5-4
『そっか……本当に知らないんだね』
六月の終わり、深夜二時。
いくら明日が土曜日だからといって、女子高生がこんな時間までふらふら出歩いていていいはずがない。それでもぼくは、彼女の言いなりになるしかなかった。
カミイチのキャバクラ『キャリオン』を離れ、タクシーで新桜井駅周辺までやってきたぼくたちは、駅裏の小さな公園の外灯の下、ふたりきりで三年前に起きた殺人事件について真剣に語り合っている。なんて浮世離れした光景だろう。
彼女がこの場所を選んだのはおそらく、事件現場のほど近くに連れてきてぼくにプレッシャーをかけるため。片や生活安全課の捜査員で被害者の元・相棒、片や被害者の娘の女子高生。彼女のほうが優位に立っているというこの状況はおよそ現実的ではないけれど、キャバクラ通いは学生の頃からの趣味だったし、ユミナちゃんが現役女子高生だったなんて本当に知らなかった。とはいえ、そんなことは言い訳にはならない。自分で蒔いた種だ。受け入れる他に道はない。
『だったら何か別の手を考えなくちゃなぁ……』
唇をつんと突き出し、腕組みをしてぐっと考え込むようにする姿が村越さんととてもよく似ていて、やはり彼女は村越さんの愛娘・美姫さんなのだなぁと嫌でも思い知らされる。
『ねぇ、美姫さん』
『はい』
『具体的に、お父さんは何と言っていたんだ?』
難しい顔をしていた彼女だったけれど、ぼくの問いかけでややその表情を変えた。少しだけ言いにくそうにしながら、彼女はゆっくりと語り始めた。
『お父さんが殺される一週間くらい前……珍しく早く帰ってきたかと思ったら突然あたしの肩を掴んで、じっと顔を覗き込まれたんです。何かあったのかと思って聞いてみたら、お父さん、こう言ったの……「美姫、お父さんやお母さんに隠していることはないか? 何か悪いことに巻き込まれたりしてないよな?」って』
『悪いこと?』
『そう。具体的なことは何も言わなかった。「別に何も困ってないけど、何かあったの?」って訊き返したら黙っちゃって。そんなこと言われたら気になるでしょ? モヤモヤしたままじゃいられないと思って、お父さんに詰め寄ったの。そうしたら……』
一度言葉を切ってから、美姫さんは遠くを見つめるような目をして言った。
『「美姫が困っていないのならそれでいい。やっぱり俺が間違ってた、あの時きちんと声をかけておくべきだった」って……そう言ったんです、お父さんは。まるで教会の神父さまを相手に懺悔するみたいな顔をして。意味がわからなかったからそう素直に伝えたら、もう一言「刑事としてあるまじき行為だよな、犯罪を見逃すなんて」って……誰に言うでもなく、ただそれだけをぽつんとつぶやいてました』
なるほど、とぼくは眉を寄せながらうなずいた。
『それでぼくのところへ来たわけか、君は』
『はい。松本さんが昔お父さんと組んでたってことはわかってたから、もしかしたら何か知ってるんじゃないかと思って』
『そうか……ごめんね、力になれなくて。いくらコンビを組むことが多いといっても事件によっては別の仲間と動くこともあるし、同じ事件を追いながらも仕事を分担することだってあるから、いつでも一緒というわけではないんだよ』
そうですか、と彼女はささやくようにつぶやいた。当てがはずれて、すっかり肩を落としてしまったようだ。
『しかし、今になってよく思い出せたね? もうすぐ事件から三年だろう?』
素直な疑問を口にすると、彼女はもう一度顔を上げてぼくを見た。
『祥ちゃんのおかげです』
『祥ちゃん?』
『そう……池月祥太朗、あたしの幼馴染みです。事件のあと、お母さんはあんな家に住んでいられないって無理やり引っ越しちゃったでしょ? あの頃のお母さん、とにかくヒステリックになることが多くて。全然手がつけられない日なんかもしょっちゅうだったから、事件のことやお父さんのことは絶対に口にはできなかったし、考えてることがバレても怒られるくらいだった。「結婚なんてしなければよかった」「お父さんのことは忘れなさい」って、そればっかりで。悔しかったけど、お母さんだって本気でそんなことを言ってるんじゃないって思ったし、時間が経てば落ち着くだろうって、その時は素直にお母さんの言うことを聞いておこうって思ったの。でも……』
外灯のすぐ隣にはブランコがある。その周りを囲うように設置されている高さ五十センチほどの背の低い柵に、彼女はそっと腰かけた。
『高校に入って、たまたま祥ちゃんと再会したんです。祥ちゃんとは小さい頃、毎日のように一緒になって遊んでたし、お互いひとりっ子でほとんどきょうだいみたいなものだったから、またあの顔を見られて本当に嬉しかった。けど……それと同時に、すっかり胸の奥にしまい込んで解決を諦めていたお父さんの事件のことも思い出しちゃって』
うっすらと目に涙を浮かべる彼女。諦めていた、と言うよりは、諦めざるを得なかった、と言ったほうがきっと正しいのだろう。
『お母さんももう日常を取り戻してたし、やっぱりあたし、悔しかった。どうしてお父さんが殺されなくちゃいけなかったのか、犯人は誰なのか……もう一度、ちゃんと事件と向き合いたいって思ったんです。警察が調べてわからなかったのなら、この先は自分で何とかするしかない……最後の最後まで、絶対に諦めたくなかった』
ぼんやりとした青白い光が照らす彼女の瞳は、まっすぐ、ただ前だけを見つめているように見えた。そこには計り知れない強さが秘められていて、彼女は本当に彼女自身の力で真相にたどり着くことができるのではないかと、ぼくにはそう思えてならなかった。
『ごめんね、美姫さん』
『え?』
『いや、君がそこまで本気で考えているとは正直思っていなくて』
『何言ってるんですか、本気じゃなかったらこんな危ない真似なんてしませんよ』
だよね、とぼくが肩をすくめると、彼女も少し困ったように笑ってから立ち上がった。
『松本さん……碧衣を利用しておびき出したことは謝ります。ごめんなさい。でも、どうかお願いします。あたしに力を貸してもらえませんか?』
ぶれることのない真剣な眼差し。夜空に浮かぶ月を照らす真昼の太陽のような、闇夜にあるまじき強い光を放つ彼女の立ち姿に、村越さんの影が重なった。
『……あぁ、わかったよ。ぼくにできることなら何でも協力しよう。ぼくだって村越さんの事件では悔しい思いをしたひとりだ。その代わり……』
『わかってます。碧衣とのことは誰にも言いません。それに、今日のことを話したらあたしまで警察から目をつけられそうだし』
『そうだね。深夜徘徊は補導の対象になる』
『やっぱり? それは困る!』
ややオーバーに声を上げてから、彼女はどこかあどけない目をして笑った。
『さて、じゃあぼくはこれからどう君を手助けしていけばいいのかな?』
『とりあえず、お父さんの事件に関するすべての情報をかき集めてください。どんな些細なことでもいいから、とにかく全部』
『わかった。できる限り正確に伝えられるよう努力するよ』
『それと……一つ、気になることがあって』
『気になること?』
『はい。お父さん、あたしの顔を見て「隠し事はないか」「困ってることはないか」って訊いてきたでしょ? 仮に犯罪行為を見逃してしまったのだとして、たったそれだけのことであたしをそんな風に気遣うのはちょっと変だと思いませんか?』
確かに。普段から少年犯罪と向き合ってきているはずの村越さんが、なぜその時だけ美姫さんをひどく心配するような言葉をかけたのか。
『あくまであたしの推測ですけど……お父さんが犯罪を見逃したのって、あたしの友達だったからじゃないのかなって』
『友達? ……なるほど、だから村越さんが君の身を案じたわけか』
『そういうことです。犯人はあたしの友達だった、だからお父さんは巡り巡ってあたしが何らかの犯罪に巻き込まれているんじゃないか、あるいは私も何かしらの犯罪に手を染めているんじゃないかと思った。もしくは、ただ単純にあたしの友達だったから逮捕をためらったのかも』
『あり得る話だね。銀行員がある日突然、それまでただの商売道具だったはずのお金を急に〝金銭〟として認識するようになっちゃって、いつか着服してしまうのではと札束を握るのが怖くなって退職した、というような事例が実際にあるらしい。それと似たようなものかもしれないな』
『なるほど、なんとなくわかります』
『村越さんの場合は犯罪少年に君のことを重ねてしまって怖くなった、といったところかな。いずれにせよ、十分考えられることではある。おそらく何か現行犯で挙げられるような事案を見逃したんだろうな。少年犯罪で多いのは窃盗や暴行、それから恐喝……暴行事件ならさすがに放ってはおけないだろうから、窃盗か恐喝かな。万引きとか、自転車窃盗とか、個人あるいは集団での恐喝か……。検挙数は少ないけど、薬物絡みの事件や詐欺関係の可能性もあるな』
『詐欺?』
美姫さんが少し目を大きくした。聞き慣れない言葉に驚いたようだ。『うん』とぼくはうなずいた。
『あまり知られていないことだけど、そこそこ頭がよくて普通の家庭で育ってきた子でも薬物に手を染めることはあるし、オレオレ詐欺のような特殊詐欺の実行犯が子ども、なんていう事例もある。薬物は厳しく育てられたがゆえの現実逃避の手段として、そして詐欺はアルバイト感覚で……そうした甘い誘惑は、案外身近なところに潜んでいるものなんだよ。だからと言っては語弊があるかもしれないけれど、夜な夜な道端でたむろしてる不良少年ばかりが犯罪に走るとは限らないんだ。中にはびっくりするくらい賢い子なんかもいたりして、取調べで言い負かされそうになることもあるんだよね』
『へぇ、そうなんだ』
ぼくの説明に心から感心するような声を上げた美姫さんは、何か思い巡らすように視線をそっと右に逸らした。
しばらく黙考して、彼女は唐突にスマホを取り出すと何やら一生懸命文字を打ち込み始めた。何事かとその動きを注視していたけれど、すぐに『よし』と言って彼女はもう一度ぼくに向き直った。
『松本さん』
『なんだい?』
『この六人について、ちょっと詳しく調べてみてもらえませんか?』
スマホの画面を見せながら、彼女は真面目な顔でそう言った。
『池月……? この子、さっき言ってた君の幼馴染みかい?』
『そうです。お父さんがあたしの友達として認識しているのはおそらくこの六人……あたしの地元・東松町に住む幼馴染みだけ。なら、お父さんが見逃したっていう犯罪者もきっとこの中の誰かのはず。お父さん、あたしにさっきの話をした時、すごく後悔していたみたいだった。だからもう一度その子に会いに行ったんだよ、事件を事件としてきちんと処理するために。あたしの友達だし、最初はうまく説得して自首を勧めるつもりだったんだと思う。でも結局、その子にうまく言い逃れられてしまった……。そしてその子は、お父さんに改めて逮捕されることを恐れた……一度はかわせても、詳しく調べられたらやばいと思ったんじゃないかな? お父さんを殺したのは、自らの身を守るためだった』
掲げたスマホを握る彼女の手に力が入る。ぐっと顔を上げ、彼女はまっすぐに言葉を紡いだ。
『松本さん……お父さんを殺したのは、この六人の中の誰かかもしれない』