白い梅雨
一年に一度、1ヶ月だけ降る白い雨があった。その雨は海の方からやってきて山を越え、草原の方へ方向かっていくらしい。ミルクのような味がすると言われ、ペトリコールはどこか懐かしい匂いが甘く立ち上っていた。白い梅雨は大地を潤す恵みだった。その雨を受けて育った野菜はどれも丸々と大きく、しかも美味しかった。この廃れた世界に神様がいるとしたら、その神様は慈悲深いに違いなかった。
しかし、そんな素晴らしい白い梅雨を何の不利益も被ることなく受容できるはずがない。
その滴に一瞬でも触れると、知性ある生き物は気を狂わせて空を目指すようになるのだ。
翼を持つものは力尽きるまで雨雲へ向かって飛び、翼を持たぬものは雨雲に到達できると信じて山頂や木の上から身を投げ出す。
いつしか白い梅雨が感謝されるありがたい存在でありながら恐怖の対象となるのは至極当然のことだった。
神様が降らせる豊穣の恵み。そしてあの世からのお迎え。人々はそれを白い梅雨と呼んだ。
~~~~~
俺はデルタ。四人兄弟の末っ子の赤ちゃんドラゴン。漆黒の鱗に二本の角が生えて格好よく、大きな目とピコピコ動く尻尾は愛嬌があって可愛らしい。さらにまだ生まれて半月だけれど、もう流暢に言葉を話せる前途有望なドラゴンなのだ。
しかし生まれてからというもの、一度も満腹になるまでご飯を食べたことがない。
「おかーしゃん! ごあん!!(お母さん! ご飯)!」
「はいはいデルタ、ご飯欲しいのねー」
ほら、伝わっただろ? こんな優秀な俺にはミノタウロス丸々一匹寄越せ!
「でもごめんねー、冬ごもりならぬ梅雨ごもりに備えて食料は貯蓄していかないといけないの。しかも昨日倉庫の天井が崩落しちゃったから色々と節約しないといけないわ。
デルタは体が小さいんだから、コウモリの干し肉ひとつで満足できるでしょ」
なん、だと……? そんな馬鹿な話があるか!
俺は巣の中で翼をバタつかせて猛抗議した。
俺たちが住んでいる巣は火山の中腹にある洞窟だから、人間の巣のように羽ばたくだけで壊れるような脆弱なものではないから安心して暴れられる。
「おかーしゃん! ごあん、もっとちょーらい!(お母さん! ご飯、もっと頂戴!)」
「ごめんねー、白い梅雨の季節は狩りできないからねー。
一週間後にはまたご馳走を持ってこれると思うんだけど」
そう言って母は俺の羽を顎ですいた。
ああーきもちぃーどんどん眠くなるー……って、ダメダメ! 絆されている場合じゃないぞ。
貯蓄してる分も食わせろ!
「怒ってもダメなものはダーメ。
ご飯は頭領、つまり強いドラゴン優先だからねー。だから長男のアルファが一番良いのを食べるのよ。あなたはうちの家族では最弱なんだから、努力して強くなりなさいねー」
母が言ったのはつまりこういうことだ。『アルファ兄は強いから一人だけご馳走食べてる』ほら、要約できるなんて、やっぱり俺はすごいだろ?
けどアルファ兄いいなぁ、ずるいなぁ。一人だけごちそうなんて、なんだかムカつくなぁ。
ドラゴンという種族は1家族が集団となって生活していて、その頭領は必ずもっとも強い個体となる。頭領の決定方法はそれぞれの家族で異なるらしいが、うちの家族は単純だ。頭領を殺した奴が新しい頭領だ。下克上戦と称して正々堂々命を懸けて勝負し、勝者を頭領とするのだ。
アルファ兄は結構若い頃に父親と正々堂々勝負し、父親を殺して、頭領の立場を手に入れたらしい。
頭領と言ってもアルファ兄にはあまり威厳がなくて、俺とはとても仲良しだ。鱗も赤色とかじゃなくて茶色だし。なんだろう、身体の大きいナマケモノみたいな感じだ。とっても優しいのに、僕以外の兄弟、ベータ兄とガンマ兄とは仲が良いわけではないみたい。
ベータ兄は生真面目で偏屈。緑色の体表で、アルファ兄よりも二回りくらい身体が小さい。『そんなこともわからんのか』と『全くけしからんやつだな』が口癖で、アルファ兄のことを悪く言うから嫌い。
ガンマ兄は一回しか話したことがないからよくわからないけれど、引きこもりニートって母が言ってた。普段全然部屋から出てこないけど、一度見かけたときに鱗の色は灰色だとわかった。
とりあえず今は朝食を食べに来ないアルファ兄を起こしに行こうっと。
ついでに食事の不平等についても文句の一つでも言ってやろう。
俺はカッカした勢いのままアルファ兄の寝床まで走って行った。この洞窟は壁や天井に光を発する苔が生えているからいつでも明るい。この話を母から聞かされたとき、いつでも明るいなら寝れないじゃん、という疑問を俺も抱いた。でも大丈夫らしい。しかしその苔は光に弱い性質でもあるのか、洞窟の入り口へ近づくほどその数と密度を減らし、だから俺たちの寝床は洞窟の入り口近くになる。奥に進むほど光る苔の密度は増すらしいけれど、洞窟な奥の方は寒いし物音がするし怖いしで、まだちょっと勇気がでない。
俺はまだ翼で飛べないから少し時間はかかったけれど、一度も道を間違えずにアルファ兄の寝室にたどり着くことができた。俺の背丈の十倍はあろうかという入り口から窮屈そうに尻尾がはみ出ていた。俺は尻尾によじ登り、後ろ足で仁王立ちしてアルファ兄の筋肉質でプリっプリのお尻と対峙した。
アルファ兄のやつまだ寝てるじゃん。早寝早起きしなきゃいけないんだぞ。
「おっほん、『まったくけしからんやつだな』。へへっ、ベータにぃのまねー。
じゃなくてゃ! おきりょー!!」
大声で怒鳴ってアルファ兄の尻尾を前足でペチペチ叩くと、のそり、と眼前のお尻が動いた。
アルファ兄の尻尾が動いたことでぐらりと体勢が崩れ、視界が。
「あっ!」
声が出たときにはもう遅い。俺は真っ逆さまに落ちていた。
死んじゃう!!
俺は久しぶりに恐怖を感じた。……のもつかの間、俺はアルファ兄の尻尾で吊るされていた。アルファ兄が俺の尻尾を自分の尻尾で掴んだのだ。
「おはよー。あ、デルタか、今日も早起きだねー。すごいねー」
アルファ兄は俺を尻尾で捕まえながら器用に後ずさりしながら出てきた。アルファ兄は寝ぼけ眼で俺を見た。
俺が頭から墜落しかけたというのに兄が脳天気な様子を見て、俺は誰に対するものかわからない怒りがこみ上げてきた。
ドラゴンに似つかわしくない優しげな目元が気に食わないんじゃない。母似の声や話し方が気に入らないんじゃない。ニコニコ俺を見つめる態度も、嫌いというわけではない。俺への触れ方だって絶対に痛くないようにしてくる。
……あんまりおとこらしくない優しいから好き。
「……おりょして(降ろして)」
でも今はご飯の恨みもあるし、好きじゃない。早く下ろせ、と俺はいつまで経っても俺を尻尾で吊したままのアルファ兄をにらみつけた。
するとアルファ兄は今気づいた、とでも言うように慌てて俺を下ろした。
「ごめんー! 気づかなかった」
さっきまで何見て挨拶したんだよ。俺、どう見ても逆さまだっただろ。
ちょっと抜けている割に当家最強のドラゴンであるアルファ兄は俺の目標でもあり、未来の好敵手でもある。
全くけしからんやつだけど、アホ可愛いからアルファ兄だけご馳走を食べたこと許してあげようかな。
「朝ご飯だから起こしに来てくれたんだろう? ほら、一緒に行こうか。
……私はね、デルタ。実はお前が一番強いドラゴンになると思ってるよ」
アルファ兄が俺の少し前を歩きながらサラッと呟き、俺は突然のことにとても驚いた。まさか最強のアルファ兄が俺をそんな風に評価していたなんて思いもよらなかった。しかしもちろん、俺は将来一番強いドラゴンだから、動揺はおくびにも出さない。
なぜいきなりそんなことを言ったのかは謎だけれど、俺は気分が良くなってすっかりご馳走の恨みは忘れていた。
そもそもデルタがご馳走を食べられないのは自分の実力が無いからであって、アルファ兄に悪意があるわけではないのだが。
俺たちドラゴンは別に朝昼晩と規則的に一日三食取るわけではなく、各自が空腹を感じたときにご飯を食べる。だから朝ご飯を一緒に食べるという習慣もないのだけれど、アルファ兄はどうも人間くさいところがあって俺と食べたがる。でも最強のアルファ兄があんな軟弱な二本足の習慣を真似るだなんて、ホント物好きもいいところだよ。
俺はアルファ兄を後ろにつれて食料庫に向かった。食料庫に行くには一旦洞窟の入り口の近くを通って洞窟の奥の方へ向かわなければならない。食料を冷蔵保存するためには室温が安定して低い場所が好ましいのだとアルファ兄は教えてくれた。
白い梅雨の季節だから、洞窟の外は白い雫が断続的に降っていた。俺にとっては生まれたときから知っている見慣れた景色だが、梅雨の季節はそろそろ終わるらしい。
「白い梅雨も残り一週間だねー。外では遊べないけど、私と一緒に遊ぼうねー」
母もアルファ兄も「外では遊んではいけない」って言うけれど、なんでなんだといつも思っていた。兄たちは生まれて一週間後には外を駆け回っていたって母は言っていたのに、どうして俺だけ制約されるんだよ。白い梅雨がなんだってんだ。
俺は洞窟の入り口の前で立ち止まってアルファ兄を振り返った。
「やら! おしょといきたい!(やだ! お外行きたい!)」
するとアルファ兄は入り口から離れた場所で立ち止まっていて、厳しい顔で俺を手招きしていた。
「ホントにダメ! デルタ、冗談抜きでそこは危険だから来なさい。早く!」
珍しく大声を上げるアルファ兄の剣幕に押されて、俺は急いでアルファ兄の元に駆けた。
足下に注意していなかった俺は小さな窪みにつまずいた。
しかし俺の顔が地面に激突するということはなく。
アルファ兄は俺を翼で優しく包みながら言った。
「なんでそんなに外に行きたいんだい。 いつも遊んでやってるのに、それじゃ不服なのかな?」
俺は力強く何度もうなずいた。生まれてこのかた一度も外に出たことがないから、ここ最近ずっと外の世界への好奇心が高まってばかりだったのだ。外の世界を知りたい、白い梅雨の向こう側に何がいるのか知りたい。図鑑でしか知らない世界を探検したい、という欲求不満が爆発しそうだ。
するとアルファ兄はどこか悲しい目をして、少し震えた声で言った。
「そうか、デルタはあの光景を見てないんだったね。
私が一緒に遊ぶからさ、あと一週間だけ、我慢して欲しいなー」
アルファ兄の辛そうな表情を見て、俺は続く言葉を飲み込んだ。なんだかんだ言っても俺はアルファ兄の言うことは聞くのだ。
なんだか悲しそうな顔してるし、今日のところはアルファ兄と遊んであげるか。
しゃーなしやで。
「さ! ご飯食べに行こー。早く行かないとママが怒っちゃうからねー」
そう言うとアルファ兄は食料庫へ向かった。
俺は外を振り返り振り返り、アルファ兄の背を追いかけた。
俺とアルファ兄は毎日遊んで過ごした。
ある日は土をいじってドラゴンの置物を作った。俺はアルファ兄をモチーフに作っていたつもりだったが口が潰れた牛みたいになってしまって、笑われたのは良い思い出だ。別の日には水遊びをしたくて地面に穴を掘り、水を注いでパシャパシャと水を掛け合って遊んだ。アルファ兄は身体が大きすぎるから、地面の穴に満たされた水に片足だけ突っ込んで涼をとっていた。そういや、アルファ兄の首の下の鱗、逆鱗を狙って水をかけたら思いっきり嫌がられた。
事件が起きたのはそんな楽しい日々の只中だった。
あと一日待てば白い梅雨が明けるというそんなとき、アルファ兄の寝室はベータ兄のものとなった。
俺はその日、いつも通りアルファ兄を起こしに寝室へ走っていった。最近は筋肉がついてきて一歩が大きくなってきた。それに発声も上手くなってちゃんとした発音ができるようになってきたしね。外へ繋がる洞窟の入り口を見もせず一直線に向かった先で、俺は異様な光景を目にした。
そこにはふらふらと様子が変なアルファ兄と高笑いするベータ兄がいた。
犬猿の仲である二人が一緒にいることは珍しい。……それこそ頭領へと下克上戦をするときくらいしかないだろう。
でもベータ兄は強いと言えども、アルファ兄の力が圧倒的なのだ。勝てるはずない。理知的なベータ兄が下克上なんて無謀な勝負をするはずがない。
俺が来たのを見て、ベータ兄が俺に声をかけてきた。
「デルタ、いいところに来たな。
これからは僕が頭領だ! 僕が頭領になったんだぞ!
……何してる。ボーッと突っ立ってないで母とガンマを呼んでこい。
ついでにアルファの許嫁の女もなぁ!」
あたかも自分が頭領だとでも言うような態度のベータ兄が笑っている。俺たちの頭領はアルファ兄だ。ベータ兄ごときが名乗って良いものじゃないぞ。嘘つくならもっとましな嘘をつけ。
アルファ兄を見ると、いつものかっこいい姿と違って弱々しい姿だった。生まれたての小鹿のように震える覚束ない足でなんとか立っている。
時折呻き声をあげるところも、緊張して逆立つ尻尾も、何もかも醜い姿をしていた。
「アルファにぃどうした!? だいじょうぶ?」
思わず駆け寄り声をかけたけれど、アルファ兄は俺を見もしない。
「み、ず……」
「水? すぐもってくるからまってろ!」
俺は何故、とかどうすれば、とか考える余裕もなく水汲み場へ急いだ。
えっちらおっちらバケツ一杯の水を運ぶと、アルファ兄は地面に横たわっていて、状態がより悪化しているようだった。たった一、二分離れただけなのに、まるで別人のように怒鳴り散らしていた。
別人というより、むしろ手足がある毛虫だ。
そう思っていると、水の存在を嗅ぎ付けたのかアルファ兄はいきなり立ち上がって俺に迫ってきた。
「水を寄越せぇ! ぶっ殺すぞ!」
アルファ兄とは思えない乱暴な言葉を吐き、赤く血走った眼をギョロリと動かしていた。
俺は心配とか全部忘れてしまって、ただ当代最強と謳われた巨体を前に萎縮してしまった。
凍りついてしまった俺を一瞥もせず、アルファ兄の視線は水で満杯のバケツに注がれていた。
どこにそんな力があったのかというほどの素早さでアルファ兄は俺からバケツをひったくり、すぐに中の水を飲み干した。
「これじゃない。これは違う。早く水を持ってきてくれ……。足りない、こんなものじゃ全く足りない……」
「ふはは、どうだ僕の知恵は! いくら力が強くたって、白い梅雨にはかなわないんだ。これからは僕が頭領になるんだ!」
とベータ兄は言った。ニタニタと満足げな笑みを浮かべている。
硬直していた俺はハッと我に返った。
アルファ兄がこんな醜い姿になっているのはベータ兄の策略によるもののようだ。
「べーたにぃ! アルファにぃに何した!?」
俺は未だ少し舌足らずな声でベータ兄を問い詰めた。
ベータ兄は俺を一瞬一瞥すると、何も見えなかったかのように錯乱しているアルファ兄にじりじり近づいていった。
「おい! おれのはなしをきけ!」
いくら話を聞けと言っても、俺の声はベータ兄には届かない。俺はベータ兄よりはるかに弱いから。
とはいえアルファ兄はそんなベータ兄の何百倍も強いから、錯乱していても脅威なのだろう。ベータ兄は警戒しながらアルファ兄との距離を詰めていく。彼の眼はギラリと赤黒く輝いている。
「もう一度、白い梅雨を浴びせたら完全に殺せるだろうな……」
不穏な言葉を呟くベータ兄。はっとアルファ兄を見ても彼は水を求めることに必死でベータ兄が何かしようとしていることに全く気付いていない。
「おい」
とベータ兄は言ってアルファ兄の気を引くと、「水なら外にあるぞ」と洞窟の入り口を指差した。
アルファ兄はまるで「散歩」と聞いて喜ぶ犬のように尻尾を振り、入り口へと猛スピードで走り出した。
まさか外の世界に出るつもりなんじゃないだろうな?俺にはあんなにダメだダメだって言っていたのに。アルファ兄が辛そうな顔をするから俺だって我慢してたのに!
「ちょっとまてよ!」
思わず俺は声を上げた。
ギラッと眼をかっぴらいたベータ兄が俺を睨み付ける。
しかし、アルファ兄は一度も振り返らず走り去ってしまった。
彼に俺の声は届いていないようだった。
ベータ兄がアルファ兄を追いかけて走り出し、俺も急いで後を追った。
アルファ兄に追い付くのは容易だった。というのも、彼はまるで酩酊しているかのようにふらふらとしていて歩くのが遅かったからだ。
いわゆる千鳥足ってやつか。
ベータ兄よりも早くアルファ兄に追い付いてなんとか正気を取り戻させたい。その一心で俺は1メートルもない自分の短い足を一生懸命回転させた。
「まて、アルファにぃまって!」
アルファ兄は全く止まる素振りを見せず、ドタドタと体を踊らせて洞窟の入り口へ向かう。
アルファ兄の翼が当たって、前に一緒に作った牛みたいなドラゴンの置物が倒れて粉々に倒れた。
それでも兄は止まらなかった。
もんどり打って洞窟の外へ飛び出した。
俺はアルファ兄の背中に精一杯手を伸ばした。
今アルファ兄の尻尾を掴めばまだ引き戻せるかもしれない。
そんな思いも虚しく、俺は窪みにつまずいた。アルファ兄と水遊びしたときに作った穴だ。
俺は情けなく顔から地面に突っ込んだ。
ダメだ、やっちゃった!
『もう絶対間に合わない』
そんな言葉が頭をよぎる。
『どうせこけていなくても間に合わなかったし。梅雨の季節だけれどアルファ兄が外に出たいなら良いじゃん』
頭が真っ白になって、言い訳ばかりが黒く浮かんでくる。
どうしよう、今からアルファ兄に追いつく方法なんてない。
それでも走るしかない!
『どうせ追いつけないのに追いかける意味なんてある?』
立ち上がろうとした手から力が抜ける。
引き留めるために追いかけたのに、引き留められないことがわかっているのに走っても無意味だ。
俺は倒れたまま頭をもたげ、アルファ兄の行方を捜した。
しかしどこにもアルファ兄の姿はなかった。
「この間抜けが。お前がこけている間にもうお前の兄貴は空へ飛んでいったぞ」
俺をさげすむようなベータ兄の声がした。
そんなはずはない。だって白い梅雨が明けたら二人で遊ぶ約束だ。俺だけを残していくなんて信じられない。
嘘だありえない、と俺はうわ言のように繰り返した。
でも本当はわかっていた。
白い梅雨にうたれたら異常なほど水を求めてしまうこと。しかもただの水ではなく、雨水でなければならないこと。そしてアルファ兄は本能に従ってはるか空の上にある雲を目指して飛んで行ってしまったこと。
「それで?」
と、俺に追いついたベータ兄は言った。彼はそのまま洞窟の奥へと続く通路を塞ぐように移動し、さっきを丸出しにして立ち塞がった。
「お前は見なくていいものを見てしまった。今処分してもいいが、下克上戦でもないのに身内を殺すのは掟で禁じられている。しかしお前から牙を剥いてくれたら僕は容赦なく雑魚なお前を殺せる。
どうしたい? ここで見たことを一生胸のうちに秘めるならそれでいい。あるいはここで殺されるか、狂った兄貴を追って外へ出るか。自分で決めろ」
ベータ兄は俺が全く脅威ではないと侮蔑的な目を向けてくる。
間抜けだ雑魚だと俺が舐められるのはどうでも良かった。しかしアルファ兄がベータ兄の卑怯な手で正気を失ってしまったことが悔しかった。黙っていれば見逃すとは言っても
気づけば俺は“ウアアア!”と叫びながらベータ兄へ突進していた。
『同じ目に遭わせてやる』
その一心で走った。ベータ兄を睨みつけると、なぜか彼は悲しそうな目をしていた。
俺は遙か頭上にあるベータ兄の顔に一発入れるべく少し手前で踏み切り、大きくジャンプした。空中で一度翼を羽ばたかせて一気に加速し、思いっきり右腕を振り上げた。
せっかくだから目を狙った。お前がアルファ兄を実質殺したくせに、被害者ぶるんじゃない。潰してやる。
体のひねりを解放し、右腕を振り下ろす。ざっくりと肉を切り裂く確かな手応えがあった。
「あぁ、家族を二人も殺したくなかった」
次の瞬間、俺は俺の体とベータ兄を見上げていた。ベータ兄はまぶたに傷がついているだけで、眼球は無傷だったようだ。俺の体はベータ兄にわしづかみにされ、首から下だけしかなかった。『首を落とされたんだ』と気づき、俺はベータ兄を呪った。
失敗した、失敗した! アルファ兄の敵をとれなかった! いつか絶対殺してやる。尊厳ある死に方ができると思うな。俺は呪いの言葉を吐こうとしたが、肺も横隔膜もない以上、発声は不可能だった。
おもむろにベータ兄が俺に手を伸ばしてきた。何されるんだろう、と一瞬恐怖したが、すぐ何も感じなくなった。そろそろ脳に血が回らなくなってこの世とおさらばする時間が近づいているのだろう。ベータ兄は俺を掴み、白い梅雨がしとしと降る洞窟の外に放り投げた。何の変哲もない土に顔からぶつかった俺は白い梅雨に打たれた。こんな「アルファ兄とのお揃い」なんて欲しくなかった。
「念願の外の世界だ。最期に楽しんでくれ」
だめだ、朦朧として周りをよく見られない。アルファ兄と叶えたかった夢が、ベータ兄のせいで叶ってしまった。朦朧として何の感情もわかなかったが、たぶん怒りを覚えているだろう。しかしもう俺には怒るだけの余力も明瞭な意識もなかった。
喉が渇いた。
デルタの死から数百年のときが流れた。
ベータの子供になかなか男児が生まれなかったこともあり、頭領の代替わりはおきておらず、ベータが頭領をしていた。ベータは若すぎるメスドラゴン以外の全てのメスと関係を持っており、その中には元々アルファの妻だったメスたちもいた。
彼女たちの一人、アルファに特に強い好意を抱いていたメスドラゴンともベータは交尾し、卵を産ませていた。数百年前いきなり宙ぶらりんにされた彼女のアルファへの恋心はベータへの憎しみに変容していた。彼女の卵はそんな母親の思いを察したからか、次期頭領候補となる待望のオスドラゴンが誕生した。
おぎゃぁぁぁ!
俺はこれまで自分を守ってきた薄暗い閉鎖空間を内側から叩き壊して外へ顔を出した。
殻を破ったばかりで目を開けられず鼻も利かないが、近くに大きな存在感を二つ感じた。非力な俺よりも圧倒的強者のようだが、俺は全く怖くなかった。本能でこの二つの存在は自分の味方であるとわかっていた。
俺が泣きわめく声の合間に耳心地の良い二つの声が聞こえた。
「あらあら、かわいい産声やの。性別は……良かったじゃんね、オスやよ」
「ホント!? やったぁ、ようやく生まれてきてくれた……昨日初めて卵にひびが入ったと思ったらその後なかなか顔を出そうとしないんだもん。ちゃんと殻を破ってくれて良かったー」
「そうやの、よく頑張ってくれたわい。でもあんたもよく頑張っとったよ。初めてで失敗せず、柔い卵を潰さず孵化までさせたのはわしが見守っていた中で初めてよ」
「うん……! おばあちゃんありがとう! アルファ兄様とはなかなか子供ができなかったのに、奴とは一発でできちゃって最悪だったけどね。最低で極悪非道なベータとの間に子を成すのは最悪だったけど、私が産んだこの子があいつを殺して頭領になってくれるなら最高だわ」
「名前はどうするのや? 前に候補として挙げとったアベンジャーとアルファはそのまんま過ぎてあいつに警戒されるで」
「わかってる。順当に”ミュー”とするつもり。あぁ、来たる日が今から待ち遠しいわ!」
十二番目の子供である俺はミューと名付けられた。
梅雨の季節に産声を上げた俺は、その後何不自由なく100数十年を生きた。少なくとも一週間に一度は頭領であるベータお父様が狩りをしてきて、体長五メートルほどの大きな熊などを持って帰ってくれたおかげで食事に困ることはなかった。俺たち家族が住む洞窟にはコウモリもいるけれど、小さくてなんの栄養の足しにもならない。俺はそんな限界飯はこれまでの100年間で食べたことがない。寝床としても一人部屋があるし、洞窟の壁も補強されていて崩落の心配もない。悠々自適の隠居生活みたいな楽な生活だった。
ところで俺は身体的にずいぶん成長して独り立ちできる年頃になり、お母様や妹達から『いつ頭領になるの?』と急かされる日々が続いていた。大人になったオスドラゴンは概ね二通りの人生があり、世襲的に下剋上して一家の頭領になる一般的な場合と、他家のご令嬢を迎えて新しい家庭を築く稀な場合がある。お母様や妹は前者になることを望んでいるようだ。今もお母様の部屋に呼び出され将来の話をされた。
「私はあのクソ野郎をなんとかして殺してやりたい……! 素晴らしかったアルファ兄様の敵を取ってやりたい。あなたはそのために生まれてきたんだからね。本当はあなたがあいつのことをお父様と呼ぶのもおぞましいと思っているのよ」
俺は幼い頃から耳たこのお母様の怨嗟の言葉を聞き流し、ここにいても得るものがないと判断してしれっと部屋を出た。
背後にお母様が「ベータの野郎は真の頭領だったアルファ兄様を卑怯にも白い梅雨を使って苦しめて殺したのよ! だからあいつは本当の下克上戦をしたわけではないし、つまり真の頭領じゃないのよ!」と叫ぶ声が聞こえてきたが、俺は自分の見てきたものを信じる。お父様は立派な頭領だ。
お母様がなぜこんなにもお父様を憎んでいるのか、俺にはわからない。下克上では不意打ちも許されているし、前頭領を倒して正しく頭領の座を奪ったのならそこに文句を言うのは筋違いだし、前頭領が衰えただけ、という話になる。白い梅雨がどうこう、というのは気になるが、お母様が勝手にアルファを美化しているだけかもしれないし、話し半分に聞き流している。
それに今この家が他ドラゴンの集落よりも繁栄しているのはお父様のおかげだ。お父様は積極的に他集落から若いメスドラゴンを招いて子作りに励み、毎週狩りに出て五十匹近い大所帯を食わせ続けてきた偉大な実績がある。俺は尊敬こそすれ、憎むなんて気持ちは微塵も抱かなかった。
そうしてお母様や妹たちからの圧力が日に日に増していくなか、俺はお父様に呼び出された。お父様の部屋は俺たちが住んでいる洞窟の入り口のすぐそばであり、そこは頭領が寝る場所としてはあまりに狭い空間だった。
ただ、窓があることだけが他の部屋と違っていた。
狩りに行って戻ってくるときしかお父様の姿を見かけないから、俺は部屋にいるお父様を新鮮な気持ちで眺めた。
「よく来た」
俺が部屋に入り扉を閉めたのを見て、お父様は口を開いた。
「ミュー。
……何と言うかその、元気にしているか?」
何の話が来るのだろうと身構えていたから、あまりにも様子見な社交辞令が来て少し拍子抜けてしまった。チラリとお父様の顔を覗くと、お父様は気まずそうに目を反らした。口下手すぎでしょ、とクスッと笑って俺は「おかげさまで」と答えた。
やはりこの質問は特には意味のないものだったようで、お父様は「そうか」と言ってそれ以上踏み込んだ質問はしなかった。そして覚悟を決めたような表情をして「真面目な話がある」と言った。俺は足を折り畳んで腹を地面につけて四つん這いで座り、姿勢を正した。
お父様も同じように座ると「お前は母や姉妹から色々と聞かされているかもしれないが、」と前置きして話し始めた。
「ミュー、彼女たちが言っていたことはほとんど全て正しい。私は彼女たちから憎まれるほどのことをした。せこい手を使ってアルファを殺し、ただ、頭領を継ぐであろうお前には私と彼女らの過去を、特に私が頭領を継いだときのことを多面的に知っていてほしい」
なるほど。
つまり俺が頭領になるときのために自分の経験からアドバイスしてくれるということか。
もしかしたら母や姉妹が好き勝手言っている内容を訂正、あるいは言い訳したいだけなのかもしれないけど。
「私が頭領になる前、兄が私たちの集落を率いていた。兄は物心ついたときから力が強くてどんな魔物にも負けたことがなかったらしく、将来良い頭領になるだろうと言われていた。
が、実際はそうはならなかった」
母たちから話には聞いていたが、事実お父様の兄は高い天賦の才を持っていたらしい。そして初耳だったのが実際のところ、彼は良い頭領にはならなかった、ということだ。俺は母から「アルファ兄様は強くて素晴らしかったわ」と聞かされていたが、それは個体としての能力が高いことを指して「素晴らしい」と言っていたようだ。
「兄は100歳くらいで父を殺して頭領になった。たった100歳で当時全盛期の父を殺したんだ。そういえばお前も100歳くらいだったな。お前は今、私と戦って勝てると思うか? こう見えても私は全盛期を過ぎているのだが。……な、無理だろう。しかし兄はやり遂げた。それくらい異次元の強さだった。
あの頃の私は兄を凄く尊敬していたし、私が持ち得ないその強さも同じくらい畏怖していたよ。だから兄が頭領になった時には『新しい時代の到来だ!』と幼心に胸を弾ませていた。
しかし兄の集落運営は口が滑っても良いものとは言えなかった。四男のデルタを私の母が身籠った時―当時私や兄の母は兄の妻だったんだ―兄の行動は頭領として全く相応しくないものだった」
お父様の兄上は自分の母親を妻にしたんだ! がっつり近親相姦じゃん。
俺がよほど驚いた顔をしていたのか、お父様が「意外とよくあるんだぞ」と教えてくれた。ドラゴンの寿命が長ければ1000年を越すこともあるが、いかんせん個体数が少ないせいで同じ相手と何度もしたり、果ては自分の子供ともするらしい。
「へぇー、そーなんだ」と言うと、お父様は吐き捨てるように話の続きをし始めた。
「兄は行動が気まぐれだった。
好きなときに狩りに行き、好きなだけ食べ、やりたいときに交尾し、気が済んだら寝た。
そんな無責任な行動のせいで、食糧庫の食糧は減る一方だったし、集落を抜けるオスドラゴンは増える一方だった。メスドラゴンはアルファのワイルドな魅力に惹かれて抜けるものはいなかったよ。
食糧難が一番深刻だったときは、生まれて数週間のオスドラゴンの食事がコウモリ一匹だったこともある。そんな生活で子供が正しく育つわけがない。予想通り、その子はガリガリで鱗もボロボロな身体だったよ」
お父様は悔しそうに手を強く握りしめていた。俺はお父様が言及した赤ちゃんドラゴンはデルタのことだろうとなんとなくわかった。祖母たちが『ベータの下克上に巻き込まれて産まれて1ヶ月で死んでしまった可愛そうな子がいた』と悲しげに話していたのを覚えている。
「何の手も打たなかったらこの子を含めて全員死んでしまうと思ったから、私はかねてから用意していた計画を実行に移すことにしたんだ。
当時は白い梅雨の季節だった。白い梅雨の危険性はよく教えただろう? 植物にとってはこの上ない肥料となるが、動物がひとたび触れてしまうと中毒状態になる、と。私は卑怯だとは思ったが、白い梅雨を利用することにした」
白い梅雨については生まれてすぐの頃からお父様にその危険性を聞かされてきた。確かその時お父様は「かつては老いた穀潰しのドラゴンを白い梅雨の中に出ていかせて、その老ドラゴンが中毒になり、狂喜的な様子で雨粒を求めて空へ飛び立つ様を見せられたものだ。私はその慣習が非効率的に思えたからお前たちには見せていないがね」と言っていた気がする。お父様の代までは祖父や曾祖父が非人道的な方法で狂気に染まり死にゆく様を見せられたのだろう。
「私が取った方法は他人から見れば卑怯でしかないものだっただろう。もともと我が家の女性たちは、見目もよく力もありそれでいて庇護欲を掻き立てるような兄を盲目的に愛していた。だからこそ卑怯な手を使った私にこれほどまでに粘着質に憎しみを露にしているのだろう」
「結局、卑怯な方法ってなに?」
と俺が聞くと、お父様は口ごもりながら「本当に褒められた方法ではないし、でも私が頭領であることにはかわりないのだが、」と前置きして続けた。
「だからその、つまり、白い梅雨に触れさせたんだ。洞窟の天井に穴を開けて雨水を浴びせた。
そうしたら錯乱して雨水だけを求めるようになるだろう? そして弱ったところを殺すか雨の中へ放り出してどこかで野垂れ死にさせたら下克上できる。
実際は兄が暴れまくっていたからトドメをさせなかったが、兄は梅雨の雨雲へと一直線に飛んでいって今まで戻ってこないから、ほぼ確実に死んでいるだろう。いや、死んでいてほしい、死んでいてくれないと困る!
だから僕は、違う、私は兄に直接手を下したわけではない。完全に下克上を果たしたわけでは、ない。
……ミュー、どうだ、幻滅したか?」
お父様はいつも淡々としていて感情が荒ぶっていることなんて見たことなかったけれど、恐らく幼少期の一人称がポロっと口からこぼれてしまうくらい、感情を爆発させていた。
「確かに卑怯な手を使ったんだ。でもそれって、赤ちゃんドラゴンや俺の母とかのためだったんでしょ?
俺は生まれたときからずっと食事も寝床も満足に分け与えられているから、コウモリ一匹しか食べられないようなときよりもよっぽど良いと思うけど」
聞く限りお父様が下克上するのがそのときの最良の選択肢だったと思うけれど、お父様はなぜか心苦しそうな表情をした。
食糧難を脱し、勢力を拡大し、集落の誰もが大きな不満なく暮らしていけているこの状況を作ったのは紛れもなくお父様なのだから、もっと胸を張っていい。俺にはお父様が引け目を感じる理由がわからなかった。
「しかし、私はデルタも、お前の言う赤ちゃんドラゴンも殺してしまった。
デルタのための下克上だったのに、そのデルタをも殺してしまった!」
その話は母から聞いていた。
デルタはお兄ちゃんっ子だったらしく、お父様の兄を『アルファ兄』と呼んで凄く懐いていたそうだ。お父様の下克上決行日、偶然その場に居合わせたデルタをお父様が非情にも首を切り落として殺したらしい。
「それは事実だ」
とお父様は言った。
「何の罪もない純真なデルタから兄を奪い、あげく集落の復興の邪魔になるからとその命まで奪ってしまった」
「相手は赤ちゃんだろ? 力量差があったなら殺さないように手加減できたんじゃないの?」
「可能だった。しかし私は兄を殺していないから、それを言及されると立場が危うくなる。だからデルタを殺したのはいわゆる口封じのためだ。
私が頭領になった本当の方法を集落の皆に知られると正統な頭領だと認められない可能性もあったからな」
「じゃあなんで俺に言ったんだ?」
俺はお父様の真意をはかりかねていた。俺が告発すればお父様は集落のドラゴン全員によって頭領の座から引きずり降ろされるかもしれないのに。
こんな打ち明け話をして、俺に何を求めているのかがわからない。
『白い梅雨を利用してしまった私みたいになるな』という教訓でも言いいたいのか? それとも俺に「お父様はちゃんと正統な頭領だ」と肯定してほしいのか?
どちらにせよ俺が『実はお父様は前の頭領を殺して下克上を完全に成しえたわけではない』と知ってしまった以上、お父様が頭領としての信用を失うのは時間の問題だろう。
「お父様。お父様はは結局何を伝えたいのですか?」
ながながとお父様の話を聞いていたが、どうやらこれはおらが頭領になった時のアドバイスというより、お父様の自白みたいに聞こえる。
俺は座り続けて痺れてきた脚を伸ばしてゴロンと腹を見せて横になり、首だけもたげて聞いた。
俺の態度で気持ちが伝わったのか、お父様は俺から目を反らした。
「ありがとう。そしてすまない、要領を得なかったな。つまり……」
お父様はそこで言葉に詰まり、黙り込んだ。しかし、俺はお父様が言いたいことがなんとなくわかる気がした。お父様はあえて嫌われるような情報を俺に伝えた。嫌われて、できるだけ早く下克上されたいのだ。
「わかりました。
俺は何の負い目もなくあなたに下克上を挑めるということですね。デルタにまた会うのは俺が強くなるまでもう少しだけ待っていてください」
そう言うとお父様は救われたような表情で俺の目を見ると、深く深く頷いた。
お父様と会話したおよそ50年後、その日は例のごとく梅雨の時期だった。
俺はお父様と対峙していた。―そして俺たちの周りには俺の母や姉妹がいた。
「ついにこの日が来たのね! ミュー、この偽物頭領をぶっ殺して!」
母の野次が飛ぶ。
お父様は決して偽物なんかじゃない。俺は出かけた言葉を飲み込んだ。しかしそれを言っても彼女たちは理解しないだろう。だからあえて彼女たちを招待して下克上戦を見せることにしたのだ。俺は1ヶ月前のお父様とした会話を思い出していた。
『お父様、本当に衆人環視のもとで下克上戦をするのか?』
『ああ、私がボロボロに負けるのを見て彼女たちの憎しみが消えてくれればいいからね』
『……あっそう。じゃあ6月の最後の日に下克上するって皆に言ってまわるから』
下克上することを皆に告げた途端、皆の目の色が変わった。憎い相手がようやく死ぬ、という彼女たちにとっての”希望”が見えて、色めきだったようだ。
俺は実績を見ず過去にばかり取り憑かれている彼女たちを哀れに思った。
集落の皆が見守る中、俺とお父様の決闘が始まった。
闘いは思いのほか長引いた。
お互いに傷だらけになっていたが、まだまだ体力に余裕がある俺と、片目を潰され、肩で息をするお父様ではどちらが最後まで立っていられるかは明白だった。
「ベータ、次の一撃で決めようじゃないか」
俺があえてお父様を名前で呼ぶと、お父様は一瞬驚いたような顔をして、ふっと力を抜いて笑った。
お父様の下克上のときは、兄に正々堂々と戦う機会は与えられなかった。不意打ちされ、そのまま本来の実力を発揮できずに空へ還った。
お父様はその事をよくわかっている。卑怯な手を使った自分が本気を出せる機会があるだけ、恵まれている。
母たちが反発するかと思ったが、思えば闘いが中盤に差し掛かり白熱してきたときから黙りこくっていた。卑怯な手を使って頭領の座を奪ったのだから実力はそこまでないだろうと勝手に思っていたのか、若い俺といい勝負をする様子に認識を改めたのかもしれない。
「……ありがとう」
万感の思いのこもった言葉だった。
「お父様は最初から最後まで、ずっと素晴らしい”頭領”だったよ」
俺たちは互いに向かって駆け出した。
そして交錯したあと、お父様の首がゴトリと地面に落ちた。
俺は慣習にならってお父様の首を掲げた。
周りのドラゴンたちがまばらに遠吠えを始めた。母のすすり泣く声も聞こえる。
俺は頭領になった。
幾ばくかの時が流れ、俺は妻を娶り、そして彼女との間に息子が生まれた。次期頭領候補の息子だ。俺はいずれ俺を殺しに来る息子にどう接すればいいかわからなかった。
苦悩する日々が続き息子の顔を見るのも怖かったが、ある時母が言った。
「ベータを見習いなさい。私は彼のことが嫌いだけれど、素晴らしい父親であったことはあたなが一番よく知っているでしょう」
俺はハッとして卵から孵ったばかりの息子の顔を見に行った。俺の掌ほどしかない小さな存在が、俺を見てミャーミャーとご飯を催促するように鳴き始めるのをどうしようもなく愛おしく思った。
「このか弱い存在を守りたい。そしていつかは強くなって、俺よりもすごいことをしてほしい。
ベータだって俺を見て同じ気持ちだったはずだ」
母からお父様の過去を聞かされた日、お父様が過去を打ち明けた日、俺が頭領になった日……
俺の心深くに刻まれたお父様への感謝と悲しみが勝手に目頭を熱くする。でも息子の前では絶対に涙を見せない。尊敬と畏怖の対象でありたい。大きな壁でありたい。
それが俺が目指す”父親”であり、”頭領”だ。
その日、泣けない俺の心を代弁するかのように、空は泣き続けていた。
白い梅雨の季節が来た。