八杯目 クローバー・クラブ ――小さな救いの泡――
その人は、泣くほどじゃない顔をしていた。
泣けるなら泣いたほうが早いのに、泣けない。
笑うほど元気でもないのに、笑ってしまう。
そういう夜は、長い。
BARクロノ・ロードのベルが鳴り、扉が閉まる。
その人はカウンターの端に座り、視線を落とした。
肩の力は抜けているのに、胸の奥だけが固い。
白詰草が近づく。白い小花のピンが、髪の奥で控えめに揺れた。
声はやわらかい。けれど甘やかしすぎない。
「こんばんは。今日は……“大丈夫”が足りない夜ですね」
その言い方が、妙に刺さって、その人は笑いかけてやめた。
足りないものを言い当てられると、心が少しだけ揺れる。
「大丈夫って、言いたいんですけど」
「言えない夜、ありますよ」
白詰草は道具を揃える。
クローバー・クラブは、泡の酒だ。泡は嘘をつけない。
手を抜くとすぐ崩れる。丁寧にやると、丁寧に支えてくれる。
ジン、ラズベリー、レモン、卵白。
卵白は多すぎない。泡は厚すぎると重い。
まずドライシェイク。氷を入れずに振って、泡の骨を作る。
カラカラという乾いた音が、店の静けさに小さく混ざる。
次に氷を入れて、短く冷やす。泡を壊さないように。
最後に、ふわりと注ぐ。
淡いピンクの表面が、ぷるんと揺れて落ち着いた。
「クローバー・クラブです。小さな救いの泡」
グラスは冷えていて、手のひらに気持ちいい。
その人は一口飲んだ。
甘酸っぱさが最初に来て、次に泡が舌の上でほどける。
最後にジンが背中を支える。
甘いだけじゃない。
救いって、こういう混ざり方をするんだ、とその人は思った。
やさしいのに、現実から逃げさせない味。
「……これ、ずるい」
声が出た。
白詰草は、少しだけ首をかしげる。
「ずるいのは泡です。
泡は、口に入れた瞬間に『大丈夫』って言い方をするので」
その人は笑ってしまった。
笑うつもりはなかったのに、笑えた。
それだけで、胸の固さが一段下がる。
「今日、うまくいかなかったんです」
「うまくいかない日は、あります」
「頑張ってたつもりだったのに、空回りして。
それでも平気な顔をしてたら、途中で何が平気なのか分からなくなって」
言葉が途切れる。
その人はグラスの表面を見つめた。泡は静かに揺れている。
揺れているのに、崩れない。
崩れない揺れ方があることを、初めて知った気がした。
白詰草は、カウンターの上に小さなコースターを置いた。
そこに、手書きの四つ葉が描いてある。
上手でも下手でもない、ちょうどいい線。
「今日は、これを持って帰ってください」
「え?」
「お守りみたいなものです。
“うまくいかなかった日”のための、四つ葉」
その人は受け取り、指先で紙の端を撫でた。
紙は薄い。
薄いのに、ちゃんと存在している。
今夜の救いは、たぶんこの薄さと似ている。
クローバー・クラブは飲むほどに泡が少し沈む。
沈むのに、気持ちは少し上がる。
沈んだ分だけ、現実が見える。
見えるのに、苦しくなりすぎない。
「……大丈夫って、言ってもいいですか」
その人が言うと、白詰草は小さく頷いた。
「もちろん。
“完全に大丈夫”じゃなくても、言っていいです。
“いまの自分に対して大丈夫”って言うだけでも、救いになります」
その人は、最後の一口を飲んだ。
甘酸っぱさが残り、ジンの香りが背中に残る。
泡はもうほとんどない。
でも、“大丈夫”の言い方だけが口の中に残っている。
会計を済ませて立ち上がるとき、白詰草が一言だけ添える。
「今日は、よく来ました。
うまくいかなかった日のあなたを、ここまで連れてきたのは、あなたです」
その人はコースターをポケットにしまい、頷いた。
扉のベルが鳴る。
外の空気は冷たい。
でも胸の奥の固さは、さっきより少しだけ柔らかい。
泣くほどじゃない夜は、まだ長い。
けれど、その長さを耐えるだけの小さな救いが、今夜は手の中にある気がした。




