1
これで終わりだ、と百瀬は言った。
今日ですべてを終わらせる。美姫と、美姫の父・村越陽一刑事を殺した犯人の正体を暴き、一連の事件に終止符を打つ。
そのために百瀬は、俺たちの地元・東松町へとやってきた。
「見事に何もねぇところだな」
「心で思うだけにしてくれ。改まった感じで言われるとなんか傷つく」
今日は土曜日、朝の九時。快晴の空の下、洗車をするお父さんや小さな子どもを連れているお母さん、犬の散歩に出かけるおじいちゃんなど、のどかな住宅街は休日の景色に彩られている。
「まぁ、いいところだと思うぜ? 俺んちの近所よりもずっと静かだしよ」
「だからわざわざ言わなくていいっての! フォローされると余計に傷つく!」
にしし、と百瀬は楽しそうに笑った。昨日の泣きっ面が嘘みたいに、今日の百瀬はその顔に強さと頼もしさを湛えている。
*
「気が済んだ?」
カミイチの片隅、雑居ビルの地下一階。
鼻から下はぎゅっと膝を抱える腕の中に隠れたままだったけれど、百瀬はようやく静かに顔を上げてくれた。そして間髪入れることなく、ギロリと俺を睨みつけた。
「全部忘れろ。じゃなきゃ殺す」
「はいはい。見なかったことにしますよ」
かすかに笑みを浮かべながら俺が立ち上がると、百瀬も目もとを拭って腰を上げた。そこにはもう、数分前の弱々しい百瀬の姿はない。
愛用の黒いパーカーのポケットからスマホを取り出した百瀬は、画面をタップし、俺にも見えるよう画面を上向けた状態にして胸の高さあたりで持った。「スピーカーにしてある」と言われ、どうやら電話をかけたらしいことを知る。画面を覗くと発信中になっていて、〝垣内〟と相手の名が表示されていた。
『もしもし? 百瀬くん?』
数コール後、聞き慣れた声が電話に出た。垣内さんだ。
「松本が見つかったぞ」
『えっ、何? 松本が?』
「あぁ、今一緒にいる」
『本当かい? 場所は?』
百瀬は今俺たちがいるこの場所を端的に説明した。すぐに『わかった』と返ってきて、さすが県警本部の刑事ともなればこの辺りのこともよく知っているのだなぁとつい感心してしまう。
『すぐに行くよ。いいかい? 余計な真似は…………って、もう手遅れかな、君のことだから』
「わりぃ、ちょいとやりすぎた」
はあぁ、と垣内さんはそれはそれは大きなため息をついた。電話越しにも彼が頭を抱えていることが伝わってくる。
『殴ったのか』
「あぁ。鼻血出して気ィ失ってやがる」
そういえば静かだなぁと思ったら、松本刑事はすっかり意識を失って倒れていた。呼吸はしているようだから一応は安心できるけれど、椅子にくくられたままではあまりにも不憫なので、俺は百瀬を横目に彼の手足を縛るロープをほどきにかかった。
『……わかったよ、彼のことはこちらでうまく処理しておこう。それはともかく、どうだい? 事件のほうは。何か手がかりがあったかな?』
「あったも何もねぇよ」
ニヤリ、と百瀬はすべての事実をその手中に収めたような力強い笑みを浮かべた。
「事件は解決だ。やっぱり犯人はあいつで間違いねぇ」
えっ!? と俺と垣内さんが同時に声を上げた。
「百瀬!」
『犯人がわかったのか!?』
あぁ、と百瀬は俺のほうを見ながら言う。
「これで終わりだ――嘘つきが誰だったのか、きっちり証明してみせてやる」
あふれんばかりの自信を漲らせ、百瀬は高らかに宣言した。
それは間違いなく、犯人への宣戦布告。
今の百瀬を止められる人など、この世のどこを探しても見つからないだろう。
*
最寄り駅から歩くこと十五分。片側一車線の県道を渡り、町に一歩足を踏み入れた瞬間、忙しなく鳴り響いていた車の音がぱたりと途絶え、田舎特有のゆったりとした穏やかな空気に包まれる。
町にあるのは一軒家とアパート、それから公園が一つに小さな畑がぽつぽつと。商店らしい商店は古くから営まれている駄菓子屋とクリーニング店のみ。百瀬の言うとおり、東松町は本当に何もない、ただの閑静な住宅街だ。
俺はこの町で美姫と出逢い、圭、優作、樹里、碧衣、冴香と出逢った。住みやすくていいところだと思っているし、たくさんの優しくて温かい思い出を作った場所でもある。それが今は、楽しかった幼き日々を思い出すと無性に悲しくなってしまう。それが何よりも悔しくて腹立たしい。本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
まだ小学生だった頃の俺たちは、数年後、こんなにもいたましい事件に遭遇することなど微塵も想像していなかった。まだ大人にすらなっていないのに、誰が美姫の死に心を痛める未来を思い描いただろう。
皮肉なことに、美姫の事件のおかげで、俺たち六人は再び顔を合わせることになった。今回の殺人事件が起きていなければ、俺はきっとみんなとは疎遠のままだっただろう。こんなことはあまり言いたくないけれど、美姫が俺たち六人をもう一度引き合わせてくれたのだと、そう思えてならなかった。
「そこだよ」
目的地が見えてきたので、俺は百瀬に声をかけた。つまらなそうに街並みを眺めていた百瀬だったが、一瞬にしてその目をきらりと光らせた。
足を止めた俺たちの目の前には、立派な門構えが特徴的な一軒家。同じ並びに立つ他の家とは比べものにならないほど大きくて、一体何人の人が住んでいるんだと見上げるたびに思ってしまう。けれど実際には両親と三人の子どもたちが住むだけで、ごく一般的な核家族の家だ。少しだけ違うところを挙げるとすれば、父親の職業が高度に専門的で、普通のサラリーマン家庭ではないということくらいだろうか。
お父さんのフルネームが書かれた表札の下にインターホンがついている。ちらりと百瀬の顔を伺うと、〝押せ〟と顎の動きだけで指示された。
胸が大きく鼓動する。
これで本当に、事件の幕は下りるのだろうか。百瀬の推理が覆ることはないのだろうか。
気の進まないまま、俺はインターホンの前に立ち、右の人差し指でそっとボタンに触れる。緊張のあまり指先が震えてしまったけれど、ぐっと腹に力を込めてボタンを押した。
ピーンポーン。
『――はい?』
機械を通しているためやや歪んではいるものの、それはおよそ聞き慣れた声だった。「池月です」と静かに名乗ると、『すぐ行くよ』と返ってきた。今日の朝九時に訪問することは昨日の時点で伝達済みだった。
まもなくして、門の奥で玄関扉が開かれる気配がした。たたっと軽快な足音がこちらに近づいてきて、今度は門扉がガラガラと横にスライドされる。
「おはよう、祥太朗」
現れた人物は爽やかにそう言ったかと思えば、途端にスッとその顔から表情を消した。俺の隣に控えていた百瀬に気づき、いつもは柔らかい目つきが一瞬にして冷たいものへと変わる。
その人の一連の仕草に、俺は絶望した。事件の真相が百瀬の推理どおりであると、嫌というほど確信させられてしまったから。
「どーも、はじめまして」
わざとらしい恭しさで、百瀬はその人――志水優作に挨拶をした。ぶつかる視線の間で火花が散る様子が目に見えるようだ。
先ほど一瞬だけ見せた冷淡な表情から一転、優作はふわりと穏やかな笑みを浮かべた。
「こちらこそ、はじめまして。志水です。百瀬くん、だよね?」
「さすが、よく知ってるな?」
「祥太朗から聞いているよ。美姫の彼氏さんなんだとか」
「オレの話はどうでもいい。――ちょっと付き合え、大事な話がある」
ほう? と優作はどこか自信をにじませたような目をして言った。
「ずいぶんと高圧的な物言いだね?」
「そうか? てめぇみたいなクズ野郎にはこれくらいでちょうどいいんじゃねぇかって思うけどな、オレは」
相変わらず誰彼かまわずケンカ腰な百瀬を、優作は眼鏡の奥の瞳を細めてギロリと睨んだ。早くも不穏な空気が流れ始め、今すぐこの場から立ち去ってしまいたい衝動に駆られる。
頼むから、何事もなく終わってくれ……そう願わずにはいられなかった。