君と紡ぐ未来
ここを歩くのはあの日以来だ。秋に差し掛かるこの時期、空には薄い鱗雲が浮いていて、夏の空気が希薄になっている。
そこの門を曲がると彼女の家が見える。ずいぶんと久しぶりなのに、体が道を覚えていた。
少しだけ足が重い。焦燥感にも似た気持ちがもたげたけれど、1歩ずつ足を進めた。
装いが変わったような?あんなに大きな樹はなかったと思う…枝葉の立派な樹が白い壁を彩っていて上品な佇まいを見せている。二階の窓に差し掛かるくらいの樹…
アオダモかな。洋風の家によく合っている。
ふいにあの日の記憶が蘇る。
「……ああ、あの時の樹だ」
もう、高校を卒業してからずいぶん経つんだな。高校の卒業式。まだ僕と彼女−空−が穏やかに時を重ねていた頃…
「ねぇ?カツ。なんで校門の所でみんなを見てるの?」
「ん?多分この中にはさ、もう二度と会わない人もいるんだろうなって思って」
卒業式を終えて少しセンチメンタルになっていたと思う。僕は特に涙を流す程の感動はなかったけれど、通り過ぎる人の顔を眺めていた。言葉を交わした人もいれば、そうでない人もいる。
「またキザなこと考えてる?」
「そんなことないよ。それよりさ、さっき空。めちゃくちゃ泣いてたね」
まだ目を赤く染めた彼女をイタズラにからかう。
「あー。カツ意地悪言うんだ? 嫌いになるよ」
「なら僕も空のこと嫌いになるかもよ?」
「絶対にダメ。そんなの許さないから」
ふたりで目を合わせて笑う。繋いだ手と手は自然と指を絡めている。
「ご両人またなー。結婚式には呼んでくれ」なんて、同級生にからかわれながらも、高校時代の最後に浸っていた。そんな僕に彼女は付き合ってくれていた。
「カツ。何か卒業っぽいことしようよ。ふたりだけの」
「そうだね。またどこか遠出する?この前江ノ島行ったから…」
「違うよ。なんかさ、記念になることがいいな。小学生の時って、校庭に記念樹植えたよね?ああいうのがいい」
「ならさ、まんまそれやろう。家はマンションで庭は無いから、空の家の庭に植えても大丈夫かな?それと、根元にタイムカプセルも埋めようよ」
「あはは。楽しそう。わたし、大きく育つ樹がいいな。ずっと残るやつ。桜もいいけど、あれはお花見に行くのが風情だよね?だから庭には違うのがいいかな?」
……青臭かったな。でもあの頃はその青臭さに全力だった。こそばゆい記憶。
その後、ホームセンターでふたりの記念樹って小さな苗木を買ったんだった。そんな大切なことも忘れていたんだな。いや、蓋をしていたのだろう。
少しだけ心が軋む。
僕も彼女も世話をしなくなったのに…ご家族が面倒を見てくれていたのだろう。
三年間の交際の後、僕と彼女のすれ違う時間が増えていった。今にして思えば当たり前のことだとわかる。
彼女は大学も忙しくなり、先んじて就職した僕との生活のリズムがなかなか噛み合わず、会える時間が削られていっただけのことだ。
それでも、その時は寄り添うことが出来ずに、ふたりの関係は幕を下ろした。
焦った僕は、貯金の大半を使い指輪を用意してプロポーズをした。縋るような気持ちだったと思う。
けれど、彼女はそれを受け入れてはくれなかった。
「今は、ごめんなさい」とだけ言って目を伏せ、それでも静かに微笑みを浮かべた彼女の顔を今でも覚えている。何かを耐えているような…少しだけ申し訳なさそうな笑顔。
あの時はその笑顔の意味がわからなかった。
僕は彼女の家族にも歓迎されていたと思っていたし、ふたりの未来を僕は盲目的に信じていた。だから余計に、受け入れられなかったことが理解できなかった。
憤りをそのままぶつける以外、自分を守る術を知らない子供だった。これでもかと酷い言葉を投げつけて、僕はこの家から飛び出した…
彼女の訃報を聞いたのはそれから2年の月日が経った頃だ。偶然再会した彼女の妹から全てを聞いた…
何故あの時、気がつかなかったのだろう。彼女のことは一番わかっていたつもりなのに…
僕の中の一番痛い記憶。
僕は彼女を傷つけたまま、見送ることもせずに逝かせてしまった。あれから十年——僕は自分の人生にひとつの区切りがついたのをきっかけに、彼女に逢いに行く決心を固めた。
僕は思わず背筋を伸ばして、インターホンのスイッチを押した。
「はーい。今開けるね」
妹のななちゃんの声がかつての彼女の声と重なる。緊張しているんだな。変な汗が出ていた。
「福田君。久しぶりだね。立派になって…」
出迎えてくれたのはお父さんだった。正直この心の準備は全くしていなかった。殴られるかも、と面持ちを正した。
「お父さん。ご無沙汰して申し訳ございません。何年も…」
「堅苦しいのはいらないよ。君のことは娘から聞いている。またこうしてこの門をくぐることが、君にとってどれ程苦しいか理解してるつもりだ」
「さ、上がりなさい。空も…待っているよ」
「いらっしゃい。久しぶりね福田君。お昼まだでしょ?お寿司注文したの。お寿司でいいかしら?」
お母さんは相変わらずだ。ほっと胸を撫でる。
「…先に空さんに挨拶しても良いですか?」
「カツさん。仏間はこっちだよ。お姉ちゃんずーっと待っていたんだよ」
そう言ってななちゃんは凄く嬉しそうに僕を案内してくれた。
彼女はあの頃と同じように笑っていた。写真の中の空だけがあの日のまま。
「空。久しぶりだね。ごめんね……あの日、酷いこと言った。謝る勇気を持つのに、十年もかかってしまった」
線香の煙がゆっくりと立ち上る。返事のない部屋で、僕はひとり話し続けた。
店を持ったこと。寂しい夜が続いたこと。空のことを忘れた日は一日もなかったこと。
時折、風鈴の音が「チリン」と僕を包んでくれた。それだけで十分だった。
おそらく、二時間くらいは経っただろうか。彼女との会話は、たゆらかな時間と共にあった。
「またね…」
写真の傍らには、僕が高校卒業の時プレゼントしたシルバーのリングが置いてあった。
「これも…貰ってくれるかな…」
僕があの時渡すつもりだった婚約指輪。10年越しに、ようやく届けることが出来た。
「カツさん。お昼食べようよ。みんなお腹ペコペコだよ」
食卓には五人前のお寿司が用意されていた。
「今日は空の分もね。食べてあげて。空も喜ぶわ」
「はい。頂きます…」
視界が滲むのは、わさびのせいにすれば笑われないかな。そんなことを考えながら、空の好きなマグロを口に入れた。
「お父さん、カツさんのお店のパスタ。めちゃくちゃ美味しいんだよ。今度みんなで行こう」
「君は自分のお店を持つという夢を叶えたんだね。私達の娘が選んだ男は間違っていなかった…今なら自信もあるのだろう?」
あの頃の僕にはまだ自信はなかった。覚悟だけはある。とお父さんに伝えた記憶は鮮明に残っている。
自信か…今の僕なら、彼女を…なんて考えても仕方のないことはわかっている。かぶりを振って答える。
「僕なんて、まだまだです。ただ…身の丈にあった夢のひとつは叶えました」
「その先は考えているのかい?」
お父さんが真剣な顔で問いかけてきた。
「まだ、おぼろげなんですけど…人を育てる場所を広げたいな。とは思っています」
「料理をする楽しさや、人に食べさせる責任と厳しさ。何より、美味しいと言って頂ける喜びを伝えたい。と思っています」
自分の先のことを人に話すのは初めてだ。言葉に戸惑う。
「立派な考えだね。君はまだ若い。やりたいことをやると良いと思う」
お父さんは昔と同じように、穏やかな風のように笑っていた。
「さて、私はこれから少し約束があってね。またいつでも顔を出してくれ。みんな喜ぶ。もちろん私もだ」
食卓を立つお父さんの背中に、深く深く頭を下げた。僕の愛した、空を育てた人。自分の親父ともまた違う大人の男。その背中が凄くかっこよく見えた。
「さて、カツさん。空の部屋行く?」
「今日は遠慮しておくよ。また今度ね」
今、彼女の部屋を見たら恐らく崩れ落ちる。さすがにそんな姿は見せられない。
「ななちゃん。タイムカプセル開けない?ななちゃんも一緒に入れたよね?」
「あー。あれ?そうだね。お姉ちゃんが何入れたか気になる。わたしは何入れたっけ?忘れちゃったよ」
大きなシャベルを借りて、ふたりでタイムカプセルを掘り起こした。
「うわ。僕こんなの入れてたんだ」
出てきたのは高校の校章だった。ありがちだけど、懐かしの品だ。
「ななちゃんのはなに?」
「ごめん。カツさん……わたしトイレ」
その封筒の中には、真っ黒に日焼けした姉妹が縁側に並んでスイカを頬張っている写真。ふたりともまだ小さい。とびきりの笑顔。
席を外すのもわかる……
「お待たせ。今日はふたり共泣き虫だね」
「そうだね。空に笑われるかな?」
「お姉ちゃんが一番泣きそうだけど」
ケラケラと笑う癖。昔と変わらない。
「じゃあ、空のを開けるよ」
「うん。ドキドキする…」
心臓が大きく跳ねるのを抑えながら、慎重に空の入れた包みを開ける。
「カツさん…これ」
そこには、僕と彼女が付き合うきっかけとなった、絶対に忘れない高校三年の文化祭のチケットが入っていた。
「これ……僕がもらっても良いかな?」
「うん。そうしてあげて」
チケットには、僕と空、そしてもうひとり—多分僕たちふたりの子供だろう、かわいい女の子がふたりの間で手を繋いでいる絵。
その横に空の字で、スマイルマークと一緒にこう書いてあった。
『すみれちゃん』
英語でSmileをローマ字で読むとすみれって。小学生の時の勘違いだったかな?いつかふたりの子供ができて女の子だったら「すみれ」って名前がいいよね。いつも笑顔でって——そんな話をしたことがある。
空も、僕との未来を夢見てくれていたのか…あの日のことは、これまでに数えきれない程悔やんできた。
過去をやり直すことなんて出来ない。けれど、それでも…それを抱えて生きていくことは出来る。そうすれば、いつか僕はすみれに出逢うことが出来るのかな。
そんなことを考えていたら、優しい風がふわりと抜けていって僕の心に触れた気がした。
涙が零れないように、高く高く空を見上げる。アオダモの樹が静かに揺れていた。




