二杯目 キンモクセイ・サイドカー ――記憶の扉をノックする――
ベルの音は控えめだった。
その人は扉を閉めると、すぐにポケットの中の紙袋を確かめた。小さな、薄い袋。触れるたび、角が指に当たる。渡せなかった贈り物の形だと、すぐ分かった。
カウンターの端に座ると、金木犀が視線を落とした。落とし方がやさしい。見ないふりではなく、見つけたうえで、そっと扱う目線。
「お帰りなさいませ。今日は……香りの夜ですね」
その人は曖昧に笑ってしまう。自分でも理由が分からないまま、香りと言われると、なんだか当たっている気がした。
「何が飲みたいか、はっきりしなくて」
「はっきりしない夜は、はっきりしないままでも大丈夫です。
ただ、今夜は“思い出したくないのに思い出す”に寄っている気がします」
言い当てられて、息が止まる。
金木犀はそれ以上は踏み込まない。代わりに、シェイカーを静かに置いた。
「キンモクセイ・サイドカーを。
扉を開けるのではなく、ノックだけする一杯です」
コニャックのボトルを手に取り、メジャーカップで量る。液体の色は琥珀。
コアントロー、レモンジュース。混ぜる音が夜の静けさに溶ける。
氷を入れ、短く、しかし迷いなく振る。シェイクは長くしない。思い出は、長く揺らすと溢れる。
グラスは冷えている。指先に触れると、少しだけ痛い冷たさ。
縁のシュガーリムは薄い。甘さを前に出さない。気配だけ置く。
そして最後に、金木犀シロップを“ほんの少量”落とす。
一滴は香りの鍵穴になる。二滴は思い出を引っ張り出しすぎる。
金木犀は、一滴と二滴のあいだを、迷わず選んだ。
「どうぞ」
その人はグラスを受け取った。香りを確かめる前に、まず光を見た。
表面に、淡い膜のような冷たさがある。触れれば消える程度の、儚い冷え。
一口目。レモンの酸が先に来る。
二口目で、コニャックが温度を連れてくる。
三口目で、甘さが遅れて追いつく。甘いのに、舌に張りつかない。
その後、ふわりと金木犀の香りが、まるで「今です」と小さく合図するみたいに立ち上がった。
扉が、ノックされた。
秋の夕方の光。駅のホームの風。
笑いながら言った「またね」。
返したつもりの「ありがとう」。
返しきれていない「ごめん」。
その人は視線を落とし、膝の上の紙袋を指で撫でた。
贈り物は時間を持っている。渡せなかった時間も、抱えている。
「……こういうの、ずるいですね」
思わず口から出た。
金木犀は、少しだけ首をかしげる。
「ずるいのは香りです。私は、ほんの少しノックしただけ」
その言い方が、救いになった。
思い出すのは自分で、引きずり出したのも自分だと認められる。
でも責めなくていい、と言われた気がした。
「渡せなかったものがあるんです」
言った瞬間、紙袋の角が指に当たる痛みが、急に現実になった。
「渡したい、ですか」
金木犀の問いは短い。
その人は少し考え、首を横に振りかけて、止めた。
「……分からないです。渡したいのか、手放したいのか」
「どちらでもいいと思います。
渡せなくても、持っていていい。
持っていることで、手放せる日が来ることもありますから」
サイドカーは、氷が入っていない。
冷たさはゆっくり上がり、終わりが見えてくる。終わるから、ちょうどいい。
その人はグラスを少しずつ空にした。
香りは最後まで強くならない。
強くならないまま、ちゃんと残る。
それが、今夜のノックの仕方だった。
飲み終えると、胸の中にあった扉が、完全には開いていないことに気づく。
けれど、鍵穴の位置が分かった。
それだけで十分な夜もある。
その人は紙袋をポケットにしまい直し、会計皿に手を伸ばした。
立ち上がる前に、金木犀が小さく言う。
「もしまた、香りが勝手に扉を叩く夜が来たら。
今度もノックだけにしましょう。開けるのは、あなたのタイミングで」
ベルが鳴り、扉が閉まる。
雨上がりの空気はまだ冷たい。
その人は紙袋を握り直し、少しだけ胸の奥の硬さがほどけたのを確かめながら、路地を歩き出した。




