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Liar  作者: 貴堂水樹
最終章 出発

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Epilogue.2

 いつも不思議に思うのだが、日曜日に天気がいいと、それだけでなぜか気分が上がる。

 今いる場所が墓地だというのに、俺の心は澄んだ青空を映したように晴れやかだった。


 午後一時、天高く登る太陽の下。目の前には、美姫の眠る『會田家之墓』。

 そして俺の隣では、眩しいくらいの金髪が陽の光にきらめいている。


「早いもんだな」


 まっすぐ墓碑を見つめながら、百瀬はそっとつぶやいた。


「美姫がいなくなって、もう三週間だ」

「うん。早い」

「学校はどうだ? もうすっかり美姫のいない風景が当たり前になってるだろ?」

「まぁ、そうかな。いつもどおりって感じ」


 だろうな、と百瀬は、自ら訊いておきながらあまり興味がなさそうな声で答えた。


 今俺たちのいるこの墓地は、県境にある小高い丘の上に設けられている。交通の便がよくないため、熊さんの車に乗せてもらって俺たちはここまでやってきた。その熊さんは車の中で待機してくれていて、俺と百瀬の他に墓参りへ来ている人の姿はない。


「なぁ、百瀬」

「あん?」


 会話が途切れてしまったので、ずっと気になっていたことをおもいきって尋ねてみることにした。


「あのそば屋さんさ」

「そば屋?」

「ほら、この前連れてってもらった」


 あぁ、と百瀬はつまらなそうに答えた。


「カツヒコさんの店のことか」

「そうそう。おまえ、ただの常連客じゃないよな? お店の人たちって親戚か何かなの?」

「あぁ。ミサオちゃんとオレの母親がいとこ同士だ。昔から姉貴と母親の三人でよく世話になっててさ。……オレたちにとって、あの店はシェルターみてぇなもんなんだ」


 シェルター。

 日本語でいうと、避難所。

 誰から逃げ隠れていたのかは、だいたい想像がついた。


「お父さんと仲が悪いのはどうして?」


 今はもう、百瀬を相手に何を言うのも怖いとは思わなくなっていた。だから迷わず尋ねてみる。

 一瞬鋭い視線を向けられたけれど、百瀬はすぐに俺から目を逸らして、小さく息を吐き出した。


「……一番最初に親父のことを嫌いだと思ったのは、利き手を直せって言われた時だった」


 ゆっくりと語り始めた百瀬の口から意外な言葉が飛び出して、俺は思わず「えっ」と声を上げてしまった。


「まだ小学校に上がる前の話だ。ようやく箸を使って食事ができるようになるかどうかっていう頃、オレは親父から利き手を左から右に直すよう言われた。まぁ親父がそうさせようとした気持ちはわからないでもない。右利きの人間のほうが圧倒的に多いせいで、道具にせよ設備にせよ、世の中何かと右利きにとって便利なように作られてるもんだからな。結局苦労するのはオレだ。親父がそんな風に話して聞かせてくれてりゃ、オレだって素直に直してただろうよ」


 けど、と百瀬は言葉の端に怒りの色を滲ませる。


「親父の言い分はこうだった……『私の息子ならば、右利きでなければならない』」

「右利きで、なければ……?」


 俺が言葉を拾って繰り返すと、「あぁ」と百瀬は肩をすくめた。


「親父はいつだってそうなんだ。『私の息子ならば、学校の友達と遊ぶよりも勉強のほうが大切だ』とか、『私の息子ならば、いい大学を出て世のため人のために働かなければならない』とか。なぜ勉強が大切なのか、なぜいい大学に行く必要があるのか……いくら理由を尋ねても、親父からは一度もまともな答えが返ってこなかった。『私の息子ならば、それが当たり前だからだ』って、そればっかりでさ。親父にとって、理由なんてものはどうでもよかったんだよ。あの野郎が考えていたのは、オレが親父の息子としてふさわしい人間になるかどうか……ただそれだけ。自分の命令を素直に聞き入れ、思ったとおりに行動し、最終的には自分が政治家として築き上げてきた地盤を黙って引き継いでくれるような、そういう都合のいい操り人形に仕立て上げたかっただけなんだよ、オレをな」


 そんな、と俺は小さく漏らした。


 それじゃ……それじゃまるで、百瀬はお父さんの道具みたいじゃないか。


 俺の心情を悟ったのか、百瀬は諦めたように小さく笑った。


「だからオレは親父のことが大嫌いなんだ。理由もわからねぇのにどうしておまえの言うことなんか聞かなきゃなんねぇんだって。ガキの頃から、オレは親父に反発し続けてきた。勉強しろと言われるたびにやる気をなくしたし、きちんと学校へ行けと言われた途端にサボろうっていう気になった。何が何でも親父の言いなりにだけはならねぇ……当時のオレは、そんなことばっかり考えてたんだ。冷静になりゃこれほどまでにガキっぽいことなんてねぇよなって自分でも思うんだが、それでもオレは、親父に楯突くことをやめられなかった」


 なんとなく、百瀬の気持ちがわかるような気がした。

 理由もなく上から押さえつけられたら、ひとまず抵抗を試みるのが当然の行為だろう。痛みや苦しみを抱えたまま、一つも自分の思いどおりにならない人生を過ごすなんて、そんなの、生きている価値があるのかとさえ思ってしまう。


「でも」


 すぅっと、百瀬は目を細める。


「そうやってオレが好き放題やらかしてたせいで、親父の期待がすべて姉貴にのしかかるようになっちまった。姉貴は母さんと一緒で親父に対して強く出られるタイプじゃなかったから、親父としてはオレなんかよりもずっと扱いやすかったんだろうな。やれあの大学に行けだの、将来は政治家になれだの、とにかく言いたい放題言われててさ。オレも何度か『あんなヤツの言いなりになる必要なんかねぇ、イヤならイヤってはっきり言えよ』って説得したんだが、姉貴はいつだって『私は大丈夫。龍輝は龍輝の思うままに生きて』って……そう答えるばっかりでな」


 そうか、と心の中だけでつぶやいた。

 あのそば屋でミサオさんが百瀬に言っていた『言いたいことがあるなら自分の口で伝えな。おまえが昔、エミリにそう言ってやったんじゃなかったのかい』というセリフ。あれはやっぱり、お姉さんとのことを言っていたのだ。


 少し、百瀬の吐き出す息が苦しそうに聞こえ始めた。もうやめさせようと思ったけれど、百瀬はどんどん話を先に進めていく。


「で、姉貴が大学三年の時だ。親父からは政治家になれって言われてたものの、どう考えたって姉貴は政治家向きの性格じゃねぇ。自分でもそれをわかってたんだが、姉貴にとって親父の命令は絶対だ。周りが就活を始めて、自分の夢や理想に向かって走り出そうって時に、自分だけが望まない未来を選ばなくちゃならない……当時の姉貴には、親父からの圧力に加えて周りの動きまでもがストレスになっちまってたんだ。政治家にはなりたくない、かといって親父の命令には逆らえない。逃れるためには、死ぬしかない」

「百瀬」


 耐えられなくなって、俺はついに声を上げてしまった。この先に続く言葉はとうにわかっていることだ。


「もういいよ、俺が悪かった。ヘンなこと訊いてごめん。話したくないなら、無理に話さなくていいから」


 きちんと目を見て謝ったのに、なぜか百瀬はかすかに笑って、俺の制止を振り切って話を再開させた。


「だから姉貴は手首を切った。親父の呪縛から逃れるために。風呂場で倒れてる姉貴を最初に見つけたのは母さんだったが、当時中学二年でほとんど家出状態だったオレもその日はたまたま家に帰ってて、姉貴の姿を見ちまったんだよ……浴槽に張られた湯が、真っ赤に染まってた」


 百瀬の声は震えていた。もう三年も前の話だというのに、未だに百瀬はその時の光景を鮮明に思い出せてしまうのだろう。想像することしかできない俺でさえ、息の仕方を忘れてしまいそうだった。


「オレのせいだって、すぐにそう思った。オレが親父の言いなりになってりゃ、姉貴が自分を傷つけることになんてならなかったんだ。今さら謝っても遅いってわかってたけど、オレは姉貴に何度も何度も謝ったよ。けど姉貴はやっぱり『龍輝は龍輝の好きなように生きて。家のことは私がなんとかするから』って、それしか言わねぇんだ。挙げ句の果てには『その金髪、よく似合ってるね』なんて言いやがってよ……ったく、どこまでお人好しなんだっつーの」


 がしがしっと百瀬は短い金髪を乱暴に掻く。すっかり見慣れたその頭を、今となっては俺もよく似合っているなと思う。


 パーカーのポケットに両手を突っ込んで、百瀬は再び口を開いた。


「けど、姉貴があんなことになって、親父はようやく姉貴の話に耳を傾ける気になったらしい。結局姉貴は政治の道には進まず、弁護士資格を取って親父の仕事を支えていくということで話はまとまった。進学するつもりのなかったオレが高校に通う気になったのも、姉貴に『高校を出ておくだけで将来の選択肢が増えるから』って言われたからだ。『とにかく高校に通いなさい』って言うだけの親父と違って、姉貴はきちんと理由を説明してくれたからな。で、適当に選んで適当に勉強して適当な気持ちで入ったのが早坂だったってわけだ」

「適当って……」


 俺はものすごく苦労して入学試験に臨んだというのに。やっぱり百瀬の頭脳は別次元のものとしか思えず、俺はがっくりと肩を落とした。


「疫病神なんだよな、オレって」


 うなだれる俺をよそに、百瀬はそっとつぶやいた。


「オレが深く関わった人間は、なぜかみんな死に向かっていっちまう。オレが好き勝手に生きてるせいで、自分でも気づかないうちに周りを不幸にしちまってんだ。だから姉貴の件以来なるべく他人とは深く付き合わねぇようにしてきたんだけどな……いつの間にか美姫にほだされてて、結局あいつも……」


 続く言葉が音になる前に、百瀬は静かに口を閉ざした。


 オレのせいだと、いつか百瀬は言っていた。美姫が死んだのは、自分のせいだと。

 俺だけじゃない。美姫の死を悔やんでいるのは百瀬も同じ。さらに百瀬は、美姫の死に加えてお姉さんのいたましい過去をも背負って生きている。


 それでいてなお、自分の足でしっかりと立ち、たとえひとりきりになってもこの世界でたくましく生き抜いていこうとする百瀬。

 強いな、と思う反面、どこか危なっかしいとも思う。


 自信家で、頭がよくて、誰に対しても物怖じしない勇敢な一面があるのは事実だ。

 しかし、俺の知っている百瀬はそれだけじゃない。


 お姉さんの自殺未遂をいつまで経っても悔やみ続け、美姫の死さえも自分のせいだと自らを責めてしまう。心の痛みに耐えきれず、俺の前で涙を流したこともあった。一度でもそんな姿を見てしまえば、こいつをひとりにしておくことなんてできるはずがない。


 ひとりぼっちになってしまえば、いつか、こいつも――。


「……なぁ、百瀬」


 気がつけば、俺は百瀬に声をかけていた。ふっと百瀬は俺を見やる。


「学校に来いよ。ちゃんと、毎日」


 は? と百瀬が俺を睨んだ。


「何だよ、急に」

「おまえが思ってるほど、早坂は悪いところじゃないよ。みんな優しいし、二月には修学旅行があるしさ。それに俺……おまえが疫病神だとは思わない」


 本心を告げると、百瀬の眉がぴくりと動いた。


「おまえは結局、誰よりも優しいからそうやって自分を責めてるだけだろ」


 一言一言、丁寧に言葉を紡いでいった。百瀬はスッと目を逸らす。どうやら少しは響いたようだ。嬉しくなって、ついニヤリと笑ってしまった。


「明日、待ってるからな」


 静かに上がった横顔に、俺は改めて微笑みかける。


「俺、おまえとはいい友達になれる気がする。純粋に、高校の同級生として」


 今までで一番心を込めて、俺は百瀬にまっすぐ想いを伝えた。


 振り返れば、俺たちの出逢いは最悪だった。

 出逢いの瞬間だけじゃない。その後も俺は百瀬に脅され、パシりにされて、事あるごとにおちょくられた。


 それなのに、今はこいつのことを心からの信頼している。不思議で不思議でしょうがないけれど、それがどうにもねじ曲げようのない確かな事実だった。


 誰よりも頼もしくて、誰よりも繊細。

 誰よりも強く気高く、誰よりも弱い。


 そんな百瀬を知ってしまえば、放っておくことなど到底できない。こいつのことを、ひとりきりにしてはいけない。


 今回の事件が、嫌というほど教えてくれた。

 救いようのない孤独は、人の心を簡単にのみ込んでしまうものであると。


 だから俺は、百瀬とともに行く道を選ぶ。

 もう二度と、誰のことも失いたくないから。


 じっと百瀬の瞳を見つめていると、百瀬はやがて眉間に深々としわを刻み、やっぱり俺をむっと睨みつけてきた。


「池月」

「なに」

「おまえって本ッッッ当に嘘がヘタだよな」


 な、と俺は瞠目した。くそ、何もそこまで力を込めて言うことないのに。


 けれど。

 ふわりと笑って、俺は言った。


「そうだよ、俺は絶望的に嘘が下手なんだ。だから今のは、嘘じゃない」


 事は、至って単純だ。


 嘘が下手で、すぐにバレてしまうのならば。

 嘘が下手で、うまく言葉にできないのならば。


「俺はおまえに、嘘をつかないよ」


 いつだって、どんな場所でも、本音でぶつかり合えばいいだけだ。


 怖がらずに、想いをちゃんと言葉にして。


 百瀬となら、それが叶うような気がするから。


「…………バカだな」


 吐息混じりに、百瀬が言った。


「やっぱりバカだ、おまえは」


 ははっ、と声を上げて笑った百瀬。すっきりと澄み渡る空と同じくらい、百瀬の顔も晴れやかだ。



 百瀬との絆は、美姫がつないでくれたもの。

 青く広がる空のどこかで、美姫は俺たちのことを見守ってくれているはずだ。


 この世界に美姫はもういないけれど、俺たちの心には、今でもそのぬくもりが息づいている。

 今日も、明日も、これからずっと、美姫は俺たちの中で生き続けていく。


 俺が百瀬に笑いかけると、百瀬も凜々しい笑みを俺に向けた。

 高校生活も残り半分。百瀬といると何だかはちゃめちゃな日々になりそうだけど、それはそれで、案外楽しいかもしれない。


 そんなことを思いながら、青い空をそっと見上げる。

 流れゆく雲の隙間に、美姫の笑顔を見た気がした。



 【Liar/了】

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