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BARクロノ・ロード  作者: TimeBender


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3/14

二杯目 キンモクセイ・サイドカー ――記憶の扉をノックする――

ベルの音は控えめだった。

 その人は扉を閉めると、すぐにポケットの中の紙袋を確かめた。小さな、薄い袋。触れるたび、角が指に当たる。渡せなかった贈り物の形だと、すぐ分かった。


 カウンターの端に座ると、金木犀が視線を落とした。落とし方がやさしい。見ないふりではなく、見つけたうえで、そっと扱う目線。


「お帰りなさいませ。今日は……香りの夜ですね」


 その人は曖昧に笑ってしまう。自分でも理由が分からないまま、香りと言われると、なんだか当たっている気がした。


「何が飲みたいか、はっきりしなくて」


「はっきりしない夜は、はっきりしないままでも大丈夫です。

 ただ、今夜は“思い出したくないのに思い出す”に寄っている気がします」


 言い当てられて、息が止まる。

 金木犀はそれ以上は踏み込まない。代わりに、シェイカーを静かに置いた。


「キンモクセイ・サイドカーを。

 扉を開けるのではなく、ノックだけする一杯です」


 コニャックのボトルを手に取り、メジャーカップで量る。液体の色は琥珀。

 コアントロー、レモンジュース。混ぜる音が夜の静けさに溶ける。

 氷を入れ、短く、しかし迷いなく振る。シェイクは長くしない。思い出は、長く揺らすと溢れる。


 グラスは冷えている。指先に触れると、少しだけ痛い冷たさ。

 縁のシュガーリムは薄い。甘さを前に出さない。気配だけ置く。


 そして最後に、金木犀シロップを“ほんの少量”落とす。

 一滴は香りの鍵穴になる。二滴は思い出を引っ張り出しすぎる。

 金木犀は、一滴と二滴のあいだを、迷わず選んだ。


「どうぞ」


 その人はグラスを受け取った。香りを確かめる前に、まず光を見た。

 表面に、淡い膜のような冷たさがある。触れれば消える程度の、儚い冷え。


 一口目。レモンの酸が先に来る。

 二口目で、コニャックが温度を連れてくる。

 三口目で、甘さが遅れて追いつく。甘いのに、舌に張りつかない。

 その後、ふわりと金木犀の香りが、まるで「今です」と小さく合図するみたいに立ち上がった。


 扉が、ノックされた。


 秋の夕方の光。駅のホームの風。

 笑いながら言った「またね」。

 返したつもりの「ありがとう」。

 返しきれていない「ごめん」。


 その人は視線を落とし、膝の上の紙袋を指で撫でた。

 贈り物は時間を持っている。渡せなかった時間も、抱えている。


「……こういうの、ずるいですね」


 思わず口から出た。

 金木犀は、少しだけ首をかしげる。


「ずるいのは香りです。私は、ほんの少しノックしただけ」


 その言い方が、救いになった。

 思い出すのは自分で、引きずり出したのも自分だと認められる。

 でも責めなくていい、と言われた気がした。


「渡せなかったものがあるんです」


 言った瞬間、紙袋の角が指に当たる痛みが、急に現実になった。


「渡したい、ですか」


 金木犀の問いは短い。

 その人は少し考え、首を横に振りかけて、止めた。


「……分からないです。渡したいのか、手放したいのか」


「どちらでもいいと思います。

 渡せなくても、持っていていい。

 持っていることで、手放せる日が来ることもありますから」


 サイドカーは、氷が入っていない。

 冷たさはゆっくり上がり、終わりが見えてくる。終わるから、ちょうどいい。

 その人はグラスを少しずつ空にした。


 香りは最後まで強くならない。

 強くならないまま、ちゃんと残る。

 それが、今夜のノックの仕方だった。


 飲み終えると、胸の中にあった扉が、完全には開いていないことに気づく。

 けれど、鍵穴の位置が分かった。

 それだけで十分な夜もある。


 その人は紙袋をポケットにしまい直し、会計皿に手を伸ばした。

 立ち上がる前に、金木犀が小さく言う。


「もしまた、香りが勝手に扉を叩く夜が来たら。

 今度もノックだけにしましょう。開けるのは、あなたのタイミングで」


 ベルが鳴り、扉が閉まる。

 雨上がりの空気はまだ冷たい。

 その人は紙袋を握り直し、少しだけ胸の奥の硬さがほどけたのを確かめながら、路地を歩き出した。


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