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その後は事件のことを抜きにしてざっくばらんな話をし、午後九時近くになって解散となった。実は百瀬から三人分の食事代をまかなえるくらいのお金を渡されていたのだが、「学生さんに払わせるわけにはいかないよ」と木ノ前さんが全額支払ってくれた。百瀬にお金を返したら怒られそうで気が気じゃなかったけれど、優作がすっかり甘えている姿を見たら強引に出すわけにもいかなくなり、俺は百瀬に怒られることを覚悟で木ノ前さんに支払いを任せ、きちんとお礼と言ってから別れた。
「じゃあ僕たちも行こうか」
「うん。ありがとな、優作」
「いえいえ。また手伝えることがあればいつでも言ってよ」
うん、と答えて、俺は優作と並んで新桜井駅の出口に向かって歩き出した。しかし、その足をすぐに止めることになる。ズボンのポケットでスマホが振動したからだ。
【松本が見つかった。一緒に来るか?】
百瀬からのメッセージ。ごくりと唾をのみ込みながら【行くよ】とだけ返信する。【上市台駅、三番出口で待ってる】とすぐに返事がきた。
「ごめん優作……俺、ちょっと寄りたいところがあるから反対方面の電車に乗るよ」
「え?」
突然の俺の一言に、優作は驚きの声を上げた。
「寄りたいところって……こんな時間に?」
「うん、ちょっとね」
「そう……わかったよ」
何か訊きたそうな顔をしていた優作だったが、理由を深く追求されることはなかった。気を遣わせてしまったようで申し訳ないなと思いつつ、今はその優しさに甘えておくことで精一杯だった。
改札をくぐり、優作に別れを告げた俺は、自宅とは反対方面の電車に乗り、百瀬の待つカミイチの街へ急いだ。松本刑事が見つかったとなれば、これで一連の事件の捜査は大きく進展するだろう。もちろん、松本刑事が正直に事情を話してくれればの話だが。
新桜井から上市台までは路線の乗り換えを含めておよそ四十分。百瀬の指示どおり三番出口から地上へ出た時には午後十時近くになっていた。
「百瀬」
出口のすぐ目の前、市バスの案内表示の横。ガードレールに腰を預けていた百瀬はフードで頭をすっぽりと覆い、夜の闇に溶け込んでいた。それでも彼のまとう独特のオーラが完全に消えることはなく、声をかけた俺を睨む目つきは、隠した金髪の分だけ鋭さを増しているように見えた。
「遅ぇ」
「ごめん」
電車の時間ばかりは変えられないのでどうしようもなかったはずなのに、流れでつい謝ってしまってちょっと後悔した。俺が悪いんじゃない。
ひょい、と少し飛び跳ねるようにして立ち上がった百瀬は、それ以上何も言うことなく黙ってカミイチの街へと繰り出した。その背中を追ってしばらく歩くと、百瀬はとある雑居ビルに入り、地下へと続く狭くて細い階段を下った。左手に扉が見え、彼は迷いなくその黒い扉を押し開ける。続いて中に入ると、奥に小さなステージのあるがらんとした薄暗い空間が広がっていた。廃業したクラブの跡地か何かだろうか。
そして、ステージを降りてすぐ下。手足を縛られ、白い布で猿轡をされた状態でパイプ椅子にくくりつけられているひとり男性の姿がある。黒か、あるいは濃いグレーのスーツを身にまとっていて、おそらくあれが松本刑事なのだろうとすぐに察した。薄暗いせいで顔がはっきりと見えているわけではないが、思っていたよりもずっと若い印象だ。三十代前半か、あるいは二十代の可能性もある。
「お、来た来た」
地下室の中にはステージの他にバーカウンターのようなものもあって、丸く背の高いカウンターチェアに腰かけていた男性が嬉しそうに声を上げた。彼の他にも五、六人、見るからに柄の悪い男たちがこの地下室に集まっている。
「待ちくたびれたぜ? 龍輝」
百瀬を出迎えるべく、男はスッと腰を上げた。
「悪いな、ケント。手間かけさせちまって」
「いやぁ、構わねぇよ。暇つぶしにしちゃあちょいと物足りなかったくらいだ」
「どこで見つかった?」
「錦野」
「やっぱりな」
「おまえの読みどおりだったぜ? 三ヶ月くらい前からあっちの店に顔を見せるようになったってさ。で、ロゼリアなんちゃらっていうキャバクラのねーちゃの家にかくまわれてた」
「ったく……面白みのねぇ男だな」
まるで感情のこもらない声で吐き捨てるように言った百瀬は、財布からごっそり一万円札を抜き取ってケントと呼ばれたその男に手渡した。
「世話になったな。みんなにもよろしく言っといてくれ」
受け取った札束にちらりとだけ目を落とし、男は口角を上げてそれをズボンのポケットにねじ込んだ。
「それより大丈夫なのかよ、龍輝。こいつ、サツなんだろ?」
「あぁ、問題ない。あとのことはオレひとりで片づける。もう行っていいぞ」
男の心配など気にも留めない様子で、百瀬は冷ややかに言い放った。「おい」と男が声をかけると、残りの取り巻き連中もこぞって立ち上がり、入り口の前で立ち尽くす俺のほうへと向かって一斉に歩き始めた。慌てて扉の前から飛び退くと、ケントと呼ばれた男におもいきり睨まれた。
「龍輝、こいつは?」
百瀬を振り返ったケントだったが、百瀬は松本刑事のほうへ目を向けたまま何も答えない。チッ、と舌打ちをして、今度こそケントたちはこの地下室を出て行った。
静謐に包まれる部屋の中。百瀬のスニーカーが高らかにその靴音を響かせる。
松本刑事のすぐ目の前に立った百瀬は、彼の発言を封じている白い猿轡をゆっくりとはずした。自由になった口で何を言い出すかと一瞬緊張が走ったが、彼が軽く咳き込み、息を吸いながらふっと顔を上げたその瞬間、百瀬が動いた。
ドンッ!
固く握った左の拳で、百瀬は松本刑事の右頬をおもいきり殴りつけた。
「なっ……!?」
俺は目を見開いた。ガタンッ、と大きな音を立て、松本刑事はパイプ椅子ごと床へ横倒しになる。
「百瀬!!」
突然の出来事に驚きながらも迷わず百瀬のもとへと駆けた。松本刑事の上げるうめき声が近くなる。
「おまえ、何やってんだよ!? どうして殴った!?」
「……うるせぇな」
「は!?」
「うるせぇっつってんだよ!! 聞こえてんだろ!? 何回も同じこと言わせんじゃねぇッ!!」
吐き散らしてから百瀬は、その迫力に驚き瞠目する俺の顔を映したようにはっとした表情を見せ、静かに俺から目を逸らした。
「…………悪い、言い過ぎた」
「百瀬……」
「池月、悪いが少しの間黙っててくれ」
「え?」
「頼む……文句なら、あとで聞くから」
喉の奥から必死に絞り出したような声でそう言った百瀬。かすかに苦しみをにじませるその横顔に、俺は何も言えなくなった。
百瀬は左手と足をうまく使って松本刑事の体を椅子ごと引き上げ、ぐだっと頭を前に垂らす彼の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。殴られた時に切ったのか、口もとには真っ赤な血がにじんでいる。
「おい、こっち見ろ、おっさん」
顔を近づけ、低く出した百瀬の声に、松本刑事は虚ろな目を百瀬に向ける。
「死にたくなかったらオレの質問にはすべて正直に答えろ。一つでも嘘をついたら爪の先までバラバラにして海の底に沈めてやるから覚悟しとけ」
「……いいのか、ぼくは警察の人間だぞ?」
「ハッ! よく言うよ、捜査情報を漏らしたことがバレそうになって逃げたくせに!」
松本刑事の頭から手を離し、ややオーバーにその声を響かせた百瀬。松本刑事は小さく息をのむ。
「知ってるぜ? あんた、未成年のキャバ嬢に酒のませて手ェ出したんだって? そりゃあさすがにまずいよなぁ」
「違う! 知らなかったんだ! 彼女は……ユミナちゃんは、自分は二十歳でもう親元を離れているからと……!」
「あーうるせぇうるせぇ。てめぇの言い訳なんざどーでもいい。オレが知りたいのはそんな話じゃねぇんだ。わかってんだろ?」
今一度、百瀬は松本刑事の顎を引っ掴む。自らの顔を近づけて、地の底から湧き上がってくるような低い声で言った。
「吐けよ、おっさん――美姫に何をしゃべった?」
松本刑事だけでなく、俺までもが百瀬のまとう黒いオーラに圧倒されていた。
息を吸うことも、吐き出すことも許されないような感覚。百瀬を中心に、一瞬、時が止まったような気がした。
逃げられないと観念したのか、松本刑事は一度目を伏せ、大きめに息を吐き出してからゆっくりと話し始めた。
「ぼくが美姫さんに訊かれたのは二つだけだ……村越さんの事件についての詳細な情報を教えてくれということと、村越さんが罪を見逃したのは誰かということ」
「何?」
百瀬は松本の頭から手を離した。
「罪を見逃した? どういう意味だ」
「それがぼくにもわからないんだ。確かにぼくは当時村越さんとコンビを組んで動いていたけど、村越さんが犯罪行為を故意に見逃したなんて、ぼくの記憶じゃそんなことはなかったと思うんだよ。もちろん、矢田静馬くんのように刑法上罪に問えない年齢の子の対応として事件扱いしない場合はある。でも、美姫さんはそういう意味で尋ねてきたわけじゃなかった」
「れっきとした少年事件の犯人を、親父さんがわざと逃がしたんじゃないかってことか?」
「あぁ、間違いなくそういう言い方だった」
「美姫にもそうやって答えたのか? そんな記憶はないって?」
「もちろんさ。わからないものはわからないよ。同じ係だった他の先輩たちにもさりげなく訊いてみたけど、誰もそんな話はしていなかったし、もしそんな噂があったのだとしたら村越さんが殺された時に話題になっていたと思わないか?」
「はん、確かにな。殺しの理由に直結するかはともかく、新たな可能性として捜査しないわけにはいかねぇだろうからな」
「美姫さんが言うには、どうも生前村越さんから直接そんな意味合いのことを聞かされたようなんだ。彼女自身も確信を持ってそうだと言っていたわけではないんだけどね」
「待てよおっさん。もし美姫が親父さんからそんな大事なことを聞かされてたんなら、どうして美姫は事件当時そう証言しなかった?」
「それが彼女、高校に入ってからそのことを思い出したそうなんだよ。なんでも、事件のあとに引っ越してしまって疎遠になっていた幼馴染みの子と高校で再会したらしくてね。それまで事件のことは半ば諦めていたらしいんだけど、その子と話しているうちにやっぱり真相をはっきりさせたいと思ったようで、いろいろと思い巡らせていたところ、そんな話を思い出したんだと言っていたよ」
――まさか。
そんな。
すがるように百瀬を見ると、百瀬も俺のほうを見ていた。
「百瀬……」
「やめろ池月。それ以上言うな」
「でも……俺……!」
「黙ってろっつってんだよ!!」
百瀬の罵声に、俺の頬を冷たい感覚が細く走った。
――やっぱり。
やっぱり美姫は、俺のせいで死んだんだ。
俺が早坂に進学しなければ、美姫と再会しなければ、美姫は殺されずに済んだんだ。
悪いのは、俺だ。
美姫が死んだのは、俺のせいだ。
「もしかして」
呆然と立ち尽くす俺に、松本刑事がそっと声をかけてくる。
「君が〝祥ちゃん〟なのか?」
言った瞬間、百瀬の左手が再び松本刑事の右頬を殴り飛ばした。
「余計なこと言ってんじゃねぇ。てめぇはオレの質問にだけ答えてりゃいいんだよ」
苦悶に表情を歪め、松本刑事は床に唾を吐き捨てた。口の中を切ったらしく、吐き出されたそれはほとんど血だまりだった。
「池月、てめぇもだぞ」
ギロリと百瀬の鋭い眼光が突き刺さる。
「悔やみたいなら悔やめばいい。ただし、事件が解決してからにしろ。冷静でいられないなら今すぐ帰れ。目障りだ」
厳しい言葉とその視線から、目を逸らすことができなかった。
百瀬の言うとおりだ。目つきも言葉遣いも悪いけれど、言っていることは全面的に正しい。捜査に私情を挟めば真実を見失うことになると、前にも一度百瀬から指摘されていたことを思い出す。また俺は、同じ過ちを繰り返すところだった。
「ごめん」
涙のにじみかけた目もとをごしごしと少し乱暴に拭う。言われたとおり、悔やむのは真相が明らかになったあとにしよう。
百瀬は小さく息をつき、改めて松本刑事と向き合った。
「その時の美姫とのやりとり、詳しく思い出せるか?」
「あぁ、だいたいね。忘れようにも、あの時のことはきっと一生忘れられないよ」
松本刑事は俺と百瀬を連れて、頭の片隅で燻り続ける記憶の海をゆっくりと泳ぎ始めた。