2-1
『彼氏できた』
『は?』
突然呼び出すから何事かと思えば。
あまりにも現実味のない美姫の一言に、俺はたいそう間抜けな声を上げてしまった。
『…………マジで?』
『うん』
『誰?』
『龍輝』
『タツキ?』
『百瀬龍輝。三組の』
嘘だろ、というつもりが、口をあんぐりと開けたまま言葉は少しも出てこなかった。開いた口が塞がらないというのはこういう時のことを言うんだ、と無駄に理解を深めてしまう。
『……なんで』
やっとの思いでそう口にすると、美姫の首が小さく傾ぐ。
『百瀬って……あの百瀬だろ?』
『そうだよ』
にべもなく答える美姫にだんだん腹が立ってきて、行き場のない感情を込めた手でガシガシと乱暴に頭をかいた。
――意味わかんねぇ。
本当に、意味がわからない。
どうしてよりによって百瀬なんだ? 百瀬なんて、美姫の理想とする男性像からどれだけかけ離れているか。圭や樹里たちが聞いたらどんな顔をするだろう。そんなことばかりが頭を過る。
『どうして黙るの』
うつむく俺を、美姫は容赦なく覗き込んでくる。
『もっと喜んでよ。はじめての彼氏ができたんだよ?』
『はぁ? おまえ……喜べるわけないだろ』
『なんで?』
『なんでって……相手はあの百瀬なんだろ?』
『だからそうだって言ってるじゃん』
『なぁ美姫、おまえ自分が何を言ってるのかわかってるか?』
『わかってるよ。……あ、もしかして祥ちゃん、あたしのこと心配してくれてるの?』
心配どころの騒ぎじゃない。百瀬の彼女だなんて、美姫自身の学校内での評判ははっきり言ってガタ落ちだ。下手をすれば美姫は今の立場をすべて失うことになりかねない。友達だって、これからは一歩ひいたところから美姫を見ることになるに決まっている。
『…………なんでだよ』
込み上げる怒りとともに、俺は小さく吐き出した。
『なんでよりによって百瀬なんだよ』
怒りだけじゃない。あまりの悔しさに唇を噛む。
『じゃあさ』
一歩、美姫は俺に近づいた。
『誰とだったら、喜んでくれる?』
顔を上げると、美姫は真剣な眼差しを俺に向けた。
茶色がかった美姫の瞳は、俺を掴んで離さない。
答えを聞くまでこの場を離れるつもりはないと、その目は雄弁に語っていた。
――誰と。
そんなこと、とうの昔にわかっていた。
もっと早く。こんなことになる前に、伝えることができていれば。
言えなかった俺が悪いんだ。伝えるチャンスはいくらでもあった。
一歩踏み出す勇気を持てない俺に、美姫の選択をとやかく言う資格なんてない。
美姫は自らの意思で、百瀬を選んだのだから。
――誰とだったら。
誰でもないと、どうして俺は言えないのだろう。
『はぁ……』
盛大に、美姫がため息をついた。
『全っ然、変わらないね。小さい頃からずっとそう』
顔を上げると、そこにはひどく哀しい目をした美姫がいた。
『もったいないなぁ』
『え?』
『祥ちゃんはさ、もっと自分に自信を持ったほうがいいよ』
放たれた一言がズシンと心にのしかかる。言い返す言葉が見つからない。
うつむいた俺はそうしてまた、ぽつんとひとりこの場に取り残されていく。
自分の気持ちを、今日も閉じ込めたままで。
*
合わない。
上がってくるトスはいつもどおり。最高のセッターによる最高に俺好みの一球。
なのに、俺の打つスパイクはことごとく目の前に立ちはだかるネットを揺らした。あるいは大きくふかして相手コートの外へ。まるで他人の右手を無理やり操っているかのように、俺の動きはぎこちなく、狙い定めた場所へボールが落ちることはなかった。
「ごめん」
セッターであり、俺の所属する男子バレーボール部の部長を務める中井に対し、そう小さく謝ることで精一杯だった。とてもじゃないけれど、目なんて合わせられる状態じゃない。
「おい」
トボトボとスパイク待ちの列へと向かって歩いていると、後ろから誰かに左手首を掴まれた。振り返るとそこには中井の顔があって、何も言えずにぼーっとその目を眺めていたら、中井は俺の手を引いて体育館の隅へ連行した。スパイク練習は中井の代わりに一年生セッターが入り、滞りなく続けられた。
「もう帰れよ、池月」
口調こそ厳しいものの、中井の目に怒りの色はない。むしろ心底俺のことを心配してくれている顔だった。
中井は優しい。常に仲間を気遣い、自分のことをあと回しにできる男だ。キャプテンにしては優しすぎるという声もあるけれど、それでも俺は中井が部長だからこそ今のバレー部が穏やかに成立していると思っている。バレーセンスも部内では一、二を争う非常に優れたものを持っており、もう少し背が高ければアタッカーとして活躍していたかもしれない。だが彼はセッターというつなぎ役に徹するポジションをひどく気に入っていて、曰く、
「頭脳派の俺にはちょうどいいんだ。屈強だけど脳筋なアタッカーをおれの意思一つで動かして点を取らせる。快感だよ」
とのこと。俺も『バカども』のうちのひとりに数えられている点は解せないが、言いたいことはわかる。中井の言う『バカども』にたっぷりの愛情が込められていることも知っているので、今更ムキになって怒ったりはしないけれど。
「ごめん、次はちゃんと決めるから」
「そういうことを言ってるんじゃない。そんなボロ雑巾みたいな顔して練習に出られても困るって言ってんだ。怪我するぞ? 集中しないと。何もおまえだけの話じゃない、他のやつらに怪我させちまう可能性だってあるんだ」
わかってるのか? と中井は言う。怒ってはいない。駄々っ子を諭す母親のような口調だった。
なのに、やっぱり俺は中井から目を逸らしてしまった。今日だけでもう何度目だろう。怒っているわけじゃないとわかっていても、中井のことを見るのが怖い。
「ごめん」
うつむいたままもう一度謝ると、はぁ、と中井は大きくため息をついた。
「會田さんのことだろ?」
美姫の名前が出て、俺の顔が自然と上がる。
「會田さんが亡くなってからずっと変だったけど、今日は特に変だ。何かあったのか?」
懲りずにまた目を逸らして、右手をぎゅっと固く握った。
――美姫ちゃんは、祥太朗くんのことが好きだったよ。
冴香から聞かされたことが、ずっと頭から離れずにいる。ちょっと気を抜くとすぐにあの一言が耳の中でリフレインして、思考のすべてを占拠される。蘇る冴香の声はリアリティを保ったままで、ボールを追っているはずの視線は定まらず、踏み切った足には力が入らない。おまけに右腕は他人のものとすり替わって、きちんとミートして手のひらに当てたはずボールはあらぬ場所へと飛んでいく。どうにかして冴香の声を頭の中から追い出そうと練習に集中するはずが、いつの間にか美姫の影が目の前にちらついている。
「…………き」
憧れの代表選手が国際大会でスパイクを決めるシーンを想像したり、心の中だけで好きな歌を歌ってみたりと、いろいろなことを試してみた。だが、すぐに俺の頭はありし日の美姫を連れてくる。絶やすことのない笑顔。キャッキャと飛び跳ねる小さな子どもみたいなあどけない笑い声。俺の肩に触れた手のぬくもり……どれもこれもがはっきりと思い出せてしまい、また俺は現実の景色から一歩遠ざかってしまう。
「……月?」
――美姫ちゃんは、祥太朗くんのことが。
何度でも、冴香の言葉が呪いのように蘇る。『呪いの解き方ですって? そんなものが存在するとでも?』と俺に呪いをかけた魔女はきっとどこかで今の俺をあざ笑っているに違いない。
――祥太朗くんのことが。
ぎゅっとまぶたを閉じて、冴香の言葉を絶ち切ろうと首を振る。
あの時、俺が自分の気持ちを言えていたら。
そうすれば、美姫がこんなことになる未来は訪れなかったかもしれないのに。
……俺が、悪いのか?
美姫が死んだのは、俺のせいなのか……?
「おい! 池月って!!」
両肩を激しく揺すられてはっとした。声を張り上げた中井は眉間に深々としわを刻み、俺の肩を掴む両手には強い力が込められている。
「おまえ……マジで大丈夫か? 顔、真っ青だぞ?」
頬を一筋の汗が伝った。ひんやりと冷たくて、ねっとりとした感覚がいつまでも残っている。気づけば呼吸が浅くなっていて、酸素不足のせいか頭が痛くなってきた。
「……ごめん、体調悪いから今日は帰るわ」
「わかった。ひとりで大丈夫か?」
こくりと頷くと、中井はマネージャーの女子部員に俺の荷物をまとめて部室へ運ぶよう指示を出した。
「何があったのか知らないけど、落ち着くまで部活には来るな。これまでどおり動けるようになったら戻ってこい。先生にはおれから伝えとく」
「うん……ごめん」
「おれでよかったら、いつでも話聞くから」
「うん、ありがとう」
「池月」
ガラガラと音を立て、柵状の重い鉄扉をスライドさせる俺の背に、中井はもう一度声をかけてきた。
「戻ってこいよ、絶対」
はっきりと紡がれたその一言に、俺はようやく中井の目をまっすぐ見ることができた。やっぱり中井は、優しい。
あぁ、と短く答えて、俺はそっと体育館をあとにした。
男子クラブハウスは二階建てのプレハブみたいなボロい建物で、体育館の東側に隣接している。俺たちバレー部の部室は二階の一番奥にあって、階段を上がりきった頃には軽く眩暈がした。本当に体調を崩してしまったのかもしれない。
マネージャーの菅原が運んでくれた荷物を受け取ると、のろのろと練習着から制服に着替え、妙に重い体を引きずって校門を出た。すぐ左に折れて坂を南へ下れば、普段なら五分後には最寄り駅にたどり着ける。今日の足ではもう少し時間がかかりそうだな、などと考えながら左のほうへ首を向けると、見知った顔と出くわして俺ははたと足を止めた。
「池月くん」
いいところで出逢えた、とその顔に大きく書かれている。三十代も後半にして未だ若手営業マンのようなブルー系のスーツがよく似合い、淡い同系色のネクタイを締めるその姿は何度会っても二十代にしか見えない。沈みかけた夕陽を背負えばランウェイでスポットライトを浴びるファッションモデルのようにきまり、細く入っているストライプが無駄に長い足をこれでもかと強調していて憎たらしい。俺は小さく「どうも」とだけ挨拶した。
「おいおい、どうしたんだ? 顔が真っ青じゃないか」
「なんでもないです」
目を合わせることなくぶっきらぼうに答える。できれば長話は避けたい。
「本当かい? よかったら家まで送るよ」
「いえ、大丈夫です。本当に」
出逢った瞬間に見せた、獲物を狙う獣のような鋭い目つきを思い出す。車内でふたりきりになれば、まず間違いなく事件の話を振られるだろう。
頭痛が悪化したような気がした。一刻も早くこの場を立ち去りたかったが、ここで出逢ったが最後、この人は俺から何か一つでも情報を掴み取るまで決して帰してはくれない。
垣内大悟。
見た目の爽やかさからはまるで想像できないけれど、この人は営業マンではなく県警本部の刑事だ。はじめて出逢った三年前はまだ本部に異動する前で、階級が一つ偉くなったと知ったのは一週間前。美姫が殺されたのがきっかけだった。