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おじさんの鳴き声

 秋が近かった。草の青臭さに、少し枯れたような稲の匂いが混じって、風に乗って流れてくるのだ。


 眼の前に広がる盆地を埋める一面の稲穂が薄く黄金色に色づき始めた季節。田圃道に人影はなく、舗装もされていない二本の轍がはるか向こうの山の麓へ吸い込まれて消えるだけの風景。雄大な大自然があるわけではなく、文明を誇る建造物がそびえ立つわけでもなく、繰り返す平凡な四季の結果としての水田と、それらを維持しささやかに自然に介入するだけのわずかな人工物が、何の特徴もない穏やかな景色を形作っている。稲穂のざわめきと、鳶の鳴き声だけが音。遠くの青い山と黄緑色の田圃と、その境目を埋めるようにわずかに点在する家々。そういう田舎で、おじさんは生まれた。


 おじさんはしばしば子供の頃を思い出す。稲のざわめきだけが聞こえる田圃道を、柴犬のヨムと一緒に歩いた。名前は読書好きの父様がつけた。それにふさわしく、ヨムは犬にしては物静かで、散歩よりも庭に座って空や木や草の変化を見ているのが好きだった。日に一度の散歩では、田圃道の途中で立ち止まっては、日々伸びていく稲を見つめたり、空を飛ぶ飛行機を見上げたりしていた。子供の頃のおじさんは、ヨムのそんな性格が好きではなかった。犬なら元気に走り回ったり吠えたりしてほしかった。近所の犬に吠えられても反撃せず、野良猫が近寄ってきても追い返さないヨムは、かっこよくなかった。


 子供のおじさんが中学生になったばかりの頃、ヨムは死んだ。なんのとりえもなくて、ちっともかっこよくない犬だったけれど、物心ついたときからずっと一緒にいたので、おじさんは悲しくて涙を流した。かっこよくないヨムのためにこんなに悲しくなるのは自分でもびっくりした。ずっと一緒にいたものが急にいなくなってしまう喪失感がこんなに心を痛めつけるのだということを初めて知った。すごく悲しくて、入学したばかりの中学校にもちっとも行きたくなかったし、食欲もなくなって、布団に入っても涙が溢れてきた。でも、どうしてか、大きな声で泣き叫ぶことができなかった。心の中では巨大な岩のような感情が、斜面を駆け下り、壁をなぎ倒し、何もかもを破壊しながら転がり続けているというのに、形ある声にならないのだ。


 中学生のおじさんは、ヨムを思った。ヨムもこうだったのか? 自分はヨムと同じではないか? ヨムはきっと、おとなしい心の中に、転がり続ける大岩を抱えていたのだ。それを声にする方法を持たなかっただけなのだ。おじさんはヨムの気持ちをそのように理解した。声の出し方がわからないのは、つらいことだった。ヨムがそうだったのかと思うといっそうつらかった。ヨムが死んでからひと月経っても泣き声は出ず、それゆえ悲しみだけがどんどん積もって、布団の中で涙を流すことで、爆発寸前の感情の均衡をかろうじて保つことができた。


 やがておじさんは大人になり、おじさんになった。大人になるとうまくいかないことがたくさん出てきた。心の中にはいつも大岩が転がり続けた。いつまでたっても泣き声を上げるすべを知らず、心は不安定なテーブルの上を左右に揺れている。しかしそれでも、うまくいかないなりに、おじさんはヨムの心を、自分の心の中に育てていた。泣き声はまだ無理だけど、おじさんなりのやり方を少しずつ見つけていこうとしている。


 今日もろくなことがなかった仕事帰り。夏至を過ぎたばかりの空は19時をまわってもまだ明るい。東京の真ん中では山の稜線は見えず、かわりに凸凹のビルのてっぺんが空との境界をつくっている。稲のざわめきはなく、黒く熱いアスファルトの上を、たくさんの人が踏みつけていく。田舎とは全然違う風景だけど、おじさんはビルと空の境目に、ずっと遠い子供の頃の田圃道を思い出していた。


 ヨム、とおじさんはつぶやいた。あの日ヨムが見ていたのは、きっとおじさんが今見ている風景と同じなのだ。おじさんは熱いアスファルトの上で四つん這いになり、右足を後ろに蹴り上げて、今にも泣き出しそうな目で暮れゆく夕空を見上げ、ビルが空を断ち切るそのあたりに向かって、物悲しい鳴き声を投げかけるのだ。


「ポエッポエッポエッ、ポエッ。ポエェッ、ポエェッ。ポエエー……」


(望郷)

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