2-4 やってみる?サーフィンともしもの備え
母の姿が見えなくなると、
ショウはがっくりと椅子に背中を預けた。
それからソソグの出したコーヒーを一気飲みする。
「緊張した……。
それにスーツを着るとなんというか
より身と心臓が引き締まるわ」
「母も言ってましたけど、
普段の格好でよかったのでは?」
ソソグはカップを片付けながら店主に聞いた。
手早く流しに持っていく。
店主はようやくびっちししたネクタイを緩めながら言う。
「いや、なんというか
サラリーマンの『性』というか
『習性』というか、その……」
「分からないです」
ソソグは店主の答えを急かすように聞いた。
「ソソグくん、
もじもじしてるけどもしかして」
ナミに聞かれたことで
一気に膀胱を意識してしまった。
手早く流しにカップを置いて、
「お、俺トイレに行ってきます!」
先程から見ていた方へ駆け出した。
なぜか一気に耐えられなくなってきている。
「また我慢してたのー?」
「俺もなんか緊張してたんだよー」
大声で答えながらお手洗いへ駆け込んだ。
「はっはっは、
洗い物くらいは俺がやるわ」
「よろしくおねがいしますー」
ドア越しにも聞こえる声でソソグは叫んだ。
#
(恥をかかずに済んだ……)
また用を足しながら大きなため息を吐いた。
(だが母さんも嬉しそうだったな)
呆然と考えていると、
すでに水音は聞こえなくなっていた。
水を流して手を洗って表に戻る。
「長かったねー。
いっぱい出たの?」
するとナミがニヤニヤとこちらを見ていた。
先日もリイたちと変な話で盛り上がっていたし、
そういうフェチでもあるのだろうか。
とりあえず悔しいので言い返す。
「うっせ。
ってかもう着替えたのか」
気がつくとエプロンの後ろから
スカートが見えなくなっていた。
スカートをはいていないのではなく、
水着に着替えたのだろう。
肩や腰から水着の紐が見える。
「やっぱりナミちゃんはこうじゃなくちゃね~」
そういってぐるぐる回った。
まるでアイドルのパフォーマンスだ。
「洗い物しておいたぞ」
「ありがとうございます」
腕まくりをしたショウの報告に
ソソグは軽く頭を下げた。
そこにナミが舌を出して言う。
「お父さん雑だから
途中からナミちゃんがやったけどね」
するとショウは苦いだけのコーヒーを
飲まされたような顔になった。
ソソグはそんなやり取りに笑っていいのか分からず、
苦い笑みをこぼす。
「よう、戦友おめぇ、
なんでスーツ着てるんだ?」
そこにドアの鈴を鳴らすミチオがやってきた。
やってくるなり不思議そうな顔で戦友を見ている。
「ちょっと重要な来客があってな……。
もう帰られたんで着替るところだ」
「いいじゃねーか、
今日はこれで過ごせば」
「イヤだ。これを着てると
あの戦いの日々を思い出す」
ショウはさらにスーツを着崩した。
ジャケットのボタンをとり、
ネクタイは肩にかかっているだけ。
「お父さんのスーツかっこいいけどなー」
「俺も店主のスーツいいと思います。
なんというか、立派な大人感があって」
「そ、そうか?」
子供ふたりに褒められて少し顔を赤くした。
ミチオはでかい声で笑う。
「ほらほら、
若い子たちにも褒められてるし
いいじゃねーの?」
「あー、やっぱダメだ。
こんな動きにくい姿でサーフィンできるか!」
言い捨てるようにしてから、
ショウは奥に引っ込んでいった。
「まるで戦地に赴いていたって言い方しますね」
その背中を見てソソグは
思った疑問を口にした。
まるで戦場帰りの背中だとも感じる。
それを聞いてミチオはにっかりと笑う。
「かっこいいだろう?
だが実際はそんないいものじゃない。
あれはビジネススーツを着た戦争だ。
いつの間にか同僚な居なくなり、
新人は使い捨てられる。
イヤな時代さ」
ミチオの口ぶりは
本当に戦争を体験したような言い方にも聞こえた。
映画や歴史の授業でしか聞いたことはないのにそう思う。
「だが、そんな中
俺は戦友ミチオみたいなサーフィン仲間、
リイちゃんやテラダのようなアニメ好き、
そして愛娘のナミに助けられて今この店をやっている。
それで十分さ」
すると話を続けるように言いながら
ショウが戻ってきた。
アロハシャツで戻ってきた
文字通り肩の荷が降りたような顔をしている。
だが大きなサーフボードを抱えていた。
「ナミさんも店主も着替え早いですね」
「まあな。
それじゃサーフィンして――もとい、
メーカー新作のサーフボードと
ウェットスーツを試してくるから、頼むな」
「はーい」「分かりました」
そう言って大人たちは海へと繰り出した。
#
母が来てドタバタしたのが嘘だったように、
一日平和に終わった。
大人たちは今日も満足げな笑みで
サーフィンから戻ってくる。
「じゃあ今度はナミちゃんが言ってくるねー」
そう言いながらナミは
エプロンを脱ぎ捨てて駆け出した。
いつの間にか手に持っているサーフボードは、
見本の品であったことに今気がつく。
ナミの気軽な様子を見てソソグは、
「俺もやってみようかな」
ふとそんなことをぼやいた。
そんな小さな声を聞くな否や、
ナミはずいっと近づいてくる。
「興味ある?」
さらに目を輝かせて聞いてきた。
ソソグは少し首を引きつつも理由を答える。
「そりゃ、ナミさんがこんなにがんばるんだから。
なにかあるのかもって。
もしかしたらナミさんがサーフィンできるきっかけとか
見つけられるかもって」
「『ナミちゃんよりうまくなってやる!』
なんて言わないんだね」
「さすがに言わねーよ。
見た目以上に難しいのは想像できるし。
そんなにイキれるほど運動神経もよくない」
「でもナミちゃんより上手だったらどうしよう?」
「それはないだろ」
「じゃあ、ソソグくんがナミに乗れたら、
お父さんに『ナミちゃん、ソソグくんに襲われそうになっちゃった』
って言おうかな」
「勘弁してくれ。
相模湾に沈められる……」
眉をへこませながら言った。
同時にちらりとショウの方を見るが、
聞こえてないのか、
聞いてないふりをしているのか、
パソコンに顔が向いたまま。
即、相模湾に沈められることはなさそうだ。
「とにかく、
ウェットスーツ貸してあげるやってみて」
ナミはそう言いバタバタと駆け出した。
ハンガーにかかるスーツを取ってソソグに押し付ける。
思ったよりも重たいのを感じつつ、
ナミの顔を見た。
すっごい笑顔だ。
「いいのか?」
「貸し出し用がちゃんとあるから大丈夫。
でも漏らしたらダメだよ」
「当たり前だろ!
漏らさねーよ」
そう言いながらソソグは
ウェットスーツをテーブルにかけた。
それから更衣室ではなくお手洗いに向かう。
「あれ、そっちじゃないよ」
「トイレだよ。
先に行けば大丈夫だろう?」
「も~、気をつけないと
また漏らしそうだなぁ」
「漏らさねーからな!」
呆れたように言うナミに、
ソソグは大声で言い返した。
#
「やっぱり万が一の備えは大事かもね」
お手洗いから戻ってくるなり
ナミは困った主婦のような顔をしてぼやいた。
「なんだそれ。
津波とか台風の話か?」
「ううん、ソソグくんが漏らしたときの」
「もう漏らさねーよ」
「そうかな~。
いつもトイレ行きたそうにしてるし」
「だがちゃんと漏らさずに間に合ってるからな」
「そうだね。
これ着てて、ボード用意してるから」
「おう」
元気に返事をした。
ソソグも新しいことを始める
ワクワク感を感じ始めている。
ウェットスーツに着替えると、
ナミは使うであろうボードの前に立っていた。
店主のいつも使っているサイズより一回り小さい。
「初心者って大きいのがいいと思ってたが違うのか?」
「うん、長すぎず、
短すぎずが一番いいんだよ。
ナミちゃんも同じサイズだからね」
そう言って横にあったサーフボードを抱えた。
ソソグもナミの持ち方に習って持つ。
「意外と重たいな」
「大体三キロくらいあるよ。
それに軽ければいいってもんじゃないんだよー」
「俺の思ってた印象と結構違うんだな」
つぶやきながらナミの後について海へ。
「じゃあまずは砂浜の上で手順を説明するね」
「よろしく頼む!」
ソソグの返事にうなずくと、
ナミはボードを砂の上におろした。
そしてその上に乗る。
「まずはサーフボードにうつ伏せで乗って泳ぐ」
「クロールみたいでいいか?」
「うん。そして乗れそうな波を見つける」
「乗れそうな波って、
勢いのあるってことか」
「そうだね。そしたら立ち上がる。
原理は自転車といっしょ。
前に進む力にまかせてバランスを取るの」
「分かったやってみる」
「最初は白い波でやってみて」
「白い、ナミさん?」
「こういう波だよ。
ややこしいからスープって呼んで」
「あ、ああ」
「スープの来るところは足がつくから、
こうして強いスープを待って」
「乗る!」
「おおっ!」
「勢いに乗ったら膝をついて」
「おおおっ!?」
「立ち上が――」
そこでナミは謎の力でひっくり返った。
まるで紐に引っ掛けられたか、
サイコキネシスで押されたみたいな不自然な動きだ。
バシャンと音を立ててナミが海に沈む。
「こういうこと。
やり方自体はあってるから、
参考にしてね」
「それじゃやってみるぜ」
「がんばってね」
海に水をつけたままナミは
ニッコリと笑って親指を立てた。
ナミに言われたとおり、
スープの来るところで構える。
強そうなスープが来るのをウェーブを見て予想。
ふと砂浜の方を見た。
ナミがサーフボードの上に座りこちらを見ている。
その後ろには堤防、車道、それからバイト先のショップ。
「これがナミさんがいつも見てる景色か」
景色に新鮮味を感じてつぶやいた。
ここから見ると、
ナミの影が長く伸びている。
店も色合いのせいで眩しく目を細めた。
それからまた海の方を見る。
するとそれなりに波が引いていく。
ソソグはボードを構えて、
(今だ)
と思って、
ボードをスープに乗せて自身も乗った。
ナミが『おおっ』と言ったような顔をしてるのが見える。
「勢いに乗ったら立ち上がってみて」
「おおおっ!?」
声を上げながらも、
言われたとおり利き足を立てた
――ところで右にひっくり返った。
その一瞬だけ、
足を立てたときに不思議な光景が見えている。
さっきスープに乗る前に見た、
海からの光景とは違う光景。
まるでリイやテラダの好きそうな
ファンタジーゲームの世界のような色合い。
それから車や自転車で移動するのとは違う力を感じた。
だがそれらも一瞬だ。
それでもソソグの脳のメモリを
すべて埋め尽くす程度の情報量があった。
ソソグは今そのせいか呆然と仰向けに倒れている。
(ナミさんに沈められたのを思い出すな)
そう思いながら赤くなった空を見つめた。
さっき見えた光景はだんだんと薄れていく。
するとひょっこりとソソグの視界にナミが現れた。
「どうだった?」
「思ったとおり難しいな」
ようやく体を起こした。
砂浜に流れ着いたサーフボードをとりに歩き始める。
「でしょう?
って『思ったより』じゃなくて
『思ったとおり』なんだ」
「そりゃそうだ。
そんなにかんたんにできたら、
ナミさんだって苦労しないし。
インストラクターとかいないからな」
「そっか、ソソグくんは
本当にそんなふうに思ってくれるんだ」
ナミは『自分のことを唯一理解しているひと』を
見るような目で見てきた。
もちろんソソグだけが理解者なわけがない。
ナミの父ショウもサーフィンの練習のことは知っている。
それ以外で知っているのは本当にソソグだけだろう。
もし違っていたなら自意識過剰にもほどがある。
自分だけがナミの理解者ぶってたとなれば、
おもらしの次に恥ずかしいことランキング入賞だ。
そうでないことを祈って、
もう一度海に向かう。
「もうちょっとやってみていいか?」
「うん、ナミちゃんもがんばるからねー」
それから交互に練習を続けた。
#
「なんかナミさんと失敗の仕方が違う」
お互いのフォームを確認していると
ソソグはそこに気がついた。
「ソソグくんは、
自転車に乗れない子供みたいなコケ方だよね?」
「それだ。ナミさんは、
生まれたての子鹿?」
「そんなにかわいい?」
「怒るかと思ったが、
その例えでいいのか?」
「だって、赤ちゃんって
例外なくかわいいじゃん。
生まれたての命はみんな、
この世で尊いものなんだよ?」
ナミは両手を広げて、
女神のようなポーズをとった。
手を離したから、
横でサーフボードがバタリと音を立てて倒れる。
「『たっとい』?
難しい言葉だ。
どういう意味だ?」
「大切だったり、
すごいって思ったりの
ものすっごいバージョンらしいよ。
リイちゃんとテラダさんが
使ってたから覚えちゃった」
「あのふたりはどこから
そんな言葉を覚えてくるんだ……」
つぶやいて鎌倉方面へ目をやった。
なんだかオタクふたりが
謎の言語で言い合いをしているのが
また見える気がする。
「それで思い出した。
うまくスープに乗れそうになったとき、
一瞬だけ、一回だけ、ファンタジーな光景が見えたんだ」
「ソソグくんもふたりに影響されてるじゃん~」
「違うって。
その……言い方がふたりの言葉にしかなかっただけで、
俺もオタクの知識や見方を手に入れたわけじゃないって!
その……」
「ごめんね茶化して。
もっと聞かせて」
「こう、海の方から店のある方を見ると、
違う視点になっただけじゃん?
だけど、あれは風景の色も、雰囲気も違ってた。
それでいて車とか自転車とかと違った力が体を押したんだ。
多分この感覚が『うまくいっている』って証拠だと思う。
だが俺には一瞬しか映らなかったから、
その程度の素質なんだろうなって。
いや、だんだん俺も言いたいことがわからなくなってきた」
長いセリフを言い終えてソソグは頭をかいた。
ナミはそんなソソグを呆然と見ており、
セリフのあとにやや重そうな口を開いた。
「ナミちゃん、いっつもひっくり返ってるけど、
何度も見てるよ。
ひっくり返る直前はそんなふうに見えてるんだ」
「マジか……」
ソソグはナミに言われて口をぽかんとさせた。
自分の勘違い、妄想だと思っていたが、
ナミも同じものを見て感じていたことに驚く。
「その理屈でいうと、
ナミちゃんやっぱりサーフィンできる気がしてきた」
ナミはぽかんとするソソグをよそに、
元気な笑みを浮かべていた。
練習をもっとしたい、
あの景色をもっと見たい。
そう思っているように体をウズウズと動かし始める。
そのテンションのまま続けて、
「それに、生まれたての子鹿も
ちゃんと立って歩けるようになる。
だからナミちゃんもできるきがしてきたよ。
ありがと、ソソグくん」
あまりにも眩しい笑顔で礼を言われた。
にっこりと表現するのにふさわしい満面の笑み。
アイドルがステージの上ですべての観客に見せるような、
売り物になるほどの芸術にも見える。
それが自分だけに向けられていることが、
なんだか恥ずかしかった。
ソソグは暗くなってきた江ノ島の方を見て、
「いや、俺変なことしか言ってないんだけど」
とだけ言った。
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