その1
目を覚ました瞬間、視界に広がったのは、どこまでも続く草原だった。
柔らかな土の感触。鼻孔をくすぐる青臭い匂い。
高く、乾いた空。
——ここは、どこだ?
起き上がり、周囲を見渡す。
建物も道路もない。人影もない。ただ、緩やかに波打つ草原が地平線まで続いている。
思考が追いつかないまま、自分の体を確認する。特に怪我はない。服装も、昨晩寝た時と同じ。
ポケットの中にはスマホ。電源は入る。しかし、通信は圏外。GPSも現在地を示せない。
自分は……寝ていたはずだ。
そして、起きたらここにいた。
どういうことだ?
強制的に運ばれたのか? 誘拐? だとすれば、なぜこんな無人の草原に?
それとも、記憶障害? 事故にでも遭ったのか?
考えられる可能性を一つずつ検討していく。
自力で動いた記憶はない。周囲に文明の痕跡もない。拉致にしては不自然だ。
地球上の僻地に連れてこられた可能性もゼロではないが、どこの国でもないような空気の違和感がある。
太陽の位置も微妙におかしい。——気のせいかもしれないが。
異世界、という言葉が脳裏をよぎる。
馬鹿げている。だが、消去法でいけば、最も矛盾が少ない仮説はそれだ。
とにかく、ここに助けは来ないと考えた方がいい。
ならば、人がいる場所を目指すしかない。
水場を探すなら、地形の低い方角だ。
立ち上がり、方角を定め、草原を歩き始めた。
時間の感覚が狂う。
太陽は頭上を巡り、足元を焼く。喉が渇く。足が痛む。
それでも、ひたすら歩く。
目印はない。進んでいる実感もない。ただ、進まなければならない。
ふと、草むらの中に踏み跡のようなものを見つけた。
希望に縋るように、その痕跡を追う。
だが、それは……自分の靴跡だった。
気づかぬうちに、俺は同じ場所をぐるぐる回っていたらしい。
——リングワンダリング。
利き足が強く、わずかに偏った歩行が、やがて巨大な円を描く現象。
確か、何かで聞いたことがあった。
だが、実際にそれに陥った自覚はなかった。
これほどあっさりと人間の感覚は狂うのか。
乾いた笑いが漏れた。
空は青く、風は心地よい。
だが、それだけだ。
ここには、何もない。
俺は、再び歩き出した。
今度は、太陽と自分の影を目印にしながら。
どこかに、人のいる場所があることを信じて。