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「…………ははっ」
笑うしかなかった。
うまく言葉にできない灰色の何かが、胸の中でぐるぐると渦を巻いている。
くしゃりと髪を触りながら、わけもわからず、俺は笑った。
「すごいな、百瀬は。そこまでわかってて、そんな冷静でいられるなんて」
「冷静?」
ハッ、と百瀬は吐き捨てた。
「んなわけねぇだろ。オレだって半年前のオレの言葉にはらわた煮えくり返ってるよ。何なら今すぐこのおっさんを殴り殺してやりてぇくらいだ」
ギロリと百瀬は松本刑事を睨みつけた。松本刑事の喉が上下する。
「美姫に脅され、このおっさんは改めて三年前の事件について振り返り、そしておまえら六人の幼馴染みについて調べて直した。だが何の収穫も得られず、美姫は次なる一手を打つ必要に迫られた。そこで美姫が選んだのは、自らが動くことで犯人を釣り上げるという作戦……幼馴染み六人の行動範囲内にいる人物で、かつ少年事件で検挙された、あるいは補導歴のある者に近づき、あたかも三年前の事件について捜査をしているように見せかけることによって、今度は犯人が美姫自身の命を狙うよう仕向けた。美姫は男の理想にうるさいヤツだったんだろ? 幼馴染みならそのことを知っているはずだと美姫もわかってたんだ。だからただ接触するだけにとどまらず、男女の仲になることにこだわった……美姫が男と連れ立って歩いているなんてタダごとじゃないと、おまえらならきっとそう思うはずだと踏んでな」
「ちょっと待てよ百瀬。確かに木ノ前さんは泉習館出身で優作とは中等部時代に部活が一緒だったらしいし、矢田くんも樹里と同じ旭ヶ原の生徒だ。実際優作も樹里もそれぞれの男が美姫と付き合っているらしいことを知っていたけど、樹里は美姫たちに話しかけたことがなかったって言ってたし、優作も美姫と木ノ前さんがキスする現場を目撃しただけとしか言ってなかった」
「そりゃあおまえ、もしどちらかが犯人ならそいつは嘘をついてるってことだろ」
「嘘を……?」
あぁ、と百瀬は俺に対してうなずくと、今一度松本刑事に視線を戻した。
「犯人の心理を考えれば、事件の前に美姫と接触していたことはできるだけ伏せておきたいに決まってる。美姫とは中学以来付き合いがありませんでした、と言っておいたほうが、事件との関係が薄い人物だという印象を周りに与えられるからな」
なるほど、確かにそうだ。あえて美姫との関わりを口にして疑われるようなことになれば、せっかくの殺人計画が台無しになってしまうのだから。
嘘をついていたというのは何も優作や樹里に限った話じゃない。冴香や圭だって本当は美姫と会っていたことを隠し、俺たちに話の調子を合わせていただけかもしれないのだ。
一つの事実を隠すのに、いくつもの嘘を塗り重ねる……いつか百瀬に言われたその言葉のせいで、俺はこれまでのみんなの発言を何一つ信じられなくなってしまっていた。
「とにかく、美姫は今オレが話したような計画を立て、実行に移した。木ノ前と矢田の他にもおそらく何人かの彼氏候補がいたんだろうが、ひとまずはオレを含めて三人の男と接触することで犯人をおびき寄せようと動き始めた。それぞれの幼馴染みが通う高校の周辺をうろついたり、その他にも行動範囲をリサーチしてデートしてみたり……いろんな手を講じたんだろうな。そして見事作戦が功を奏し、美姫は親父さん殺しの犯人と接触するに至り、自首を勧めるも返り討ちにあって殺された……」
ゾクッ、と背筋に悪寒が走った。
これが……今の百瀬の推理が、一連の事件の真実なのか。
百瀬の姿を見つめたまま呆然と立ち尽くしている俺に目を向けることなく、百瀬は一歩、松本刑事に近づいた。
「あんた、美姫から聞かされてたんだろ? 美姫がどんな計画のもとであんたから情報を引き出そうとしたのか」
凍てついた、針のように鋭い視線を松本刑事に浴びせる百瀬。松本刑事は瞳を揺らし、漏れる息が部屋中に大きく響いている。ただでさえひんやりとした空気の流れているこの空間は、その温度をさらに下げた。
「おいおっさん、黙ってないで答えろよ」
「……それは……っ」
ガタンッ!
百瀬が松本刑事の胸ぐらに掴みかかった。くくりつけられている椅子の脚が音を立て、やや宙に浮く。
「どうして止めなかった!? わかってたんだろ!? 美姫が殺されるかもしれないって!」
「と、止めたよ! 当たり前じゃないか! でも美姫さんは引かなかった……ぼくが何を言おうと、彼女の意思は変わらなかったんだ!」
「だったら何だってんだよ!? 美姫の命が危険に晒されるってわかってて情報を流すバカがどこにいる! 美姫を犠牲にしてまで自分の身を守りたかったのかよてめぇはッ!!」
「百瀬、もうその辺に……」
「黙ってろ池月! おいおっさん、聞いてんのかよ!? てめぇが美姫を殺したようなもんなんだぞ!?」
スーツの襟首を掴まれ上体を揺すられた松本刑事は、ぼそりとつぶやくように声を漏らした。
「…………君もだろ」
「あ?」
「君もさっき言っていたじゃないか……美姫さんを死に追いやったのは自分のせいだって」
ドンッ!
ギリ、と歯噛みした百瀬は次の瞬間、左拳を松本刑事の右頬に深くめり込ませた。
けたたましい音を立て、再び椅子ごと床になぎ倒された松本刑事。今度はその体を見下ろすばかりでなく、百瀬は力任せに松本刑事の腹を、そして顔面までをも蹴り飛ばした。
「やめろ百瀬! 死んじゃうって!」
何度も蹴りを入れようとする百瀬を後ろから羽交い締めにして止める。抵抗されるかと思って俺の腕にもいくらか力が入ったけれど、意外にも百瀬はあっさり松本刑事のもとから身を引いてくれた。
「…………そうだよ」
俺が腕の力を抜くと、百瀬はふらりと俺から離れた。
「オレが悪いんだ」
「百瀬……?」
「全部、オレのせいなんだ」
「そんなことない」
「オレのせいなんだよッ!!」
カッと目を見開いて、百瀬は俺に向かって言葉を吐いた。
「オレが美姫にヘンなことを吹き込まなきゃこんなことにはならなかった! 美姫は何か考えがあってオレに近づいてきたんだってことも最初からわかってたってのに!!」
百瀬の声が震えている。松本刑事を何度も殴って赤く腫れ上がっている左手を、百瀬はそっと頭に添えた。
「姉貴の時だってそうだ……オレが素直に親父の言いなりになってりゃ、姉貴があんなにも追い詰められることなんてなかった…………オレひとりだけが自由になって、姉貴はオレの分まで親父の期待を背負い込んで……挙げ句の果てには…………っ」
ぺたん、と百瀬はその場に座り込んでしまった。立てた両膝に肘をつき、両の手は頭を抱えている。
「全部オレが悪いんだ……姉貴が自殺を図ったのも、美姫が死んだのも、全部……全部オレのせいだ……ッ!」
吐息を揺らし、膝を抱えた百瀬は両腕の中に顔を埋めてしまった。丸まった背中は小刻みに震え、時折洟をすする音が漏れ聞こえてくる。
「百瀬……」
ゆっくりと一歩、俺は足を踏み出した。
少し前。俺は百瀬に『おまえは何も考えていない』と言われた。
そのとおりだ。たぶん今もほとんど無意識に、考えなしに動いている。
百瀬の隣にしゃがみ込み、震える背中にそっと右手を添えた。
「百瀬のせいじゃないよ」
上がらない顔に、俺は無心で声をかける。
「おまえが悪いんじゃない。百瀬は何も悪くないよ。自分の気持ちに正直に生きて、訊かれたことに対してただ素直に答えただけだ。結果がどうあれ、その瞬間のおまえのことを責められる人なんてひとりもいない」
慰めているのか、傷口に塩を塗っているのか、自分でもよくわからなかった。けれど今、いつもなら迷って迷っていつまで経っても出てこない言葉がするすると口をついてこぼれ落ちていく。紡いだ言葉が相手に対してどんな効果をもたらすのか、今の俺はまったく考えていない。
百瀬に言葉をかけることを、怖いとは思わなかった。百瀬なら、俺の言葉にきちんと耳を傾けてくれるはずだと、なぜか自信を持つことができている。
信じられない。
こんな風に、自分の言葉を素直に口にできる日が来るなんて。
「百瀬」
正面に回り込んでその名を呼ぶ。うつむいたままの綺麗な金髪に、俺はそっと右手を置いた。
「つらかったな」
ぽんぽん、と何度か頭をなでてやる。そうされることを嫌がりはしないけれど、両腕で抱えた膝の隙間から「うるせぇ」と震えた声が返ってきた。
しばらくの間、百瀬は声を殺して静かに泣いた。
気の済むまで泣かせてやろうと、俺も黙ってその場にしゃがみ込んでいた。




