4-2 そして少年はまたもらした
「ただいま」「ただいまー」
「お、帰ってきたな」
店に入ると、
待ちわびたと腕を組んでショウが待っていた。
「なんかみんな揃ってるな」
なんだと思ってソソグが店内を見渡した。
いつもの常連、
リイ、テラダ、ミチオが
椅子に座ってるのが見える。
まるでソソグが戻ってくるのを
待っているようだ。
「ソソグっちが新しいコーヒー買ってくる
っていうから、期待してたんっすよ」
「早速頼んでいいかな」
「俺たちの分も頼むぜ少年」
「は、はい」
口々に言われてソソグは
驚きながらも返事をした。
(き、期待されている)
そう思うと少し体が震えた。
(って豆が変わっただけで、
やることはいつもどおりでいいよな?)
店内を見て改めてそれを確認。
自分に納得させるように小さくうなずいいた。
手を洗ってから
買ってきたコーヒーを袋から出す。
風を開けるとそれだけで
程よい苦味と酸味が鼻をくすぐった。
ソソグはこれだけでも満足できる。
だが期待されてるのは
ちゃんと淹れたコーヒーだ。
「ソソグくん、手伝う?」
「じゃあお湯を沸かしておいてくれ」
「うんっ!」
ナミが元気よく返事をしてくれた。
ウォータサーバーから
ケトルにお湯が注がれる音がする。
するとまたなんだか
下半身が震えるような感覚がした。
(みんなにコーヒー淹れたらトイレ行こう)
そう思いながら
コーヒーミルの準備を進めた。
軽く洗って、拭いて豆を入れる。
回しだすと、
いつもと少し違う感じがした。
豆が違うのだから当然だろうし、
ひとによっては気にならない程度。
それでも少し新鮮だ。
コーヒーミルが回っている間も
店内は静かだった。
最初にソソグが
コーヒーを淹れたときも
こんな様子だったのを思い出す。
(あのときといっしょで
期待されてるのか……)
同じようにドキドキするような、
ワクワクするような感じがしてきた。
それといっしょに周囲の目線が
ソソグの手元に集中しているので、
緊張も少しある。
さらに少しの尿意。
「お湯湧いたよ。
カップを温めればいい?」
「ああ」
ソソグも元気に返事をした。
するとナミもテキパキと動いてくれる。
カップにお湯が注がれる音がした。
ちょぼちょぼと水が流れる音。
(って、これじゃ
『共同作業』じゃねーか?)
と思ってリイやテラダをちらりと見た。
ふたりはソソグやナミの慣れた動きを
興味ありげに見ている。
ソソグをからかうような素振りはない。
(なにも言わない。
よかった。
今アレコレ言われたら漏らすかもしれねぇ)
ホッとしつつもやや股に力を加えた。
ミルを挽き終えると、
ドリッパーもフィルターも用意済みだった。
なにも言わずとも、
ナミが用意してくれたのだろう。
ちらりと見るとニコニコしてこちらを見ていた。
お礼代わりにうなずいてから、
温め終わったカップの上にドリッパーをセット。
お湯を注いでいく。
またも水の流れる音が膀胱を刺激した。
(まだ大丈夫だろう)
焦らずにゆっくりとお湯を淹れていく。
カップに一つずつ、
風味が損なわれないように。
(ちゃんとできた。
だが、コーヒーの匂い嗅いだら、
またトイレ行きたくなってきた……)
なんとなく匂いでそれが分かる。
お盆を用意してカップを運んだ。
「どうぞ」
ようやく三人のいるテーブルに
コーヒーを配り終えた。
本当ならここで
そそくさとお手洗いに行くべきだった。
だが気がつくと三人は
早速コーヒーカップを手に取り、
味わい始める。
「うん、いい香りっすね」
「前のより酸味が強い。
ソソグくんはこういうのが好みなのか」
「ああ、やっぱりコーヒーは
眠気覚ましじゃなくて、
味わって飲むものだな」
口々に感想をつぶやいた。
「あ、ありがとうございます」
これには答えないわけにはいかなかった。
そしてタイミングを逃したと分かる膀胱は
さらにうずうずしだす。
「次俺たちのも頼むわ」
「ナミちゃんのもー」
「は、はい」
思わず返事を返してしまった。
親子で急かされて、
トイレにいくタイミングは見えなくなる。
(だ、大丈夫だ。
もうふたり分用意するだけだし)
そう言い聞かせて
ソソグは次の準備を進めた。
だが今回はナミが手伝ってくれない。
いつの間にかカウンターの外側。
頬杖をついて、
楽しみにしているような目を向けられる。
なので、お湯を沸かすところから始めた。
先程よりも素早く。
それでも変わらずていねいに。
ここでミスって
『いつもよりおいしくない』とか
言われたらイヤだ。
だがナミ以外のみんなもいるところで
漏らすのはもっとイヤだ。
焦らず一定のスピードでコーヒーミルを回す。
お湯を沸かしてコップを温めるお湯を注ぐところで、
(まだでない。
さっきより音に慣れてきた)
そう感じ残りの作業も進めた。
ドリッパーとフィルターをセットし豆を入れる。
(あとはここにお湯を注ぐだけ……)
そう思ってお湯を注ごうとすると、
股から全く同じが音しだす。
(あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ)
叫び声を上げそうになるのは
なんとかこらえた。
だがどちらの水も流れ始めたら
止めることはできない。
なんとか顔に出さないように顔を固くした。
キョロキョロと見る。
誰も気がついていないようだ。
お湯を注ぎ終わると
股の方も出し尽くしたように止まった。
「ど、どうぞ」
まずはショウにコーヒーを差し出した。
幸いショウもナミも手が届く範囲にいる。
そしてふたりともカウンターの外。
カウンターのおかげで
足元を見られずにお手洗いにいけるはずだ。
「ソソグ、緊張してるのか?
声が震えてるぜ」
「そ、そりゃ、そうです。
いつものとは全然味が違うのを選んだので、
ちゃんと飲めるかどうか心配で」
なんとか声も戻しながらショウに答えた。
続けてナミにもカップを差し出す。
「ナミさんも」
「ありがとう?」
なんだかナミが不思議そうな顔でソソグを見た。
あるいは心配しているような顔だ。
(気が付かれたか?
だがナミさんなら……。
いやいや、誰にも気が付かれずに
クリアできるのが一番だし。
とりあえずトイレに逃げる。
濡れたズボンをどうするかはあとで考えよう)
「なんかおしっこ臭くない?」
リイが声を上げた。
ソソグはビクリと体を跳ねさせる。
皆の視線はリイにあって、
ソソグには誰も気が付かない。
それでもソソグの動こうとした体は止まる。
「そうか?
歳のせいか鼻がきかなくなったか?」
「水の音が変なふうに
聞こえただけじゃないか?
普段から変なことばかり考えてるから
そう思うんだ」
「下水がおかしくなったか?」
皆があれこれと理由を考え始めた。
(今ならまだ逃げれる、もうダメだ、今ならまだ逃げれる、もうダメだ、今ならまだ逃げれる、もうダメだ、今ならまだ逃げれる、もうダメだ、今ならまだ逃げれる、もうダメだ)
「ソソグくんはどこからか分かる――?」
ナミがソソグに聞こうとするが、
ソソグはすでに顔面が真っ青だった。
それにナミの問いかけにも答えられる様子ではない。
それを見てハッと息を吸った。
「ごめ~ん、ちょっと漏らしちゃった」
思わぬことをいい出した。
ソソグの顔から血の気は戻ったが、
目は見開かれていく。
「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお?!?!?!?!?」」
するとさらに思わぬ反応が
リイとテラダから上がった。
まるでライブが始まる前の歓声のような、
勝利の雄叫びのような声だ。
「うおおおおおおおおじゃねーよオタクふたり!」
ソソグは勢いよくふたりに返してしまった。
ナミはすぐにバックヤードに駆け出していく。
「とにかくナミちゃんの部屋に連れてって」
「お、おう」
普通ならばここで
ソソグがいうセリフなのだろう。
だがそれをナミに先に言われてしまった。
ソソグは黙ってナミに寄り添うようにかけだした。
股が冷たく感じ始める。
#
当然だがソソグはナミの部屋に初めて入る。
部屋には『えのすい』で買ったであろう
イルカのぬいぐるみ。
ピンクのベッド、
おしゃれな勉強机、
ヨガマットなどが目立つ。
ソソグはドアを閉めると
すぐに足元を確認した。
「たれてない」
クリーム色のカーペットはそのままの色だった。
それを確認して一旦一息つく。そして、
「ご、ごめんなさい!
俺とうとうやっちゃって」
すぐに頭を下げた。
店の方に聞こえない声の大きさになんとかとどめて、
心の底からお詫びの言葉を出す。
「とうとうじゃないじゃーん。
ナミちゃんの前で一度してるでしょ」
ナミはそう言ってにっこりと笑った。
それから、いろいろなステッカーの張ってあるタンスを開ける。
「そうだが、
それをナミさんに押し付けて……」
「いいのいいの。
かわいい弟分を助けるのは
お姉ちゃんの役目なんだから」
「だけど、どうするか。
着替えなんて当たり前だけどないし――」
「はいこれ」
ソソグが不安を口にしていると
ずいっとなにかが差し出された。
「な、なんで男物の下着とか持ってるんだよ!
まさか彼氏の!?」
「彼氏なんていないよー。
お父さんの下着を通販するときに、
余分に買っておいたのを持ってただけ」
黒いボクサーパンツを受け取ると思い出す。
「もしかして
『万が一』ってことで用意してたのか?」
「そうだね~」
ソソグの疑問にナミは
いつもどおりの口ぶりでうなずいた。
いっしょにいる中で、
何回か思わせぶりなことを言っていたのが
思い出される。
おもらし対策をおむつ以外で
どうするのか疑問だったが、
まさか予備を用意していたなんて思いもしなかった。
ソソグが呆然としていると、
ナミはタンスからさらにジーンズまで出してくる。
「それからこれも。
今はいてるのと同じ色だから気が付かれないよ」
「これは、ナミさんの?」
「ううん、こっちも
ソソグくんのために用意しておいたの」
さも当たり前のように言われた。
地震対策に家具を固定してるとか、
津波から逃げるために
避難経路を確認してるのと
同じような言い方でもある。
だが普通は同じバイトの男の子が
おもらししたときのために
着替えを用意してることはない。
それに対しソソグは
良い言葉を見つけられずにいた。
それでも重い口をゆっくりと開く。
「……今は甘える」
「うん。汚しちゃったのを
入れる袋用意するね。
着替えてて」
さらに机から折りたたまれた服屋のビニールが出てきた。
「大丈夫だよ。
ソソグくんの気になるけど見ないから」
ソソグが固まっているのに気がついたのか、
ナミはこちらを見ずに言った。
(今は素直に従ったほうが、
ナミさんの迷惑にならないか)
そう思ってエプロンを一度取って、
着替え始めた。
カーペットを濡らさないように、
慎重に脱いだ服や下着を扱う。
それからナミから
受け取った方へと着替えた。
サイズがあっている。
「着替えた?」
「うん、大丈夫」
ベルトの音で気がついたナミに、
ソソグは答えた。
くるりとこちらを向く。
「次はナミちゃんが着替えないと。
みんなにはナミちゃんが
漏らしたことになってるんだし」
「あ、そうだっけ」
「ソソグくんは先に戻ってて大丈夫だよ」
「あ、いや」
ソソグは言葉に引っかかった。
おまけに体も動きにくい。
当然すぐに出ていかないといけない状況だ。
なのに部屋をでることをためらった。
そんなソソグの様子を見て、
ナミは顔をニヤリとさせる。
「それとも、
ナミちゃんの生着替え見たい?」
「じゃなくて……。
その不安で」
目をそらして言いづらそうに口を動かした。
いつもなら『んなわけあるか』と
言い返すところだ。
それができない。
「みんなソソグくんじゃなくて、
ナミちゃんの心配するから怪しまれないって」
ナミは安心してほしいと笑ってくれた。
だがソソグは目をそらすだけで、
なにも言えないでいる。
(多分、ナミさんの言う通りだろうな。
俺は戻って『ナミさんは大丈夫だ』って
言えばいいんだ。
だが、本当にそれでごまかしきれるか?)
「それでも不安?」
黙って考えていると、
ナミがより優しい声で聞いてきた。
まるで聖母のように
穏やかで愛情のこもった顔をしている。
そのおかげか、
ソソグも素直にうなずいた。
「もしかしたら、
ソソグくんも着替えたことに
気が付かれちゃうって思ってる?」
「あ、ああ。
さっきもそうだったけど、
リイさん変なところに気がつくし。
そうしたらどうやってごまかせばいいか、
思いつかない」
素直に不安を口にした。
するとナミは納得したように何度もうなずく。
「じゃあ、いっしょに戻ろうか。
ちょっと後ろ向いててくれればいいから」
「あ、そっか。
着替えるもんな。
ごめん。部屋出るわ」
「いいよいいよ。
本当に後ろ向いてれくれればいいから」
ソソグは言われたとおり
ナミに背中を向けた。
見えるのはドアだけ。
呆然としていると、
エプロンの紐が解ける音が聞こえた。
意識が音に集中してしまう。
普段ならこんな音、気にもならないはずだ。
「んっしょ」
それからあいらしい声がした。
おそらくビキニのトップスを
はずしているのだろう。
当然見て確かめるわけにいかない。
次に聞こえたのは足音だった。
トントンと二回。
カーペットの上なので
そんなに響かないと思う音も、
今はよく聞こえる。
これは多分ビキニの下を脱いだ音。
(ってことは後ろで、
ナミさんが裸に……)
気がついてしまい
ソソグは両腕を強く握った。
肩、足、口元にも力が入る。
(いや、そんなことよりも、
ナミさんに大恥かかせてしまった……。
これをどうするか)
さらに考えを頭に詰め込んだ。
いやらしいことを考えたり、
起こしてしまわないように。
タンスの開く音がした。
おそらく着替えを出しているのだろう。
(先に出しておけよ。
なんで男が部屋にいるのに
裸でいる時間を減らそうと思わないんだ!)
振り向いてそう言いたくなるのをこらえ続けた。
(なら俺が素直に
部屋から出ればよかったんだよ。
文句を言われるべきは俺じゃないか)
そんな考えに行き着き、
ソソグの体から力が抜けた。
その間にも布をこするような音が聞こえるが、
気にしていられる気分ではなくなる。
「着替えたよ」
声が聞こえたかと思ったら、
ナミがいつの間にか隣に居た。
優しく笑いかけてくれ、
手をつないでくれている。
まるでひとりで出かけるのが
怖い子供に寄り添う母親のようだった。
だがソソグは手を握り返せなかった。
その後はナミの言う通り
誰にも怪しまれずに一日が終わった。
ナミを心配する声こそあったが、
ソソグについて聞かれることはない。
本当なら安心してよいところなのだろう。
だがソソグは、
笑顔で皆の心配に答えるナミを見て、
罪悪感を募らせるばかりだった。
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