白い欠片
一面の銀世界。それは、これのことを言うのだろう。
しかしこれは、刺々しい目を射す眩しい銀ではなく、天使のように優しくぬくもりのある白だ。
手のひらをかざすと、空から降りそそぐ白はひんやりという名残を残してすぐに溶けた。
地を踏むと、サクッと軽い音が鳴り跡を残す。
跡はただまっすぐ、ぽっつり立っている小屋に伸びていた。
キイッと木の戸が音を立てながら、開く。
「おかえり」
そんな彼女の声が、聞こえる気がした。しかしそれが幻聴であると、家の中の寒さが思い知らせる。
数ヶ月前の今、全てが始まった。
したいことが見つからず、俺は旅に出たのが一年前。その間、俺はいろいろな所を渡り歩いては、何でもしてきた。
しかし、まだ見つかっていなかった。
きっと、見つかることはないだろう。そう思えてきた。
ふと、バイクのエンジン音に混ざって人の歌声が聞こえた。バイクの速度を落として、辺りを見渡す。
すると、ぽつんと雪の上に一つ人影があった。
この寒空の下、それは厚着をせずに佇んでいた。
寒くはないだろうか。
俺は寒さには少しばかり強い。それでも、厚着をしていても寒いと感じる。
よーく目をこらしてみると、俺とそんなに変わらない少女だとわかった。
俺もこう見えてまだ、十七の少年だ。ただだらしなく、不衛生なせいでそうは見えないだけだ。
その少女がこちらを向き、手招きをしていた。
俺は呼ばれるがまま、バイクから降り向かった。
近づくにつれ、彼女の格好がおかしいことに気付いた。
彼女の格好はこの場所には不釣り合いだった。
半袖のワンピース。その丈も膝より上で寒そうだった。靴も靴下もはいてなく、素足で雪の上に立っていた。真っ白な紙の上に広がったインクのように、その服はこの雪の中で浮いていた。
それと対照的に、服からのぞく肌は雪のように白かった。髪と瞳は、夜空に浮かぶ月のような優しい金だった。
不衛生の黒い俺と、正反対だった。
俺がそばに行くと、彼女はフワリと微笑んだ。
「旅人さん?」
透き通ったガラス玉のような声は、まるで歌うようだった。
俺は無言で頷いた。
「君は、なんでここいるんだ」
俺の素っ気ないく言った。すると、彼女はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに胸を張った。
「この町の住民よ」
「町って・・・」
俺は思わず、辺りを見渡した。
そこには、一面真っ白で建物なんて彼女の後ろにある木でできた小屋だけだった。
小屋の後ろに小さな森があるが、それだけだった。
彼女はそんな僕を見て、悲しそうにフッと微笑んだ。
「今は、私1人しかいないの」
「どうしてだ」
反射的に聞いてしまった俺は、後悔した。
俺に関係ないことだ。それに、きっとそれは彼女にとって辛いことだ。
「私たち種族の、特殊な病気で。」
「君は、大丈夫なのか?」
そう聞くと彼女は、淡く微笑んだ。
それだけで、直接的な答えは返ってこなかった。
俺も、何も言えなかった。あまりにも、彼女が悲しそうだったから。
長い沈黙が俺たちの間に降りた。
俺は耐えられなくなり、バイクにまたがった。
「お気をつけて」
彼女はニッコリと笑って、手を振った。その笑顔は太陽の様に明るいのに、どこか陰っていた。
俺は首に巻いていた青いマフラーをはぎ取り、彼女の首にかけた。
彼女は、俺の行動の意味が分からないようで、首を少し傾けて俺を見つめる。
「それじゃ、寒いだろ」
俺は彼女から目をそらし、ぶっきらぼうに言う。
彼女は、首にマフラーを巻き付けてギュッと握る。
「ありがとう。温かいね」
彼女は何故か、泣きそうに言った。
俺は虚を突かれ、間抜け顔になっただろう。
「別に。・・・じゃあな。」
俺はバイクのエンジンをかける。
すると、彼女はハッとしたように言った。
「待って」
俺はかまわず走り去ろうとしたが、彼女が俺の手を掴んでいるのに気づいて、エンジンを止めた。
「どうした」
俺が顔を向けると、彼女はうつむき頬を赤くしていた。
「今日は、私の家に泊まらない?次の町まで距離あるから、今からじゃ無理だよ。それに・・・」
彼女は、もっとうつむき頬を赤く染めた。
いくらか口をパクパクと開閉させてから、もごもごと言った。
「久しぶりの、お客様だから」
俺は、彼女の少女らしい愛らしさに口元がゆるんだ。
そんな俺の行動が気に障ったのが、頬をふくらませた。
「そんなにおかしいなら、今から出発して、野宿して凍えればいいわ」
俺は今度こそ、声を出して笑った。すると、彼女の顔はさっきの赤とは違う赤に染まった。
「いや、それはごめんだな。ありがたく泊めさせてもらう」
それを聞くと、彼女の顔はパッと明るくなる。
そしてハッと口を押さえると、プイッと俺に背を向けてツンと歩き出しだ。
俺もバイクから降りて、その後を追う。
俺に冷たくしているつもりらしいが、歩き方がうきうきしていて嬉しがっていることがわかる。
俺は、彼女にばれないように微笑んだ。
雪の上にできた2人の足跡は、ぽっつり立っている小屋に向かっていた。
「寝室はその部屋を使って」
そう言って彼女は、台所から三つ並んでいる内の右の戸を指さした。
この家は、玄関を入ってすぐに居間で奥に部屋が三つ、台所などがきちんとしてる、一人暮らしでは少し広い家だった。
彼女はこの家で、生まれ育ったらしい。暖炉の上などに、家族の写真が飾ってあった。
俺が部屋に入ると、ホコリ一つないきちんと掃除された部屋があった。
家族はずっと昔になくなって、使っていないと聞いていたから、ひどい有様だと思っていたが、どうやら俺の考えは甘かったようだ。
俺の荷物は少なく、バック二つだけだった。
それを床に放り投げると、ベッドにどかっと座った。
すると、戸がガチャッと開いてぴょこっと彼女が顔をのぞかせた。
「どうした」
彼女がなかなか入ってこないから聞いてみると、彼女はびくっとして顔を赤くした。
目をしばらく泳がせた後、彼女はニッコリ笑った。
「なんでもない。・・・おやすみって、言いに来たの」
「ああ。おやすみ」
俺は、ニッコリ笑ってみる。こんな顔、何年ぶりにしただろう。彼女の前だと、こんな顔が自然にできてしまう。
彼女は、また顔を赤くして勢いよく戸を閉めた。
俺はまだ寝る気になれず、ベッドから立ち上がる。
目の前にある机の引き出しを開けてみる。
そこには、二冊のノートが入っていた。
一つには、日記と書かれており、もう一つには、何も書かれていなかった。
俺は何も考えず、日記の方をぺらぺらと流し読みしていた。しかし、流すわけにはいかない言葉を、読んでしまった。
『感覚が無くなった。もうきっと、長くない。』
『やっぱり私も、病気になった。』
『死にたくない。』
俺はノートを閉じ、裏表紙を見た。するとそこには、さっき聞いた彼女の名前が書かれていた。
彼女が自慢していた、祝福という意味の名が…。
朝起きると、彼女は昨日と同じように寒そうな格好をしていた。
それなのに、平気そうに雪の上に立っていた。
柔らかな日差しの下、彼女は歌を歌っていた。
明るい、希望の歌だった。
でもそれが、俺は悲しかった。
一通り歌い終わった彼女は、ふと俺の方を振り返った。
俺は思わず、一歩引いてしまった。
彼女は恥ずかしそうに笑った。
「おほよう。・・・今の、聞いてた?」
俺は、挨拶そこそこに頷いた。
「いつも、歌ってるのか?」
彼女は、頭をかきながら歌った。
そして、上目遣いで俺を見た。歌、どうだったかと聞いているようだった。
「明るい、いい歌だったな」
俺がそう言うと、彼女はニッコリ微笑んだ。
「ありがとう」
俺に背を向けると彼女は、空を仰ぎ見た。
「何か残すなら、悲しいのは嫌だから」
ふと見えた彼女の顔は、悲しいのに希望に溢れていた。
何とも言えない感情が、俺の胸に広がった。
パッと彼女が振り返った。その時はもう、あの顔は一欠片もなかった。
「ねぇ、一緒に歌わない?」
「ああ」
俺は、彼女に言葉に反射的に頷いていた。
間違いに気づいた時は、もう彼女は明るい笑顔で俺の手を引いていて、手遅れだった。
「ちょっと、待って・・・」
俺は、そこまで言って口をつぐんだ。
このまま、彼女の願いを叶えよう。
俺には、それしかできないから。
できるだけ、彼女に幸せになって欲しい。
俺はその言葉を、胸に刻んだ。
「いい声してるね」
歌い終わると、彼女はいつものようにニッコリ笑った。
俺は、頬をかきながら素っ気なく言う。
「そうか?」
「そうだよ」
彼女は、ぴょんと俺の前まで来た。そして俺の手を取って、嬉しそうに俺を見た。
「私、人と一緒に歌うの好きなの」
彼女はうつむき、顔を赤くした。
「一番、君と歌うのが好き」
ぼそぼそと小声で彼女が言うのを、俺は聞こえてしまった。
聞こえてしまったから、顔が赤くなった。
彼女は、パッと突然顔をあげた。
そのせいで、俺は赤い顔を隠す暇がなかった。そのせいで顔が、ますます赤くなった。
「?顔、赤いよ?」
「なんでもない。見間違いじゃないのか」
俺はそう言って、顔を見られまいとそっぽを向いた。
彼女のクスクスという、忍び笑いが聞こえてますます顔が赤くなる。
彼女は俺の手を握ったまま、走り出した。
突然の行動で、俺は完全にバランスを崩して倒れ込んだ。
雪のおかげで、痛みは少なかった。代わりに、下に雪じゃない物の感触があった。
「重いよ~」
下で何かが呻いたと思ったら、彼女だった。
俺は、慌ててそこを退いた。
すると、彼女は雪の上で大の字になり笑った。
アハハと、声を上げて楽しそうに笑った。
俺はわけがわからず、尻餅をついたように手をついた形できょとんとしていた。
が、彼女の笑い声につられて、俺も何が面白いのかわからないまま、声を上げて笑った。
しばらく、白い世界に2人の笑い声が響き渡った。
その笑い声を遮ったのは、空腹を訴えるお腹の声だった。
「お腹、空いたね」
「朝、食べてないからな」
彼女はスカートの裾を蝶のようにひらめかせて、立ち上がった。
そして、俺に手を差し出した。
雪に反射した光のせいか、天使のように眩しく見えて。
「家に帰ろ」
俺は、あぁと上の空で答えた。
俺が、なかなか彼女に手を差し出さないのがもどかしくなったのか、腰を曲げて雪の上の俺の手を取った。
俺は彼女に引っ張られるがままに、立ち上がり前屈みのまま走った。
その時も彼女は、笑っていた。しかし俺は、他に気をとられ笑えなかった。
あたりまえなことなのに、俺は感動をした。
手のぬくもりが、彼女にはあった。彼女をぬくもりが、感じられた。
「さぁ。ご飯が出来たよ」
彼女はそう言い、テーブルにシチューを盛った皿を一つ置いた。
俺は、彼女がまたキッチンに行って取ってくるものだと思ったが、彼女はそうはせず俺の前の椅子に座った。
「食わないのか?」
俺がそう聞くと、彼女は困ったように笑い頷いた。
俺はどうしてとは聞かずに、1人で食事を始めた。
彼女はその間、ずっと俺を見て嬉しそうに笑っていた。少し、照れくさかった。
食事を終えると、俺たちはそんなに多くは話しをせずただ居間にいた。
俺は意外だった。彼女は、俺が来たことを喜んでいたのに積極的ではなかった。
ふと、彼女がテーブルに突っ伏していることに気付いた。
かすかに規則正しい寝息が聞こえる。
俺は寒いだろうと、自分の部屋に何か掛けるものがないか探しに行った。
クローゼットを開けると、ホコリだらけの布があった。俺は無造作に埃をはらうと、居間に戻った。
彼女はまだ、すやすやと眠っていた。
普通の女の子に見えた。死を目前にした少女ではなく、本当に何も知らない少女に。
俺は、彼女に布を掛けようとしてハッとした。
思わず、奥歯を噛みしめていた。
彼女には、感覚がないのだ。寒いも、暑いも、何も感じていない。感じられない。
それが、現実だった。
彼女に布を掛けて、部屋に戻った。
俺は、目をぬぐった。何故泣いているのか、わからなかった。俺でも、人のために泣くことがあったのか。
「起きて~!」
まだ日が昇ったばっかりの時、俺は彼女にたたき起こされた。
朝の弱い俺は、布団から出るのを惜しみながらベッドから出る。
寝起きのボーとする頭で、鞄を開ける。中から、しわだらけの服を引っ張り出す。
と、俺は後ろを振り返る。そこには、案の定彼女がいた。まるで、当たり前のように。
「今から、着替えるんだけど」
その言葉で、彼女は思い出したようにハッとしたように顔を赤らめ、部屋を出て行った。
着替えが終わった頃には、ぼんやりしていた俺の頭は、多少冴えていた。
彼女はどうやら、俺が来るのを待っていたらしい。
ドアの隣の壁に寄りかかり、俺が出てくると嬉しそうに笑い、手を引いてリビングへ走り出した。
はて、今日は何の日だったか?
俺は彼女のはしゃぎように、そんなことを考えた。
彼女はリビングにつくと、俺をピアノの前まで連れて行った。
イスに座り、白い鍵盤に彼女は細い指を置いた。
俺はどうしたらいいのかわからないまま、彼女の後ろで頭をかき突っ立っていた。
「さぁ、歌の練習よ」
「え?」
意味がわからず間抜けな顔をしている俺をよそに、彼女は鍵盤を押した。
水を落とすようなピアノの音が、彼女の歌を奏でる。
しばらく、俺はどうしていいのかわからず、頭にはてなマークをを出すばかりだった。
俺を見上げる彼女の目は、歌いなさいと言っている。
俺はそれを察し、ピアノの音に合わせ歌い出す。突然で、まだ少ししか聞いたことのない歌だったから、声は震え音程は外れっぱなしだった。
昨日は歌えたのに。
気持ちばかりが焦る。
しばらくそうしていると、彼女も一緒に歌い出した。すると、不思議なことに彼女と同じように歌えた。
それからずっと俺たちは、日が傾くまで笑いながら歌った。
次の日、俺は何かが割れる音で目を覚ました。
慌てて部屋を出て居間に行く。すると、割れた皿とこぼれた食事、そして倒れている彼女があった。
テーブルの近くに倒れている彼女を、抱き起こすと彼女の目はどこも見ていなかった。光りもなかった。
眉を寄せながら、彼女は手を伸ばして何もない空間を触っていた。
「どこ?」
彼女は、俺の名前を呼ぶ。
宙をさまよっている彼女の手を握る。すると、彼女はほっとしたような顔をした。
「どうした」
彼女は、泣きそうな顔になった。いや、泣き出していた。顔をくしゃくしゃに歪めて、俺の腕の中で泣き出した。
「見えなくなちゃった。目が、見え無くなっちゃったよ」
彼女は溢れる涙を幾度となくぬぐうが、目が乾くことはなかった。
俺はただ、それを見つめることしかできなかった。
いや、見ているようで頭には映像が入ってはいなかった。
頭の中は、彼女の死で溢れていた。
「ごめん」
しばらく経ち、彼女は俺の腕の中で目を伏せ暗い顔で言った。
「何がだ」
俺には、解らなかった。彼女が俺に謝ることなんて、ないはずだ。
「迷惑だよね」
「そんなこと!」
「そんなことあるよ」
彼女は俺の腕の中から、ふらふらと危なっかしく離れていった。
俺は、そんな彼女を止めることも支えることも出来ずに宙を抱いていた。
彼女はテーブルで体を支え、俺に背を向ける。
「ただの通りすがりの人なのに、私の勝手でこんなところに留めてしまった」
「俺の意志だ」
彼女はまるで見えているかのように俺の方を振り返り、愛おしそうに目を細めた。
目にはまた、きれいな雫が溢れてきた。彼女はぬぐうことをせず、俯き下唇をかんだ。
涙を手のひらでぬぐい顔をあげると、いつものようににっこり笑った。
「もう、さよならだね」
「どうして!」
俺は立ち上がり、ものすごい早さで彼女に近づき肩をつかんだ。
見えない彼女は、突然のことに肩を震わせた。
「もう、一緒にはいられない」
「意味がわからない」
俺は、彼女の心が読めない。だから、彼女の言っている意味がわかなくて、首を横に振りもう一度わからないと言った。
「わからなくていいの。ただ、今が別れの時期なだけ」
「そんなの・・・、イヤだ。俺は、ここにいたいんだ」
「無理よ」
彼女の顔から、笑みが消えた。
彼女は、壁をに手をついて玄関まで行った。そして、戸を開けた。
冷たい風が俺の頬を撫で、彼女のスカートと金の長い髪を揺らした。
外から吹き込んでくる風が、まるで奈落から吹いてくる風のような錯覚が俺を襲った。
「さぁ、早く出て行って」
彼女の声は、今まで聞いたことのないくらい鋭かった。しかしその反面、震えていた。
俺は言われるがまま、部屋に入り荷物をまとめた。
そして出る前に、机の引き出しを開けノートを取り出そうとした。
しかしそこにはノート一冊もなく、代わりに俺が彼女に貸した青いマフラーがあった。
俺はそれを首に無造作に巻き、部屋を出た。
居間に戻ると、彼女はそこにはいなかった。
部屋に行ったのだろうかと彼女の部屋に足を向けたが、やめた。
俺は、静かにそしてすべての思いを断ち切るように、この家を出た。
来たときのように白い世界を、走った。
しかし、来たときとは決定的な違いがあった。
今の俺には、心にわだかまりがあった。
俺は数ヶ月あの家戻らず、前のように目的のない旅を続けた。
いや、目的はある。
彼女の病気を、治す方法を探していた。
しかし、手がかりすら見つかっていなかった。
たまに、イヤになった。あの家に帰りたくなった。彼女の声が、歌が聞きたくなった。彼女の笑顔が見たかった。温もりを感じたかった。
でも、戻らなかった。戻れなかった。
俺は、首に巻いた青いマフラーを握る。
いくら走っても、あの世界には、あの歌にはたどり着けなかった。
俺は夢を見た。
懐かしいあの声、あの歌が暗闇の中に響いていた。
俺は必死でそれを頼りに、走った。
もしかしたら、あの白い世界にいけるかもしれない。
もしかしたら、あの家に行けるかもしれない。
もしかしたら、彼女に会えるかもしれない。
俺の心は、期待と喜びで溢れていた。
暗闇の中に、ぽっつりと浮かぶ白い世界に俺の求めていた者がいた。
「ウィン!」
愛おしい、彼女の名を初めて呼んだ。
すると彼女は、驚いたように俺の方を振り返り、嬉しそうに目を細めた。
「ラド」
しかし、夢はそこで終わった。
俺の腕は、あの時のように宙にあった。
「行かないと」
俺は勢いづけて立ち上がり、荷物もそこそこにバイクにまたがった。
首に巻き付けた青いマフラーが、風に乗って跳ねる。
ただ、走った。自分が、どこに行っているかわからないまま、思うままに走った。
いや、向かっている場所はわかっている。
彼女のところだ。
帰って彼女に拒絶されてもいい。嫌われてもいい。
彼女といたいんだ。彼女といなくては。
俺は、彼女の生きた証を残したい。
そう、それこそが俺が探し求めていたものだった。
俺はいつの間にか、あの白い世界にいた。
懐かしさで、胸がいっぱいにはならなかった。景色を見渡す余裕なんてなかった。
ただ、まっすぐあの家に向かった。
胸を躍らせる。喜びなんてなかった。
あるのは、決意だけ。
家が見えてきて、俺はバイクから飛び降り一目散に走った。
足が雪に埋もれようが、靴が脱げようが、気にせず走った。
ふと、歌が聞こえた。あの優しい声が奏でる、あの優しい歌。
俺は肩で息をして、彼女を捜した。
この一面の銀世界。彼女が見えないはずはない。
そう、俺はすぐに彼女を見つけることが出来た。
初めてあったときのように、彼女はまるで空から舞い降りた天使のように、佇んでいた。
「ウィン!」
幾度となく彼女の名を呼び、ふらつく足取りで彼女に近づく。
彼女は、夢のように俺の方を振り向くことはなかった。
俺が彼女の肩をつかむまで、彼女は何の反応を見せなかった。
肩をつかむと、彼女は以前のように肩を震わせて、顔と光のない目をせわしなく動かした。
「ここだ。おれは、ここだ」
頬に触れ、彼女の顔を俺の方に向ける。
彼女の顔は不安に溢れ、瞳は小刻みに震えていた。
彼女は、口を開き何か話そうとしているけれど、それは獣か何かのうめき声のようで何を話しているのかわからなかった。
彼女にもそれがわかったのか、頬にそえられている俺の手を取り、その平に細い指を走らせた。
最初のうちは何をしているかわからなかったが、しばらくして、彼女が文字を書いているのだとわかった。
『ラドなの』
「そうだ」
彼女のは、首を横に振った。
『耳がもうほとんど聞こえないの』
俺は、目を見張った。彼女が握る俺の手が、小刻みに震える。目から、雫が滑り落ちる。
『ねぇラドなの』
俺も彼女の手を取り、震える指でその平に文字を綴る。
『そうだ』
『どうして帰ってきたの』
やっぱり、彼女は怒っていた。
『俺がいたいからだ』
『私はいたくない』
『それでもいい』
彼女の手が震え、字を書く指が止まる。
『どうして』
『俺の意志だから』
『私はいたくないって言ってるでしょ』
『それでもいる』
彼女の目から、涙が溢れる。
『いてくれるの』
『当たり前だ』
彼女は手で口を覆い、泣きじゃくった。
口を開閉して、声を出した。そして、手探りで探し出し、俺を抱き寄せた。
「ありがとう」
そう言う彼女の声が、俺の耳に届いた。
俺も、彼女を抱きしめた。
彼女の体は温かく、生きていると感じられた。
そう、彼女は生きている。どんなになっても、生きていてくれているのだ。
家に帰ってから、俺たちは静けさの中にいた。
話すことがない訳じゃない。話したいことはあった。話しておきたいこともあった。
ただ今は、そんなことは必要な気がしなかった。
ふと、彼女は立ち上がりキッチンに行った。
少しすると、そっちから懐かしい匂いがした。
俺はしばらくその匂いにうっとりしていたが、あることを思い出してバネのように立ち上がった。
俺は風のように、一分でも早くとキッチンに走った。
キッチンに入ると、真っ白いエプロンをした彼女は、慣れた手つきでシチューを作っていた。
食べられないはずなのになぜ作れるのか、俺はわからなかった。
彼女は、病気のせいで食事が出来ないはずだった。
俺は、彼女の目が見えないことをいいことに、キッチンを散策した。
明るい色をした木の戸棚には、ぴかぴかの白い食器が少しほこりをかぶっていた。
しかし、キッチンは最近使われた形跡があった。
どうしてだろう。
「ラド、そこにいるんでしょ」
彼女のうめき声のような声が、そう言った。
俺は、ぎくりと背筋をのばした。
彼女は、シチューを皿に盛りながらクスクスと可愛らしく笑う。
俺はくすぐったい胸をそのままにして、忍び足でキッチンを出ようとした。
すると、目の前にシチューの盛られた皿が現れた。
その皿を持っている手の先にいる彼女は、ウインクした。
俺は、持って行けと言うことを理解し、おずおずと皿を手に持った。
よろしいとでも言うように彼女は頷いて、エプロンを脱いだ。
それを壁に掛け、彼女はすたすたとキッチンの戸まで歩き、行こうとでも言うようにこっちを見た。
俺は明るい彼女に頬をゆるませながら、彼女の隣まで行った。
静かながら、温かく楽しい食事を終え、俺は部屋に入った。
荷物をベッドの横に放り投げ、机へと向かった。
まるで誰かが毎日ここを使っているかのように、ほこり一つなかった。
滑りの悪い引き出しを開けた。
そこには、やはり何もなかった。
しばらくそこを見つめて、俺は閉めてベッドへ体をあずけた。
俺は疲れと安心のせいか、すぐにぐっすり寝ることが出来た。。
俺は彼女の歌を聞きたくて、朝早く起きた。
まだ、空が明るくなったばっかりの時間だ。
それなのに、外に出てみると彼女は、白い世界に溶け込むように立っていた。
いつものように、冷たい風が頬を撫で青いマフラーを揺らす。
彼女は言葉がうまく話せないのに、歌を歌っているときはそれを感じさせなかった。
俺は以前のように、彼女にあわせて歌い出した。
この歌は、以前に歌った歌と同じだったから、歌うことは簡単だった。
ひらひらと、雪が舞い降りてきた。
いつの間にか時間は経っていたらしく、空は青く太陽が少し高く昇っていた。
そのため、雪はきらきら光り、幻想的だった。
俺の耳に、初めてあった時の彼女の言葉が聞こえた。
「私は、ウィン。祝福って意味があるの。
あのね。私が生まれたとき、青空の中雪が降っていたの。
知ってる?そのときに生まれた子は、神様の祝福を受けているんだって。
だから、ウィンなの。」
あの時、灰色の雪の中、彼女だけがきらきら輝いているように見えた。
目を閉じてみると、短い間だったが彼女の思い出が俺の中で溢れる。
天使のような彼女は、いつも笑っていた。
いつも明るく、自分が病人だと、死ぬのだと思わせるそぶりを見せなかった。
目を開けると、彼女は俺を見ていた。
その目に、光がともっているような錯覚が起こった。
「ラド?」
俺は、目を見開く。
彼女も同様に、首に手を当てて驚いたように目を開いてる。
「ウィン。声が…」
俺は驚きで、声が裏返りそうになった。
彼女は俺をはっきりと見て、嬉しそうに目を細めた。
「声だけじゃない。ラドの声、聞こえるよ。ラドが、見える」
細められた目から、涙が溢れてきた。
と、彼女は寒そうに肩を震わせた。感覚も戻ったらしい。
俺は彼女の側により、首に青いマフラーを巻いてあげた。
すると彼女は、初めてあった日のようにマフラーをぎゅっと握り、本当に嬉しそうに、ほほえんだ。
「暖かいね。ホントに、暖かい」
彼女は、泣き出した。止めどなく流れる涙を、手のひらでぬぐう。
俺は、ゆっくり彼女を抱きしめた。ぎゅっと、互いの温もりを確かめるように。
このまま、時が止まればいいのに。
そう思わずには、いられなかった。
しかし、時の流れはどうしようのないものだ。
止まることなど、なかった。
「ねぇ、歌おう」
俺の腕の中から離れ、両手を広げまぶしいくらいの笑顔で歌い出した。
俺はその姿に、口元がほころぶ。
しかし、俺を振り返った彼女の顔に涙が伝っているのに、俺は嫌な予感がした。
歌は明るく、どこまでも幸せなのに、表情は悲しみに溢れていた。
俺が彼女へ手を伸ばそうとしたとたん、彼女のまぶたは落ち、大きく後ろに傾いだ。
「ウィン!」
彼女の宙に投げ出された彼女の手は、俺がつかむ前におちていった。
さくっと彼女の体が、雪の上に倒れる。
俺は崩れ落ちるように彼女の側に膝を折る。
震える腕で彼女を抱き上げると、雪のように冷たかった。
このとき、やっと彼女が死んだのだということが、理解できた。
「あ…あぁぁぁぁぁぁ!」
こんなのって…。そんな。
目を開けてくれ。ほら、おまえが生まれたときと同じ天気だ。お祝いに、歌を歌おう。
おいていかないでくれ!どんなとこでも迎えに行くから、俺も連れてってくれ。
何でもくれてやるから、彼女を戻してくれ!
俺の声でも、感覚でも、命でも何でも。
彼女が俺を覚えていなくてもいい。
彼女がこの世界で生きてさえいればいいんだ。
お願いだ!
しかし、俺の祈りはむなしく、彼女の体は光になり、空に消えていった。
また俺は、彼女の手をとることは出来なかった。
行かないでくれと、いくら手を伸ばしても、彼女は温もりも残さないまま消えていった。
俺の腕の中には、青いマフラーだけが残った。
家に戻り、俺は暖炉の前で膝を抱えていた。
暖炉の火をにらみながら、俺は彼女との思い出に思いをはせていた。
彼女は初めてあった時、本当に嬉しそうに笑った。
その夜に、部屋に来て恥ずかしそうに笑った。
次の日の朝は、一緒に歌って、雪の上に倒れて訳のわからないままおもしろそうに笑った。
そして目が見えなくなったのに、泣きながらも俺を安心させようとしたのか笑った。
夢の中で久しぶりに会った彼女も笑った。
本当に会ったときは、嬉しそうに泣きじゃくった。
見えないはずなのに、俺がいるのを見抜いた時も笑っていた。
死ぬ寸前の時も、彼女は笑っていた。
彼女は、いつも嬉しそうにしていて、まぶしく笑っていた。
ふと、暖炉の上に薄いノートが置いてあるのに気がついた。
立ち上がりそれをとってみると、俺がいつだったか見た彼女の日記だった。
ノートの表紙を撫で、ゆっくりとページをめくっていく。
最初から、一文字一文字噛みしめるように読んだ。
毎日欠かすことなく、些細なことでも書かれていた。
彼女の、温もりを感じられた。まだ彼女が、生きているような気がした。
俺は一気に最後まで読んでしまった。
彼女は、目が見えなくなった後もおぼつかない手つきで毎日書いていた。
俺は読み終えた後、涙が止まらなかった。
『今日、ラドにさよならをした。
ラドとの生活が神様の祝福だったとしても、私は受け取れない。
ラドが好きだから、私なんかといたら迷惑だから。
それに、今別れないと、ラドも私も幸せにはなれない。』
『ラドがいなくなってから、もう一ヶ月も経った。
それなのに、私はシチューを作ってしまう。
ラドは帰ってこない。ラドは、私が好きじゃない。
そう言い聞かせても、ラドの笑顔と声は消えてくれない。』
『ラドが帰ってきてくれた。
本当はまた離れなくちゃいけないのに、私は彼を家に入れることをした。
ラドが帰ってきてくれて、隠してきた本当の気持ちがわかった。
私は、最後までラドといたかったんだ。
ラドには、本当に申し訳ないけれど、私は私の気持ちに逆らうことはしなかった。
ごめんね。ラド。』
俺は、ノートを胸にぎゅっと抱きしめ泣いた。
泣くことしか、俺には出来なかった。
泣いて、後悔して、運命を呪った。
そうしているうちに、俺は眠っていた。
次に目を開けた時は、黒い世界にいた。
俺は、またかと思いながら歩いていた。
しかし、いつまで経っても前のように彼女の歌は聞こえてこなかった。
「そうだよな。俺は、彼女に会う資格なんてない。」
俺は、足を止めそうになった。情けなく俯き、拳を握った。
夢の中でさえ、俺は泣きそうになった。
そんなとき、世界が白く明るくなり、白くきれいなかけらが舞い降りてきた。
俺は手をかざし、空を見上げる。
祝福の空だ。
彼女の生まれ、死んだときの天気。
ふと、隣を何かが通りすぎる。
白い布。細い腕。柔らかい金の髪。前だけを見るきれいな金の瞳。
彼女だった。
しかしその目には、俺が映っていなかった。
前だけ見て、彼女は走っていた。まるで、何かを振り切るように。
彼女は、どんどん前へと走っていく。
俺は、それをまた見ていた。
彼女は、ふとと足を止めて振り返った。
決して俺を見ているわけではなく、ただ悲しそうな顔をして何かを思っていた。
しばらくそうした後、首を振りまた走り出した。
「さよなら。ラド」
走り出す前、彼女がそう言ったのを俺は聞いた。
俺ははっとして、下唇を噛んだ。
勢い込んで足を進める。
俺は、彼女を止めなくてはいけない!彼女の手をとらなくては!
「ウィン!」
手を伸ばし、彼女の細い手を握った。
温かい。
思わず俺は、彼女を引き寄せ抱きしめようとした。
しかし彼女の体は、俺の腕に収まる前にはじける泡のようにきれいな光になった。
「ラド」
彼女ははっきりと俺を見ていた。そして、一粒の涙を流しほほえんだ。
俺の腕は、また空を抱いていた。ほんの小さな温もりだけを残して。
手のひらに、彼女が流した涙が光っていた。
パサッ
乾いた物が落ちる音がして、俺は目を覚ました。
どうやら、俺が握っていた彼女の日記が落ちたようだ。
俺はあの夢の余韻に浸っていたくて、手のひらを見つめ、あの時見せた彼女の温かい涙と笑顔を思い出した。
その手に、彼女の手と涙の温もりを感じられた気がした。
ぎゅっとそれを握り、額にこすりつけた。
だめだった。手をつかむのが、俺は遅すぎた。
もう彼女は、戻ってこない。
俺の涙はかれること知らないのか、また涙が溢れてきた。
彼女に会ってから、俺は知らない間に感情豊かになっていた。感情表現が出来るようになっているような気がした。
きぃ…。
古い木の戸が開く音がした。
俺は、彼女の歌声がすぐそこで聞こえたような気がした。
ペタペタッ
木の床を、裸足で歩く音がした。
俺は、彼女の息づかいがすぐ側で聞こえるような気がした。
ぎっ
立て付けの悪い床が、重さにきしむの音が聞こえた。
彼女の温もりが感じられた。
「ラド」
俺が顔をあげると、彼女が俺をそっと抱きしめている姿が見えた。
俺は目を見開いて、じっくりと彼女を見つめる。
彼女は、変わらない笑顔で俺を見つめ返す。
俺は、ここにいる彼女が本物だと思った。
疑うことをしなかった。
「ウィン。お帰り」
俺は、彼女をぎゅっと抱きしめた。
彼女が驚き、息をのむ音が聞こえた。
彼女もぎゅっと俺を、抱きしめ返してくれた。
「ただいま」
彼女が言うには、これが神様の祝福だったんだ。
そしてまた、試練で私たちを試したんだって。
俺たちが、どんなに互いを求めっているのかを。
確かに、俺は気づくのが遅かった。
もう少し早かったなら、俺たちは一回も別れることはなかった。
しかしそれが、俺には必要だった。なかったら俺は、気づくことはなかった。
俺たちの試練は終わった。
高い壁を越えた。
後に残るのは、少しの石と分かれ道。たまに壁に突き当たるかもしれないが、俺たちはもう大丈夫だろう。
俺たちは、ふたりで支え合いこの白い世界で暮らしていく。
朝にシチューを食べて、白いかけらの中で歌を歌い、笑いあい、生きていく。
白いかけらが降り注ぐ中、俺は彼女に出会った。
この小説は、ある曲を聴いててひらめいた…
と言うか、元にした物語です。
わかる人がいるかなぁ…。
ずっと書きたいと思っていた作品で、出来た瞬間の幸せといったら…。
この物語は、ちょっと綺麗すぎるんですけど
綺麗事だと思わずに読んでいただければ幸い。