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「セガが本当に“みんなで遊ぶ”で弱かったのか」

作者: 水源
掲載日:2026/09/07

# 10人で遊べたのに、なぜセガは「みんなで遊ぶ」が弱く見えたのか


私がセガについて時々考えることがある。


任天堂やソニーのゲームハードに比べて、セガハードでは、みんなで集まってワイワイ遊ぶということを、あまりした覚えがないのだ。


セガは、本当に「みんなで遊ぶ」のが弱かったのだろうか。


考えてみると、答えはむしろ逆なのかもしれない。


セガは、アーケードでは人を集めることに強かった。


レースゲームの筐体が並び、隣の人と勝負する。


格闘ゲームでは、知らない人同士でも腕を競う。


UFOキャッチャーの前には人が集まり、プリクラでは友達同士が楽しむ。


セガには、「人が集まる場所」を作る力があった。


ところが、それが家庭用ゲーム機になると、少し事情が変わる。


セガサターンには、最大10人で遊べる『サターンボンバーマン』があった。


十人で一つの画面を囲む。


誰かが爆弾を置く。


別の誰かが逃げる。


「お前、そこに置くなよ!」


「うわ、やられた!」


そんな声が飛び交う。


これ以上ないくらい、「みんなで遊ぶゲーム」だ。


それなのに、


「友達が集まったら、とりあえずセガで遊ぼう」


という印象は、任天堂ほど強く残っていない。


では、なぜなのだろう。


---


任天堂を思い浮かべると、その違いが見えてくる。


『マリオカート』。


『マリオパーティ』。


『大乱闘スマッシュブラザーズ』。


こうしたゲームでは、勝つことだけが面白さではない。


「今の何だよ!」


「お前だけずるい!」


「うわ、最悪!」


そんなやり取りまで含めて楽しい。


ゲームを遊ぶことと、友達と騒ぐことが一つになっている。


もちろん、セガにもみんなで遊べるゲームはあった。


だから問題は、マルチプレイの有無ではない。


**「みんなで遊ぶこと」そのものを、家庭用ゲーム機の魅力として定着させること。**


そこでは、任天堂のほうが強かったのではないかと思う。


---


そもそも、1990年代の子供が全員、自分のゲーム機を持っていたわけではない。


ゲーム機も高い。


ソフトも高い。


だから、友達の家に遊びに行く。


すると、その家にはゲーム機がある。


その家が、ちょっとしたゲームセンターになる。


ゲーム機を持っている人と、ゲームを遊んでいる人は、必ずしも同じではなかった。


一台のゲーム機が、一つの小さなコミュニティを作っていたのだ。


持ち主の家に何人も集まる。


順番を待つ。


横で見る。


負けたら交代する。


ゲーム機は、単なる機械ではなかった。


友達が集まる場所だった。


---


UNOも似ている。


「ドロー4!」


「え、今使うの!?」


ルール以上に、その場で騒ぐことが楽しい。


『桃太郎電鉄』でも、誰かにキングボンビーがつけば、それだけで場が盛り上がる。


勝敗だけではない。


**誰と遊ぶか。**


そこが大きい。


---


一方で、セガを代表するゲームには、少し違う空気があった。


『バーチャファイター』。


『デイトナUSA』。


そこには、


「俺に勝てるか?」


という感覚がある。


もちろん、セガのアーケード文化が競争だけだったわけではない。


ただ、セガを象徴するゲームとして強く記憶に残っているのは、最新のゲームに驚き、腕を磨き、もう一度挑戦するようなゲームだったように思う。


その空気が、家庭用にも残ったのではないだろうか。


---


そして、これはメーカーだけの問題でもない。


遊ぶ側にも好みがある。


少なくとも私は、そうだった。


セガのゲームを遊ぶとき、誰かと一緒に騒ぎたいわけではなかった。


一人でテレビの前に座る。


コントローラーを握る。


「もう一回だけ」


そう思って、もう一度始める。


気がつけば、窓の外が暗くなっている。


それでも、


「あと一回だけ」


と続けてしまう。


私は、そういう遊び方が好きだった。


だから、セガを「みんなで遊ぶのが弱かったメーカー」と言われると、少し違和感がある。


少なくとも私にとってのセガは、


**一人で夢中になれるゲーム機だった。**


---


任天堂との違いを考えるなら、ポケットモンスターも分かりやすい。


通信ケーブルでポケモンを交換したり、対戦したりする。


大事なのは、通信できたことだけではない。


**通信が、「友達に会う理由」になったことだ。**


「そのポケモン持ってる?」


「交換しよう」


「じゃあ今度、持ってきて」


ゲームの機能が、現実の人間関係につながっていく。


---


もちろん、セガも人をつなげようとしていた。


ドリームキャストでは通信機能を大きな特徴とし、『ファンタシースターオンライン』では、世界中のプレイヤーと一緒に遊ぶことができた。


セガは、人をつなぐことが苦手だったわけではない。


ただ、その方向が少し違ったのだと思う。


任天堂には、「友達に会って、一緒に遊ぶ」という記憶が強く残った。


セガには、「すごいゲームを遊ぶ」「腕を競う」「遠くの人とつながる」という記憶が強く残った。


どちらにも、人をつなぐ仕組みはあった。


違ったのは、どんな「つながり方」が、そのハードの象徴として残ったかだったのではないだろうか。


---


だから、セガの弱点を、


「みんなで遊ぶゲームを作れなかったこと」


とするのは違うと思う。


サターンには10人で遊べるゲームがあった。


アーケードでは、人を集めることに強かった。


ドリームキャストでは、オンラインで人と人をつなごうとした。


それでも任天堂ほど、「友達の家に集まって遊ぶゲーム機」という印象は強く残らなかった。


私は、その理由を、


**「みんなで遊ぶ」という価値を、家庭用セガハードの代表的な魅力として定着させることができなかったから**


ではないかと思う。


そして、その違いはゲームの種類だけでは決まらなかった。


どんなゲームが作られたのか。


どんな人がそのハードに惹かれたのか。


その人たちが、どんな遊び方を好んだのか。


そうしたものが重なって、「このハードはこういうゲーム機だ」というイメージができていったのだと思う。


だから、私にとってセガは、「みんなで騒ぐためのゲーム機」ではなかった。


一人でテレビの前に座る。


コントローラーを握る。


「もう一回だけ」と始める。


気がつけば、外が暗くなっている。


そんな時間が好きだった。


セガには、「みんなで遊ぶ」がなかったわけではない。


ただ、私にとってのセガは、


**一人で夢中になることを、何度でも繰り返したくなるゲーム機だった。**

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