チョコレートスタートライン
「ぁ……」
高校受験当日、その日は数年に一度の大寒波が地元を襲い、雪が降っていた。
受験でガチガチに緊張していた上、雪道に慣れているわけもなく、私は滑って転んだ。
受験生に『落ちた』、『転んだ』は厳禁。そんな言葉が頭の中で反響する。
誰もが自分のことでせいいっぱいで、転んで動けない私なんかに目もくれず、受験生たちは通り過ぎていく。
元々、自分に自信が持てない内気な性格で、誰も助けてくれない状況に私は呆然とし、動けなくなってしまう。掛けていた眼鏡が壊れていないだけマシなのかもしれない。それでも、私の心を不安と恐怖と恥ずかしさが襲い、散らばった荷物を集めることすらできない。その場で俯いているせいで視界の端に私の三つ編みが映り込む。
「大丈夫?」
そんな中、目の前に差し出されたのは一つの手。ゆっくりと顔を上げるとそこには――君がいた。
そう、月並みな言葉で申し訳ないけれど、その日、私――『月雪 珀希』は彼にどうしようもなく恋をした。
「はぁ……」
色々あったが何とか志望校に合格した私は春特有の暖かな気候の中、深いため息を吐く。教室では和気藹々とクラスメイトたちが交流を深め、楽しそうに休み時間を過ごしていた。
(入学して早2か月……うぅ、完全に出遅れたぁ)
そんな休み時間を自分の席で無駄に過ごしているのは私。あまりに情けなく、涙が出そうだ。
元々、社交的な性格ではないため、こうなることは何となく予想していた。しかし、新生活ということもあり、高校デビュー、というにはあまりに些細な一歩を踏み出した身としては何かしらの変化があってほしいと願ってしまうのは自分に期待しすぎだろうか。
「……はぁ」
眼鏡のない生活にもようやく慣れ、何の躊躇いもなく、机に伏せることができた。今のところ、眼鏡を壊す心配をしなくてよくなったこと、髪を切ったおかげで視界がクリアになったことぐらいしか高校デビューをしてよかったと思える部分がない。
なお、未だにコンタクトレンズを入れる時は怖くて仕方ありません。目薬も満足にさせない小心者です。
「おーい、授業始めるぞー。席に着けー」
気づけば休み時間が終わり、午前中最後の授業が始まる。クラスメイトたちは慌てて自分の席に戻っていく。それを眺めながら私は横目で窓の外を眺めた。窓際の席は日当たりもいいし、気分転換目的で空を眺めることができて何かとお得な気がする。
さて、いい加減、現実から目を背けるのは止めよう。
はい、高校デビューした理由は完全にあの人です。
――『荻原 拓海』くん。それが彼の名前。
受験日に自己紹介したわけではない。もちろん、入学した後に仲良くなったわけでも、同じクラスになったわけでもない。
じゃあ、どうやって彼の名前を知ったのか。
単純に女子の間で噂になるほど人気が出ただけである。
(そりゃそうだよね……そうなるよね)
噂――というか、情報提供者の話では荻原くんは明るく、優しく、勉強も運動もできて、男女ともに隔てなく接し、気遣いもできるそうだ。
モテないわけがなかった。太陽が東から登り、西へ沈んでいくほど当たり前の話である。
彼の周囲には常に人がいてメンタルザコザコな私が割って入っていけるわけもなく、うだうだと2か月が過ぎた。
彼の周りに人がいるから。
今日は調子が悪いから。
雨が降りそうだから。
明日は休日だから。
――何となく、嫌な予感がするから
「……」
そんな言い訳を繰り返し、近づきもせず、ただ無駄な時間を過ごした。
高校デビューして変わったような気がして?
新生活だから何かが変わるような気がして?
結局、何も変わらない。いや、変わろうとしない。
それでどうやって、変われるというのだろう。
(ほんと、バカみたい)
ほら、そうやってまた自虐に走って逃げる。そういうところだろう、私。
さて、不甲斐ない私をさらけ出したわけだが、実は荻原くんに近づかない、真っ当な理由が少しはあったりする。
「それで! 拓海ったらさぁ!」
時は進んでお昼休み。生徒たちで賑わっている食堂にはもそもそとお弁当を食べている私。そして、その前で売店で買ったパンをほったらかしにしてポニーテールを揺らしながら楽しそうに話し続ける女の子、私の唯一の友達といっていい幼馴染――『朝比奈 陽菜』ちゃんがいた。
「……」
「ん? どうしたの、珀希? 元気ない?」
「う、ううん! そんなことないよ、陽菜ちゃん」
考え事をしていたせいで反応が遅れてしまい、陽菜ちゃんに心配をさせてしまった。慌てて否定してお母さんが作ってくれたお弁当に箸を伸ばす。様子のおかしい私をジッと見つめてきた彼女だったが、意図的に無視していると目線を外してやっとパンに口を付けた。
「そ、それで荻原くんがどうしたの?」
「あ、そうそう! あいつったら!」
違和感のないように話を誘導すると陽菜ちゃんはまた楽しそうに話し始める。いつも通りの景色。だから、この胸の痛みだってすでに慣れた。慣れた、のだ。
陽菜ちゃんは幼稚園の頃からずっと一緒にいた幼馴染である。ほとんど同じクラスで違ったことは片手で数えるほどしかない。
そして、高校生になって珍しく違うクラスになり、彼女は荻原くんに出会った。
――珀希、あたし、好きな人、できちゃったかも。
今でも顔を真っ赤にしてそう告白した彼女の顔を思い出せる。天真爛漫で、ほんの少し男勝りな性格な彼女をずっと傍で見ていた私だからこそ、こみ上げる何かがあった。
そして、遠いところから荻原くんを指さしてあの人だと言われた時、私は初めて彼も合格していたことと名前を知ったのだ。
「そうなんだ」
唯一の友達と同じ人を好きになる。
よくあるラブコメにはありがちな展開だが、当事者になってみてよくわかった。これはあまりに体に毒だ。
胸の奥底から湧き上がる恋愛感情と傷つけたくない友情。どちらを取っても、どちらかを我慢しなければならない。そんな八方塞がりな選択を迫られ、私は友情を取った。
いや、違う。友情を取ることで彼に近づかない理由を作った。臆病者な私は陽菜ちゃんを利用したのである。
ああ、これで荻原くんを――。
「あ、拓海! 珀希、ちょっとごめん!」
「ッ……」
その時、不意に陽菜ちゃんが立ち上がり、私に一言そう言って入口の方へ駆け出す。そこには荻原くんがいた。どうやら、彼もお昼を食べに食堂にやってきたらしい。
「あれ、拓海、食堂は珍しいね」
「ん? ああ、陽菜か。食堂は初めてかもね」
そう言って荻原くんはキョロキョロと周囲を見渡す。基本的に彼は誰かと一緒にいるので待ち合わせ相手を探しているのだろうか。
「そうなんだ、お昼は?」
「いや、まだだよ。へぇ、食券を買って注文するのか」
「そうそう。あ、もしよかったら一緒に食べない? ちょうど、前に話した幼馴染と一緒に食べてるんだ」
「ぇ……」
聞き耳を立てていた私はまさかの展開に小さく声を漏らしてしまう。このままだと荻原くんと一緒にご飯を食べることになる。
ああ、駄目だ。
「俺はいいけど……その子には許可を取らなくていいの?」
「大丈夫大丈夫! ほら、あそこ……あれ、珀希?」
気づけば私は食べかけのお弁当箱を抱えて2人に気づかれないように食堂を後にした。
弱虫。
「あっつぅ……」
季節は巡って夏。学校は夏休みに入り、テレビでは毎日、聞くのも嫌になる最高気温の温度と熱中症で倒れた人数を報告している。
そんな猛暑の中、私はうだうだと目的地に向かって歩いていた。最近、遊ぶ機会がめっきり減ってしまった陽菜ちゃんと待ち合わせをしているのである。
どうやら、私の想像以上に陽菜ちゃんは荻原くんにご執心らしく、暇さえあれば荻原くんにアタックしていた。
それだけ聞くと陽菜ちゃんが荻原くんに付きまとっているように聞こえるが実際にアタックしている回数はそこまで多くない。単純に陽菜ちゃんが忙しいのである。
彼女は運動神経が抜群であり、よく運動部の助っ人に駆り出されているのだ。それでいて特定の競技に固執しない。小さい頃はバスケをしていたのだが、あまりに上手すぎて疎まれてしまった経験があり、それがトラウマになってしまったのだ。
だから、運動部の助っ人でもバスケには手を出さなかった陽菜ちゃんだったが、最近はバスケ部にも顔を出しているらしい。きっと、荻原くんが関係しているのだろう。
(すごいなぁ、荻原くん……)
陽菜ちゃんが苦しんでいたのに幼馴染である私は何もできなかった。それを彼はたった数か月で解決してしまったのだ。
二人の間に何があったのかはわからないが、少なくとも私ではどれだけ時間をかけても陽菜ちゃんのトラウマを取り除いてあげられなかっただろう。
そんなこともあり、最近の陽菜ちゃんはまさに絶好調。バスケでダンクを決めてしまうほどの好調っぷりだ。
(今日は買い物して、カラオケして、ご飯を食べて……あれ?)
「だから、止めて!」
「いいじゃん? 暇してるんでしょ?」
「待ち合わせしてるんだっつーの!」
陽菜ちゃんと久しぶりに遊べるからか、いつもよりテンションが高めの私だったが、不意に誰かの言い争う声が聞こえた。そちらを見ると私と同じくらいの年の女の子が大人の男性に絡まれている。ナンパ、だろうか。確かに絡まれている女の子は少し派手な格好をしているものの、可愛らしい容姿をしている。少し明るめの肩甲骨ほどまで伸びた茶髪は染めているのだろうか。それとも、地毛?
「ちょっと……ッ」
女の子は手を掴まれ、逃げられない。さすがにやばいと思ったのか、助けを求めるように周囲に視線を泳がせる。だが、騒ぎを遠巻きに見ていた人たちは誰も知らないふりをしていた。
「ッ……」
私もその中の一人だ。だって、私はメンタルクソザコの弱々陰キャ。私が助けに入ったところで何もできずにペチッてされるだけだ。きっと、荻原くんのような優しい人が助けてくれるだろう。漫画や小説ではそういうお約束だ。
「なぁ? いいだろ?」
「だ、から! やだって言ってるでしょ!」
男性の誘いに強い口調で拒絶する女の子だったが、その声は僅かに震えている。日々、人の顔色ばかり窺って生きてきた私だからわかった。あの女の子は、怖がっている。
――大丈夫?
「あ、あの!」
あの雪の日がフラッシュバックし、気づけば私は女の子と男性に声をかけていた。いきなりか細い声が聞こえ、ほぼ同時にこちらを振り返る二人にビクッと肩を震わせてしまう。
「そ、そそその子……わ、私と、待ち合わせ……してます」
「ぇ……」
まさか私のような陰キャが助けてくれるとは思わなかったのか、女の子は小さく声を漏らす。幸い、男性は聞こえていなかったようだが、それは彼の興味が私に移ったからだ。
「お? おー、君も可愛いねー」
「へ?」
「いいよいいよ。二人とも奢ってあげる! ほら!」
まさか私も誘われるとは思っておらず、体が硬直してしまい、男性の手をかわすことができなかった。まさにミイラ取りがミイラになる典型的なパターン。ちょっと腕を引っ張ってみても男性の力が強くて抜け出せない。
「え、ああああああ、あの! そういうのはちょっと困るっていうか!」
「ちょっとだけ! ちょっとだけだから、ね?」
「ひええ」
ほとんど勢いで飛び込んでしまったせいでこの後の行動を考えていなかった。やばい、どうしよう。陽菜ちゃんとの約束もあるし、この女の子も逃がしてあげなきゃ。
(陽菜ちゃん、ごめんなさい!)
「ぁ……えっと、この子は少し、急いでて! 行くなら、あの、私、だけ――」
「なっ! させるわけないでしょ!!」
「痛って!」
せめてこの子だけでも助けようとしたが、その前に女の子がそれを止めて男性の腕を強く叩いた。彼はたまらず彼女から手を離してしまう。その衝撃で私の腕も解放された。
「ほら、行くよ!」
「え、ああああああああ……」
そのまま女の子に引っ張られるような形で私はその場を後にする。陽菜ちゃんとの待ち合わせには遅れてしまいそうだ。
「あんたね! 自分を犠牲にしようとしたでしょ!」
「ご、ごめんなさい!」
逃げ出した私たちだったが、すぐに私がスタミナを切らしてしまった。このままでは遠くまで逃げられないと判断したらしく、女の子は近くの喫茶店へ飛び込んだ。体力クソザコですみません。
「ほんとに、ほんとにもう!」
プンプンと怒っている女の子は気持ちを落ち着かせるためにコーヒーを飲む。男性に見つかる可能性もあったのですぐにお店を出るわけにもいかず、流れで一緒にお茶を飲むことになったのだ。
「……はぁ。ごめんなさい」
「へ?」
しかし、コーヒーを飲んで落ち着いたのか、女の子はいきなり謝罪する。何が何だかわからず、私は首を傾げてしまった。
「アタシを助けてくれようとしてくれたのに……怒っちゃって」
「い、いえいえ! むしろ、首を突っ込んでしまって申し訳ないというか! 騒ぎを大きくしてしまってごめんなさいというか!」
「そんな卑屈にならなくてもいいじゃない? スマート、とは言い難いけど助けようとしてくれたのは事実だし」
そう言って女の子は微笑む。近くで見ると本当に可愛い人だ。テレビに出ていてもおかしくないほどの容姿。これはきっと相当、モテるはずだ。学校の噂――教室で聞き耳を立てて聞いた話の中には彼女のことは出てきていなかったと思うので他校の人だろう。
「そうだ、自己紹介しましょ。アタシは『成澤 鳴海』」
「あ、あの……『月雪 珀希』です」
「じゃあ、珀希ね。よろしく」
「は、はい。よろしくお願いします、成澤さん」
いきなりの名前呼びである。私にはあまりにもハードルが高いため、苗字呼びで勘弁してください。
「……」
「……」
「……」
「……鳴海ちゃん」
「よろしい」
駄目でした。
それから鳴海ちゃんの先導の元、会話が続いた。
同じ学年であること。
やはり、他の学校に通っていること。
本当に待ち合わせをしており、その途中であの厄介なナンパに絡まれてしまったこと。
その待ち合わせ相手は幼馴染で久しぶりに遊びに出かけられて嬉しいこと。
幼馴染と久しぶりに遊ぶという共通項を見つけた私は少しだけ親近感が湧き、こちらのことも少しだけ話した。話したと言っても幼馴染の陽菜ちゃんがすごいということぐらいだが。
「へぇ、女子でダンクはすごいわ……ん?」
陽菜ちゃん語りでは負けない自信のある私の話を聞いて何か引っかかったのか、鳴海ちゃんは少しだけ目を細めたが不意にテーブルに置きっぱなしにしていた彼女のスマホが震えた。彼女はこのままお店を出るのは危険だろうと判断し、待ち合わせ相手である幼馴染をこのお店に呼びつけていたため、その連絡が来たのだろう。なお、私も陽菜ちゃんに待ち合わせに遅れることは連絡済みである。理由はぼかしたが何となく察してくれたのか、このお店に来てくれるとのこと。本当に迷惑をおかけします。
「……」
「ど、どうしたの?」
「……女友達とばったりあったから紹介したいって」
「あ、あー……」
鳴海ちゃんの幼馴染は男の子らしく、話の節々から鳴海ちゃんはその男の子に気があるっぽいことはわかっていた。そのため、鳴海ちゃんからしてみれば二人きりのデートに水を差されたような感覚なのだろう。
「いいもん。こっちは珀希を紹介してやるもん」
「え、えぇ……私はいいよぉ」
「いいの! あいつが待ち合わせに遅れなかったら珀希を怖がらせずに済んだんだから! 今日のお金、全部奢らせてやる!」
そう言い切る鳴海ちゃんだが、私も一応、女の子なわけで。本人たちは気にしなくても一人の男の子が三人の女の子を連れているように見えるのだが、いいのだろうか。
「あ……こっちも連絡が……」
苦笑を浮かべていると私のスマホも震える。タイミングからして陽菜ちゃんだろう。もしかしたら、お店に着いたのかもしれない。
「……」
「……珀希?」
「ごめん、鳴海ちゃん。ちょっと待ち合わせ場所、変わっちゃったみたいで……もう行くね」
「え、ちょっと!」
鳴海ちゃんの声を無視して素早く伝票を取り、私は会計を済ませてお店を飛び出した。
『お店に向かってたらばったり拓海に会ったんだけど、紹介してもいい? ほら、前から何回も紹介しようとしてたでしょ? 拓海も知り合いと同じお店で待ち合わせしてるみたいだから丁度いいかなって』
「……」
喫茶店近くの路地へ飛び込む。胸が苦しい。何度も息を吸っているのにいつまで経っても呼吸が整わない。
「いきなり女友達を紹介するとか何考えてるの!」
「え、だって、お前、きつい性格のせいで友達少ないから……」
「いるわよ! さっきまでいたわよ! あんたにお節介焼かれなくてもお友達できたわよ!! もー、本当に何も変わってない!」
「えー、でも、いないじゃん」
「いたの!! あんたよりもずっと優しくて、可愛らしい女の子が!」
「あ、あはは……」
そして、喫茶店の方から聞こえる、聞き覚えのある3人の声。その声の正体はすぐにわかった。
「でも、どこ行っちゃったんだろ……このお店にいるって言ってたんだけど……」
「……違うお店だったんじゃない? もう一回、聞いてみれば?」
「おい、初対面なのにそんなきつい言い方……」
「うっさい!」
そんなやり取りをどこか他人事のように聞いているとスマホが震えた。差出人は陽菜ちゃん。
「……」
震える手でスマホを操作する。あれ、フリック入力ってこんなに難しかったっけ?
「……お店の名前、間違えちゃってたみたい。それに具合が悪くなっちゃったから帰るって」
「え、大丈夫なのか?」
「……後で家に行ってみる」
「……ええ、そうしてあげなさい。ほら、拓海。あんたがお見舞いのお菓子、買いなさい」
「なんで俺が……」
「いいから!」
そんな会話を聞きながら私は狭い路地を歩く。そして、不意に足に力が入らなくなり、建物の壁に肩から寄りかかった。
「……最低」
本当に最低だな、私。
少しだけ肌寒くなってきた秋。制服が夏服から冬服に戻ったのはつい先日である。テストが近いため、勉強するために図書館に来ていた。私はそこまで要領が良くなく、集中して勉強しなければ満足な点数を取れない。だから、テスト前にはこうやって図書館を利用しているのだ。
(誰もいない……)
進学校と呼ばれる割にはこの図書館を利用している生徒は少ない。おそらく、図書館で自習するくらいなら塾に通えばいいと判断され、利用する人がいないのだろう。
その結果、訪れた図書館には誰もおらず、少しだけホッとしてしまう。だが、陰キャだからだろうか、扉から見えるところに座るのは少しだけ嫌だった。
「よいしょっと」
そのため、扉からは見えない奥の机まで移動し、手に持っていた教科書やノートを置く。夏休みが明けて初めてのテスト。気を抜かずに頑張ろう。
そう意気込んで教科書を開き、テスト範囲のページを開く。最初に取り組むのは数学。公式にさえ当てはめてしまえばすんなりと解ける問題が多い。すでに公式は頭に入れてあるのでテスト本番のために練習問題を解いておこう。
「……」
カリカリとテスト勉強用のノートにシャープペンシルで数式を刻み込んでいく。ただの単調な作業。でも、心なしかペンの進みが遅いような気がした。
大丈夫。今はテスト勉強に集中だ。まだ1年生なので進路は決めていないが、今のうちにいい成績を残しておけば就職するにしても進学するにしても有利になる。だから、とにかくテスト勉強に意識を――。
「……はぁ」
――そう考えている時点で集中力が途切れている証拠だ。とりあえず、解いた問題の答え合わせをしてみるが普段ならやらないような計算間違いをしており、見事全問不正解だった。
(重症だなぁ……)
思い出すのは夏休みの出来事――いいや、この高校に入学してからのこと。
恋に落ち、このままでは駄目だと奮起し、高校デビューをしたのに肝心な内面が治っていなければ意味がない。それを実感した半年だった。
受験の日、困っている私に手を差し伸べてくれた荻原くん。
そんな荻原くんに恋をし、トラウマも乗り越えて笑顔を浮かべている陽菜ちゃん。
別々の高校に進学しながらもその気持ちに従い、交流を止めない鳴海ちゃん。
本当に、すごいと思う。大切なことからすぐに逃げてしまう私からしてみればみんな、目が眩んでしまうほど眩しい存在だ。
「何やってるんだろ……」
図書館の天井を見上げながらボソリと呟く。その拍子に手から力が抜け、だらんと下げてしまい、支えを失った教科書とノートが勝手に閉じてしまった。
臆病な私。すぐに逃げてしまう私。怖くなって目を反らしてしまう私。それでいてこの気持ちを自分で壊してしまうことに怯えている私。そんな私が本当に情けなくて大嫌い。
「……ん?」
自己嫌悪に陥っていると不意に耳が何かの音を捉えた。その方向を見ると私の身長よりもずっと大きい本棚がある。そして、本の隙間から何かが動くのが見えた。最初からいたのか、それともテスト勉強している最中に図書館に来た人がいたのかわからないが、私以外にも誰かいるようだ。
「んっしょ………うぅ……」
本棚の向こうから可愛らしい女の子の声が聞こえる。集中力も切れているし、気になったので足音を立てないようにその子のいる本棚に近づいた。
「もう、ちょっと……」
そこにはそこそこ背の低い私よりも身長の低い女の子が本棚の一番上の本を取ろうと懸命に背伸びをしていた。すでに目的の本には指がかかっており、引き抜くだけなのだが姿勢が悪いことと本がぴっちりと仕舞われているせいで上手くいっていないようだ。
「ぁっ……」
「ッ! 危ない!」
そして、無理して本を引っ張ったせいで複数の本も一緒に引き抜かれてしまう。それを見ていた私は思わず駆け出し、その子を突き飛ばしていた。きっと、運動神経のいい陽菜ちゃんや荻原くんなら彼女を助けながら自分の身も守れるだろう。
「ぎゃああああ」
しかし、彼らよりも身体能力が劣っている私はそのまま、本の雨に打たれて情けない悲鳴を上げた。
「本当に、ありがと……ごめんね?」
「う、ううん……気にしないで。私は大丈夫だから」
本の雨から助けた女の子――『秋本 茜』ちゃん。長い黒髪が目立つ小さな女の子である。目的の本を胸に抱きしめ、心配そうに私の顔を下から覗き込んでいた。とても可愛らしく、自然と頬が緩んでしまいそうになる。
「ウチ、どんくさくて、ちっこいから……本当にごめん」
「あ、ほ、ほんとに! 全然大丈夫なの!」
しかし、そんなことを考えている間に茜ちゃんが落ち込んでしまう。慌てて弁解するも彼女はすっかりしょぼんとしてしまった。どうしよう、なんとかしないと。
「えっと……何の本を探してたの?」
あわあわしながら打開策を探し、出した愚策は話題を逸らすことだった。いきなり聞かれた茜ちゃんはキョトンとした後、胸に抱いた本をこちらに差し出す。その本のタイトルは――。
「――『愛友物語』?」
聞いたことのないタイトルに私は首を傾げてしまう。私もそれなりに読書をするが知らないということはマイナーな小説なのかもしれない。
「どんな話なの?」
「……恋愛小説。親友と同じ人を好きになっちゃうの」
「ッ……」
茜ちゃんの答えに私は言葉を詰まらせてしまう。それはまさに今の私と同じ境遇。動揺してしまうには十分すぎた。
「それ、は……最後、どうなるの?」
「……ネタバレは大丈夫な人?」
私の質問に彼女は目を細めた後、そう聞いてくる。正直、どちらかといえばネタバレは嫌な方だ。でも、今回ばかりは結末を聞かずにはいられなかった。
「うん、大丈夫。お願い」
「……主人公は友情を取った。親友に自分の気持ちを伝えず、結ばれた二人を祝福した」
「っ……そっか……」
茜ちゃんは淡々と『愛友物語』の結末を教えてくれる。でも、それを聞いた私は何故かショックを受けてしまった。その理由はわからない。考えたくない。
「その、主人公は……」
「……幸せそうな二人を見て、笑顔を浮かべてる。おめでとうって心の底から祝福して……後悔もしてる」
「……」
「……珀希?」
「う、ううん! なんでもない! 教えてくれてありがとう!」
彼女の心配そうな眼差しに私は誤魔化すように答える。わかりやすい嘘に少しだけ悲しそうにする茜ちゃん。ああ、駄目だ。急いで話題を変えないと。
「あ、茜ちゃんはその本が好きなの?」
「ううん、嫌い」
「え?」
想定していた答えではなく、私は目を白黒させてしまう。好きだからあんな必死に本を取ろうとしたのではないのか。そんな質問をする前に彼女が続きを話すために口を開けた。
「でも、この主人公はウチ」
「それって……」
同族嫌悪。
茜ちゃんも私と同じように友達と同じ人を好きになってしまったのだろう。だから、主人公と自分の境遇を重ねて――。
「ウチ、だった」
「……え?」
しかし、茜ちゃんは私を真っすぐ見上げてそう告げた。過去形、ということはこの主人公と一緒の結末を迎えなかったことになる。それは、つまり。
「ウチも最初は諦めようとした。でも、トウカはそれを許さなかった。むしろ、同じ人を好きになれて嬉しいと言った」
「……」
「あれからまだ数か月しか経ってないけど……多分、トウカがああ言ってくれなかったらウチはこの主人公と同じようにトウカを応援してた、と思う」
そう言いながら僅かに口元を緩める茜ちゃん。ああ、そうか。彼女は私と違い、前に進んだのだ。一度は諦めようとして、親友に発破をかけられ、顔を上げた。私より小さいのに私以上に強い子。
「……珀希」
何も言えずにいると私の様子がおかしいことに気づいたのか、茜ちゃんは不思議そうに見上げて――納得したように優しく笑みを浮かべた。
「……この物語の主人公みたいに後悔だけはしないで」
きっと、何もかもお見通しなのだろう。そんなアドバイスをして私に背中を向けて図書室を出ていく茜ちゃん。小さな体なはずなのに彼女の背中はとても大きく見えた。
「……私には無理だよ」
茜ちゃんが去ってから数分後、誰もいない図書室に私の情けない独り言がポツリと響いた。
結局、何も進展のないまま、冬休みが明けた。私が一方的に避けているせいか、陽菜ちゃんと連絡を取る頻度が明らかに少なくなっている。自分のことで精いっぱいな私ですら気づいているのだから陽菜ちゃんも私に何かがあったことぐらい何となく予想しているだろう。その証拠に一週間に一度のペースで私の体調を気遣うメッセージが届く。それに対し、私は当り障りのない返事をして――また、自己嫌悪。
「……はぁ」
年を明けてもなお、うじうじしているうじ虫な私は学校の廊下を歩いていた。茜ちゃんと出会った後のテストはやはりというべきか調子が出ず、成績が下がってしまったため、前よりも図書館に通う頻度を多くして自習している。たまに茜ちゃんと会うこともあり、少しだけ雑談をする仲になった。
(茜ちゃんも気づいてるよね……)
あの日以来、彼女は私の恋愛事情には触れていない。しかし、あの時のアドバイスの内容を考慮すればこちらの事情は察しているだろう。そうでなければあんなことは言わないはずだ。
それでも茜ちゃんは話題に出さない。彼女も同じような境遇だったため、私の気持ちを尊重しようとしてくれているのだろう。
「……」
立ち止まって廊下の窓から外を見つめる。すっかり冬となった今、校内に生えている木から葉は完全に落ち、眺めていると寂しい気持ちになった。去年に引き続き、大寒波が来るらしく、近々雪が降るかもしれない。
(雪、か)
思い出すのは去年の今頃。私が彼と出会い、恋に落ちたあの日のこと。全てが変わってしまったあの瞬間。
「――じゃあ、あとは頼む」
「はい、わかりました」
「ッ……」
その時、廊下の先から話し声が聞こえてくる。少し低い女の子の声と聞き覚えのある男の子――荻原くんの声だ。このままでは鉢合わせてしまう。私は慌てて近くの空き教室へと逃げ込んだ。
「ん?」
「会長?」
「……いや、なんでもない。それにわたしのことは名前で呼んでくれとお願いしただろう?」
「あ、あはは……流石に生徒会長を呼び捨てになんてできませんよ」
「そう言わずに。君とわたしの仲じゃないか」
空き教室に逃げ込んだため、二人には気づかれていないようだが自然と盗み聞きをするような形になってしまう。申し訳なく思いながらも出ていくわけにもいかない。ここで息を殺して二人が去るのを待つしかなかった。
「さぁ、行った行った。こんなところで時間を浪費するのは青春的によろしくないぞ」
「引き留めたのは会長でしょう……それにずっと気になってたんですけど、その青春的にってなんですか?」
どうやら、彼は生徒会長の手伝いをしているらしい。そういえば、前に陽菜ちゃんが荻原くんは困っている人を放っておけないようで色々なところでお手伝いをしていると教えてくれたことがあった。今回もその一件なのだろう。
「何、ただのおまじないさ」
「……今度、詳しく教えてくださいね」
そう言って荻原くんが足早に去っていく音が聞こえた。よかった、私のことはばれていないようだ。あとは生徒会長が――。
「――そこに隠れてる悪い子は誰だい?」
「ひゃっ!?」
だが、その前に空き教室の扉が開いてしまう。もちろん、中にいる私の姿は完全に生徒会長に見られており、あわあわとするしかなかった。
「……ああ、なるほど」
そんな私を見て何か納得したのか、生徒会長は少しだけ口元を緩ませる。しかし、私は盗み聞きをしてしまった罪悪感でそれどころではない。どうにか謝って許してもらわなければ。
「あ、あの……ごめんなさい。盗み聞きするつもりは――」
「――大丈夫。わかってる」
だが、生徒会長は私の言葉を遮り、廊下に出ようと扉の方を指さす。罪人の身であるため、逆らうことはできずに素直に従って廊下に出た。
「さて、初めまして。わたしは『冬木 東華』。生徒会長だ」
「あ、はい……存じ上げてます」
自己紹介をした彼女に対し、思わずそう答えてしまった。全校集会などの催しがある度、壇上の上で堂々と挨拶しており、私と違ってすごいなぁ、と尊敬していたのだ。
「ああ、そうか。それでもこうやって面と向かって言葉を交わすのは初めてだろう? それなら自己紹介するのが礼儀だ」
「なるほど……ぁ、すみません。『月雪 珀希』です」
「珀希?」
「え、あ、はい」
私の名前を聞いた彼女は考えごとをするように目を伏せる。なにかあったのだろうか。はっ、もしかして私の知らないところで生徒会にブラックリスト入りされており、要注意生徒になっていた? でも、悪いことはしていないはずだし、目立たないように行動していたので何も心当たりがない。
「ん? ああ、すまない。なんでもないんだ。そう不安そうな顔をしないでおくれ」
「は、はぁ……」
「さて……君、拓海くんのことが好きなのだろう?」
「……ぇ!?」
まさかいきなり言い当てられた私は狼狽するしかなく、小さな悲鳴をあげてしまった。どうして、ばれたのだろうか。いや、まだ肯定したわけじゃない。今ならまだ間に合――。
「――無言は肯定とみなさせてもらうよ」
「あー」
間に合いませんでした。再び、あわあわタイムに入ってしまった私を彼女はくすくすと笑う。もしかして、私って相当にわかりやすいのだろうか。
「そう慌てなくて構わないよ。わたしと同じだったからすぐにわかっただけさ」
「なるほど……って、同じ?」
「ああ、わたしも拓海くんのことが好きなんだ」
「はっ!?」
いきなりの告白に落ち着き始めていた気持ちがまたもやぐちゃぐちゃにされてしまった。そんな私の反応に東城先輩はまた笑い出してしまう。
「あっはっは! 予想通りの反応をありがとう」
「え、あの……」
「さて……本題に入ろうか」
何が何だかわかっていない中、笑っていた東城先輩がいきなり真剣な表情を浮かべた。その温度差に言葉を失ってしまう。
「どうして、先ほどは隠れたんだい? 別に君は何も悪いことはしていないだろう?」
「それ、は……」
「拓海くんと何かがあった? いいや、彼の話に君の名前は一度も出てこなかった。おそらく、知り合ってすらいない。君が一方的に彼を避けてる」
「ッ――」
何も言っていないのに核心に触れられて肩を震わせてしまう。そんな私を見て更に彼女は目を細めた。
「……『朝比奈 陽菜』」
「なっ……どうして、陽菜ちゃんの名前を……」
「先ほども言ったが拓海くんはわたしの手伝いをしてくれる時、友達の話をよくしてくれるんだ。その中で朝比奈くんのことも聞いてね。どうやら、彼女には幼馴染の女の子がいて拓海くんに紹介すると言っているらしい」
そう言いながら私を指さす。まるで、犯人を突き止めた名探偵のような仕草。思わず、生唾を飲み込んでしまった。
「でも、どうしてもタイミングが合わなくてその幼馴染に会えていないらしい。偶然? いいや、それにしたって同じ学校にいるのに半年以上紹介できていないのは明らかに不自然だ。考えられるのはただ一つ――」
「――紹介されるはずの幼馴染の方が拓海くんのことを避けている。違うかい?」
「……」
東城先輩の問いかけに私は無言のままだった。それは肯定とみなされることを私はついさっき思い知らされている。
だが、何も言えなかった。だって、彼女の推理は全て当たっていたからだ。
「まぁ、他にも根拠はあるが……今はそんなこと、どうでもいい」
きゅっ、と東城先輩の上履きが廊下の床をこする音が聞こえた。私の方に一歩だけ近づいたのだ。
「月雪くん……君は青春してるかい?」
「せ、青春?」
「ああ、勉学に励み、部活に勤しみ、友達と遊び……恋をする」
「……」
青春。どうなのだろう。私はちゃんと青春しているのだろうか。
そんな疑問が浮かび、思わず唇を噛んでしまう。
もし、もし仮に私が東城先輩の言うように青春しているのだとしたら――とても苦しくて、痛くて、辛いものなのだろうか。
「……なんてね」
「え?」
ポン、と私の肩に手を置いた彼女は微かに笑いながらそう告げる。まるで、これでおしまいと言わんばかりの態度に目を白黒させてしまう。
「すまない。あまりに君が青春的すぎてついいじめたくなってしまった」
「私、が……青春的?」
「ああ、そうさ。青春と聞けばいいイメージを思いつくことが多いが……そんなの嘘っぱちだ。だって、わたしたちは体が大きくなったとしてもまだ物事を間違えてしまう子供なのだから」
「ッ……」
「間違いは誰だって嫌なもの。わたしだって間違えたくないから何度も確認して、おそるおそる答えを出して、その結果に一喜一憂する。だからこそ、わたしは悩むことこそ、青春だと思う。だから、君もわたしも青春的、ということだね」
まさかいつも堂々としている東城先輩も内心、怖がっていることに驚いてしまった。そして、私だけじゃないと安心してしまっている私がいる。それがあまりに嫌らしくて顔を歪めてしまった。
「そう自分を責めるな……先ほども言ったが君は実に青春的なんだから自信を持って」
「……無理、です」
「ふむ……無自覚、ということか。やはり、君たちはよく似てる」
「……似てる?」
こんな弱虫と似ている人がいる? でも、一体、誰と――。
「君と拓海くんさ」
「……はああああ!?」
いや、いやいやいやいや! ありえない。絶対にありえない。
だって、荻原くんは私と違って社交的であり、運動もできて、勉強も得意。色々な人から認められている人。だから、陽菜ちゃんや鳴海ちゃん、東城先輩から好意を寄せられている。
でも、私は? こんな意気地なしと荻原くんが似ているわけがない。似ているはずが、ないのだ。
「……ふふっ。じゃあ、最後のヒント」
「ひ、ヒント?」
「ああ。どうして、君が拓海くんのことが好きだとわかったのか。どうして、朝比奈くんと君を結び付けられたのか。どうして、初対面の君にこうやってお節介を焼いたのか」
そう言って東城先輩は私の肩から手を離し、そのまま廊下を歩いて行ってしまう。自然と私は振り返るような形になって彼女の後を目で追った。
「わたしの親友と友達になってくれてありがとう。茜もよく君の話をしてるよ」
「ぁ……」
――ウチも最初は諦めようとした。でも、トウカはそれを許さなかった。むしろ、同じ人を好きになれて嬉しいと言った。
そうか。友達と同じ人を好きになってしまい、諦めかけた茜ちゃんに諦めるなと発破をかけた親友は東城先輩のことだったのだ。
「君はもっと自分のことを知るべきだ。本当に君のしたいことを、本当の気持ちを見つけてあげてくれ」
それに気づいた頃にはすでに彼女は遠くにおり、そう言い残してこちらに背中を向けながら手を振っていた。去り際もクールな人だ。
「……」
そして、寒い廊下には私一人だけ取り残されてしまった。
東城先輩との出会いから数週間ほど経ち、季節は2月。あれだけ日本を襲うと言われていた大寒波は日本に辿り着く前に停滞し、今か今かとその時が来るのを待っているらしい。雪が降れば交通網が麻痺してしまう可能性があるため、本番を控えている受験生のためにも早めに来るか、もっと遅く来てほしいものである。
「……」
マフラーに口を埋めながら通学路を歩く。最近、あまり眠れていない。それが自覚できるほど私は東城先輩の言葉に頭を悩ませていた。
――君はもっと自分のことを知るべきだ。本当に君のしたいことを、本当の気持ちを見つけてあげてくれ。
「私の、したいこと……」
荻原くんのことや陽菜ちゃんのこと。いいや、他にも色々なことに気を取られていて考えもしなかった。
私のしたいこと。私の本当の気持ち。あの日からずっと考えているのに全然答えが見つからなかった。
そもそもどうして私は荻原くんを避けているのだろう。
友達と同じ人を好きになってしまい、陽菜ちゃんと離れ離れになるのが嫌だったから?
友達と比べられて荻原くんに振られたくなかったから?
魅力的な女の子が彼の傍にいるから最初から勝てるわけがないと諦めていたから?
きっと、そのどれも正解だ。しかし、何かが足りないような気がする。その何かがわからない。ずっと、ずっと胸の奥底で燻っている何かが気になって仕方ない。
「……あれ」
ぐるぐると思考が巡り、頭から湯気を上げていると視界に赤い何かが入り、顔を上げる。そこには『バレンタインフェア』と赤い装飾が施されたコンビニが建っていた。
(バレンタイン……)
今まで陽菜ちゃんと友チョコを交換していた。しかし、去年は受験を控えていたから特に何もしなかった。まぁ、私はあまり手先が器用ではなく、お菓子作りも盛大に失敗してしまってからは市販のチョコを買い、彼女に渡していた。
(今年は……ッ)
少し奮発して陽菜ちゃんに渡そう。そう考えた瞬間、荻原くんの顔が浮かび、咄嗟に頭を振った。そうだ、陽菜ちゃんとは疎遠になっている今、面と向かって彼女に会いに行く勇気がない。だって、全面的に私が悪いのだから。
「……」
そのはずなのに――何故か、バレンタインの広告から目が離せない。足を踏み出そうとしても何かに引っ張られているようにこの場から動けない。
――月雪くん……君は青春してるかい?
その言葉が頭に浮かんだ時、すでに私はコンビニに向かって進んでいた。
「……はぁ」
自室のベッドでスマホを捜査していた私だったが、思わずため息を吐いてしまう。目の前で光る液晶には『超簡単! バレンタインチョコの作り方!』と書かれたウェブページ。そして、少し視線を逸らすと部屋に置いているミニテーブルの上にはコンビニで買ったいくつかのチョコが入った袋が見えた。
(なんで……チョコなんか……)
市販のチョコを買っただけでなく、作り方まで調べている。これが私のしたかったことなのだろうか。
お菓子作りなんてたった一度しか経験しておらず、その時も温度管理を間違えてチョコを焦がしてしまった。台所が焦げ臭くなってしまい、お母さんが火事だと騒いだのは今でも思い出せる。それほど私にとって苦い思い出だった。
スマホを適当に放り投げて天井を見上げる。でも、照明が眩しくて腕で視界を塞いだ。
「……」
真っ暗な視界の中、思い出すのは二つの光景。
受験の日、私を助けてくれた荻原くんの顔。
そして、臆病な私の手を引いて何度も外に連れ出してくれた陽菜ちゃんの顔。
「……」
ああ、わかっている。わかっているのだ、このままじゃ駄目なことぐらい。
ただ逃げているだけでは何も変わらない。変わってくれない。
逃げているだけで冷めるほど荻原くんに対する気持ちは軽くない。
避けているだけで興味がなくなるほど陽菜ちゃんに対する友情は浅くない。
鳴海ちゃんだって、茜ちゃんだって、東城先輩だってそうだ。
鳴海ちゃんはこんな私と友達になってくれた。
茜ちゃんは情けない私を自分と重ね、アドバイスしてくれた。
東城先輩は親友の知り合いだからって私に発破をかけてくれた。
そうだ、皆――皆、私と違ってとても強い。そして、魅力的だ。
きっと、弱虫で、臆病で、すぐに逃げてしまう私なんか荻原くんの目には入らない。だって、あんなに素敵な人たちから好意を寄せられているのだから。
「……っ」
そう考えた瞬間、ちくりと胸が痛む。苦しくて、辛くて、泣きたくなるほどの痛み。
東城先輩はこれが青春だと言った。悩むことこそ、青春だと。
ああ、本当に苦しい。本当に辛い。本当に痛い。
「……よし」
それぐらい、大切なのだ。うじうじと悩み、苦しみ、もがき、逃げてしまいたくなるほど私にとってそれらは大切で、大切で、大切で――。
なら、その大切なものに歩み寄ってもいい頃だろう。だって、1年もの間、それから逃げ続けたのだから。
私はミニテーブルに置いていたチョコが入った袋を掴み、自室を後にする。
答えはまだ見つかっていない。
「ひゃあああああ」
と、格好よく覚悟を決めてみたものの、苦手なものは苦手だった。
幸い、お母さんはお菓子作りが趣味なので材料は家にストックされていた。むしろ、私が適当に買ってきたチョコよりもチョコ作りに最適なそれらが常備されていたほどである。
「珀希? 手伝わなくていいの?」
チョコ作りに挑戦するとお母さんに言った時、不安そうな顔をしてそう言われた。お母さんにとってあのチョコ焦がし事件はちょっとしたトラウマになっているらしい。
しかし、お母さんの心配は的中し、湯煎していたチョコにお湯が混入したり、分量を量っている時に手元が狂ってどさぁとボウルいっぱいに材料が溢れたり、とあらゆる失敗をした。遠くで見ていたお母さんは見ていられないと言わんばかりに部屋を飛び出してしまったのは数分前である。
「う、うぅ……」
チョコの出来損ないを口に運びながら私は思わず泣きそうになってしまう。どうして、上手くいかないのだろう。やっと、前に進もうと思ったのに。チョコを作って、それを――。
(……それを、どうするの?)
べちゃべちゃのチョコを見つめながら私はそう自答する。
ああ、そうだ。たとえ、チョコ作りに成功したとしても、その後はどうする?
陽菜ちゃんにあげる? これまで避けてしまってごめんなさいと謝る?
それとも、荻原くんに渡す? あの日以降、一度も顔を合わせていないのだから彼からしてみれば私は初めて会う女子である。そんな奴から手作りチョコを貰うのは少しだけ嫌悪感を抱くかもしれない。
「……」
違う。多分、私がしたいのはそういうことじゃない。私の本当の気持ち。私が本当に、したいこと。これだけは譲りたくないと、心の奥でずっと叫んでいること。
「……もう一回」
失敗したチョコを口へ流し込み、空になったボウルを洗い始める。バレンタインまで日にちはある。もっと、練習しよう。私の本当の気持ちのために。
バレンタイン当日。私はラッピングされた箱を片手に廊下を歩いていた。昨日まで停滞していた大寒波により、外はすっかり雪景色だ。今もしんしんと雪が降っており、夕焼けをキラキラと反射している。
「……」
私が用意したチョコは二つ。一つは陽菜ちゃんへのもの。そして、もう一つは――荻原くんへ渡すもの。
陽菜ちゃんには申し訳ないが、先ほど彼女の下駄箱に手紙付きで放り込んでおいた。外靴は入りっぱなしだったのでまた部活の助っ人でもしているのだろう。今日の夜に電話してこれまでのことを謝るつもりだ。
そして、問題は今、手に持っているチョコをどうやって荻原くんに渡すのか。私自身、何も考えていない。完全にノープランだ。我ながら普段は臆病なあまり、すぐに身動きが取れなくなるのにたまにこうやって何も考えずに行動してしまう癖があるようだ。
でも、今回はその癖のおかげでこうやって廊下を歩いている。
怖くて怖くて仕方ないはずなのに、それ以上に嫌なことに気づいてしまったから逃げ出さずに前に進めている。
「ッ……」
「おや?」
不意にその時がやってきた。もしかして、と思いながら生徒会室の近くを寄った時、中から男女の話し声が聞こえてきたのだ。更に不意にその扉が開き、東城先輩が顔を覗かせて目が合ってしまう。
「……なるほど」
彼女の視線が私の手に持っている箱に向き、嬉しそうに笑みを浮かべた。きっと、彼女のことだから『青春的だな』と思っているに違いない。ほら、得意げにサムズアップした。
「拓海くん、お客さんだよ」
「え? 俺にですか?」
「ああ、そうさ。行ってあげてくれ」
「はぁ……」
東城先輩のフォローにより、生徒会室の中から荻原くんが姿を現した。
この1年間、避け続けていた私の好きな人。去年より背が伸びただろうか。でも、相変わらず優しそうな目をしている。
「えっと、こんにちは。俺に何か用か?」
彼からしてみれば私とは初対面になるはずだ。それでも邪険に扱わず、そう問いかけてくる。
ああ、そうだ。去年のあの日、彼は困っている私に声をかけてくれた。
どれだけ救われただろうか。どれだけ勇気づけられただろうか。どれだけ、どれだけ嬉しかっただろうか。
きっと、彼はあの日のことを覚えていないだろう。それでも、私にとってあの日が全ての始まり――スタートラインだった。
「あの……荻原くん」
でも、臆病な私はそれが見えていながらこの1年間、逃げ続けた。
他の人たちは勇気を出してスタートラインに立ち、すでに彼に向かって駆け出しているのに足が竦んで動けなかった。
ああ、きっと、もう遅い。出遅れにもほどがある。私の恋心は彼女たちに敵わない。
「あの時は本当にありがとうございました。これ、受け取ってくれますか?」
でも、それでも――嫌だったのだ。このまま彼に知られることなく、この恋が終わってしまうのが。
全ては逃げ続けた私のせい。報われなくても仕方ない。だが、この気持ちだけは、知っていてほしかった。彼に寄せられた好きの一つになりたかった。ただ、それだけ。ただ、それだけでよかった。
これが私のしたかったこと。私の本当の気持ち。苦しくて、辛くて、泣き出しそうになるほど痛い、青春の証。
ずっと言いそびれていたあの日のお礼を口にしながらチョコの入った箱を差し出した。
「ぇ……」
私が差し出した箱を見て荻原くんは声を漏らす。そして、私の顔を見て大きく目を見開いた。どうやら、私は無意識のうちに涙を流してしまっていたらしく、それを見て驚いたのだろう。
「ッ……」
そこで私に限界が来てしまう。たまに突拍子もないことをしてしまう癖があろうと私の根は臆病者だ。押し付けるように彼に箱を手渡して私は踵を返し、その場から駆け出してしまう。
(これ、でいい……そう、これで――)
全てが終わった。私の恋は終わった。これでよかったのだ。私は自分の気持ちを見つけ、想いを伝え、満足した。
「ぐっ……ぅ」
走りながら制服の袖で涙を拭う。何度も、何度も拭っているはずなのに涙は止まってくれなかった。
これ以上は我儘だから。逃げ続けた私に対する罰だから。これが最適解なのだから。
そんな言い訳ばかりが頭に思い浮かぶ。少しでも楽になれるように。少しだけ早く諦められるように。
(でも、やっぱり……)
もし、叶うのなら――荻原くんと。
「待って!」
その時、走っていた腕を誰かに捕まれる。驚きのあまり、流す涙をそのままに振り返ると私が渡した箱を手に持った荻原くんがいた。
「やっと、見つけた!」
「……へ?」
後日談、という名の余談。もしくは私が遅すぎるスタートを切った後の話。
「……つまり? 受験の日、拓海に助けられて好きになっちゃったけどあたしに遠慮したりしちゃって逃げ続けてた、と」
「……はい」
「しかも? 拓海は拓海で受験の日に助けた子がちゃんと合格したか気になってずっと学校を探してた、と。生徒会室に行ったのも名簿を見せてもらって探すつもりだったから、と」
「その、ようです」
「でも? 全然、見つからなくて不合格になってしまったと思っていた頃に珀希がチョコを渡しに行って再会。探し出せなかったのは珀希が高校デビューして見た目がめっちゃ変わってたから、と」
目の前で体をプルプルと震わせてこれまでの顛末を語る陽菜ちゃん。私はがくがくと震えて彼女の反応を待つしかなかった。
「ふっっっざけんなああああ!」
「ひゃああああ、ごめんなさい!」
その結果、陽菜ちゃんが大爆発した。あまりの大声に私は頭を抱えて平謝りするしかない。本当に申し訳ないことをしたと思っております。
「もう、もうもうもう! 色々と! 色々と言いたいけど! ああああああ!」
陽菜ちゃんが完全に壊れてしまった。今のうちに他に説明していないことがないか、あの後の展開をおさらいしておこう。これ以上、陽菜ちゃんを怒らせたくないから。
どうやら、荻原くんはずっと私を探していたらしい。あんな今にも死んでしまいそうなほど不安になっている子を助けたらその後が気になっても仕方ないといえば仕方ない。
しかし、またもや私の悪い癖によって高校デビューをした結果、荻原くんはぱっと見では私を私だとわからなくなってしまったのだ。きっと、しっかりと顔を合わせたらわかっただろう。だが、私が荻原くんを避けていたのでそれもできずに1年もの間、すれ違っていたのである。
そして、バレンタインの日。やっと、顔を見せた私の顔を見て気づいた。
それが今回の騒動の結末。うん、何もかも私が悪いです。
「……はぁ」
ずっと叫んでいた陽菜ちゃんだったが、とりあえずすっきりしたようでジト目で私の方を見てくる。罪悪感でいっぱいになり、そっと目を反らした。
「……でも、よかった」
「え?」
「あたし、珀希に何かしちゃったのかなって……思ってたから」
「ぁ……」
悲しげに笑う陽菜ちゃんに私はズキリと胸が痛んだ。自分のことで必死になるあまり、避けられていた陽菜ちゃんの気持ちは考えていなかった。もし、私が臆病じゃなければこの1年間、彼女と素敵な思い出をたくさん作れただろう。
「あーあ……それにしても珀希も拓海のことが、ねぇ」
「ッ……うん」
一方的に想いを告げて去ろうとした私だったが、荻原くんがそれを許さなかった。あの日以降、顔を合わせる度、話しかけてきてくれる。それに茜ちゃんや東城先輩と知り合いだとわかってからは一緒に生徒会の手伝いをしようと誘ってくるのだ。私に断る勇気などなく、毎回のように連れていかれてしまうので最近はもう諦めてしまった。
更に荻原くんから私の話を聞いた鳴海ちゃんも会いたいと言っているらしく、今度一緒に遊ぶことになった。多分、色々と怒られるだろう。私が荻原くんから逃げた理由の一つにあの夏休みの日に友達になった鳴海ちゃんも入っているから。
「ほんと……前々から思ってたけど、やっぱり似た者同士ね」
「え? 誰と誰が?」
「珀希と拓海が」
「……へ!?」
まさか東城先輩から言われたことを陽菜ちゃんからも言われるとは思わず目を丸くしてしまった。
「ど、どどどこが!?」
「変に突っ走るところとか。困ってる人を見過ごせないところとか。自分のことを度外視にしてしまうところとか」
「そ、そうかなぁ?」
高校デビューしてしまったり、ナンパされている鳴海ちゃんを助けるために首を突っ込んだり、本の雨に飲まれそうになった茜ちゃんを助けるために突き飛ばし、自分がそれに直撃したり、と思い当たる節しかないが一応、首を傾げてみせた。
「……ほんと、そういうところが」
「陽菜ちゃん?」
「ううん、何でもない。さて、と……珀希」
「は、はい」
何か言いかけた陽菜ちゃんだったがいきなり真剣な表情を浮かべ、私を見つめる。自然と背筋が伸びてしまい、声が裏返ってしまった。
「あたし、負けないから」
「っ……」
「だから、もう遠慮はしないで。珀希は珀希のしたいようにしてね」
「……うん!」
ああ、駄目だ。嬉しくて泣いてしまいそうになる。そうだ、陽菜ちゃんならそう言ってくれることぐらい、幼馴染である私が一番わかっていたはずだ。
それなのに変に遠慮してしまい、無駄な1年間を過ごしてしまった。それを今になって悔やんでしまう。
「……まぁ、なんというか。多分、あたしたちの中で一番先を進んでるの珀希なんだけどね」
「……はい?」
「だって、拓海からしてみれば1年間も探してた子がこんな可愛くなって現れたんだよ? そりゃ、意識しちゃうでしょ」
「……ないない」
だって、こんな臆病で泣き虫でうじうじしている陰キャなぞ、好きになるわけがない。きっと、今のは陽菜ちゃんなりの励ましなのだろう。
「……まぁ、それも珀希らしいかな」
「?」
「あ、いたいた。おーい、二人ともー!」
陽菜ちゃんの言葉に首を傾げていると廊下の向こうから荻原くんが手を振りながら私たちを呼んだ。何か用でもあるのだろうか。
「もー、そんな大きい声出さなくても聞こえるって。ほら、行こ。珀希」
「うん!」
陽菜ちゃんが差し出してくれた手を掴み、荻原くんの方へと駆け出す。
バレンタインの日、私はやっとスタートラインに立ち、前に進んだ。
誰が最初にゴールするかわからないけれど、東城先輩の言葉を借りていうのならきっと、一番青春した人が一等賞を取るのだろう。
だから、今を懸命に駆け抜けよう。悩んで、苦しんで、泣いて、それでも笑って、青春しよう。
だって、私はもうスタートを切ることができたのだから。