いた黒鼠が体を固くして、川底にかつて足だった部位を突っ張って包みを抱えた。僕も反対側から同じように体を固くして目一杯押した。水が染み込んでしまう前に、黒鼠と僕はそれを岸まで引きずっていく。
松葉が大きな声で黒い車掌に叫んだ。
「いつもありがとう! 旗に付けてある詩、読んでね!」
黒い車掌は旗を引き抜き、その下に結わえ付けられた詩を確かめた。必要な食料や資材の名前と、上流から流れてきたいくつかの言葉をつないで松葉が編んだ詩だ。今週はできるだけたくさんのセメントと土を支給してくれるように僕たちの要望を編んである。
黒い車掌は何も言わずにそれを持って機関車の運転席に戻り、エンジンを唸らせて列車を発車させた。考える力のほとんどを捨てた黒い車掌は、喜怒哀楽を表情に出さず、機関車と一体となって毎日決められた手順に従って動いている。
「もう一息だ」
僕と黒鼠は重い荷物をなんとか岸へ引っ張り上げた。僕は勢い余ってかつて尻だった部位で尻もちをついた。
「やれやれだな」
黒鼠が笑いながら隣に来る。貨車の最後尾がゆっくりと岸の向こうへ見えなくなっていくのを三人で並んで見送った。
「ありがとう。じゃ、私、先に行ってるね」
「おうよ。こっちは任せとけ」
松葉はお昼ごはんを作るために家に帰っていく。僕と黒鼠は料理を作れないかわりに重い荷物を運ぶことができる。だから役割分担をするのだ。黒鼠は荷物の前に立って後ろ向きに引っ張り、僕は荷物の後ろから前へ押す。これもそれぞれの力の強さを考えた役割分担だ。
石ころの多い道で荷物を押しながら僕は役割分担について考えた。
「松葉がいなかったら物資を手に入れることもできないんだろうね」
「今さら何を言ってやがる」
息を切らしながら黒鼠は答えた。
三人の中で、詩を編んで支給物資を依頼することができるのは松葉だけだ。そして、黒い車掌が人間として認識してくれるのも松葉だけだ。僕と黒鼠は人の形を捨ててしまったので、決められた手順通りにしか動けない黒い車掌には認識できないらしい。
「あれな、完全に無視されたときは俺もちょっと傷ついたぜ」
この中州で暮らし始めて間もない頃、たまたま松葉が家の中にいるときに列車が来た。黒い車掌のことをよく知らなかった僕たちは、機関車から顔を出した黒い車掌に向かって大声で叫び続けたけれど、黒い車掌は首をかしげるばかりで支給物資を落とそうとはしなかった。そして決められた時間通りに待ってから、人が不在だと認識して列車を出してしまったのだ。
「あのときはお腹が空いたね」
と、僕は思い出した。少しずつ貯めておいた食料がなかったら餓え死にしていたかもしれない。
「やっぱり松葉がいないと僕たちは死んでしまうね」
「そうだな。だけど俺たちだってなかなかのもんだぜ」
「そうだろうか?」
「そうだよ。こうやって重い荷物を運べるだろ、松葉一人じゃできない。小屋を建てたのも、護岸を補強したのも俺たちだ。編んだ詩を鉄橋の上に立てるのもだ。ちゃんと三人いるから上手くできてんだよ」
「なるほど。黒鼠はよく考えてる」
「そうだ、俺はいつも考えてるんだ。こういうおたがいにいいことがあるような関係を、ほら、なんだ、何か言うだろ……ええと」
「ウイン・ウイン?」
「そう、それだ。俺たちはウイン・ウインなんだ。そんな難しい言葉よく覚えてるな」
「松葉が教えてくれたんだよ」
松葉は難しい言葉をたくさん知っている。知っているだけではなくて、それを使って詩を編むことができるし、僕たちに教えてくれる。松葉の才能と優しさに僕は憧れていて、感謝している。
「やっぱり、松葉がいないと僕たちは死んでしまうと思う」
と僕は言った。
「そうだな」
と黒鼠は答えた。
家まであと少しだ。僕はこれまでよりも力を込めて荷物を押した。
・
数日前から降ったり止んだりを繰り返していた雨は朝からついに本降りになった。ベッドに寝転がって天井を見上げて屋根から聞こえてくる雨音に耳を傾ける。あるいは、雨音を聞くしかすることがない。これだけ降ると護岸工事は中止だ。
「こいつは梅雨だな」
隣のベッドで同じように天井を見上げている黒鼠が言った。
「よくわかるね」
「六月に雨が降ったら梅雨なんだ」黒鼠は得意げに体を膨らませた。「よく知ってるだろ?」
「松葉に教えてもらったんじゃないの?」
「いや、正真正銘の俺の記憶だ。さいきん思い出した」
「それはすごい」
僕は正直に言った。僕たちは単語を覚えていても細かい意味を説明できないことは多い。
「しかし梅雨と言や、護岸の資材を片付けておいたほうがいいな。水量が増えるし、そのうち青の魚が来る」
「ああ、それは心配だね。ちょっと様子見てこようか」
僕はベッドから起き上がった。天井を見ているよりは少し歩きたかった。水が増えたら詩が流れ着いているかもしれないという期待もあった。
「水かさが増してたら川に入るなよ」
「うん。気をつけるよ」
僕は透明のビニールを頭からかぶって外に出た。大粒の雨がビニールに叩きつけられて周囲が急に騒がしく感じられる。裏の畑では松葉が傘を差して野菜を収穫しているのが見えた。手を降ってくれたので、僕は体を揺らしてこたえた。傘は明るい朱色で、雨で煙った中州の灰色の中で、ひとつだけ咲いた花のように美しく見えた。
僕は鉄橋のほうへ向かって、水たまりだらけになった道を歩いた。雨のもやに包まれて、川の上流の方は見えない。すぐそこにある鉄橋ですら、灰色の中にぼんやりと黒い影のように見えているだけだ。世界から中州だけが切り離されてしまったみたいだった。そう思うと僕は急にさびしくなった。
世界が滅んだとき、僕たちは偶然この中州にいた。その頃の中州はもっと広くて、隣の中州との距離も近くて、それぞれで連絡をとりあっている仲間はたくさんいた。でも三人しかいない今よりもずっと寂しくて怖かった。あの頃はまだ作り変えた体に慣れていなかったし、食料がいつ尽きてしまうかも不安だった。青の魚みたいな見知らぬ生物が襲ってくることに怯えていた。毎日体が重くて吐き気がした。悪夢を見ては目を覚ました。雨漏りのする小屋で寝て、なにかの病気になって高熱が出たときはもうすぐ死ぬのだと思ったりもした。大勢で小屋に身を寄せ合って震えていた。
「もうだめだ。何も希望はない。世界は滅んだんだ」
人の形をいくらか残している薄茶色の男が両手で頭を抱えながら言ったのが思い出された。男の左腕には円形の傷があって肉が削ぎ取られていた。
「なんとかなるよ。僕たちの体は強くなったんだから」
僕はそんなことを言って励まそうとしたんだったと思う。僕たちの体は人の形をしていたころよりも強くなり、ちょっとくらいの怪我では命に関わることはない。男の傷も見た目の割には大丈夫のはずだった。だけどその男は頭を抱えたまま震えていた。
「だめだ。もう美しい世界には戻らないんだ。青の魚に食われて死ぬくらいなら自分で死んだほうがいくぶんマシだろう」
かつて目だった器官から液体が流れ落ちた。傷跡の肉がぴくりと動いた。まだかすかに人の形を残している、そのせいで青の魚に齧り取られた肉が。
「川は優しいだろう?」
と男は言った。僕にはその言葉の意味はよくわからなかった。それなのに男は、さも当然のようにそう言ったのだった。
それから数日して、その男が川に入って流されたと聞いた。少し川の水量が増えて、風も無く、水面が鏡のように薄曇りの空を映している日だった。遠くの方は薄くもやがかかっていて、中州が乳白色の世界に包まれたみたいだった。その日からしばらく川はずっとそんな状態が続いて、何人もがその男と同じように川に入って流された。周囲から仲間が徐々に減っていった。
川に入ることは幸せなのだろうか。それは今よりマシで、川は優しいのだろうか。僕にはわからなかった。黒鼠もわからないと言っていた。松葉は悲しそうな顔をした。
多くの人が流されてしばらく経った頃、大雨が降って川の水が増えて、広い中州の低い部分をほとんど削って流してしまった。このままでは低い場所から沈んでいくに違いないと言い出す人がいて、それで中州で暮らしていた僕たちは安全な場所を求めて分散することにした。さらにしばらくして中州はどんどん削られて小さくなり、みんなばらばらに上流や下流に避難していった。鉄橋の下にある小さくなった中州には僕たち三人だけが残された。ここから見える範囲には他の中州はなく、誰かが暮らしている様子はわからない。ただときどき流れてくる詩だけが、上流に誰かがいるのだということを知らせてくれる。松葉が編んで流した詩は、下流にいる誰かに僕たちの存在を知らせているはずだ。
僕はぬかるみの道を歩き、護岸の上から川の様子を見た。まだ雨が降り始めたばかりで水量はあまり変化していないようだった。ゆるやかな流れの中に雨粒が作った波紋が無数にできては消えていた。
僕は水際に置いたままにしていた砂利の袋とシャベルを護岸の上に引き上げて、川の水量が増えても流されないようにした。それから、岸に沿って歩いた。畑の下のあたりまで戻ったとき、詩が流れ着いているのを見つけた。前後がちぎれてひどく短くなってしまった詩だ。僕はそれを拾って持ち帰った。
「『川は』」
と、松葉はその詩を読んで言った。
「それだけ?」
「そう、それだけ」
松葉は短い小さな詩をテーブルの上にそっと置いた。僕は、川は優しいというあの男の言葉を考えた。そして、川は優しくないと思った。川は僕たちからいろんなものを奪っていったし、これからも奪っていくのだろう。
・
梅雨が続いている。降り止まない雨が日に日に強くなっていく。屋根に落ちる雨粒の切れ間のないザアザアという音と、雨だれの規則的なリズムは、僕たちの暮らしの一部になったかのようだ。
僕たち三人は薄暗い室内の弱いランプの下でテーブルを囲み、窓越しに降り止まない雨を見つめていた。いつもならなんてことはない地面のあちこちが水たまりになり、ところによっては川のように水が流れている。松葉と黒鼠によると、もうすぐ梅雨のうちでもっとも雨の強い時間帯になる。
「ワクワクしてきたぜ」
かつて腕だった器官を組んで黒鼠が言った。
「去年よりも家は頑丈にした。道具も揃えた。今年は不安がないぜ」
それを聞いているのかいないのか、松葉は頬杖をついて窓の外を見ている。青の魚にかんする限り、松葉は一方的に狙われる側で、自力で何かができるわけではない。それでなにか、黒鼠のような気分にはなれないのだろうと僕は思った。
僕も黒鼠のようにワクワクした気持ちではなかった。青の魚は人の形を残している人を食い殺す凶暴な魚だ。今年は頑丈な家の中に松葉をかくまうことができるとはいっても、壁を一枚隔てた外に青の魚がうろついているのを想像すると不安になる。青色の魚は獲物を求めてすばしこく地面の上を飛び跳ねていくことができるのだ。
青の魚の体表は青く澄んでいる。昼間でも薄暗い雨の日でも、そこだけ青空がぽっかりと開いたかのように鮮やかな青色だ。それが人を食べる凶悪な生物だと知らなければ見とれてしまいそうなくらいに。
「どうして青の魚は青いのだろう?」
と、僕は言った。去年のことだ。去年も同じように三人で集まって外を見ていた。
青の魚は個体ごとに青さが少しずつ違う。梅雨明けの強い日差しをもたらす空のように濃い青色の魚がいる。夕立の前の湿気て霞んだ空のような青色の魚もいる。空気が乾いて枯れ草のにおいが混ざる秋の高い空のような青色。冷たくて肌を刺す冬の凍った空の色。春の暖かい空の色。
「青く見えるのはね、青い光を反射するってことだよ」
と松葉は言った。
「ものが目に見えるというのは、光が目に届くっていうことなんだ。赤い光が目に届けば赤く見える。黄色い光が目に届けば黄色く見える。黒鼠が黒っぽく見えるのは、あまり多くの光が目に届かないからだ。そして青の魚の体表で反射した青い光が私たちの目に届くから、青の魚は青く見える」
「そうか。じゃあ黒鼠が黒いのと同じで、たまたまあんな色になったんだろうね」
僕はそれで納得した気分だったけど、松葉は首を横に振った。
「青の魚が青いのは偶然じゃない。彼らにとって青い光は有害だから鱗で反射して避けているんだ。空から降り注ぐおよそありとあらゆる青色の光を反射する。彼らは青空のように見えて青空とは対極の存在で、青空の無くなったこの時期でないと活発に動けない」
雨が少しずつ勢いを増していったのを覚えている。今年の雨ももうすぐピークに達するだろう。
「そりゃ何か理由があるのか? 青い光に弱くなっちまった理由がさ」
と、黒鼠はかつて腕だった器官を組んだまま言った。
「体を作り変えたせいだよ。私たちがいろいろな能力を失って、それを補うためにどんどん形を変えてしまったのと同じように」
「魚が自分で体を作り変えたのか?」
「ううん、人間が」
「人間? 人間は自分たちであんな凶暴な魚を作ったのか?」
そうだね、と松葉は言った。
「世界が滅ぶ寸前の人間には細かい調整をする余裕はなかった。ただ魚を一種類でも生き残らせたかった」
「魚はそんなに重要なのか? まあ、食料としちゃありがたいが」
「罪滅ぼしだよ。魚が増えれば世界を滅ぼした自分たちの罪が多少でも許されるかもしれないという」
「魚が増えることは罪を減らすことなのか」
黒鼠はよくわからないというふうに、かつて首だった器官を傾げた。僕もよくわからなかったけど、二人の会話を聞きながら、これは詩のようだと思った。
青の魚は僕たちの罪を滅ぼすために生きている。人を食べるときに、僕たちの罪も一緒に食べているのかもしれない。
「私は大丈夫だよ」
松葉がそう言って、僕は去年の記憶から引き戻された。
「去年と違って家が頑丈だから心配いらない」
黒鼠が体をぽんと叩いた。
「行くか」
雨はさらに勢いよく地面に打ち付け、屋根から聞こえる雨音はノイズというより轟音に近くなってきていた。僕と黒鼠はビニールを頭から被り、タモ網とナイフを持つ。
「気をつけて。無理しないでね」
背後で松葉が言った。僕はうなずく。
「ありがとう。頑張るよ」
雨の中に出ると、雨がビニールを叩く騒音に包まれた。玄関の扉がしっかり閉まるのを確認してから、僕と黒鼠はリヤカーを引いて鉄橋の見える護岸の上まで歩いた。道を雨水が流れていて、ときどき滑って転びそうになった。
「もう来てるぞ!」
護岸の上に到着して黒鼠がまず言った。
「どこ!?」
「橋脚の下!」
ビニールの中では雨音がうるさくて自然と声が大きくなる。いつもなら青空を背後にそそり立っている鉄橋も、大雨のせいでぼんやりとした輪郭が灰色の世界に埋もれているように見える。その黒い橋脚のあたりの渦巻く水面に青いものが飛び跳ねるのが見えた。青の魚だ!
川の水は褐色に濁り、大きく波打ち、うねり、渦を巻いてしぶきを散らし、いつもなら考えられないくらいの速さと勢いで流れている。川の上流で成長した青の魚はこの勢いに乗って一気に海へ下っていくのだ。
中州の両側へ別れた川の水面にも青の魚が飛び跳ねた。群れの先頭はもう僕たちのいる場所までたどり着いているのだ。しかしほとんどの魚はものすごい水量に押し流されて陸地へ襲いかかってくることはない。問題は群れの母数がもっと多くなったときだ。
しばらくは散発的に青の魚が飛び跳ねているだけだったが、やがて突然に、橋脚のあたりの水面に沸き立つような波が見えた。流れに乗ってこちらへ向かってくる。
「来たぞ! そっちは頼む!」
黒鼠がぬかるみの上を転がるようにして護岸の左側へ向かう。僕は黒鼠とは反対側に離れてタモ網を上段に構えた。
広い川の濁流が沸騰したようにぼこぼこと波打つ。鮮やかな空色があちこちで弾ける。灰色の世界の下から空が湧き上がってきたかのような錯覚に包まれる。沸騰する空に中州だけが取り残されてしまったかのような。
中州の先端にぶつかった群れの一角から一匹の魚が飛び跳ねた。体長は僕の身長の半分ほど。大きな頭のほとんどを占める口を目一杯に開き、太く鋭い牙を剥き出しにして、夏の終わりのような青い瞳が僕を捉えた。
僕は魚を半身になってかわし、横腹からタモ網を振るった。勢いと重みで網を持っていかれそうになるのをなんとか押さえつける。網ごと地面に叩きつけ、食いかかろうとする魚の頭をかつて足だった器官ですかさず踏みつけた。頭さえ動かないようにすれば噛みつかれる心配はない。去年散々戦って体中に傷を負いながら研究したのだ。しかし研究の成果があるからといって安心はできない。青の魚はおそろしく力が強い。
急に暴れだした魚が僕の体の下からするりと抜けた。青の魚は全身の強力な筋肉を使って陸上でも素早く体を動かすことができる。牙をむき出しにして飛びかかってきたのを、僕はすんでのところでかわし、ぬかるみの上に転がった。被っていたビニールが泥まみれになり、そう思うが早いか豪雨が洗い流していく。起き上がるまもなく襲いかかってきた魚に再度網を振るう。すぐに網を引き寄せ、魚に体重をかけて押さえ込んだ。僕はナイフを取り出し、暴れる魚の鰓の際に狙いを定めてナイフを打ち込んだ。
まるで人の叫び声のような薄気味悪い音が響いた。魚の体が痙攣してのたうちまわる。
「ア! ア、ア! ア、ア、ア! ア……」
それは人の声帯から発せられる声におそろしく似ている。僕と黒鼠が調べたところによると、鰓の内部にある突起が痙攣して音が出ているらしい。
「ア、ア! アア! ア!」
黒鼠がいる方向からも断末魔の叫びが聞こえてきた。一匹目をしとめたようだ。
僕たちは次々に襲い掛かってくる青の魚を捕らえてはナイフを突き刺し締めていった。魚の襲来は黒鼠の守る護岸左手に集中している様子だったのでしばらくして僕は黒鼠の隣に移動した。
「ありがとな! こっちは結構きついぜ!」
網の中で暴れる魚を押さえながら黒鼠が言った。周囲にはぐったりと息絶えた青の魚が何匹も横たわっている。
黒鼠がナイフを刺そうとしたとき、魚が急に大きく暴れて飛び上がった。口を開いて鋭い牙を黒鼠のかつて肩だった部位に突き立てる。
「あ痛だだだだだだ! くそっ、このやろう!」
黒鼠は転げ回って引き剥がそうとするけれど、青の魚の顎の力は相当に強くて僕たちの力で引き離すことはできない。反対に言えば、青の魚自身も、一度噛み付いたら簡単に離すことができない。
僕は黒鼠の上に覆いかぶさり、魚が暴れないように押さえながら素早くナイフで絶命させた。魚の顎の力が抜けて不気味な断末魔の叫びが響く。
「ちくしょう、たまんねえな、こりゃ」
黒鼠がそれを掴んで遠くへ放り投げた。叫び声が雨音の向こうへ消えていく。黒鼠は噛まれた部位が痛むようで、しきりにさすっている。僕はまた一匹襲ってきた魚を捕まえて、手早く締めた。
「お前こういうの上手いよな。なんでか知らないが」
網を振りながら黒鼠が言った。たしかにそうだ。僕はたいていのことは黒鼠や松葉ほどにはできないけど、青の魚を捕まえるのだけは三人の中で一番だと思う。人にはそれぞれ得意不得意があるものなのだ。
僕たちは襲ってくる魚を捕まえては屠った。僕も何箇所かを噛まれてビニールが破れ、そこから入ってきた雨と泥ですっかり汚れてしまった。黒鼠は黒い体が泥だらけになって僕よりもひどい姿になっている。どれほど経ったか、いつしか雨が小降りになり、空を覆う雲が少し明るくなっていた。
「いやあこりゃ、なかなか大変だったぜ」
黒鼠がぺたんと尻もちをついた。泡立つようだった水面はもとの渦巻く濁流に戻り、青の魚はときおり水面で飛び跳ねているのが見えるだけで、陸地へ襲いかかってくるのはもういない。海へ出るという目的を達成するため、彼らは川を突き進んでいった。彼らにとって僕たちはその進路にたまたま存在するだけのちょっとした障害物にすぎないのだ。僕たちは広い世界のなかの小さな存在だ。
「さ、撤収だ」
僕と黒鼠はそのあたりに投げ出していた青の魚をリヤカーに回収して家へ歩き出した。重くなったリヤカーをどうにか押しながら、僕は青の魚を退治しながら考えていたことを黒鼠に言ってみた。
「人間が罪滅ぼしに青の魚を生み出したのなら、罪滅ぼしを殺す僕たちは罪なんだろうね」
「なんだそりゃ、詩か?」
そう言われて、なるほどこういうのが詩なのかと、僕は思った。
「たぶん、詩だと思う」
「そうか、じゃあ俺にはわかんねえな」
僕たちは泥まみれで家に着き、たくさんの魚をやっつけたことを松葉に褒められた。僕たちは三人とも、罪滅ぼしを滅ぼす罪なのだろう。
翌日、梅雨が明けた。空は濃く、鮮やかな青色だった。
僕たちは青の魚の内蔵を出し、開いて、軒先に干していった。今年はずいぶん身がスカスカだと黒鼠が文句を言う。並んで吊り下げられた青の魚は青空と同じくらい鮮やかな青色だった。まるで梅雨明けの空がそのまま写し取られたみたいに。
三人で並んで玄関先に腰を下ろして青空を眺めた。そこでふと、僕は思いついたことを言ってみる。
「青の魚は本当は空が嫌いなんじゃなくて、空が好きで、空になりたいのかもしれない」
「なんだそりゃ、また詩か?」
「うん」
「俺にはわからねえな。松葉はどうだ?」
「そうだね、青の魚は青空が好きなのかもしれない」
「そういうもんかね」
「そういうものだよ、きっと」
と、松葉は言った。
・
暑い夏の日が続いた。僕と黒鼠は体が黒っぽいので夏の日差しの下ではすぐに熱くなってしまい、外で長時間作業をすることができない。日が昇る頃に起きて畑仕事や護岸の補修をして、日中は家の中で休み、夕方になるとまた作業をした。それにしても暑いのには違いがなく、黒鼠はさっさと仕事を終えて家に戻り、僕も仕方ないので川辺を散歩したりした。梅雨が明けてからは雨がほとんど降らず川の水面が下がって、普段は見えない底の小石が太陽に照らされてからからに乾いている。
僕は水際に寄ってかつて足だった器官を水に浸した。川の水は思ったよりも冷たくて、暑さと砂埃でぼんやりしていた頭がきれいに透き通るような気がした。
川の上を風が吹いている。夏の匂いだ。日差しの下で伸びた草の匂い。乾いた石の隙間から緑色の草が生えてきている。その草がたくさん集まってくさむらのようになっているあたりの小石に、緑色の鮮やかな蔓が引っかかっていた。僕はそれを拾って持ち帰った。久しぶりに流れ着いた詩だ。
「おかえり」
松葉は蔓を編みながら言った。いつもより険しい顔をしているように見えた。隣で黒鼠もかつて腕だった器官を組んで難しい顔をしている。
「なにしてるの?」
黒鼠はそのままの姿勢でちらりと僕を見た。松葉は少し蔓を編み進めてから、顔を上げた。
「さいきん支給物資が少なくてね、食料に余裕がないんだ。黒い車掌にもっと増やしてくれるように詩を編んでるんだけど……」
支給物資の量が少しずつ減っていることは、以前にも聞いていた。あまり減ると困るなと僕も思った。
「黒い車掌は何か変だな。松葉が言ってたことがわかった」
と黒鼠を言った。
「変? そうかな」
黒い車掌の列車は梅雨が明けてからも今まで通りに週に一度鉄橋の上で止まって物資を投げ落としてくれていたから、僕は変だとは思っていなかった。
「いや、変だ。荷物を投げるのが少しつらそうだし、詩を受け取っても上の空だ。それに警笛を鳴らさなくなった」
「あ、警笛か」
これには僕もわかった。列車が鉄橋に差し掛かったときに鳴らす警笛を最近聞いていないことに気づいたのだ。
「具合が悪いのだろうか」
と僕は言った。
「そうかもしれない」
と松葉が答えた。
黒鼠がテーブルの上に身を乗り出す。
「黒い車掌に頼っているだけじゃ生きていけねえ。早めに畑を広げて自給できるようにしないとな。それと、野菜はそれでどうにかなるとしても」
黒鼠が玄関先を見る。そこには梅雨の終わりに捕まえた青の魚の開きがぶら下がっている。
「肉をどうにかしなきゃいかん。青の魚はほとんどこの時期だけだ」
「うずらの卵を孵化させるのはどうかな」
と僕は提案してみた。これには松葉が首を振った。
「孵化できる有精卵は少ないよ。うずらの卵はたまにしか支給されないから、それが孵化したとしても雄と雌が揃うのは難しいね。やってみる?」
「いや、俺は運に賭けるよりも自分で獲りに行くほうがまだ率は高いと思うぜ。線路を辿っていけばどこかでうずらを飼っているはずだ」
「線路を辿るのはあきらめたはずじゃなかったっけ」
僕が言うと、黒鼠は椅子の背もたれに体をあずけて、
「あー」
と声を漏らした。鉄橋の向こう側は得体のしれない生き物が多くて、僕たちが無事に戻ってこれるかどうか自信はない。うずらを孵化させるのとどっちが率がいいか、安全も考えに入れると自力で孵化させるほうがまだいいと僕は思う。
黒鼠はずるりと椅子から降りた。
「俺は寝る。寝たら何か思いつくかもしれん」
そう言ってさっさとベッドに潜り込んでしまった。諦めの早さは黒鼠のいいところだ。
僕もうずらをどうやってふやすかを考えてみた。それで、線路のずっと先にあるはずの飼育場からつがいを分けてもらえばいいと思いついて、松葉に提案してみた。
「それはいい考えだね。黒い車掌に詩で頼んでみよう」
松葉は編みかけの詩にまた少しの詩を編んでつなげた。調子が悪いらしい黒い車掌がうまく読み取ってくれるかどうかはわからないけれど、何もしないよりもずっといい。
「ところで詩といえば」
と、僕は川辺で拾った詩のことを思い出し、体から取り出してテーブルに置いた。
「これはなんて書いてあるのだろう?」
「どれどれ」
松葉が詩の編み目を目で追う。
「『愛を知っているか』だね」
「愛を知っているか」
僕は松葉が言った言葉を繰り返した。不思議な詩だと思った。
「いつもと違う気がする」
「そう?」
「うん、どう言えばいいのかわからないけど……」
僕はすぐにはいい言葉が思いつかず、しばらく考えた。松葉はふたたび詩を編み始め、黒鼠はベッドでいびきをかき始め、静かな家の中を真夏の風がゆっくり通り過ぎていった。玄関先の地面が午後の日差しでじりじりと焼けている。
ふと、呼びかけられているのだ、と僕は思った。これまでの詩は、ビルとか太陽とか、実際に存在するものについて何かを伝えようとしているようだった。でも今日の詩は違う。何かを伝えるのではなくて、僕たちに尋ねている。
「愛を知っているか」
と、僕はもう一度繰り返してみた。
「愛ってなんだろうね」
ふいに、松葉が言った。松葉は詩を編んでいる。
「愛っていうのは……」
僕はすぐに答えようとしたけど、答えは全く思いつかなかった。愛というものがきっと心の中にある気持ちのことで、いいものだという気はするけど、僕には愛はわからなかった。体を作り替える前はもしかしたら知っていたのかもしれない。
「難しいな」
と僕は言った。
「そうだね」
と松葉が言った。
・
夜行列車は動き出した。電灯に照らされたホームはすぐに後ろへ過ぎ去り、にぎやかな街灯りが窓の外に花火のようにきらめいた。夢のような街を抜け、列車は走る。少しずつ街灯りは少なくなり、郊外へ向かっていく。
暑い夏の夜だ。僕は窓を開けた。列車の車輪がレールを踏む音が急に生き生きと飛び込んでくる。夜気が吹き込む。夏のよく伸びた草の匂い。空に月が浮かび、暗闇の中に遠くの山の稜線がうっすらと浮かび上がっている。
列車は懐かしい場所に向かっている。そこにはうずらの飼育場があり、懐かしい人々が暮らしているはずだ。僕はそこでうずらを飼って暮らすのだ。
夜が更け、僕は眠ろうと背もたれに体をあずけて目を閉じた。しかしあまり眠れなかった。列車の走る音が夏の風に乗って駆けてゆく。
人の気配を感じて、僕は目を開けた。通路に薄灯りがともり、黒い車掌が立っていた。真っ黒の制服を着て真っ黒の制帽をかぶり、白目だけがぎょろりとしている。黒い車掌は僕をじっと見て言った。
「切符を拝見する」
気づくと僕はかつて手だった器官に切符を持っていた。僕がそれを差し出すと、黒い車掌は無言でゆっくりと鋏を入れた。僕は尋ねた。
「寝苦しい夜ですね」
しかし黒い車掌は何も答えず無言のまま僕に切符を差し出した。僕は切符を受け取った。列車の走る音だけが聞こえ、夏の風が黒い車掌の制服の裾を揺らした。黒い車掌は置物のように動かず、開いた窓の外をじっと見ている。やがて、
「愛を知っているか?」
と、唐突に言った。その声は風の音に似ていた。
愛とはなんだろうかと僕は思いを巡らした。最初にうずら卵が思い浮かんだ。次に畑で育てている野菜の緑色のことを思った。青の魚や、川のことも考えた。黒鼠と護岸工事をしているときのこと。松葉と詩について話したこと。どれもが愛のように思えて、しかしどれも愛でないような気もした。
僕が答えられないでいると、黒い車掌はもういちど尋ねた。
「愛を知っているか?」
僕はまた愛について考えた。上流から流れてくる詩のこと。松葉が編んで流した詩を受け取るだろう誰かのこと。滅んだ世界のこと。でもやっぱりどれも愛ではなかった。
「わかりません」
と僕は答えた。黒い車掌の白目がぎょろりと動いた。そして、何も言わなかった。
黒い車掌はきびすを返し、そしてひどく気だるそうに、苦しそうに、前の車両へと姿を消した。
・
とても暑い夏の日々が過ぎていった。今日は少し暑さがやわらいで、なんだか寂しい感じがする朝だった。地平線の上に出た朝日が中州と川とずっと遠くの向こう岸を照らして、世界はこんなに広いのに何も無いんだという感じがする。
僕と黒鼠は朝の作業のために鉄橋の近くの護岸に来た。世界がこんなに広いのに僕たちは中州の端の小さな護岸を少しだけ強くするのに何日もかけている。広い世界に比べたらほんのわずかなことだけど、僕たちにとって護岸はとても大切だ。
世界の広さはとても難しくてわからない。さいきんはそういう難しいもののもうひとつに愛が加わった。僕には愛はわからなかった。
「愛とはなんだろうか」
と、僕は黒鼠の背中にきいてみた。黒鼠は作業の手を止めて振り向いた。朝日に斜めから照らされて黒鼠はいつもよりかっこよく見えた。
「なんだそりゃ?」
「詩に編んであったんだ。でも僕にはよくわからない」
「詩は難しいからな、俺たちじゃわからねえだろうよ」
黒鼠は作業を再開したけど、すぐに手を止めて振り向いた。
「飯が旨いってことじゃないか?」
「なるほど」
さすが黒鼠はいろいろなことを考えつくものだと僕は感心した。
「つまり良いことなんだろうね」
「そりゃそうさ。尊いことだ」
朝日がとても輝いて見えた。黒鼠の考えは、僕のかつて頭だった器官の中を明るく照らすような気がした。僕は嬉しくなって、自分の説を聞いてもらいたくなった。
「美しいと思うことは愛だろうか?」
これは、僕がさいきん考えたことだ。松葉が詩を編んでいるのを見ているときや、黒鼠が働くのを見ているとき、ふたりの姿は美しくて、ふたりのおかげでご飯はおいしくて、尊いのだ。だから僕はこれは愛かもしれないと思った。
しかし黒鼠はかつて首だった器官を振った。
「そりゃ、違うんじゃねえか」
答えは意外だった。黒鼠ならきっと、同意してくれると思ったのに。
「どうしてだろう?」
と僕が言うと、黒鼠は作業の手を止めた。かつて腕だった器官を組み、うんうんと唸りながら考え事をした。そうしてしばらく考えてから言った。
「美しいと思うだけじゃ、飯は旨くならねえからな」
「なるほど」
僕は、黒鼠の意見がとてもよくわかった。けれども愛についてはまだよくわからないままだった。川の上流から吹いてくる風は暑くて湿っているけれどもなんとなく夏が終わって秋が来そうな気もする。愛についてよくわからないのはそういうのに似ている。僕はセメントの袋を開けてバケツに入れた。
「飯が旨いといえば」
と、黒鼠が言った。僕はセメントに砂を混ぜた。
「このごろは支給物資の飯が旨くねえな。そう思わないか?」
「そうだね。セメントの質も悪くなってる」
食料の支給は量が減っただけでなく、夏になってから質が徐々に落ちてきていた。食べてもあまりおいしくないし、調理しにくいと松葉が言っていた。セメントは夏なのに固まるのが遅くて、固まってもあまり頑丈ではない。
「こんな調子じゃ、だめだな。世界は滅びるに違いないさ」
黒鼠は地面にシャベルを突き刺した。僕はセメントに砂利を加えて混ぜた。
「もう滅んだのではなかったか?」
「もういっぺん滅ぶのさ」
そう言って、黒鼠は川岸に土を盛り始めた。僕はセメントに水を混ぜた。
「旨くねえよ、まったく」
と、黒鼠がつぶやいた。
・
数日後、夏の終わりの嵐が来た。風は夜になるにつれて強くなり、家を揺らす。僕は屋根が飛ばされるのではないかと心配で、そわそわと玄関の様子を見たり天井を眺めたりした。
「どうってことないよ」
と松葉が橙色のランプの下で詩を編みながらおだやかに言った。
「さっさと寝ちまおうぜ。明日の朝には晴れてるだろうよ」
と、黒鼠は先に寝床についた。
つまり、きっと大丈夫なのだろうけど、それでも風は唸りを上げていて、今にも僕たちは吹き飛ばされていまいそうで、僕はベッドに入ってもあまり寝付けなかった。松葉が灯りを消す。僕は真っ暗闇に取り残されたような気分になる。風の音を聞き、家が揺れるのに怯えながら時がすぎるのを待ち、ようやく眠りに落ちかけたと思ったら、遠くから轟音が聞こえてきてまた目が覚めてしまう。嵐に負けないくらい大きな黒鼠のいびきのおかげで、僕はどうにか恐怖に連れ去られずに済んだ。
そうしているうちに気づけばもう朝で、僕は珍しく寝坊した。ベッドから起き上がったときにはすでに黒鼠はいなくなっていて、松葉は朝ごはんを作っている。松葉が言ったとおり、家はどうってことなかった。
夜のうちに嵐は去って、そればかりか夏も去って、昨日までとはうってかわって、深くて高くて遠い青空が窓の外にあった。空は僕たちをずっと向こうの奥のほうまで吸い込んでしまいそうに見えた。風の匂いは秋色に変わり穏やかに凪いでいる。
玄関から顔を出したところで、転がるように駆け込んできた黒鼠と正面衝突して僕は家の中に転がり、黒鼠は外に転がった。しかし僕たちの体は人の形をしていた頃にくらべると頑丈になっているからこの程度ではどうってことない。僕と黒鼠はそれぞれかつて手足だった器官をばたつかせて起き上がった。起き上がるなり黒鼠は言った。
「大変だ! くそっ! このやろう」
黒鼠は僕の体をつかんで外に引っ張り出した。黒鼠は短気だけどこんなに慌てているのは初めてだった。
「どうしたの?」
「いいから来い! 松葉も!」
足の遅い僕は何度も転びそうになりながら、全力疾走する黒鼠に引きずられるようにして走った。黒鼠が僕を連れてきたのは、中州の端のいつもの護岸だった。僕は息を切らしてしゃがみこむ。川の水は濁っていたけど昨夜の雨は大したことがなかったので水量はそれほどでもなかった。顔を上げる。空は深い青色で、ずっと遠くの宇宙まで続いていそうなくらいだった。
空は広かった。本当に、広くなってしまっていた[#「広くなってしまっていた」に傍点]。こんなに広いはずではなかったのに。
「鉄橋が……」
僕は空の広くなった部分を呆然と見た。
鉄橋が落ちている。橋脚の上に連なっていたいくつもの橋桁が、濁った川の水にごろんと横たわっていた。そのうちのひとつは川に押し流されたのか、中州の端に引っかかって濁流を受け止めている。
僕は何も言えなかった。鉄橋が落ちて、どうなるのかわからなかった。何をしたらしいのかもわからなかった。隣に黒鼠が来て言った。
「……もう支給物資は来ねえってことだ。いつかこうなる気はしていたけどな、早すぎるぜ」
声は落ち込んでいた。黒鼠がこんなに落ち込んでいるのは初めてだった。僕はこれが大変なことなのだとわかった。もう支給物資が届かない。食料は届かなくなるし、護岸工事の資材も手に入らないのだ。
黒鼠が蹴飛ばした小石が濁った川の水に飲み込まれた。橋桁に乗り上げた濁流がざあざあと音を立てている。
やがて松葉が後から追いついて、僕たちと同じように鉄橋を見て、同じように落ち込んでいるようだった。三人で護岸に並んで座って、しばらく無言で崩れた鉄橋を見ていた。中州に引っかかった橋桁をかきわける川の音がむなしかった。
「なあ、」
と黒鼠が言った。
「黒い車掌に知らせようか」
僕も松葉もすぐには返事ができなかった。知らせたところでどうにかなる気がしなかった。さいきんの黒い車掌になにかができるとは思えない。
「うん、」
と、松葉は小さな声で言った。
「そうしてみようか。このままだと列車が危ないし、こっちの状況を上手く伝えれば支給物資を受け取る方法が見つかるかもしれない」
そして、やらないよりはずっといいよね、と付け加えた。
黒鼠が橋脚の上に旗を立て、それから、中州で焚き火をして煙を高く立ち上らせた。列車が向こう岸のあたりに差し掛かれば、何か異変が起きていることに気づくだろう。
でも、いつもの時刻になっても列車は来なかった。日没まで待ってみたけど、列車が走ってくる気配すらなかった。列車は向こう岸に差し掛かることすらなかった。余った焚き火で肉のパテと野菜を焼いて三人で食べた。
「来ねえな」
と黒鼠がつぶやいた。
僕は詩が流れ着いていないかと思った。嵐の翌日はたいてい、流れ着いているものだ。上流の誰かがなにかを教えてくれるかもしれない。松葉が言ったのと同じで、なにもしないよりはいいはずだ。それで焚き火から少し離れて、ひとりで歩いてみた。
夕日は西の地平線に沈んだ。午前中濁っていた川の水面は、いまは落ち着いて鏡のように空を映している。澄んだ秋の空は橙色から紅へ、紫へ、青へ、紺へ、漆黒へ、隙間のない完璧なグラデーションを成している。残照の橙色は少しずつ弱くなり、漆黒が背後から迫ってくる。空と水面とで閉じられた世界に僕は置いていかれるのだと思った。太陽は僕たちを取り残して夜の向こうへ消えていく。
闇に埋まり始めた足元を見た。緩やかに水の揺れる岸辺に詩が流れ着いていた。僕は詩を拾った。
「『最後に愛を教えてくれ。人参と、人間の間にあるやつだ。太陽が照らし、太陽が去る。君は知っているだろう』」
僕が拾ってきた詩を、松葉は焚き火にかざして読んでくれた。詩は難しくて僕にはよくわからなかった。あまり役に立つ情報ではなさそうだと思った。それは黒鼠も同じで、退屈そうにごろんと横になった。
「知らねえよ、俺は」
そしてすぐにいびきを立て始めた。焚き火が弾けた。
松葉は顔を伏せて焚き火をじっと見つめている。寂しいのだろうか、悲しいのだろうか。嬉しくはなさそうだった。まばたきをするたびにまつ毛が動いた。僕はそれを見ていた。松葉は美しかった。僕はいつも松葉を美しいと思っていた。美しいことは嬉しいことで、きっと良いことにちがいない。
「美しいと思うことは愛だろうか?」
と僕は尋ねた。以前、黒鼠にしたのと同じ質問だ。黒鼠はそれは愛じゃないと言ったけど、もしかしたら松葉なら違う答えになるかもしれないと思ったのだ。
松葉は僕をじっと見た。炎が松葉の影をゆらゆら揺らした。
「それは愛じゃないよ」
松葉はそっけなく言った。黒鼠と同じ答えだった。やっぱり、美しいと思うのは愛じゃないんだと僕は思った。
松葉はいろんなことを知っていて、僕に教えてくれる。滅んだ世界で生きていられるのは松葉のおかげだ。松葉がいなかったら僕も黒鼠もとっくに死んでしまっていただろう。僕は松葉に感謝している。そして感謝について考えるのは、気持ちが良いことだった。
「じゃあ、感謝することは愛だろうか?」
「それも、違うよ」
松葉が枯れ草を焚き火にくべた。蛍が湧き出たみたいに火の粉が舞って、見ているまもなく消えてしまった。なんだか、僕たちのようだと思った。
「悲しいと思うことは?」
「きっと、違うだろうね」
松葉は焚き火を見つめたまま答えた。僕の言うことはまったく外れているみたいだった。
「そうか。僕には愛はわからないんだろうね」
世界はわからないことだらけだ。
「そう。私たちに愛はわからない。わかりっこないよ」
松葉がうつむいたまま言った。松葉は何でも知っている。愛がわからないことも。
僕はごろんと転がって、空を見た。もう夕日の橙色はかけらほどもなく、暗闇が空全体を覆っている。目が慣れると星がたくさん見えた。視界は全部星空だ。僕は宇宙に寝転がっているような気がする。もう死んでしまっているような気もした。死ぬということが急に身近に感じられた。
「僕らは愛なんて知らないまま死んでいくのだろうね、きっと」
さらさらと川の水が流れる音がする。黒鼠のいびきが聞こえる。僕の頭の上のほうで、鉄橋は川に横たわり、黒鼠は土に横たわっている。夜空の星はたしか、ずっとずっと遠くにあるのだと松葉が言っていた。僕が思うよりずっと空は高いのだと。
「夢のなごりが朽ち果てて、ひとごとのように空が高い」
と、松葉が言った。とても澄んだ、夜空のような声だった。歌声のようであるかもしれない。
「それは詩なの?」
と僕は尋ねた。僕には詩はわからないけれど、詩であればいいなと思った。詩なら、編んで流すことができる。流せば下流に暮らす誰かが読んでくれる。それはきっと希望なのだ。
「詩かもしれない。そうだといいな」
松葉は僕が思っていたのと同じことを言った。僕はそれが嬉しかった。
「流してみようよ。誰かが見つけてくれるかもしれない」
僕が提案して、松葉がうなずいた。
夜の中州は静かだった。松葉が蔓をからませる音と、黒鼠のいびきと、川の水が緩やかに流れる音とが、穏やかな音楽みたいだった。僕は焚き火越しに松葉を見ている。まばたきのたびに揺れるまつ毛が美しいと思う。蔓に絡む指先が美しいと思う。少しずつ編み足されて長くなっていく詩が美しいと思う。
「できたよ」
松葉が編んだ詩はふたつの蔓が複雑に絡み合って美しかった。でも僕には読めなくて、美しくてもそれは愛ではなくて、僕にはわからない。
松葉が流した詩はゆっくりと川の流れに乗り、焚き火の灯りの届かない向こうへ消えていった。水面は星空を映し、僕たちの詩を下流へ運んでいく。




