四杯目 ラベンダー・コリンズ ――ほどくための炭酸――
その人は入ってくるなり「すみません」を二回言った。
ベルが鳴った直後の「すみません」と、席に座る前の「すみません」。
謝る必要のない場面で謝るとき、人はだいたい息が浅い。
BARクロノ・ロードの空気は静かだった。
ボトル棚の灯りがやわらかく、カウンターの木目に影が落ちている。
その人は端の席に腰を下ろし、肩を落とした。コートのボタンも外さない。外す余裕がない顔。
ラベンダーが近づく。紫のリボンが、髪の結び目で小さく揺れた。
声は低すぎず高すぎず、夜に馴染む。
「こんばんは。今日は……ほどきたい夜ですね」
その人は笑うつもりで口角を上げ、途中でやめた。
「ほどけるなら、ほどきたいです。
でも、何を頼んだらいいのかも分からなくて」
「分からないときは、呼吸を戻すところからでいいんです」
ラベンダーはロンググラスを取り、氷を選ぶ。
小さな氷は使わない。溶ける音が増えて、焦りが増える。
透明で大きめの氷を二つ。グラスの中にそっと落とす。カラン、と短い音。
ジン、レモンジュース、ラベンダーシロップ。
量は控えめ。甘さでごまかさない。
軽くステアして、最後にソーダを注ぐ。
勢いよく注がない。炭酸の泡が暴れると、心も暴れるからだ。
グラスの内側を滑らせるように、静かに。
“しゅわ…”という音が、息の代わりに入ってくる。
「ラベンダー・コリンズです。ほどくための炭酸」
ラベンダーはストローを出さなかった。
急いで飲めてしまうから。ゆっくり傾けるための酒だ。
その人はグラスを受け取り、一口飲んだ。
レモンの酸が先に通り道を作って、炭酸が胸の奥へ空気を連れてくる。
最後にラベンダーの香りが、ふわっと覆いかぶさる。
香りは強くない。けれど、鼻の奥で「落ち着け」と言う。
二口目で、喉のあたりがほどけた。
三口目で、肩が一ミリ落ちた。
「……今日、ずっと息してなかったかもしれない」
その人が言うと、ラベンダーは小さく頷く。
「してました。でも、浅かった。
浅い呼吸は、体をずっと戦闘態勢にします」
戦闘態勢。
その言葉に、その人の眉がわずかに寄る。
言葉が刺さるのは、当たっているからだ。
「朝からずっと、通知が鳴って。
返事を返して、返して、返して。
終わったと思ったら、また来て……」
その人の指先が、無意識にポケットを探る。スマホの位置を確認する癖。
ラベンダーはそれを見て、何も言わない。
代わりに、氷がグラスの中で静かに回るのを見せる。
炭酸は少しずつ抜けていく。時間が、急がずに進む。
「今日は、返事をしなくてもいい時間を、ここで作りましょう」
ラベンダーの声は、提案というより許可だった。
その人はコリンズをもう一口飲み、ようやくコートのボタンを外した。
呼吸が深くなった証拠みたいに、胸元が少し開く。
炭酸の泡が舌の上で弾けるたび、頭の中の言葉がひとつずつほどけていく。
“やらなきゃ”が“あとでいいか”に変わる。
“急がなきゃ”が“いまは座ってる”に変わる。
「……ここ、静かですね」
「静かにしているんです。
静けさは、作らないと残らないので」
ラベンダーはそう言って、グラスの水滴を布で拭いた。
その所作が、整っている。
整っているものを見るだけで、心は少し整う。
氷の角が取れて、飲みものが少し薄くなる。
薄くなると、味もやわらかくなる。
それでも“ほどく”という役割は最後まで残る。
強い酒ではない。だから、夜を壊さない。
その人は最後の一口を飲み、グラスの底を見た。
炭酸が抜けきったころには、胸の奥の固さも少し抜けていた。
「今日、帰ったら……まず、靴を脱いで、何もしないで座ります」
言いながら、その人は自分の言葉に驚いた。
“何もしない”なんて、予定に入れたことがなかった。
ラベンダーが、嬉しそうに微笑む。
「それで十分です。
ほどけた状態で家に帰れたら、今夜は合格」
会計を済ませて立ち上がるとき、ラベンダーは一言だけ添える。
「もし明日、また結び目が固くなったら。
ここで一度、ほどいてください。結び直すのは、そのあとで」
ベルが鳴り、扉が閉まる。
外の空気は冷たかったが、その人の呼吸はさっきより深かった。
夜はまだ長い。
けれど、ほどけたまま歩ける長さになっていた。




