百番目の死神
地獄が死神制度を始めたのは、今から五十年前のことだった。
死者の数が増えたからでも、地獄の獄卒が怠け始めたからでもない。理由は、現世に残る魂があまりにも多くなったためである。
自分が死んだことを理解できない者。死を受け入れられず、同じ場所を何年も彷徨い続ける者。残してきた家族や、果たせなかった約束に縛られ、迎えが来ても耳を塞いでしまう者。そうした死者を放置し続ければ、いずれ現世とあの世の境目が歪む。ならば、死を迎えるよりも前に死者のもとへ赴き、未練を軽くしておけばいい。その考えから作られたのが、死神制度だった。
選ばれた死神は、対象となる人間が死ぬ二十四時間前に現れる。そして、延命以外の願いを一つだけ叶え、その者が満足してあの世へ向かえるよう手助けするのだ。
もっとも、願いを本当に現実へ変えるわけではない。死神が持つ力の一つに、対象者へ望んだ夢を見せるものがある。夢の中ならば、失った家族にも会える。若い頃にも戻れる。二度と訪れることのできない場所にでも行けるし、現実には叶わなかった人生を一日だけ生きることさえできる。死神はその夢へと入り込んで、対象者の傍らで最後の時間をともに過ごすのだ。
対象者の死を見届けた後は、残った魂を身体から切り取ってあの世へと導く。そこまでが死神の仕事だった。
死神に選ばれる条件は、一切開示されていない。ただ、一つ分かっていることがあるとするのならば、選ばれるのは既にあの世で暮らしている者ではなく、新たに命を落とした者だということだけだった。死後の世界を知り、人間だった頃の執着を持つ魂よりも、すべてを消去したばかりの魂の方が扱いやすい。制度そのものが試験的なものであったこともあり、最初は十人だけが死神となった。
一番から十番までの初期の死神にも人間だった頃の記憶はなかったが、感情までは完全に取り除かれてはいなかった。笑ったり、怒ったり、時には仕事を終えた後に沈み込む者さえいた。その不安定さを問題視した地獄は、十一番目以降の死神から、記憶だけではなく感情の大部分まで取り除かれるようになっていった。
以降に誕生した死神たちは、皆、穏やかで仕事に従順だった。対象者が泣いても、必要以上に心を痛めない。恨み言を吐かれても、腹を立てない。仕事を終えれば何事もなかったかのように地獄へ戻り、次の指示を待つだけの存在。
彼らは自分たちが元人間であることを知らない。初めから死神として生まれ、死者を導くことだけを目的として創られ、存在しているのだと思い込んでいた。
そもそも死神に人間だった頃の記憶を残さないのは、業務に支障をきたす恐れがあるためである。同じ理由から、死神が担当した対象者のことについても、業務が済めばそのほとんどの記憶が残らなかった。顔も、声も、交わした会話も、叶えた願いさえも忘れ、残るのは「一人の死者を正しく導いた」という事実だけだ。
死神には名前がない。一番目ならイチ。二番目ならニ。五十番目ならゴジュウと呼ばれ、彼らもそれを当然のことと受け入れ、何ら疑問を抱くことすらなかった。
死神は当初、一年に一人ずつ増やされていた。けれども現世で亡くなる人間の増加に伴い、やがて一年に二人ずつ追加されるようになってからは制度の変更はない。上限は百人と定められている。
一方で、現在の死神の数は九十九人だった。だから新たに百一番目の死神が選ばれた場合は、最も古い一番目の死神がすべての務めを終えたものとして浄土へと昇るのだ。つまり、現在イチと呼ばれる死神は、あと二人の新人が入れば自由になれるはずだった。
もっとも、本人はそのことについて何かを期待しているわけではなかった。浄土がどのような場所なのか、イチは知らない。死神になる以前の記憶を持たない彼女にとって、死神でなくなった後の自分など酷く曖昧な存在である。それでも、五十年間続けてきた仕事が終わるという事実には、少しばかり興味があった。
死神の中でも最も古いイチは、二十四歳ほどの女の姿をしていた。肩より少し長い黒髪と、血の気の薄い白い肌。黒い外套の下には簡素な衣服を身につけ、腰には死者の魂を現世から切り離すための小さな鎌を下げている。
―――死神の姿は、生前その人間が最も幸福を感じた瞬間の姿になる。
イチは、自分がなぜ二十四歳の姿なのか考えたことはなかった。死神となった日、閻魔から「死神は皆、それぞれ定められた姿を持つ」とだけ告げられ、それ以上の説明は受けていないからだ。だから、それが当たり前なのだと思っていた。
彼女は五十年間もの間、何百、何千という死に立ち会ってきた。そのたびに願いを叶え、魂をあの世へ送り届ければ、対象者についての記憶は跡形もなく失われる。それが死神の仕事であり、イチにとっては呼吸をすることと変わらないほど当たり前の日常だった。
だから今回も、数え切れないほど繰り返してきた仕事の一つとして終わるはずだったのだ。
その日イチが姿を現したのは、梅雨が明けたばかりの蒸し暑い夜、古びた集合住宅の一室だった。窓は閉じられているものの、外からは湿った空気が入り込んでおり、卓上の扇風機が首を振りながら、ぬるい風を部屋の中へ送り続けている。小さなテレビでは旅番組が流れていたが、音量はほとんど聞き取れないほどだった。
部屋の奥に置かれたベッドには一人の老人が横たわっていた。七十四歳の男性で、名前は事前に伝えられている。けれど、イチにとっては名前になんてどうでもいいものだった。所詮、仕事を終えた瞬間この世から消えてしまうものなのだから、そもそも覚えようともしなかったのだ。どうせ失われるものを、胸の奥へしまい込む必要はない、と。
男は痩せていた。頬は落ちくぼみ、手の甲には血管が浮かんでいる。枕元には薬の袋と水差しが置かれ、ベッドの脇には歩行用の杖が立てかけられていた。死因は動脈硬化による急性心筋梗塞だった気がする。
―――彼に残された時間は、二十三時間五十七分。
イチは音もなくベッドの傍らへ歩み寄り、眠っている男の額へ指先を触れた。
「起きてください」
イチが静かに呼びかけると、男の瞼がゆっくりと持ち上がった。焦点の合わない目はしばらく天井を彷徨っていたものの、やがて傍らへ立つイチの姿を捉えた途端、その目は驚愕に大きく見開かれる。
もっとも、こうした反応は珍しいものではない。死神は普段生者の目には映らず、対象者となった者だけが死を迎える二十四時間前からその存在を認識できるようになるからだ。彼女の姿を見て泣き叫ぶ者もいれば、死にたくないと縋りついてくる者もいる。自分にはまだ時間があるはずだと怒鳴り散らす者や、死神など幻覚だと思い込もうとする者も少なくなかった。
けれど、目の前の男だけは違った。
声を上げることも、取り乱すこともなく、ただ信じられないものを見るような眼差しで、じっとイチの顔を見つめていた。
「あなたは、明日のこの時間に亡くなります」
イチは何百回、何千回と繰り返してきた言葉を、いつもと変わらない口調で告げた。その一言だけで取り乱す者も少なくないが、目の前の男は驚いたように目を見開いたまま、何も言葉を返そうとはしない。
「私は、あなたの魂をあの世へ送り届けるために来ました。死を避けることも、時間を延ばすこともできません。ですが、最期を迎えるまでの間に、一つだけ願いを叶えることができます。その願いが、誰かに会うことであっても、失った時間を取り戻すことであっても、あるいは、もう二度と訪れない場所へ行くことであっても構いません」
それでも男は瞬きさえ忘れたようにイチを見つめ続けるばかりで、部屋には扇風機が動く音だけが静かに響いていた。男の反応があまりにも薄かったため、イチは僅かに眉を寄せる。
「……聞こえていますか」
「ああ」
ようやく男は掠れた声を漏らしたものの、その視線は依然としてイチから外れない。まるで目の前に立つ死神ではなく、もっと別の誰かを見つめているような、不思議な眼差しだった。
「聞こえているよ」
「では、願いを決めてください」
イチが淡々と促すと、男は皺の刻まれた目元をわずかに緩めた。泣きそうにも、笑いそうにも見える、奇妙な表情だった。
「願いは、本当に何でもいいのか」
「延命と、他者の命を奪う願い以外であれば」
「若い頃の姿に戻ることもできるんだな」
「できます」
「それなら、二十四歳に戻りたい」
男の願いは、これまでにも何度か耳にしたことのあるものだった。失われた若さを取り戻したいと望む者は決して少なくなく、イチも静かに頷いて続きを促す。
「それだけですか」
「君と、遊園地へ行きたい」
予想もしなかった願いに、イチは初めて言葉を失った。若返りたいという願いならまだ理解できる。人生をやり直したい、もう一度青春を味わいたいと願う者はこれまでにも何人もいたからだ。しかし、その先に自分の存在を望まれたことは一度もない。
イチは神妙な顔で男の顔を見つめた。浮かんでいたのは、冗談でも気まぐれでもなく、長い年月を胸の内に抱え続けてきた者だけが見せる、どこか懐かしむような穏やかな笑みだった。
「私と、ですか」
「ああ。君とだ」
「あなたが望む相手と会うこともできます。家族や友人ではなく、私でよろしいのですか」
「君がいい」
その返事に迷いはなかった。男はイチから視線を逸らすことなく、穏やかな声でもう一度言葉を重ねる。
「二十四歳の姿に戻って、君と遊園地で一日を過ごしたい。それが、僕の最期の願いだ」
イチは男の顔を見つめ返した。
対象者の願いに理由を尋ねることは、死神の役目には含まれていない。どれほど理解し難い願いであっても、規定に反しない限り叶える。それが五十年間、一度も変わることなく守り続けてきた原則であり、だからこそイチも、その願いの理由を詮索することなく静かに頷いた。
「承知しました」
そう答えると、イチは男の額へそっと手のひらを重ねる。その温もりを確かめるように男は静かに目を閉じ、イチもまた瞼を伏せると、二人だけの最後の一日を夢の中へ紡ぎ始めた。
遊園地の場所や時代について、男は細かな指定をしなかった。しかし、人間が望む夢には、その者の記憶が自然に反映されるようになっている。死神が一から舞台を作らずとも、強く心に残っている景色があれば、夢はそれを土台として組み上がっていくのだ。
空気が変わる。湿った部屋の匂いは跡形もなく消え去り、代わりに甘い菓子の香りや揚げ物のような匂い、夏の日差しに熱せられたアスファルトの匂いが鼻先をくすぐった。遠くでは子どもたちの歓声が響き、軽快な音楽が風に乗って流れてくる。
「もう目を開けて構いません」
イチに促されて男がゆっくりと瞼を上げると、そこには真夏の陽射しに包まれた遊園地が広がっていた。青空の下では赤や黄色のアトラクションが賑やかに動き続け、その向こうでは巨大な観覧車がゆっくりと回っている。入場門の前では着ぐるみが子どもたちへ手を振り、園内には休日らしい活気が満ちていた。
男の姿もすでに変わっていた。痩せていた腕には若々しい筋肉が戻り、白髪は黒く染まり、深く刻まれていた皺も消えている。白いシャツに紺色のズボンという飾り気のない服装は、その年頃の彼によく似合っていた。
男は自分の手を眺めて、指を曲げたり伸ばしたりした後、深く息を吸った。
「懐かしいな」
「この遊園地を知っているのですか」
「ああ。昔、何度か来たことがある」
イチも園内へ視線を巡らせる。
夢によって生み出された景色は現実をそのまま写したものではなく、対象者の記憶に応じて異なる時代の建物や遊具が混ざり合うことも珍しくない。それでも、この遊園地には妙な既視感があった。赤い屋根のチケット売り場も、入口脇の花壇も、門をくぐった先で二手に分かれる道も、その中央に置かれた白い噴水も、どこかで見た覚えがある。
もっとも、過去に担当した誰かの夢で似た場所を訪れたのだろうと考えれば説明はついた。執行を終えれば記憶も失われるため、その欠片だけが胸の奥へ残っていたとしても不思議ではないのだ。
「最初は何に乗りますか」
イチが尋ねると、若返った男は少し考えるふりをした後、子供のように笑った。
「ジェットコースター」
「分かりました」
「君は平気か」
「私は死神です。落下しても死にません」
「そういう意味じゃないんだけどな」
男は可笑しそうに笑い、先に歩き始めた。イチも隣へ並んで歩く。
園内は大勢の客で賑わっていた。もっとも、そのすべてが夢の中に作り出された存在であり、本物の人間ではない。誰かと肩が触れ合っても温もりはなく、交わされる会話も背景音のように流れていくだけで、その中に確かな魂を持つのは男一人だけだった。だからイチが対象者を見失うことはない。
ジェットコースターの前には長い列ができていたが、夢の主である男が最後尾へ並んだ途端、周囲の時間だけが滑るように進み、気づけば二人は係員に案内されて車両へ乗り込んでいた。イチは何も考えずに、進行方向に向かって右側の席へ座る。
男は左側へ腰を下ろしかけたところで、ぴたりと動きを止めた。
「どうしました」
「いや」
男はどこか寂しげに微笑み、そのまま隣へ座った。
「君は、昔からそっちだったなと思って」
「昔から?」
「独り言だよ」
安全バーが下り、車両がゆっくりと動き始める。
高い位置へ登るにつれ、遊園地全体が見渡せるようになった。色とりどりの屋根。その向こうに広がる街並み。遠くには、霞んだ山の稜線まで見える。
「手を上げると楽しいぞ」
男が両腕を上げた。イチは無表情のまま、その横顔を見た。
「危険ではありませんか」
「夢の中なんだろう」
「それはそうですが」
「それに、君は死なない」
「あなたも今は死にません」
「なら、問題ないな」
頂上へ到達し、車両が一瞬だけ止まった。
頂上へ達した車両が一瞬だけ静止し、次の瞬間には地面へ向かって一気に落下した。強烈な風が頬を叩き、身体が宙へ放り出されるような感覚に包まれる。それは夢の中だからこそ与えられた感覚であり、死神もまた対象者と同じ体験を共有するよう作られていた。
―――だからだろうか。
イチは考えるより先に手を伸ばき、気づけば男の手をしっかりと握っていた。
恐怖を感じたわけではない。これまでにも対象者の願いで空を飛び、海へ潜り、崩れ落ちる建物の中へ入ったことはあるが、そのたびに冷静さを失うことは一度もなかった。それなのに今は、男の手を強く握り締めたまま離さない。その様子に驚いた男は一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに穏やかに微笑んで指を絡め返してきた。
安全バーが上がり、係員が降車を促しても、イチはしばらく男の手を握ったままだった。やがて自分でも遅れてそのことに気づき、慌てて指を離したものの、掌には不思議な温もりだけがいつまでも残っていた。
「怖かったか」
「いいえ」
「手を握っていたけど」
「業務上、対象者の安全を確保する必要があります」
「夢の中では死なないんじゃなかったか」
「念のためです」
イチが手を離すと、男は堪えきれないように声を上げて笑った。
笑い声を耳にした瞬間、胸の奥を何かで小さく引っ掻かれたような違和感が走る。どこかで聞いたことがある。そんなはずはないと思いながらも、その感覚だけは消えずにイチの中に残っていた。
ジェットコースターを降りた二人は、そのまま近くの射的屋へ足を運んだ。男は懐かしそうに銃を構えたものの、放たれた弾は景品の手前をかすめ、そのまま奥の板へ乾いた音を立てて当たった。
「相変わらず下手ね」
言葉は考えるよりも先に口をついて出た。男がゆっくりと振り返り、イチ自身も、自分が何を言ったのか理解するまで数秒かかった。
「……今、何と言った?」
「相変わらず下手だと」
「どうして『相変わらず』なんだ」
「分かりません」
頭痛はない。記憶に異常が起きたとき特有の警告も感じない。それでも、口から零れた言葉はまるで誰かの記憶をなぞったようで、自分でも理由を説明することはできなかった。
「以前、似た願いを叶えたことがあるのかもしれません。執行後に記憶は失われますが、ごく稀に感覚だけが残ることがあります」
「そうか」
男はそれ以上問いただそうとはせず、代わりに射的銃をイチへ差し出した。
「やってみるか。僕の願いは、君と遊園地で遊ぶことだ。見ているだけじゃ遊んだことにはならないだろう」
もっともらしい理屈だった。イチは男から銃を受け取ると、並んだ景品へ視線を走らせた。小さな人形や菓子箱が並ぶ中で、黄色い鳥のぬいぐるみだけが、不思議と目を引いていた。
理由は分からない。ただ、あれを落とさなければならない。そんな確信にも似た感覚に従って引き金を引くと、弾は吸い寄せられるようにぬいぐるみの額へ当たり、軽い音を立てながら棚の奥へ転がり落ちた。
「上手いな」
「死神には必要のない技術です」
「昔も君の方が上手かった」
景品として渡された黄色い鳥のぬいぐるみを抱えたまま、イチは男を見上げた。
「先ほどから、あなたは私を知っているような話し方をしますね」
その一言に、男の笑みがほんの僅かに曇る。
「そう聞こえたか」
「聞こえます」
「だったら、そうなのかもしれない」
「曖昧な返答は困ります」
「今はまだ、遊ぼう」
それ以上は答えるつもりがないのだろう。男は穏やかに笑って話を切り上げ、そのまま歩き出した。
本来であれば、ここで追及する必要はない。対象者が語りたくない過去へ踏み込まないことも死神の務めであり、死の直前に秘密を暴くことは仕事の範囲ではなかったからだ。
それでも、イチの胸には小さな引っ掛かりだけが残った。男は、自分を見ているのではなく、自分の向こうにいる誰かを見つめているようだった。もっとも、生前から死神の存在を知っていたとは考えにくい。何故ならば死神は対象者以外の人間には姿を見せない上に、もし誰かに見られても、業務が終えれば死神に関する記憶が自然と薄れていくよう処理されるのだから。
ならば、この男は誰と自分を重ねているのだろう。そんな答えの見えない疑問を抱えたまま二人は園内を歩き続け、昼食には売店で買った焼きそばとフライドポテトをベンチへ並んで腰掛けながら食べた。死神に食事は必要ないが、夢の中では味覚も再現されるため、対象者に勧められれば口にすることもある。
イチはポテトを一本ずつ摘まんで口へと運んだ。塩気と油の素朴な味がゆっくりと舌へ広がり、その何気ない感覚にさえ、理由の分からない懐かしさが混じっているような気がした。死神になってから何度も口にしたはずなのに、今日はなぜか少しだけ美味しく感じたのだ。
「美味しいか」
「普通です」
「君は昔から、気に入ったものほど普通だと言った」
「また、昔の話ですか」
「悪い」
「あなたが誰かと私を重ねているのであれば、その人物をここへ呼ぶこともできます」
「重ねているわけじゃない」
男は紙の容器を膝へ置くと、静かにイチを見つめた。その眼差しには、ただ懐かしむだけではない、長い年月を胸に抱え続けてきた者だけが宿す深い想いが滲んでいる。
「僕が会いたかったのは、君なんだ」
二十四歳の若々しい顔をしていても、その瞳だけは七十四年という歳月を映していた。イチは何も答えられず、視線を逸らしてポテトを口へ運ぶ。塩気は感じるのに味がよく分からない。胸の奥が理由もなくざわつき、いつものように感情を切り替えることができなかった。
食事を終えた二人は再び園内を歩き始めた。男が特に行き先を決めていたわけではないが、イチはお化け屋敷の前まで来たところで、不意に足を止める。
「入りたいのか」
「特に希望はありません」
「でも、見ていただろう」
「内部に強い霊的反応がないか確認しただけです」
「夢のお化けに本物が混じるのか」
「可能性は低いですが、否定はできません」
「それなら確認しに行こう」
男に促されるまま建物へ足を踏み入れると、生ぬるい風が頬を撫でて、壁の隙間から漏れる赤い照明が通路をぼんやりと照らしていた。天井では人形がぎしぎしと揺れ、奥からは女の泣き声が響いてくる。本物の亡者や悪意ある魂を相手にしてきたイチにとって、こうした作り物の幽霊に恐怖を覚える理由はない。そう思っていた。
だが次の瞬間、曲がり角から血まみれの人形が勢いよく飛び出してきて、イチは考えるよりも早く男の腕へしがみついていた。
「きゃっ」
思わず漏れた自分の声に、イチはその場で硬直した。死神になってから五十年、一度も口にした覚えのないような悲鳴だった。男も一瞬驚いたように目を丸くしたものの、すぐに堪えきれなくなったように肩を震わせて笑い始める。
「笑わないでください」
「いや、悪い。君が、あまりにも変わっていなくて」
「私は恐怖を感じたわけではありません。予期しない位置から物体が出現したため、反射的に身体が動いただけです」
「そういうことにしておこう」
ようやく男の腕へしがみついていることに気づき、イチは慌てて身体を離した。その後は何が飛び出してきても動じまいと身構えて歩いていたものの、出口の直前で天井から逆さ吊りの人形が落ちてきた瞬間、結局また反射的に男の手を掴んでしまう。
建物を出ると、眩しい夏の日差しが一気に降り注いだ。男は繋がれた手へ一度だけ視線を落としたが、何も言わず、そのまま歩き出す。イチも手を離さなかった。いや、離せなかったと言った方が正しい。
死神が対象者と必要以上に親密になることは望ましくない。理由は至って単純で、業務の遂行をためらう原因となるからである。それでも指をほどこうとするたび、胸の奥から理由の分からない拒絶が込み上げてきた。
―――離してはいけない。
その思いだけが、何度も心の奥で繰り返される。
イチは黄色い鳥のぬいぐるみを片腕へ抱え、もう片方の手で男の手を握ったまま園内を歩き続けた。
次に足を止めたのは、軽快な音楽に合わせて回り続けるメリーゴーラウンドの前だった。男は迷うことなく白い馬を選び、イチも隣に並ぶ黒い馬へ跨る。回転木馬がゆっくりと動き始めると、男は何度もこちらを振り返り、そのたびに懐かしそうな笑みを浮かべていた。
「こちらばかり見ないでください」
「見られるうちに見ておきたいんだ」
「私は逃げません」
「そうだな」
男は笑った。
「少なくとも、今日のうちは」
その言葉の意味を、イチは考えないようにした。
次に乗ったコーヒーカップでは、男が中央のハンドルを回しすぎたせいで、イチもなぜか足元がふらつくような感覚に襲われた。
「回しすぎです」
「君がもっと速くと言ったからだ」
「私は一度しか言っていません」
「昔は五回くらい言っていた」
「また、その話ですか」
「ごめん」
謝っているはずなのに、男はどこか嬉しそうだった。その表情につられるように、イチも呆れた顔を作りながら歩き出し、ふと自分の口元が緩んでいることに気づく。
―――楽しい。
その感情をはっきりと自覚した瞬間、イチの足が止まった。
対象者へ付き添う中で穏やかな気持ちになることは、これまでも何度かあった。美しい景色を見れば美しいと思い、相手が満足そうに笑えば、無事に役目を果たせそうだと安堵する。それはすべて仕事の一部だった。
けれど今、胸にある感情はそれとはまるで違う。仕事だからではなく、この時間が終わってほしくなかった。
―――もっとこの男と歩きたい。もっと笑う顔を見ていたい。もっと、自分の知らない『昔』の話を聞いていたい。
「どうした」
男が振り返った。
「何でもありません」
イチはそう答えると、再び男の隣へ並んで歩き出した。
午後になると、二人は甘い香りに誘われるようにクレープの屋台へ立ち寄った。男は苺と生クリームが乗ったものを選び、イチはチョコレートとバナナのクレープを受け取った。包み紙を持った瞬間、自分でも理由の分からないまま、そのクレープを男の前へ差し出していた。
「一口、食べますか」
男は驚いたように目を見開く。
「どうして」
「……分かりません」
イチ自身も困惑していた。けれど差し出した手だけは引っ込まず、まるで昔からそうするのが当たり前だったかのように、その場へ留まり続けている。
「こうするべきだと思いました」
男は今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべながら、小さく頷いてクレープの端を一口だけかじった。
「君も食べるか」
今度は男が苺のクレープを差し出すと、イチは迷うことなく顔を寄せ、生クリームと苺を少しだけ口に含んだ。甘さが舌へ広がる。
瞬間、眩しいほど鮮やかな光景が、不意に脳裏を駆け抜けた。
―――『食べすぎないでよ。半分ずつなんだから』
笑い合う男女の姿だった。手には今と同じ二つのクレープを持っていて、誰かの隣に立つ青年は今よりも少し髪が長く、制服姿のまま照れくさそうに笑っていた。
確かに、自分の声だった。イチは思わず額へ手を当てる。
「大丈夫か」
男はクレープを持ったまま心配そうにイチの顔を覗き込んでいた。その表情だけが、揺らぐ視界の中でもはっきりと映った。
「今、何かを見ました」
「何を」
「分かりません。ここで、あなたに似た人とクレープを食べていました」
男の顔から、笑みが消えた。
「それは、いつのことだ」
「……分かりません。私は過去の記憶を持っていないので」
イチは自分の口から零れた言葉に、拭いきれない違和感を覚えた。
―――過去の記憶を持っていない。
そう口にしたこと自体がおかしかった。死神は最初から死神として存在するものであり、それ以前の人生などない。それは疑う余地のない当然の事実として受け入れてきたはずなのに、なぜ今、自分は「過去の記憶を持っていない」などという言い方をしたのだろう。まるで、本当はそこにあるはずだった何かを失い、その存在だけを覚えているかのような響きではなかったか。
「私は――」
続きを口にしかけた瞬間、頭の奥を鋭い痛みが貫いた。思考を続けようとするたび痛みは強さを増し、それに呼応するように、誰のものとも分からない冷たい意思が脳の奥深くへ流れ込んでくる。
『考えるな』『探るな』『お前は死神だ』『それ以前など存在しない』――命令とも本能ともつかないその声は、思考そのものを押し潰すように何度も繰り返され、イチは無意識のうちに小さく息を吐くと、痛みに逆らうことを諦めるしかなかった。
「もう平気です」
「無理をしなくていい」
「業務に問題はありません」
「仕事、か」
男は呟き、手の中のクレープへ視線を落とした。
「君にとっては、そうなんだろうな」
男の声はどこか寂しげだった。その響きにイチは何か返そうと口を開きかけるものの、胸の奥へ浮かんだ感情を言葉へ置き換えることができず、結局は何も言えないまま男の隣を歩き続けた。
やがて夕方になると、遊園地は昼間とはまるで違う表情を見せ始める。傾き始めた太陽が空を橙色に染め、園内では照明が一つ、また一つと灯され、流れる音楽もどこか穏やかなものへ変わっていく。家族連れは土産を手に出口へ向かい、恋人たちは名残惜しそうに肩を寄せ合いながら最後の時間を過ごしていた。
それでも男は休もうとはせず、残された時間を惜しむように遊び続けた。二人はもう一度ジェットコースターへ乗り、射的では相変わらず男が景品を落とせずに笑い合い、コーヒーカップでは調子に乗って回しすぎたせいで、夢の中とはいえイチまで足元が覚束なくなる。ゲームセンターでは古びたレースゲームに本気になり、勝負に負ければイチは本気で悔しがって再戦を要求し、売店で見つけた帽子を男へ被せては「似合いません」と笑い、記念写真を撮る頃には、ごく自然な動作で男の腕へ自分の腕を絡めていた。
そのどれもが初めての出来事であるはずなのに、胸の奥では「知っている」という感覚だけが少しずつ積み重なっていく。同じ場所で笑う自分。今よりも少し短い髪。制服姿で歩いていた日々が、いつしか私服へ変わり、大学へ進学し、就職先を探していた頃の景色へと移り変わっていく。そのすべての記憶の隣には、いつも同じ男がいた。
―――けれど、その顔だけは思い出せない。
思い出そうとするたび、目の前へ濃い霧が立ち込めるように記憶は霞み、あと少しで届きそうなところにあるはずなのに、決してその輪郭へ触れることは許されなかった。
そうして夢の終わりが近づく頃、二人は最後に観覧車へ乗ることを選んだ。ゆっくりと閉じたゴンドラの扉が静かに地上を離れ、窓の外には夕闇へ沈みゆく遊園地が広がっていく。色とりどりの照明が宝石のように瞬き始め、その向こうでは街の灯りが一つ、また一つと夜を迎えていた。
男は向かい側ではなく、ごく自然にイチの隣へ腰を下ろす。イチも何も言わなかった。
肩が触れ合うほど近い距離のまま、二人はしばらく黙って窓の外を眺め続けた。
「楽しかったか」
男が尋ねた。
「はい」
イチは素直に答えた。
「死神としてではなく、私自身が楽しいと感じました」
「そうか」
男は目を細めた。
「それなら、よかった」
「あなたは、どうでしたか」
「楽しかったよ。五十年前と同じくらい」
イチは男へ顔を向けた。
「五十年前?」
男は答える代わりに静かに窓の外へ視線を向けた。ゆっくりと上昇を続ける観覧車は間もなく頂上へ差しかかろうとしており、夕暮れに染まっていた遊園地も、いつしか夜の灯りに包まれ始めている。
イチは胸元に掛けた黒い時計へ目を落とした。残された時間は、あと十九分。
夢は対象者が死を迎えると同時に終わる。その前に現実へ戻り、魂を身体から切り離す準備を整えなければならない。それは五十年間、一度も変わることなく繰り返してきた仕事であり、本来なら迷う理由など何一つなかった。
「そろそろ時間です」
静かに告げると、男は驚くほど穏やかな表情のまま小さく頷く。
「そうか」
「観覧車が地上へ着いたら、あなたの魂をあの世へお連れします」
「分かった」
その返事に恐怖も焦りもなかった。願いを叶える制度は、対象者が死を受け入れ、穏やかな心で旅立てるように作られている。だから、この反応こそ成功なのだと、これまでのイチなら何も疑わず判断していただろう。
それなのに今は、胸の奥へ重い石を落とされたような感覚だけが消えなかった。
「……もう、思い残すことはありませんか」
口をついて出たその問いに、イチ自身が一番驚いていた。規定には存在しない質問だった。
男は少しだけ目を細めると、窓の外へ視線を向けたまま静かに笑う。
「怖くないと言えば嘘になる。ただ、五十年も待ったからな」
「何を待っていたのですか」
イチの問いに男はすぐには答えず、しばらく窓の外へ広がる夜景を眺めていた。やがて何かを決心したように小さく息をつくと、ゆっくりとポケットへ手を入れ、その中から古びた紺色の小箱を取り出す。若い頃の姿へ変わっているはずの服装とは不釣り合いなほど年月を感じさせる箱は、この空間で形作られたものとは明らかに違う存在感を放っていた。
「……その箱は、この空間で作られたものではありませんね」
「ああ」
「現実のあなたが、大切にしまっていた物ですか」
「よく分かったな」
「他のものとは魂の宿り方が違います」
男は箱を両手で包み込むように持ち、震える指先で静かに蓋を開いた。
中に納められていたのは、派手な装飾ひとつない細い銀色の指輪だった。長い年月を経たためか表面は少しだけ曇っている。それでも、一度も手放されることなく大切に守られてきたのだと分かるほど、その姿には持ち主の想いが刻み込まれていた。
「本当は、五十年前に渡すはずだったんだ」
掠れた声でそう呟く男を見つめた瞬間、イチの胸の奥で何かが強く震えた。死神に心臓はない。それでも鼓動としか思えない衝撃が何度も胸を打ち、理由も分からないまま息が浅くなっていく。
「大学を卒業した年だった。就職も決まって、君も働き始めて、ようやく一緒に暮らす準備ができたと思った。だから、その日の夜、この指輪を渡そうと決めていたんだ」
男は懐かしむように目を細め、小さく笑う。
「僕たちは高校生の頃から付き合っていた。最初のデートも、この遊園地だった。君はジェットコースターが怖いくせに何度も乗りたがって、お化け屋敷では僕の腕を痛いくらい掴んだ。射的は僕よりずっと上手で、取った黄色い鳥のぬいぐるみを卒業するまで部屋へ飾っていたし、クレープは必ず違う味を頼んでは半分ずつ交換した。観覧車では向かい側じゃなく、いつも僕の隣へ座って、『その方が近いから』って笑っていた」
イチは腕の中へ抱えた黄色い鳥のぬいぐるみを見下ろした。
―――瞬間、記憶の奥深くで何かが音を立てて崩れる。
夏の日差し。
制服姿の二人。
初めて手を繋いだ帰り道。
射的で落とした黄色い鳥。
『名前、つけようよ』
『黄色いから、きいちゃん』
『そのまますぎない?』
『じゃあ、しゅうが考えて』
『僕も似たようなのしか思いつかない』
―――しゅう。
その呼び名だけが鮮明に響き、霧に覆われていた記憶へ一本の光が差し込む。
修一。
胸の奥から、その名前が浮かび上がった。
「五十年前のあの日、僕は君とディナーの約束をしていた。少し背伸びをした店を予約して、この指輪を渡そうと思っていたんだ」
イチの視界が揺れる。袖の中で指先が小さく震え、溢れ出した記憶が堰を切ったように押し寄せてきた。
『急にどうしたの。そんなお店まで予約して』
『たまにはいいだろ』
『何か企んでる?』
『企んでないよ』
『怪しい』
『とにかく、七時に駅前で』
『分かった。遅刻しないでね』
『それ、僕の台詞だろ』
電話越しに笑い合って、鏡の前で白いワンピースへ着替え、「私」は髪を整えて家を出た。
―――夏の夕暮れだった。
修一との約束に胸を弾ませながら横断歩道を渡り始めた、その瞬間だった。信号を無視した大型車が凄まじい勢いで交差点へ突っ込んで、誰かの悲鳴が辺りへ響き渡った。振り返る暇さえなく、眩いヘッドライトが視界を埋め尽くしたかと思うと、身体は軽々と宙へ投げ出され、次の瞬間には全身を叩き潰すような衝撃が襲っていた。
熱い。
痛い。
そう思ったのも束の間、薄れゆく意識の中で見えたのは、血に濡れた自分の手だった。遠くでは救急車のサイレンが近づき、誰かが必死に自分の名前を呼んでいる。それさえも次第に遠ざかり、世界はゆっくりと音を失っていった。
やがて、すべてが深い暗闇へ沈んだ。
そして――次に目を覚ました場所は、地獄だった。
「……あ」
イチの頬を、一筋の温かな雫が伝った。何が起きたのか分からないまま指先でそっと触れると、そこには透明な涙が滲んでいる。死神になってから五十年間、一度として流したことのない涙だった。
男は静かに箱から銀色の指輪を取り出すと、震える手でイチへ差し出した。
「最後に、美月に会えてよかった」
その名前が耳へ届いた瞬間、記憶を閉ざしていた壁が音を立てて崩れ落ちた。
―――美月。
それは五十年前まで、自分が確かに名乗っていた名前だった。
父が呼ぶ声。
母が呼ぶ声。
友人たちの笑い声。
そして、そのどれよりも優しく、何度も何度も自分の名を呼び続けてくれた青年の声。
記憶は濁流のように溢れ出し、高校の校門で笑い合った日々も、大学の食堂で他愛もない話をした時間も、この遊園地で一日中遊び回った思い出も、電話越しに約束を交わした夜も、すべてが昨日のことのように鮮明な色を取り戻していく。
最後に浮かんだのは、待ち合わせ場所で何時間も立ち尽くし、来るはずの自分を信じて待ち続ける修一の姿だった。
「……しゅう」
震える唇から零れたその呼び名に、男――修一の目から大粒の涙が溢れる。
「ああ」
「修一……」
「そうだよ」
その一言だけで、五十年という歳月は消えてなくなった。
「私……私、あの日……」
謝りたい。会いたかった。約束を守れなかった。何も伝えられないまま、あなたを一人にしてしまった。胸の奥へ押し寄せる感情はあまりにも大きく、どれほど言葉を探しても、喉の奥で絡まるばかりで形にならない。
イチは震える手で差し出された指輪を受け取る。冷たいはずの銀色の輪へ指先が触れた瞬間、その中へ閉じ込められていた五十年という時間の重みが、一気に胸の奥へ流れ込んできた。
「遅くなってごめん」
修一は泣きながら笑った。
「ずっと渡せなかった」
「どうして」
イチの声は震えていた。
「どうして、こんな歳になるまで持っていたの」
修一は、七十四歳の瞳でイチを見た。
「君は事故の後、意識不明の重体になった。僕が病院へ着いた頃には、もう手術が始まっていて、何時間待っても君は目を覚まさなかった。医者には覚悟してほしいと言われたけれど、それでも毎日病院へ通ったんだ。もしかしたら目を覚ますかもしれない。名前を呼び続ければ、戻ってきてくれるかもしれないって信じたかった」
修一は膝の上に置いた指輪の箱へ静かに視線を落とす。
「でも、君は帰ってこなかった」
夢の観覧車は頂上で静かに止まったまま動かない。本来ならあり得ない光景だった。修一の心が、この時間の終わりを拒んでいるのだと、イチにも分かった。
「葬儀が終わっても実感なんて湧かなかった。次の日になれば『ごめん、遅れちゃった』って連絡が来るような気がしてさ。待ち合わせに遅れたことを笑いながら謝って、また君に会える気がしていた」
「修一……」
「何度か他の人と付き合おうともした。周りからも前を向けって言われた。でも、そのたびにこの指輪を見ると、まだ何も伝えられていないって思ってしまうんだ」
イチは胸が締めつけられるような痛みに耐えながら、修一の言葉を聞いていた。
自分にとっての五十年は、ただ死者を送り続けるだけの日々だった。名前も記憶も失い、昨日と同じ仕事を繰り返してきた五十年。その間も修一だけは現世で生き続けて、渡せなかった指輪を胸に抱えたまま、自分との約束だけを守り続けていたのだ。
「結婚しなかったの」
「できなかった」
「私のせいで……」
「違う」
穏やかに首を振る。
「僕がそう生きると決めたんだ。君を忘れられなかったのは君のせいじゃない。仕事は忙しかったし、失敗して上司に叱られたこともあれば、後輩に慕われたり笑った日もあった。姉の子どもたちは叔父さん、叔父さんって懐いてくれて、一緒に遊園地へ遊びに行ったことだってある。ちゃんと笑って、ちゃんと歳を取って、それなりに幸せな時間もあったよ」
修一はそこで一度言葉を切って、指輪の箱を静かに見つめた。
「でも、その幸せのどこにも、君はいなかった」
イチは震える指で指輪を握り締める。
「今日、君が現れたとき、すぐに分かった。理由なんてない。ただ、一目見た瞬間、『美月だ』って思った。それだけで十分だった」
「私は……分からなかった」
「仕方ないよ」
「何度も思い出しかけたのに、それでもあなたが修一だって気づけなかった」
「でも、思い出してくれた」
「五十年も待たせた」
「今日、会えた」
「約束を破った」
「事故だった」
「一人にした」
「今、隣にいる」
どれほど自分を責めても、修一はそのたびに優しく受け止めてくれる。その優しさが苦しくて、愛おしくて、もう堪えることができずにイチは修一に強く抱きついた。腕の中から黄色い鳥のぬいぐるみが滑り落ち、音もなく座席へ転がった。
「……ごめんなさい」
震える声でそう呟きながら、イチは修一の胸へ顔を埋め、子どものように泣き続けた。
「ごめんなさい、修一」
「謝らなくていい」
「会いたかった」
「僕もだよ」
「ずっと、会いたかった」
「うん」
修一の腕がそっとイチの背中へ回る。その温もりは五十年前に抱き締められたときと何一つ変わらないはずなのに、その腕には言葉では言い表せないほど長い孤独と寂しさが静かに積み重なっていた。観覧車の窓の外では夜の遊園地が宝石を散りばめたように輝いている。
二人が初めて手を繋いだ場所。何度も笑い合い、何度も未来を語り合った場所。そして、五十年という歳月を越えて、ようやくもう一度巡り会えた場所。その静かな時間を切り裂くように、イチの胸元へ掛けられた黒い時計が短く警告音を鳴らした。
―――残り、一分。
夢を終わらせて、現実へ戻って、修一の魂を肉体から切り離さなければならない。
五十年間、一度たりとも迷うことなく果たしてきた死神の務めだった。だから本当なら、もう修一から離れなければならない。
「美月」
「……嫌」
その返事は考えるより先に口から零れ落ちた。
驚きはしなかった。それが今の、自分の本当の気持ちだったからだ。
「もう少しだけ……」
「時間なんだろう」
「分かってる」
「君が困る」
「分かってる」
「僕は、もう十分だよ」
「私は……足りない」
ようやく思い出したばかりだった。修一という名前も、笑い声も、一緒に歩いた時間も、交わした約束も。それなのに業務が終われば、それらはまた自分の中から消えてしまう。修一という存在ごと、もう一度失ってしまう。
その未来を思った瞬間、イチは生まれて初めて死神としての役割に逆らいたいと願った。
「……指輪を、つけてくれるか」
修一は静かにそう尋ねる。
イチは涙を拭うこともせず、小さく身体を離すと左手をそっと差し出した。
震える指先へ修一が銀色の指輪を通していく。五十年前、渡されるはずだったその指輪は、まるでずっとそこへ収まる日を待ち続けていたかのように、二十四歳の美月の薬指へ静かに寄り添った。
「結婚してください、美月」
修一は声を震わせながらも穏やかに笑っていた。その表情を見た瞬間、その言葉が五十年もの間、胸の奥で何度も何度も繰り返されてきたものなのだと、イチには説明されなくても分かった。
イチも涙を流しながら小さく笑い、「はい」とだけ答えた。その返事を待っていたかのように胸元の黒い時計が静かに終刻を示し、世界は音もなく崩れ始める。夜の遊園地を彩っていた灯りは一つ、また一つと闇へ溶け、観覧車も、遠くに見えていた街並みも、夜空さえ砂のように崩れ落ちていく。その光景を最後まで見届ける間もなく視界は白く染まり、イチが再び目を開けたとき、そこは古びた集合住宅の一室だった。
ベッドには七十四歳の修一が静かに横たわり、その枕元には蓋の開いた指輪の箱が置かれている。イチが無意識に左手へ視線を落とすと、薬指には先ほど修一がはめてくれた銀色の指輪が、まるで最初からそこにあったかのように静かに残っていた。
本来、あの空間で生み出された物は現実へ持ち帰ることはできない。しかしその指輪だけは最初から現実に存在し、修一自身の手で託された物だった。だから、所有者がイチへ移った今も、静かに薬指へ収まったまま残っていたのだ。
修一は苦しそうに胸を押さえながら浅い呼吸を繰り返していた。死の時刻はすでに過ぎており、今すぐ魂を肉体から切り離さなければならないことは、五十年間一度も迷うことなく務めを果たしてきたイチが誰よりも理解している。
―――死の時刻は、もう過ぎている。
今すぐ魂を肉体から切り離さなければならない、とイチは反射的に腰の鎌へ手を伸ばした。しかし、あと少しで柄へ触れるというところで指先はぴたりと止まり、その静寂を破るように、ベッドの上から掠れた声が聞こえてくる。
「……美月」
現実の修一はもうほとんど力も残っておらず、呼び声は息と変わらないほど弱々しかった。
イチは鎌から手を離すと、ベッドの傍らへ膝をつき、震える修一の手を両手で包み込んだ。
「ここにいる」
「……よかった」
「私は、ここにいるよ」
その瞬間、頭の奥で鋭い警告音が鳴り響き、業務時間超過、規定違反、緊急通知送信という無機質な情報が次々と流れ込んでくる。死神として身体へ刻み込まれた本能は、ただちに執行を完了させろと何度も命じ続けていたが、それでもイチの身体は動かなかった。
執行さえすれば修一は苦しむことなく安らかに旅立つことができる。しかし、その瞬間、自分は修一という存在を再び忘れ、五十年越しに取り戻した記憶も、この一日も、交わした言葉も、薬指へはめられた指輪の意味さえ失ってしまう。
ようやく思い出せたのだ。
ようやく、また会えたのだ。
そのすべてを、たった今、自分の手で消し去ることだけは、どうしても受け入れることができなかった。
「最後に会えて、よかった」
修一が微笑む。
「最後じゃない」
イチはその手を強く握り返した。
「また会える」
「……そうだな」
「今度は待たせない」
「うん」
「絶対に見つけるから」
「待ってるよ」
修一は静かに目を閉じる。呼吸は次第に浅くなり、胸の動きも弱々しくなっていく。それでも魂はまだ肉体へ繋がれたままであり、執行が行われない以上、その苦しみは少しずつ強くなっていくはずだった。
修一の眉が苦しそうに歪め、イチは再び腰の鎌へ手を掛けた。
だが――どうしても、その刃を抜くことができなかった。
「忘れたくない」
泣きながら呟く。
「あなたを、もう二度と忘れたくない」
そのとき、不意に部屋の空気が音もなく裂け、黒い影が静かに床へ降り立った。現れたのは白い髪の青年だった。黒い外套の胸元には銀色で「ニ」の文字が刻まれている。
初期の死神の一人。イチと同じく、感情を残したまま役目を担い続けてきた死神だった。
「執行時刻を十四分超過」
感情を抑えた声ではあったが、その瞳には僅かな険しさが宿っている。
「緊急信号を受けて来た。何があった、イチ」
「……来ないで」
「対象者の魂が損傷し始めている」
「分かってる」
「なら、執行しろ」
「……できない」
その返事に、ニはゆっくりと眉を寄せた。
「できない?」
死神が執行を拒むなど、本来あり得ないことだった。五十年間、どれほど辛い別れに立ち会っても、イチが「できない」と口にしたことは一度もない。だからこそニは言葉を失い、薬指へ嵌められた銀色の指輪からベッドの上の老人へ、さらに涙を流し続けるイチへと静かに視線を移したあと、すべてを察したように小さく息を吐いた。
「……そういうことか」
「……」
「理由は聞かない」
「……」
「だが、このままでは対象者が苦しみ続ける。それは、お前も望んでいないはずだ」
イチは何も答えられなかった。修一はすでに声も出せず、苦しそうに胸元を押さえながら浅い呼吸を繰り返しており、その姿を見るたびに今すぐ鎌を振るわなければならないことは誰よりも理解している。それなのに、腰へ手を伸ばしても震える指先は柄を掴むことすらできない。
それを見ると、ニは静かな足取りでイチとの距離をゆっくりと縮めていった。
「担当を引き継ぐ」
「待って」
「これ以上は待てない」
「私が」
「できないのだろう」
ニはイチの肩へそっと手を置き、そのまま修一の傍らから引き離そうとしたが、イチは咄嗟に抵抗して、修一の手を離すまいと縋りつくように握り締めた。その手を放した瞬間、本当にすべてが終わってしまう気がして、身体はもう死神としてではなく、一人の人間として動いていたのだ。
「やめて。まだ、話したいことが」
「時間は終わった」
「五十年も待ったのに」
「これ以上苦しませるな」
ニの静かな言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたイチの身体からふっと力が抜けた。その様子を見届けるようにベッドの上の修一が薄く目を開き、苦しさの残る顔でありながら、それでも安心させるようにほんの少しだけ口元を緩める。その微笑みは、「大丈夫だ」と語りかけているようだった。
ニは静かに腰の鎌を抜き放つと、迷うことなく刃を修一の胸元へ滑らせた。刃は肉体を傷つけることなく音もなく通り抜け、魂と身体を繋ぎ止めていた一本の細い糸を切り離した。
瞬間、修一の呼吸が静かに止まる。同時に身体から淡い光がゆっくりと浮かび上がり、七十四歳の修一とまったく同じ姿をした魂が、穏やかな表情のままイチを見つめていた。
死者の魂は、生前のどの姿で現れるかが人によって異なる。若き日の姿へ戻る者もいれば、最期の姿のまま現れる者もいる。――修一が選んだのは、七十四歳の自分だった。
魂となった修一は静かにイチへ手を差し伸べ、イチもまたその手へ縋るように駆け出そうとした。だが、その願いを拒むかのように床から無数の黒い鎖が這い上がり、音もなく両腕と身体へ絡み付く。それは規定違反を犯した死神を強制的に地獄へ送り返すための術であり、一度発動すれば、もはや誰にも止めることはできなかった。
「嫌!」
イチの悲鳴が部屋へ響く。死神になって以来、一度も見せたことのない取り乱した叫びだった。
「修一!」
光の中へ立つ修一は最後まで穏やかな笑みを浮かべたまま、まっすぐイチだけを見つめていた。もう互いの声は届かない。それでもゆっくりと動く唇を見た瞬間、イチにはその言葉が痛いほど伝わってくる。
―――また会おう。
その約束だけを胸へ刻みつけるように、黒い鎖はイチの身体を容赦なく地獄へ引き戻し、部屋も、光も、修一の姿も、すべてが白く霞みながら遠ざかり、やがて視界の果てへ消えていった。
「修一!」
最後までその名を叫び続けながら、イチは現世から姿を消した。
地獄へ強制送還されたイチには、戻ったその場で処分が言い渡される。対象者の死後、定められた時間内に執行を完了しなかったこと。対象者との私的な関係を理由に職務を放棄し、魂へ本来与える必要のない苦痛を負わせたこと。そして、本来報告すべき異常――失われたはずの記憶を取り戻しながら、それを秘匿したまま業務を継続し、死神制度そのものへ重大な不具合を生じさせたこと。そのひとつひとつが、死神として決して看過できない重い違反だった。
本来であれば、記憶の強制消去と長期間の拘束処分が科され、最悪の場合は死神としての存在そのものを抹消されてもおかしくない重大な規律違反だった。しかし、イチは制度開始以来五十年にわたり、誰よりも多くの魂を導き続けてきた初期死神であり、その功績を無視することはできなかったため、存在の抹消だけは見送られ、その代償として浄土へ昇る資格を五十年間停止するという前例のない裁定が下された。
たとえ百一番目の死神が誕生し、本来であればイチが浄土へ昇る順番を迎えたとしても、その資格は五十年間停止されたままだ。さらに節目となる百番目の死神が誕生した際には、その教育係を務めることまで命じられた。
すべての裁定が終わる頃には、地獄は再び何事もなかったかのような静けさを取り戻していて、イチは誰もいない薄暗い待機室で静かに椅子へ腰を下ろすと、左手の薬指へ嵌められた銀色の指輪へそっと視線を落とした。
執行を完了させたのはニだった。そのためだろうか、修一に関する記憶は消えることなく、今もなおイチの胸の中へ残り続けている。修一の名前も、笑顔も、遊園地で過ごした一日も、高校生の頃から積み重ねてきた数え切れない思い出も、指輪を渡す約束の日に自分が事故へ遭ったことも、少しも失われてはいなかった。
それが本来あり得ないことであるとイチ自身も理解していた。実際、その異例の事態に地獄の誰一人として気づいてはいない。ただ、その代償として修一はすでにニの手であの世へ送られていて、対する自分は五十年間、浄土への道を閉ざされることになったのだ。
再び会えるとしても、それは半世紀先の未来だった。それでも不思議と絶望はなかった。修一は五十年もの間、自分を信じて待ち続けてくれたのだから、今度は自分が待つ番なのだと、イチは薬指へ嵌められた銀色の指輪へそっと触れながら静かに目を閉じる。
あの遊園地も、修一の笑顔も。
そして――今度こそ、あなたのことを二度と忘れない。
◆
数日後、百番目の死神が誕生した。
静かに開いた広間の扉の向こうから、管理者に導かれるように一人の男が姿を現す。その姿を見た瞬間、イチの呼吸は止まった。
白髪の混じった短い髪に、穏やかな眼差し。背筋は少し丸くなっていたものの、その立ち姿には年齢を重ねた者だけが持つ落ち着きと品があり、夢の中で最後に別れた七十四歳の修一と寸分違わなかった。
五十年間、自分を待ち続けてくれた男。その名前が胸の奥で静かに響く。けれど、イチはその名を口にすることができないまま立ち尽くしていると、管理者が男の肩へ静かに手を置き、一歩前へ促した。
「本日、新たに死神となった者だ」
男は一歩前へ出て、深く頭を下げた。
「本日より、百番として務めさせていただきます。よろしくお願いいたします」
その瞬間、修一という人間の人生は静かにこの世界から消え去り、目の前に立っているのは百番目の死神――ヒャクという存在だけになった。
イチは何も言えなかった。夢の中で交わした約束も、薬指へ嵌めてもらった銀色の指輪も、五十年間という歳月を一人で抱え続けてくれた修一の想いも、そのすべては今や自分だけの記憶となっていて、この世界にはもう共有できる者は誰一人として存在しない。
「イチ」
管理者に名を呼ばれ、ようやく我に返る。
「教育を任せる」
「……承知しました」
ヒャクが改めて頭を下げる。
「よろしくお願いいたします、イチ先輩」
その声は穏やかで、丁寧で、どこまでも他人行儀だった。
その声は穏やかで丁寧だったが、どこまでも他人行儀だった。そこには照れ笑いを浮かべる修一も、困ったように頭を掻く癖も、美味しそうに食事を頬張る姿も残っておらず、人としての揺らぎさえ失った完成された死神だけが立っていた。
―――それが、百番だった。
イチはゆっくりと踵を返す。
「来い」
「はい」
広間を歩きながら、仕事を教える。
イチは歩きながら魂の迎え方や願いの叶え方、夢の構築方法から禁則事項、記憶の仕組みに至るまで、一つひとつを淡々と教えていく。ヒャクはそのすべてへ素直に頷き、「理解しました」「承知しました」「ありがとうございます」と、どこまでも模範的な返事を繰り返した。
ヒャクは教えられたことを一つも漏らすことなく吸収し、「理解しました」「承知しました」「ありがとうございます」と模範解答のような返事を繰り返した。その姿は死神としては申し分なく、誰もが理想と呼ぶほど完成されていたが、あまりにも正しすぎるその振る舞いを見るたびに、イチは修一という人間がもうどこにも残っていないことを突きつけられる。そして、すべての教育が終わると、ヒャクは静かに一歩前へ出て深々と頭を下げた。
「ご指導ありがとうございました」
「ああ」
それだけ答えるのが精一杯だった。
ヒャクは深く一礼すると、そのまま初めての任務へ向かって静かに歩き出した。最後まで一度も振り返ることなく廊下の奥へ消えていく背中を見送りながら、イチはそっと左手へ視線を落とす。
薬指には、夢の中で修一から託された銀色の指輪が今も変わらず嵌められている。この世界でただ一つ、修一という人間が確かに生き、確かに自分を愛してくれた証であり、誰にも消すことのできない二人だけの記憶だった。
「……修一」
返事はない。その名前を知る者も、もう自分しか残っていなかった。それでも不思議と涙は流れず、イチは薬指の指輪をそっと撫でながら、五十年前に修一が自分を信じて待ち続けてくれた日々を静かに思い返す。
だから今度は、自分が待とう。
死神としての役目を終えた魂が最後にどこへ辿り着くのか、イチには分からない。それでも、いつか必ずもう一度会えるのだという確かな予感だけは、何の根拠もないまま胸の奥で静かに息づいていた。
その日が訪れたとき、自分はもう「イチ」ではない。
―――「美月」として、あなたに会える気がした。
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