#1 三日月が沈む
【用語集】
『エアル(Eal)』
索敵・輸送・補助術式の外縁補助ユニット。
ヴェゼルの元素資源を前線に転送する運搬機能。
旧型名称であるE.A(1世代前の索敵支援ドローン)をイノベルム技術の転用を経て、改良された。
『ノード』
人体と術式を結ぶ神経接続器官。過負荷で精神崩壊を起こす危険がある。
『イノベルム(INNOVELM)』
待機時は指輪状。錬金術式起動で装甲へと展開する。「分解→再構築」を瞬時に繰り返し、機体を再錬成する。標準型・専用型の錬装がある。
『ヴェゼル(Vzel)』
元素資源を圧縮・保持する鞘型構造体。再錬成・オーバードライブに必要な素材を内包する。術士の熟練度に応じて形状変化する。
『ルクス因子』
物質・エネルギー・情報・精神の四要素を兼ね備えた粒子。
『ヴァジュタス』
寄生生命体。未知粒子によって変異した生物が元。生物・人間・機械を侵食・同化し、形態を進化させる。寄生先の遺伝情報や構造を取り込み、やがて「個」を超えた群体思考に至る。階級は<変異段階>と<危険度>を兼ねる。
クラス特徴例
Class I
幼生段階。単体寄生体。光と熱に弱い。
Class II
成熟個体。動物・人間への同化が進む。知覚反応を示す。
Class III
融合体。機械や構造物と結合、強力なエネルギー放出。
『ノア』
地球軌道上に建設された。
アラクス層の探索するための都市型衛星。
人口数千万を抱える独立社会であり地上への干渉権を持っている。
崩落した旧区画は、息を潜めるように低く唸っていた。
壁の裂け目から黒い糸状の粒子が滲み、空気には金属と焦げの匂いが重く沈殿している。
崩れた照明の液状化した残骸を踏み越える。
侵食のせいで、踏みしめた感触がどこか生物的だった。
肩先のエアルが微細な振動とともに青白く揺らぐ。
「通信、通信」
言葉より先に、視界へ強制リンクの光が走る。
『ユトス! 今どこにいるの!?』
視線を前へ固定したまま、短く息を吐く。
「後にしてくれ」
『ハァ!? なに単独で入ってんの! クラス──』
「わかってるよ」
ほんとに口うるさい奴だ。
床を走る黒い糸が、波紋のように震える。
侵食の気配が、空気の膜を薄くたわませた。
エアルが告げる。
「前方二十七メートル、構造音に異常。崩落予測」
「切るぞ」
『待ちなっ──このバカ!!』
通信が荒く弾け、沈黙後、天井が裂け落ちた。鉄と埃の熱の匂いが、肺の奥に刺さる。降ってきた影が床を抉り、甘い腐臭がする。
クラスI。
四肢だけが原形を留め、表皮は金属と肉の境界を失って揺れている。
「──接近速度、上昇」
影が床を滑る。音を置き去りにする速さ。爪が振り下ろされる直前、ユトスは重心をわずかに後ろへ滑らせた。耳元で空気が裂け、衝撃音が鼓膜を打つ。
瓦礫片が頬を掠め、小さな痛みが走る。首筋を一滴、何かが伝った。それが血かどうかは気にならない。
掌のイノベルムが熱を帯び、内部で脈打つ。
装甲が指を包み、刃が生まれる直前の呼吸。
次の瞬間、蒼白い刃が形成され、金属の焦げる匂いが弾けた。
その胴体を滑らかに両断。
裂け目から黒い霧が噴き、腐敗とオゾンの匂いが通路に満ちた。
背後。
空気が泡立つ微かな感覚が、侵食域を知らせる。
「後方──」
エアルの声音より速く、ユトスは軸を右へずらした。壁から伸びた腕が空を掴み、粒子が頬を刺す。Vzelが低く唸り、蒼が脈打つ。空気が一瞬、冷たく沈む。
「展開」
呼気のように洩れた一語。
エアル三機が跳ね上がり、圧縮空気が耳裏を撫でる。三角軌道が交わり、光が走る。高周波が縫い止め、肉体の下で黒い線が暴れると、床一面に、黒い糸が広がる。同時多発するパペット。
「対象、II、援護を要請」
「いらない」
呻くように吐き捨てた瞬間、四方向から影が跳ねた。速い。だが、雑だ。
一体目。踏み込み、最短距離で刃を振る。蒼白の線が走り、胴体が斜めに崩れる。
二体目。爪を受け、装甲が軋む。衝撃が腕に返り、関節が悲鳴を上げた。
間合いを殺し、肘で顎部を砕く。核が露出した刹那、刃を突き立てる。
三体目。背後から。反応が遅れた。
肩を裂かれ、装甲が弾け飛ぶ。熱と痛みが遅れて走る。
「警告……ノードに損傷、ノード」
呼吸が重い。だが、足は止めない。
四体目。壁を蹴り、空中で回転。
エアルを足場に斬る。
五体目。六体目。確実に。殺しきる。だが減らない。むしろ、集まってくる。床が、脈打った。巨大な影が、通路奥で立ち上がる。複数のIIが融合した、不完全な塊。
「一掃する」
圧が違う。空気が軽い。
「合わせろ」
「ジャッジ」
ゆっくりと立ち上がった。
装甲は割れ、エアル一機は沈黙。
肺が、焼ける。風圧が、頬を冷たく撫でる。
指輪に触れ、深く息を吸う。
「出力解放」
悲鳴のような振動を発し、突進するヴァジュタス。だが動じない。
刃を収束し、蒼が爆ぜる。悲鳴すら上げずに焼き切られ、灰となって霧散した。装甲は霧のように収束する。通路には歩く音だけが残った。
*
通信が唐突に切れ、ブリッジの照明が低く唸る。青白いホロパネルだけが静かに光を投げ、薄い霧のような冷却蒸気が床をはっていた。
「ほんっと」
マリナは端末を握りしめたまま、唇をわずかに噛んだ。肩までの黒髪は汗で頬に張りつき、淡い琥珀色の瞳が焦燥で揺れている。
普段は落ち着いた物腰の彼女だが、その端正な顔に刻まれた眉間の皺は深かった。
「すーぐ自分だけで突っ走るんですよ」
シルヴィアが両腕を組み、椅子を蹴るように立ち上がる。ミント色のショートヘアが揺れ、鋭い銀のピアスが光を弾いた。
「なんでも自分でやらなきゃ気が済まないんですかねー」
やれやれと、呆れている。
「調子のって」
パネルに浮かぶノード波形を指で叩く。赤い警戒ラインが波打ち、旧区画の深部が呼吸するように明滅している。
「II、相手にひとりって……スゴイんだが脳筋なんだか」
シルヴィアの声が少しだけ震え、膝のあたりで拳を握り直す。彼女の薄い戦闘用スーツは、まだ新人用の灰色だ。それが余計に不安を際立たせた。
「行くよ」
「えぇー」と渋る彼女を押しのけ、ラックにかけられた外套をつかんだ。深紺色のコート裏には、ヴェールアゼル干渉材の薄膜が縫い込まれている。その表面が光を受けて微かに虹色に揺れた。
「ウィルさんの指示なしに出る気ですか?」
「リンク繋がらない今こうしててもしょうがないでしょ」
マリナは外套の前を留めながら、黙ったまま端末を胸元へ下げた。
「後で怒られても知りませんからねー」
そこにはユトスの途切れた通信ログ、波形の最後の揺れが残っている。彼女はその一点を見て、ほんのわずかに目を伏せた。
「先輩もだけど、マリナさんもたいがい」
「なにか言った?」
「何もいってませーん」
シルヴィアは慌てて背筋を伸ばし、装備ラックに急ぎ足で向かう。彼女が装着する腕輪型インターフェースが起動し、淡紫色のパターンが走った。マリナも自分の胸元のタグをタップし、淡青の光を纏うように戦闘装備へと切り替える。
空気が一瞬だけ冷え、微細な粒子が舞い上がった。彼女は端末を静かに見つめる。
二人は旧区画へと歩き出す。
*
搭載された視認カメラがゆっくりと角度を変え、瓦礫層の深部――ユトスがいる旧区画方向へと焦点を合わせる。ホロ投影が宙に浮かぶ。移動ログ、旧区画の侵食率が二層が立体として描き出される。しばらくその光景を観察したまま静止した。薄明の風が吹き、雲が切れ、わずかな光が冷たい外装に反射すると、夜の残滓へと溶けるように沈む。
一斉に蠢く。
(群衆化)
円を描きながら距離を詰める。
肺が熱を持つ。腕が重い。ノードに負荷をかけすぎた。
「くそったれ」
爪が振り下ろされ――空気が裂けた。轟音。
ヴァジュタスの頭部が内側から弾け飛ぶ。
衝撃波が円状に走り、黒い粒子が逆流した。
「どいて」
低く、苛立ちを噛み殺した声。ユトスが振り向くより早く、彼女たちは前に出る。深紺の外套が翻り、干渉膜が蒼く展開した。彼女は一切こちらを見ない。こめかみがわずかにひくりと動く。
「言うことは?」
マリナが満面の笑顔で近づいてくる。
同時にエアル三機が跳ね上がり、制御権が強制的に上書きされた。
「三秒で片づける」
言い切り。
次の瞬間、侵食域が静止した。空気が凍りついたかのように、クラスIIの動きが止まる。蒼い光が交差し、次々と崩れ落ちた。
「遅かったな」
彼女はまっすぐに向かってくる。一歩踏み込み、めっちゃくちゃ頬をつねられた。
「何が遅かったよ。アンタが! 少しも! 協力しないで!」
さらに平手を一発お見舞いされる。
「ッ! なぐることねぇだろ!」
「何度言えば! 分かるのかなぁ!」
逃げ回る彼を見て、クスクス笑うシルヴィアは、それを横目にヴェゼルを展開し、周囲の元素をルクス因子へと変換させる。処理を終えたのを見届け、外套の裾を払う。
*
旧区画の通路――かつて人が暮らした痕跡を半ば侵食が覆っている。
壁面には崩れかけた案内表示、読めない言語に変質した広告。床下からかすかな振動が伝わってくる。
「エアル、再同期。隊列、デルタ」
指示で三機が滑るように配置につく。
「勝手に制御権奪うのは反則だろ」
「反則ぅ? 隊のエアル持ち出して何をいうのかなぁ?」
振り返らず、軽い調子で言う。だが歩調はわずかに早い。
(いてぇ)
さっきの平手が答えだった。
「チームワークを知らないの?」
「合理的だろ? 単独でIIを撃退し、本命に向けて戦力を温存――現にこうして」
「さっき、へばってたヘバトス君が何かいってるぅー」
「へばってねぇし」
すると、シルヴィアが現れる。
「ケンカは後にしてください。来ますよ」
金属を擦る音とともに、黒影が束になって落下した。瞬時に人形になる。
「数は?」
「四……いや、分裂する」
マリナが足を踏み込むと空気が歪む。ユトスは反射的にノードを起動した。
「置いてかれるなよ!」
跳躍。マリナが前線を切り裂き、ユトスが側面から追撃する。槍のように伸び、ユトスは半歩遅れ――肩をかすめた。
「だから言ったでしょ! 後ろで休んでていいよ、ヘバトス君!」
「うっせぇな!」
マリナのエアルが割り込み、蒼光が影を焼き切る。
「……何この感じ」
シルヴィアが低く告げる。
三人の足が同時に止まった。照明は点滅を繰り返し、外界との通信も不安定。自然と視線が集中する。雑音混じりの唸り。さっきまでの無秩序とは違う。
「IIじゃない」
空気が張りつめる。
「ようやくお出ましか」
昂る彼を尻目にマリナは小さく息を吐き、外套の留め具を締め直した。
「Ⅲ」
二つの声が重なった。
黒い塊は、Ⅱのような分かりやすい「形」ではなかった。無数の線と霧が、旧区画の壁・床・天井に染み込みながら、一つの空白を囲むように収束していく。その一点だけが、目の焦点を拒絶する。
擦り傷だらけの装甲ブーツが金属床を鳴らし、胸当てに走った古い焦げ跡が、闇の光を鈍く返した。近づくほど、世界の輪郭が曖昧になった。足音が遅れて聞こえ、呼吸の回数が噛み合わない。胸の奥で、誰のものとも知れない記憶がざわめいた。焼け落ちた居住区。泣き叫ぶ声。
避難リストの画面に、赤く引かれた線。
「ユトス」
マリナの声が遠くから聞こえた。
琥珀色の瞳が、揺れながらも彼の背中をまっすぐ捉えている。言い切った瞬間、ノードが反応する。黒の霧が、彼の足元へ吸い寄せられた。まるで、帰る場所を見つけたかのように。
「やっぱり」
背後でマリナが息を呑む。その言葉に、微かに震えた気がした。Ⅲの空白が、こちらに「向き」を変える。彼だけを、正面から見据えるように。
黒いノイズが揺れた。
【アクセス要求:記録層/旧区画-07/決定】
【優先退避枠:二百名】
【選別担当:Y-……】
最後の行だけが、ノイズで塗り潰されている。だが、その欠けた部分を「知っている」という確信だけが、喉の奥を焼いた。
『応答せよ』
声ではない。震えが、そのまま意味になって脳に流れ込んでくる。
『管理者キー。君たちは、こちら側の階層に属する』
音が消え、冷却蒸気の揺らぐ。ただ、自分の呼吸の「記憶」だけが、遅れて耳に届く。
『失敗と損失は、削除対象。君たちが背負っているノイズを、こちらで修正する。その代わり――』
ユトスは、静かつづける。
「失敗を勝手に消すな。それを抱えてるから生きてるって実感できんだよ」
『非合理的選択』
「めんどくさいのが人間なんだよ」
時が、弾けるように動き出した。
「ユトス!!」
マリナの叫びとともに、蒼光が爆ぜる。彼女のエアルが介入し、ユトスとⅢの間に干渉膜を叩き込んだ。ノードに絡みついていた黒い手が、切断された瞬間、耳の奥で、別の振動が重なった。
低く、腹の底を叩くような重低音。旧区画そのものが、遠くから殴られたように、ずしりと揺れる。
「ッ……今の、なに?」
「外部衝撃。ベクトル解析――上方」
エアルの声に、三人の視線が同時に天井へ向く。遅れて、瓦礫が雨のように降ってきた。ひび割れた配管、崩れた補強材、赤く焼けた金属片。砲撃が、廃れた旧区画を強引に叩き割る。
「空母艦の対地砲ッ! マジですか、今撃つ!?」
シルヴィアの顔色が変わる。
そのとき、頭蓋の裏側に、馴染みのある声が割り込んだ。
『――お前たち! 聞こえるか?』
強制リンクの、低くよく通る声。
『遅くなって悪かったな』
「隊長!」
「隊長じゃない、パパと呼べ!」
マリナは思わず鼻で笑ってしまう。
「バカじゃないの」
通信が不安定なはずの旧区画で、その声だけは異様なまでに鮮明だった。
『アシャルはこれより限定砲撃を継続し、階層をぶち破る。旧七番区画を脱出するぞ』
「待てよ。こいつをここで!」
ユトスの反論を遮るように、再び上方から轟音が降り注いだ。天井が裂け、焼けた鉄骨が通路を塞ぐ。黒い糸と瓦礫が混じり合い、視界が一瞬、真っ白な粉塵で埋め尽くされる。
『強制リンク発動しろ』
『了解』と通信士の声にユトスは割り込む。
「ざけんな! 上から砲ぶち込んで通路潰して――」
だが、口から吐血する。ノードに限界がきている。
声が途切れ、乱れる呼吸。
『離脱する!』
ウィルの声には、迷いがなかった。
『ヴァジュタスだろうがなんだろうが、関係ない。家族が帰る場所は一つだ』
通信が遮断されると同時に、通路奥で黒い霧がうねった。砲撃で崩れた天井の断面から、さらなる黒い液体が滲み出る。ヴァジュタスは、砲撃すらも素材に変えながら、中心の空白へと収束していった。
「くそったれ」
ユトスは天井の裂け目を睨みつける。
砲撃で強制的に開けられた穴、その向こう。Ⅲの視線が、相変わらずユトスたち三人だけを正確に追っていた。
『命令に従え』
声にもならない問いかけが、ノードを通じて突き刺さる。上からの命令。ヴァジュタス側からの招待。どちらも、ユトスの意志を置き去りにしたまま、勝手に世界のルールを決めていく。
「選ぶのは、俺たちだ」
マリナが割り込む。
「鍵としてじゃなくて、私たち自身として」
「アシャルのリンク接続確認! スケープします!」
シルヴィアの指がインターフェースを駆ける。次の瞬間、エアルの推力が解放され、アシャルは崩壊域へと弾き出された。瓦礫の間を駆け抜け、背後で区画が潰れる。衝撃が追いすがるが、機体はすでに境界を越えていた。通路の奥、砲撃で崩れたはずの壁面が、ノイズの波を纏って揺らいだ。
*
医療デッキの天井は、やけに白かった。
殺菌灯の光が反射して、視界の奥がじんわり滲む。消毒液の匂いは嫌いだ。少なくとも、焦げと腐臭よりはまともだけど。
「――脈拍、正常。ノード温度、基準値内」
淡々とした音声に合わせて、ユトスの腕に固定されたバンドが外れた。
「はい。もう動いていいですよ」
白衣の彼女が、拍子抜けした顔で言う。
「終わり?」
「終わり? じゃねぇよ。むしろ、きれいすぎるくらいだ」
カーテンレールを模したホログラムが解除されると、肩を叩きながら医者らしからぬ恰好。あくびをかきながら男が入ってくる。彼は眼に光をあて焦点を見る。
「めんどうおこしやがって」
「ダリア先生、解除しないでください」
その言い方に、嫌な予感がした。隣のベッドでは、マリナがまだ寝かされている。外套は脱がされ、胸元のインターフェースから淡い光が脈打っていた。彼女の眉間には、うっすらと皺が寄っている。
「別に興味ねぇよ。人の体なんぞ、形がちがうだけ――」
「セクハラですよ」
眼光の鋭さが増し、悪びれる様子もなくホログラムを起動する。
「マリナは?」
「軽度のノード焼け。想定範囲です」
そう言って、セラはモニターを切り替えた。三つの波形が並ぶ。
彼女の波形は荒れている。シルヴィアのは、細かく揺れながら安定している。
そして――
「セラ、あれを見せてやれ」
「はい」
そして、差し出される端末。
「これが、あなたのです」
そこには波形は、異様なほど滑らかだった。揺れがない。ノイズがない。まるで、最初からそういう形だったみたいに。自分でも目を疑う。
「正常です。ええ、完全に」
彼女は困ったように肩をすくめる。
「長時間滞在。ノードの多重負荷で吐血もしていた。血管のひとつやふたつ切れて死んでもおかしくねぇのに」
ユトスは黙ったまま、画面を見つめた。
(消えてない)
胸の奥で、はっきりと分かる。消えたんじゃない。収まっているという感覚に近い。
「ユトス先輩」
低い声がした。
振り返ると、シルヴィアが端末を抱えて立っていた。いつもの軽口はない。淡紫のインターフェース光が、落ち着きなく明滅している。
「どこまで記憶にありますか」
「なんの?」
「上書きしたのはエアルだけじゃないですよね?」
彼女は端末を操作し、ホロを展開する。旧七番区画、消滅直前のログ。砲撃、崩落、脱出――その合間。
「ここ」
時間軸が、ほんの一瞬だけ歪んでいた。
「そんなこと――」
「気にするな、ですよね。それが一番つらい思いさせてるって分からないって言わせませんよ」
シルヴィアは、はっきりと言った。
「あぁ」
暗くなった画面に自分の顔が映る。きっと彼女は哀れみでも、怒りでもない、顔をしている。その顔を見れないでいる自分は突っ張るだけのガキでしかない。そんなことは自覚している。
すると、隣でマリナが目を覚ました。背伸びをしながら、はだけた胸元をただす。シルヴィアがホログラムを解除すると、じぃーとこちらを見てくる。
「……なに、深刻そうな顔してんの」
「別に」
「起きてすぐ言うのもどうかと思うけどさ」
マリナは視線を逸らさず、続ける。
「私たちにいうことあるよね」
「あ?」
彼女の表情が、凍りついた。
「あ゛?」
どすの聞いた声に呼応してシルヴィアはコップに水をそそぎ、頭上にぶっかけるスタンバイ。
「まてって。あ、あー」
プライドが高いとかじゃない。いや、これが甘えだと分かっている。
「手がすべったー」
シルヴィアゆっくり一滴ずつ首筋にかけてくる。
「あ……ありがとう」
その言葉が恥ずかしくなったのはいつからだろう。
「な、なんだよ! これでいいだろ」
彼女たちは笑っている。
「顔真っ赤になってるよー」
「なってねぇし」
マリナの柔らかい笑みを見て、安堵する。この顔を見るのは久しぶりな気がしたからだ。
「よく言えました」
「うんうん」
シルヴィアはコップを机におき、腰をかける。
「お前はなんともないのか?」
「はい。ノードコントロールは得意なんで」
得意げな表情に、マイペースな奴だとつくづく思う。
「お前たちはⅢを見たんだったな、目の前で」
ダリアは机にあったコップをすする。苦そうにしているとセラがしたり顔をうかべている。だがすぐに、医務室を出ていった。
「どうだった?」
「わけのわからない奴でしたよ」
彼女たちも無言でうなづく。
「自分だけ都合よく生きてる。全ての中心にいるみたいに」
「そうかい」
医療デッキが、妙に静かになる。遠くでエンジンの低音が鳴っているのに、耳に入らない。
「宙の連中も今回の一件で俺たちに気づくだろうよ」
「でしょうね」
少しだけ瞼が重くなる。マリナの横顔がいつもより暗くなる。
「戻るのか?」
ダリアの問いにユトスは、思わず笑ってしまった。
「戻る? どこに」
誰も答えない。マリナが、ゆっくりと上体を起こす。
「……だから」
「関係ねぇよ」
「あるよ」
いつもより、ずっと低い声だった。
「私たち、捨てられた。でもあんたは――」
ユトスは視線を逸らす。
「……もしさ」
ぽつりと、マリナが言った。
「その人がきたら」
その問いは、殴るより痛かった。
「どうするの?」
ユトスは答えない。答えられない。代わりに、胸の奥で何かが、静かに反応した。ノードが、一拍だけ脈を打つ。換気口から吹き抜ける風がつまさきを鈍らせていく。もう冬か。あれから、もう一年。
答えはでているのに、正解ではない。矛盾に似た選択が迫っていた。
*
旧七番区画消滅。
星の裏側には、常に遅れて届く光。ノア観測層。冷たいガラスの天蓋越しに、旧区画-07の立体像が静かに浮かんでいた。侵食率のヒートマップは、もはや意味をなしていない。赤でも青でもない、「記録不能」の灰色が、地図の中央にぽっかりと穴を開けている。
「また、ひずみが増えました」
背後からの声に、イリスは振り向かなかった。透き通るような銀髪をひとつに結い、首筋から背中へ、虹色のインターフェースラインが静かに走っている。
「今回は、ただの消失じゃない」
指先でパネルをなぞると、映像が巻き戻される。落前の通路。黒い霧。蒼い閃光。
そして――灰色の空白。
「彼らが割り込んでるわ。まさか生きてるなんて」
モニタに、三つのシグナルが浮かぶ。一つは、異常なノード同調率を示す深い蒼。残り二つはそれに同期しながらも、周波数を微妙にずらし、干渉し合っていた。
「ヴァジュタス管理層プロトコルへの接続試行――成功率、三%」
イリスはかすかに笑う。優しさに似た色と、どこか冷ややかな光が、その瞳に同居していた。
「ヴァジュタスは、彼らを拒絶できない。彼らの身体にも、意識にも、とっくにコードの断片が刻まれている。――管理者としての刻印がね」
イリスは視線を上げる。観測層の天蓋の向こう、星空の一点が静かに瞬いた。
「人類としても、システムとしても、どちらにも戻れない境界」
その方角には、旧区画-07の灰色の穴がある。
「だから、その前に選ばせる必要がある」
「選ばせる?」
「そう。彼らもそれを望んでるじゃない」
彼女は掌を開き、透明なウィンドウを一枚、そこに浮かべた。
【対象:生存確認】
【ステータス:鍵候補/管理者権限互換】
【観測者メモ:――】
一瞬だけペン先が止まり、短くため息が漏れる。
「本当は、こんな賭け方はしたくないんだけど」
それでも、書き込んだ。
彼らが――どちらを選んでも、この世界はもう元通りには戻らない。ウィンドウが保存の光を瞬かせ、記録層へ沈んでいく。イリスは立ち上がった。
「準備して。次に新区画が開くとき、今度は観測じゃ済まないから」
三日月が沈むと、まどろむことすら忘れた空が広がる。
暗闇に光が集まるとページとなって手元にとどまる。彼女はその映像を開いた。
*
銀白の大理石が敷き詰められた大円形ホール。
その天蓋からは、恒星を模した光が降り注ぎ、青白い光柱が演壇を包む。
幾千の視線が一斉にその中心へと集まった。
そこに立つのは、白髪を背に流し、漆黒の礼装を身に纏った女性。リフリア・エルヴェ。その意志を秘めて会場に注がれる。
「――『我思う、ゆえに我あり』。十七世紀の哲学者ルネ・デカルトの言葉です。思考すること。それは存在の最も根源的な証明とされてきました」
呼吸。彼女は視線を遠くに投げる。
「ですが……果たして、思考することだけで《《生きている》》と言えるのでしょうか? 呼吸し、情報を処理し、命令に従う。それだけなら、機械にもできる。感情も模倣できる。では、人間の《《存在》》とは何なのか?」
薄明のなか、群衆は彼女を見つめる。
「ニーチェはこう述べました。『人間とは、乗り越えられるべき存在である』と。私たちがこの場所――《《ノア》》に立つ意味。それは、生存の延長線上にある逃避ではなく、進化への選択なのです」
演壇背後のスクリーンに、地球の荒廃した映像が浮かび上がる。焦土、黒煙、沈黙。
「地球は、すでに答えを失った惑星です。争いと搾取の果てに、自らの存在理由を喪失した。私たちはただ生き延びるためにここに来たのではありません。人間という概念そのものを、再び問い直すために来たのです」
今度は、ノアの軌道図。均整のとれた都市構造、循環するエネルギー、静謐な空。
「人間とは何か。存在とは何か。私は誰か。この問いを抱き続ける限り、人は死なない。だが、問いを忘れたとき、我々は機械と変わらなくなる」
リフリアは手を広げ、より鮮烈に響く。
「ここにいる皆さん一人ひとりが、問いを持つ存在です。与えられた役割をただこなすのではなく、疑い、葛藤し、決断する――それこそが、人間である証」
そして、視線を真っ直ぐに客席へと戻す。
「ようこそ、ノアへ。ここは、あなたの存在を試される場所。生まれ直すのは、肉体ではなく《《意味》》です。選び取りなさい。あなたが何者であるかを。存在せよ。迷いのなかで、なお在り続けよ」
その最後の言葉は、沈黙を裂くように響いた。そして一拍の静寂ののち――大きな拍手と歓声が、波のようにホールを揺らしていた。
*
彼女はページを閉じる。窓に映る自分に雲が重なり、降りてきたと実感する。
「私は……」
ふいにこぼれた声は、ガラスを白く濁し、顔を隠す。




