七杯目 サクラ・ハイボール ――区切りをつける――
その人は、何かを手放した直後の顔をしていた。
嬉しいとも悲しいとも言い切れない。軽さと痛みが同時にある。
夜の街を歩いてきた靴の底に、まだ決断の余熱が残っているみたいだった。
BARクロノ・ロードのベルが鳴り、扉が閉まる。
その人はカウンターに腰を下ろし、息を吐いた。
言葉にする前のため息は、たいてい「終わった」の形をしている。
彼岸桜が近づく。桜色の簪が、灯りに控えめに光っていた。
目元はやわらかいのに、立ち姿に芯がある。
終わりを扱う人の姿勢だ。
「こんばんは。今日は……区切りの夜ですね」
その人は頷いた。
区切り、という言葉に少し救われる。終わりを否定されないからだ。
「終わったことがあって」
「終わったなら、終わらせましょう。
“終わり”を、ちゃんと終わりにする一杯にします」
彼岸桜はグラスを冷やし、氷を選ぶ。
大きすぎない。小さすぎない。
炭酸を乱さず、薄まりすぎず、音を立てすぎない形。
ウイスキーを量り、グラスに注ぐ。
炭酸は勢いよく入れない。泡が立ちすぎると、気持ちが浮いてしまう。
グラスの内側を滑らせるように、静かに。
“しゅ…”と細い音だけが鳴る。
塩漬けの桜は、沈めない。
触れさせるだけ。香りづけの範囲で止める。
終わりに余計な演出を足さないためだ。
「サクラ・ハイボールです。区切りをつける炭酸」
その人はグラスを受け取り、一口飲んだ。
炭酸が喉を通り、すぐにウイスキーの香りが追いつく。
軽いのに、芯がある。
桜の塩気が、舌の端で一瞬だけ光って消える。
甘くない。泣かせない。
ただ、「ここで止める」と言ってくる味だった。
「……軽いですね」
「軽いほうがいい夜もあります」
彼岸桜は静かに言う。
「区切りは、重い決意じゃなくていい。
“ここまで”と線を引く作業ですから」
その言葉で、その人の胸の奥の痛みが、少しだけ形を持つ。
形があると、抱えられる。
「やめました」
その人が言った。
何を、とは言わない。言わなくても分かる言い方だった。
頑張りすぎる癖。合わない場所。続けるふり。
どれでも、区切りの形は似ている。
「えらいですね」とは言わない。
彼岸桜はただ頷く。
「終わったことを、終わったままにしてあげましょう」
ハイボールは飲むほど薄まる。
薄まるのは悪いことじゃない。終わりが近づくというだけだ。
グラスの中で氷が少しずつ角を失っていく。
角が取れると、味もやわらかくなる。
やわらかくなっても、芯は残る。
区切りはそうやって馴染んでいくのだと、この酒が教える。
その人は、二口目を飲んだ。
軽さの中に、痛みが混ざっている。
痛みの中に、軽さが混ざっている。
両方が同じ速度で喉を通るから、苦しくなりすぎない。
「……終わったって言うと、空っぽになる気がして」
その人の声が小さくなった。
空っぽになるのが怖い。だから人は埋めたくなる。
次の予定、次の仕事、次の関係。
空白を嫌う癖。
彼岸桜は、首を横に振らない。否定しない。
ただ、ゆっくり言う。
「空っぽは、悪いことじゃありません。
空っぽがあると、呼吸が入ります。
呼吸が入ると、次が自然に入ってきます」
その人はグラスを見つめた。
炭酸の泡が少なくなって、液体が静かになっていく。
静かになるほど、香りが立つ。
終わりが近づくほど、今までがはっきり見える。
最後の一口を飲むころ、胸の奥の空っぽは、まだ空っぽのままだった。
でも、その空っぽが怖くなくなっていた。
空っぽは、終わりの証拠ではなく、区切りの余白だ。
会計を済ませて立ち上がると、彼岸桜が一言だけ添える。
「今日は、温かいものを食べてください。
区切りの夜は、身体を先に守ると楽になります」
その人は頷いた。
扉へ向かう足取りが、少しだけ軽い。
ベルが鳴り、外の空気が頬に触れる。
夜はまだ濃い。
けれど、終わったものを終わらせた夜は、どこか静かに明るい。
区切りの炭酸が、喉の奥で小さく弾けていた。




