仮題「少女レシピ」
文化祭前日は特別だ。授業は午前まで。昼からは各部各クラスが出し物の準備に大慌て。やれ暗幕がたりない、やれ衣装が間に合わない。担任や顧問の先生は基本的に口出ししない。助言もなければ助力もない。生徒たちによる文化祭。
僕たちのクラスはありきたりだけれど、軽食喫茶を開く。そこそこ上手いワッフルに、こだわり派の生徒が用意したドリップコーヒー。残念ながら、僕にはその高そうなコーヒーの良さがわからない。普段口にしているインスタントの方が美味しいと思うくらいだ。
ウェイター、ウェイトレスは揃いの衣装を作る予定だったけれど、技術と時間と予算の問題で断念され、学校の制服にエプロンという形に落ち着いた。
「澄! ちょっと!」
着々と整いつつある教室を見て回っていると、「裏」から呼び出しをくらった。手を塞がれてもいなかったから僕はその声に素直に応えた。準備もここまでくると、僕にできるのは剥がれかけた紙の飾りをテープで補強することくらいで、ざっくりいうと暇人だったのだ。
洋風な暖簾をくぐり、「裏」に入る。教室の一部をパーテーションで分けてつくったバックヤードの机に、ワッフルメーカーとコーヒーメーカーが揃えられている。ちょっと窮屈だが、人員を絞れば十分な広さだ。足下で煩雑に絡み合った電源コードが六口の延長コードと繋げられていた。後で整理して、ついでに足を引っ掛けないようテープで留めておこう。僕の仕事がひとつできた。
「澄、どうかな?」
彼女?が恥ずかしそうに僕に訊ねた。自分で呼んでおいてそういう態度はどうだろう。こっちが照れてしまう。照れ隠しに、僕は大袈裟に振る舞った。
「男装!」
「どう、似合うかな?」
「似合ってる。格好いいよ、すごく」
「へへっ。ありがとう」
彼女?ではなく彼女、つかさは男子の制服を着ていて、肘の上までシャツの袖を捲り上げていた。その上にシックな黒色のエプロンをして、ネクタイも規定のものでなく、合わせで全体を締めるような色合いのものに変えていた。ボーイッシュにまとめた髪もまた、彼女に似合っていた。
「制服どうしたの?」
「絢香のお兄さんの。丁度サイズが合ったの。髪をしてくれたのも絢香なんだよ」
つかさが後ろを振り返る。眼鏡の似合う女子がブラシとヘアーアイロンを手に待機していた。待機していたというのは、つかさの頭にさらに手を加えたいといった様子でそわそわしていたからだ。絢香は常習的に、女子の髪をいじって遊んでいる生徒だった。本人も今日は手の込んだ編み込みをしている。
「ウィッグでいいと私は言ったんだけどね、絢香がどうしてもって」
「当然よ。せっかく綺麗な髪をしているんだから、それを活かさない手はないわ」
「あ、それは僕も同感」
「そうかな。当日も朝早くに来てもらうことになるし」
「平気。好きだもの」
「絢香さんは美容師志望だっけ」
「いや、うん。将来的にはアリだとも思うけど、今は女の子の髪を触ってるのが楽しいってだけー」
パーテーションの向こうから「絢香いるー? そろそろお願いしたいんだけどー」と女子の声。
「前日なのに髪のセットまでリハする必要あるのかな」
僕は苦笑混じりに呟いた。つかさと絢香が顔を見合わせる。
「そういうのとは関係なく、女の子はおしゃれが好きなものよ」
僕とつかさはバックヤードを後にした。つかさは男装のままでいることに抵抗がないらしく、むしろ見せびらかしていた。教室にいても男装のお披露目以外にすることもないから、僕たちは他のクラスの様子を見て歩くことにした。
お化け屋敷に射的、手製のプラネタリウム、自主制作映画の上映。多種多様の出し物の準備がされている。ここに至るまでに、各クラスの催しが被らないよう調整に調整を重ねた生徒会の苦労があることは、全校生徒にあまり知られていない。
生徒会実行委員というのは体のいい下請けのようなもので、有り体に言ってしまえば雑用係なのだ。ついでに苦情の受付窓口にもなっている。生徒が訴える不満の多くは学校側の運営に起因するもので、生徒会でどうにかできるものではないのだが、形骸化した仕組みの上で生徒会が生徒の苦情を受け付け、学校側へ一応の陳情をする。学校側と生徒側の雑用を一手に引き受け、愚痴を聞き、茶番をこなす。残念だが、それが生徒会の実情だ。
かくいう僕も去年、生徒会の一員であった。
「あ」
「どうしたの?」
「裏の蛸足配線、絢香さんに言っておけばよかった」
「文化祭で火事なんて洒落にならないもんね」
「文化祭でなくても洒落にならないよ」
「ところで」
つかさの語気がやや強くなる。
「絢香のこと、いつから名前で呼んでるの?」
「あー……名字が思い出せなかったんだ」
「ほんとに?」
「うん」
「嘘偽りなく?」
「うん」
「誓う?」
「うん……つかさ、近い近い」
詰め寄られる形になっていた。なぜ詰め寄られているのかもわからなかった。
「そう」
つかさは距離を離した。厳密には、背伸びして浮いていた踵を床に着けた。
「上履きは用意できなかったんだ?」
つかさの上履きの、爪先から足の裏を通って踵までのゴムの部分は赤色だった。男子はこれが青色になる。
「迂闊」
「僕の貸そうか?」
「サイズは?」
「二十四」
「十八」
「無理か」
「無理だね」
つかさは脚を前に振った。小さな足だった。
「うん。いいや。上履きは」
「つかさはそういうとこ、徹底的にこだわると思ってた」
「上履きくらい、女子ですってわかるようにしておかないと」
「わかるよ。こんなに可愛い男子はいない」
「いるかもよ」
「僕が知る限りではつかさくらいだ」
「男子じゃないよ」
「知ってる」
つかさはおもむろに、自分の胸に両手を当てた。
「はいはい僕が悪かった。僕が知ってる、女子で、可愛いのは。だからその手はやめなさい」
寄せて、上げて。
「ごめんなさい。やめてください。お願いします」
「慎ましい?」
「やっ」
「控えめ?」
「そんなことは」
「肩凝らなくていいよね?」
「あれは実際どうなんだろう。都市伝説じゃないのかな」
「私が知ってると思う?」
にっこりと、笑顔が怖い。
一方的に僕が悪かった。
先生に注意されることもなく、僕とつかさは教室を一回りした。お祭りの前日ともなれば教師の目も優しいものだ。一部、生活指導員は祭りの前だからこそ気を引き締めなければと、目立つ腕章を左腕に見回りをしていた。僕たちも彼の目に入ってしまったのだけれど、僕の去年の功労と、つかさが男装だとバレなかったために、クラスの準備の進捗と差し障りない世間話で遣り過ごすことができた。時間差でそのことに気づいたつかさをなだめるのは当然ながら僕の役で、苦労したこともまた言うまでもない。しかしこれだけは言わせてもらう。僕は悪くない。
「澄は将来のこと、どれくらい考えてる?」
どうにか機嫌を直した(今思うと遊ばれていただけな気がする)つかさは、ふとそんなことを僕に訊いた。
遊歩を終えた僕たちは教室に戻らず、自販機が設置してある校舎の隅に来ていた。時刻は普段なら五限六限の合間の休憩時間にあたる。自販機は昼と放課後以外の時間、使用を許されていないけれど、その前でたむろすることは禁止されていないだろう。
「唐突だな」
「そうかな。私たち、もう考えてもいい歳だよ」
らしくなく落ち込んだ声色だった。
「絢香は今楽しいからだって言ったけど、将来のこと、考えてるよね。私は絢香みたいに誰かにできないことができたりしないし、澄みたいになんでもうまくやれるほど器用じゃないから、この先、どうするんだろうなー、って。ちょっと、不安になる」
「どうするんだろうって、他人事みたいだ」
「そうだよ。私は私のことをなんにも知らない。それって、他人のことを話すのとどう違うのかな」
「……なら、客観的に自分を見れるんじゃないかな。それは強みにならない?」
「なるかな? 客観視したところで、私には私が何もできない人に見えるよ」
つかさは僕を「なんでもうまくやれる」人と言った。けれど、つかさを安心させてあげられるだけの十分な言葉を、僕はその時、持ち合わせていなかった。
僕は器用な人間なんかじゃない。
言葉は続かず、バックヤードの配線みたいに解決していない気持ちを抱えたまま、僕たちは教室に戻った。帰路、二人の間に会話はなかった。
人集りができていた。僕たちの教室だった。教室の中もなにやら騒がしくあることが、それが決して良いものでないことも廊下からわかった。騒ぎの質を判断するよりも早く、鼻が異様な臭いを嗅ぎ取っていた。
人垣を掻き分けて教室に入ると、視線が一ヶ所に集中していた。ひどい胸騒ぎがした。絢香が僕に気づき、駆け寄る。ひそめられた声は端々で震えていた。
「バックヤードのコードが」
「ごめん。コードが絡まってるの知ってたのに」
「違うの。そっちじゃなくて延長コードの方。誰かがコンセントを差したみたいで、機械の電源も全部つけられてて。コードが溶け出したの。それで」
絢香の目が、僕の隣に立っているつかさに振れる。
「制服が」
差し出された女子の、いや、今このクラスの女子生徒で制服を着ていないのは一人しかいない。
つかさの制服のスカートが、大きく焼け焦げていた。
スカートはいびつな穴を広げていて、その縁は黒く炭化していた。つかさが両手を伸ばす。ゆっくりと前進する二つの震える手が、申し訳程度に畳まれたスカートの左右に添えられ、輪をかけて緩慢な動作で親指がそっと下ろされる。
ぱきっ、と。
その音が聞こえたとき、彼女はもう、教室の外へ走り出していた。
僕は冷静だった。
「とりあえず換気しよう。廊下の窓も開けて。それから明日はバックヤードの機器をいっぺんに使わないように。延長コード、は生徒会の貸し出しだったよね。僕がいって頼んでおくよ。説明するのに写真がいるかな。裏、撮らせてね」
「つかさは? 追わなくていいの?」
「いいよ。放っといて」
「でも」
「フォローしておくから。いつもみたいに」
僕はケータイでバックヤードの写真を数枚撮影し、熱で溶けて変形した延長コード片手に生徒会室を訪ねた。過去の資料が全く整理されず、中央の机に山となっているのは去年と変わらない様子だった。部屋には前副会長、現生徒会長の彰義がパイプ椅子に脚を組み、退屈そうにしていた。
「よ、澄。今年の役員は働き者ばかりだよ。俺の仕事がないくらいだ」
「去年もそんなもんだったろ」
「ああ。澄が全部一人でやってたからな」
昨年度、僕と彰義はそれぞれ会長と副会長の役職に就いた。一年生だった。全校投票の役員選挙は面白い奴ほど票が入るというイベントで、演説の端々で他の候補者の公約を貶し、カウンターという形でより実現可能な案を提示した僕と、逆に全く覇気が感じられず、マイクのコードに足を引っ掛けて盛大に転げた彰義に票が偏った。
しかして問題は発生した。僕たち以外の役員が皆三年生だったのだ。三年生になって生徒会の活動に参加するのは内申点目当てがほとんどで、彼らは一年生に上から指示されることを極端に嫌った。会合に出席せず、仕事を割り振っても何かと理由をつけて放棄した。僕は仕方なしに彼らの仕事を肩代わりしていたが、次第に見限り、始めから一人で全ての仕事をするようになった。彰義を頼ればよかったのだろう。しかし当時の僕には、仕事を分担することが無駄に思えていた。それほどまでに疲弊していたのだ。
「で、要件は?」
彰義が生徒会長の立場で言葉を発する。
「一度に電気を使い過ぎたらしくて延長コードが溶けたんだ。残ってないか?」
「ん、あるよ。そっか。そういうこともあるのか。残っているクラスと部活にはすぐに注意喚起しよう。後は明日朝一番だな。こっちにクラスと名前を書いてくれ」
備品貸し出しの書類が資料の山の登頂に投げ出される。
「ペンを貸してくれ」
「埋もれてるよ」
山の麓にボールペンの頭が出ていた。引き抜く。オープンスクールなどの場で来場者に配布する、校名刻印のボールペンだった。昨年度の年数も並記されている。余ったものが事務用に回されているのだ。猫の額だけ机が露出しているところを探して書類に記入し、山の上に返した。同時に、束ねられた延長コードが放られる。山なりにこちらへ飛んでくるコードを、僕は両手で受け止めた。
「確かに」
「溶けたやつは?」
「こっち」
今度は僕が放った。
「これはひどいね。大丈夫だった?」
「一人、女子の制服が焼けた」
「程度はどうあれ災難だったね」
「いや」
「いや?」
口元を手で隠す。確証はない。この場に彰義と自分しかいないとはいえ、軽々しく口に、言葉にしてしまっていいのか。
彰義が生徒会室のドアを開け、廊下を一瞥する。後ろ手にドアを閉じ、鍵を閉めた。
「どうぞ」
参ったな。
「今から話すことは全部僕の、あくまで想像だ。それを念頭に置いておいてくれ」
「ああ。わかった」
「それと、絶対に口外しないと」
「約束する」
僕は手当たり次第に推論を垂れ流した。
僕たちのクラスの喫茶で出すのはワッフルとコーヒー。ワッフルメーカー三台、予備一台とコーヒーメーカー二台。僕が教室を離れるとき、延長コードの差し込み口はひとつ空いていた。段取り通り、予備のワッフルメーカーは準備だけしてコンセントは差していなかった。
この写真。ここにくる前に撮ったバックヤードだけど、差し込み口は全部埋まってる。差してある電源コードのうち五本は蛸足配線になってるけど、この一番端のコードだけは別。後から差されたものだと思う。
ちゃんと電源が入るか確認するだけなら、延長コードが溶けるまでスイッチはつけたりしないだろう。オンになればそれを示すランプが点灯するはずだ。
ワッフルメーカーには確かに、温度が上がり過ぎると自動で電源が切れるようになってる。それでも、同時にスイッチを入れれば上がりきるまでにかなりの負荷が掛けられるんじゃないか。うちのは個別のスイッチがなくて、コンセントを差せば焼き始めるタイプの奴だ。大元の延長コードを差せばそれで済む。
コードが溶け始めたら誰かが気づくんじゃないか。廊下まで異様な臭いがしてた。教室の誰もが異変を察知しないとは思えない。さっき教室の換気をしたんだけど、風は廊下から教室へ吹いていた。バックヤードの窓が開けられていたとしたら、発覚を遅らせることができたと思う。
今回の事故は意図して起こされたことだと、僕は考えてる。
――ここから先は、よりにもよってどうしてそんな考えに行き着いたのか、僕自身にもわからない。
電源を入れたのはうちのクラスの、絢香さんだと思う。
そして、絢香さんは二度、制服を焼いている。
電源コードはそのうちの二度目。一度目はヘアーアイロン。彼女はよく女子の髪を弄っていた。今日もそうだった。実体験としてないから確かではないけれど、ヘアーアイロンでも押し当て続けたら服ぐらい焦がせるんじゃないか。
絢香さんは故意なのか事故なのか、他人の制服を焦がしてしまった。彼女のヘアーアイロンが原因だということは明らかだ。だから、その上から焼き直して、教室にいた自分を含む「誰か」がしてしまったことにした。
「ふむ。一通り聞いたが、やはり想像の域を出ないね。突飛が過ぎる」
「だからそう言っただろ。僕は探偵じゃないし、そもそもミステリーなんてそこらに転がってるもんじゃない」
「日常の謎。そういうミステリーの一ジャンルがあるらしいよ」
「それもあくまでフィクションだ」
額の汗を拳で拭う。くだらない想像もとい妄想を垂れ流すのに、どれだけ気苦労したか。
「で、『どうしてそんな考えに行き着いたか』についても話してもらおうか。半端は御免だぜ。何かしら引っ掛かってることがあるんだろ?」
彰義はいたずらな笑みを浮かべた。本当に参った奴だ。僕は諦めて打ち明けた。
「絢香さんは一緒に戻ってきた制服の持ち主じゃなくて、先に、僕に話しかけたんだよ」
たったそれだけことだった。
僕は教室に戻らず、コードを持ったまま昇降口へ向かった。こういう時、彼女はいつもここに逃げる。学校の外に逃げ出したいという気持ちと、外にまで出てしまったら多くの人の迷惑になるという葛藤の末、昇降口の下駄箱の陰にひっそりと膝を抱えて座っているのだ。
「つかさ、戻ろう」
膝をついて、彼女の目線まで下りてから声をかけた。顔が見えないように俯いたまま、つかさは僕の方に片手を差し出した。手を繋げ、ということらしい。彼女は繋いだ僕の手を支えに、やっぱり下を向いたまま立ち上がった。もう片方の手には制服を抱えている。ゆっくりと引いてやると、ゆっくりとついて来る。時折「段差あるよ」とか言いながら、僕は彼女の先導をした。僕は勝手に、つかさが聞いているかなんて関係なく、言葉を紡ぐ。
「明日はお客さん、たくさん来るかな。そしたら、はぐれたらいけないから、また手を繋がないとね。でも今みたいにつかさが下を向いていたら、もし手が離れたら。いや、意地でも離さないけどさ。もしもそんなことになったら、つかさは僕を見失っちゃうんだろうね。だから明日はちゃんと前を向いていてね。そうそう、その時はスカート履いてくれないかな。学校のじゃなくていいから。それでさ、できれば笑っていてほしいんだ。じゃないと、なんのために生徒会やめて、文化祭を自由でいられるようにしたか、わかんないからさ」
つかさが足を止める。僕は止まるのが遅れて、二人の距離は手を繋いだままで一番遠くなる。
ね、つかさ。
僕はつかさと同じ時間を過ごしたいって。
ずっとそう、想っていたんだよ。