盆の頃
目の前に乳白色の大河が流れている。
滑らかな水面が白く曇った空を映し、ゆっくりとした流れは静止しているのかと見紛うほどに穏やかだ。
あまりの広大さのため、岸から離れるに従って濃くなっていく霧の向こうは、白から灰色へ向かうグラデーションに溶けて、見えない。
河と言われなければ河と認識できないかもしれない。海。湖。そうであると言うならば、たしかに海であり、湖であるように見える。そんな、ひたすらに広い水面。
私はその河岸から程近い場所にあるテーブルで、グリーンティーを飲んでいる。全く甘みがなく渋味と収斂味の強いこの飲料は、甘いものが好物の私の舌には合うとは言い難い。ただし、ここを訪れる人々にとって馴染みの深い味であり、このカフェ(茶店、と彼らは言う)の定番メニューである。部外者であるとともに彼らを取材する立場の人間としては、これを味わわない手はない。
私がグリーンティーの渋味に顔をしかめていると、ダツエが店の奥から出てきて隣の椅子に座った。
「河がよほど興味深いみたいだね」
「そりゃそうさ。こんなに不思議な色――いや、色は無いな。なにしろ白と灰色と、そのグラデーションでしかない。しかし白と灰色の作り出す世界がこれほどに深く広く遠く、どこへ続いているのかもわからない不気味さを兼ね備えているとは思いもよらなかった」
と、私は素直に感想を述べた。
ダツエは無邪気な笑顔を浮かべる。見た目だけなら十六歳の少女なのだ。日本のハイスクールに通う女子学生の制服を着ている。
「そっか。その感想は新鮮だなあ。千年以上もここにいたらこれが日常だからね」
千年以上。というのは、この国にブッディズムが伝わってからの年月のことを指している。日本の人々がブッディズムを信奉し始めてから千年以上もの間、彼女は現世と向こう岸とを隔てるサンズ・リバーの岸で、あの世へ向かう人々を見つめている。
「千年以上、河はまったく同じ?」
「同じ。乳白色で、空は曇ってて、遠くは霧で灰色に霞んでる。水面には波一つ無い。あ、でも波は変わったね。渡船が人力から高速船になって曳き波が大きくなったよ。角度によっては桟橋が波を被るから、少し嵩上げして、護岸もコンクリートで高くした」
なるほど、サンズ・リバーの渡船「サンズ・エクスプレス」の桟橋は近代的なコンクリート構造だ。ちょうど彼岸から到着した船は、絵図で見た木造船とは似ても似つかぬ大型のジェットフォイルである。
「さぞ速いだろうね」と、私は言った。
「うん。人力の頃は交代で漕いで数日かかってた航路が、今は四時間くらい。時間だけじゃなくて人件費も削減できて向こう岸では随分助かってるって聞いたよ。もちろん、こちら側でもね。おかげで私は茶店から列を眺めてるのが仕事になっちゃった」
船に乗り込むブッディストたちの列は滞りなく一定のスピードで動いている。彼らは十台並んでいる自動券売機にコイン六枚(コインであれば何でも構わないようだ)を投入し、チケットを買う。券売所の隣には同じく十台の改札機が並んでおり、彼らは次々にチケットを投入して通過していく。ここまで完全に無人化されている。
先ほど到着した船からは大勢の人々が降りてきた。向こう岸から現世へ戻ってくることもできるのか、と私は驚いた。
「あれは?」
「お盆の帰省だよ。年に一度、八月のこの時期にそれぞれの家へ帰るんだ。もちろん生き返るのではなくて魂だけだけどね」
「それは当たり前のことなのか?」
「もちろん。よほどの事情がない限りは一年に一度、許されてる。あなたの信じる宗教にそういうのはないの?」
「無いね、残念ながら。アメイジングだ。同時に、じつに優れた風習だと思うよ。生きた姿でなくとも両親にもう一度会えるならどんなにか嬉しいことだろう。伝えたかったことも、聞きそびれたことも、たくさんあるんだ。この点だけを言えば、私はすぐにでもブッディストになりたいくらいだ。」
私は五年前に事故で亡くした両親のことを思った。旅行帰りのハイウェイでの衝突事故。コントロールを失ったトレーラーが私の車に突っ込んだのだ。運転席に座っていた私だけが奇跡的に助かり、ぺしゃんこに潰れた後部座席で両親はもはや人間の形をしていなかった。
その日、私は両親に妻との結婚を報告するつもりだった。家では妻がサプライズの準備をして、私達の帰りを今か今かと待っていたのだ。しかしそれはもうかなわない。彼らはその三年後に生まれた孫の顔を見ることもない。泣いてばかりの子供を泣き止ませる方法を教えてくれることもない。何もかも、無くなったのだ。
エンプティとはむしろブッディズムの概念ではなかったか、と私は皮肉めいたものを感じて、グリーンティーの水面に映る曇り空を見つめた。
ふと、人が近づいてくるのに気づいて顔を上げる。
「あの」
と、少女が言った。見たところ、ダツエと同じくらいの年頃で、ダツエのものとは少し違う、ハイスクールの制服を着ている。
「未成年の受付ってここでいいんですか?」
不安そうな表情で、茶店の入り口にある看板を指差す。私には読めないがおそらく日本語で『未成年者受付』とでも書いてあるのだろう。私はダツエを顎で示す。そっちが係員だ、と。返事はダツエが引き取った。
「うん、ここ。以前は専用の窓口に係員がいたんだけど、未成年者の死亡率が下がって閉鎖されちゃってさ。暇な奪衣婆が暇つぶしにやってるんだよ」
などと言いながら、ダツエは少女が差し出した紙束を受け取り、パラパラとめくった。
「奪衣婆?」
「私のこと。こう見えても昔はね、船に乗ろうとする連中の服を無理やり剥ぎ取るのが仕事だった。見た目も百歳以上のお婆さんでさ。ほんとにやだよね。今は昔に比べて何もかもよくなったよ。なにもかもね」
ダツエは顔を書面に落としたままそう言った。すべての書類にざっと目を通したところで、ボールペンを取り出して流れるような漢字のサインをして、最後に赤いスタンプを捺した。
「十八歳で犯罪歴なし、徳も年相応に積んでる。これなら三週間の短期合宿コースで免許取れるからね、ここでの審査は必要ないよ。あそこ、桟橋の向こうにビルがあるでしょ」
ダツエが指差した方向を、少女と、私が同時に見やった。少し霧に霞んでいるが五、六階建てくらいの建物がある。
「あれが教習所の本部棟ね。あそこで書類書いて入所申請してね。詳しい説明は向こうの受付で教えてくれるから大丈夫。最近は教習所も愛想が良いんだよ。賽の河原で石を積むような無意味な苦行も無くなって、未成年育成理論に基づいて科学的に救済へ導くようにプログラムが組んである。心配いらないよ」
少女は書類を受け取ると、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
帰省の一団がガヤガヤと通り過ぎていくのをかき分けながら、少女は教習所へ向かって歩いていった。
汽笛が響いた。
茶店の奥から、クールな口ひげを蓄えたマスターが顔を出す。彼の名はケンエ。彼もまたかつてはダツエと同じく老人の姿をしていたというが、今は静かな喫茶店のマスターが板についている。
「見送りませんか。今日最後の往路便です」
私は息を止めてグリーンティーの残りを飲み干して、桟橋へ向かった。
省人化された桟橋には、私と、ダツエと、ケンエ。それに、向こう岸から派遣されているという、数名の角の生えた係員が立っているのみ。
高速船は安全のため甲板に出ることができない。だから桟橋からは、向こう岸へ向かう人々の表情を伺うことはできない。彼らにとって渡河は悲しいものであろうか、不安なものであろうか、苦しいものであろうか。またあるいは来世への希望に満ちているのであろうか。
また警笛が鳴り、船がゆっくりと桟橋を離れた。係員が帽子を振る。私も手を振る。
エンジンが唸り、船が加速を始めた。乳白色の波が押し寄せて、桟橋に弾ける。沖に出たところで、船のウォータージェットが吹き出し、船体を浮かせて、みるみるうちに霧の向こうへと溶けて見えなくなった。
死の向こうへつながるサンズ・リバー。異教徒の私には決して渡ることのできない河。
水面が元の落ち着きを取り戻すまで、私は桟橋に立って霧の向こうを見つめ続けていた。




