5-2
午後六時。
約束どおり、俺は幼馴染みのひとり・志水優作と新桜井駅で落ち合い、そのまま駅前のファミレスへ入った。
こうして優作とゆっくり話をするのは小学校を卒業して以来数年ぶりということもあって、木ノ前隼人が現れるまで、俺たちは通夜の席ではできなかった話や、主に小学生時代の昔話に花を咲かせていた。うっかり出し忘れないようにとシャツの胸ポケットに盗聴器付きのボイスレコーダーを入れているため、もしかしたら会話のすべてを百瀬に聞かれているかもしれない。そう思ったらちょっと気まずかったけれど、なるべく気にしないようにした。ちなみに木ノ前隼人が姿を見せ次第、俺のほうからこっそり百瀬に電話をかけて指示を仰ぐ手筈になっている。左耳にはすでにイヤホンを装着していたが、優作は特に何も言ってこなかった。
「でも、驚いたな。祥太朗が美姫の事件を調べているなんて」
昔話に一段落がついたところで、優作は目の前に置かれているグラスに手を伸ばしながら言った。
「通夜の時の君は『警察に任せよう』なんて言って、いかにも受け身な姿勢だったのに」
「あぁ、樹里にも同じことを言われたよ」
「樹里に?」
「うん。美姫と付き合ってたっていう後輩の男の子に会いに行った時にさ」
「そうか……本格的に刑事みたいなことをやってるんだね」
「似合わないだろ?」
「……まぁ、どちらかと言えば」
予想どおりの答えに、ふたりして苦笑してしまった。百瀬といる時は場所が場所だけに今でも少し緊張してしまうけれど、優作とはどこで会っても肩肘張らずリラックスして過ごすことができるな、なんてことをふと思う。
百瀬は今、どこで何をしているのだろう。熊さんは夜になれば仕事へ行ってしまうだろうから、きっとひとりで俺からの電話を待っているに違いない。
あるいは松本刑事を追っているという人たちと連絡を取り合っているだろうか。それならいい。誰かと会ったり、話したりしているのなら。
なんとなく、百瀬がひとりきりでいるという状況を作りたくなかった。
自分でもよくわからないが、ただ漠然と、今の百瀬をひとりにしてはいけないと思った。
「祥太朗?」
「えっ」
いつの間にか物思いに耽っていた俺を覗き込み、優作は怪訝な顔を向けてきた。
「大丈夫?」
「あ……うん、ごめん」
そう、と言って優作はオレンジジュースに口をつけた。夕飯は木ノ前さんが来てから食べようということで話はまとまっていた。
「事件のことは、どこまでわかったの?」
コトン、とグラスを置いた優作は、俺の目をまっすぐに見て問いかけてきた。
「あ、えっと……」
何と答えるべきかと悩んでいると、ズボンのポケットに入れて踏んづけていたスマホが振動した。優作に一言断りを入れてからスマホを手にして画面を確認すると、百瀬からの着信だった。やっぱり俺たちの会話はすべて筒抜けだったのか。
一瞬迷い、『応答』と緑色で書かれたほうへボタンをスワイプする。
『余計なことは答えるなよ?』
間髪入れず、左耳のワイヤレスイヤホンから百瀬の低い声が飛んできた。
『おまえらがもともと知っていた情報なら口にしても構わねぇ。だが、警察から仕入れた捜査情報は絶対にしゃべるな。深いところまで訊かれそうになったら適当にはぐらかせ』
百瀬からの指示はまたしても『適当にはぐらかせ』だった。けれど今日は相手が優作だし、一度経験していることもあって、前回よりも落ち着いた気持ちで話ができそうな気がした。
スマホを通話状態にしたまま、画面を伏せてテーブルの上に置く。大丈夫、と自分に言い聞かせてから、改めて優作と向き合った。
「ごめん、何の話だっけ」
「美姫の事件のこと。いろいろ調べて回ってるんでしょ? 何か進展はあったのかなと思って」
「あぁ、そうそう。事件の話ね。実はまだあんまりよくわかってなくて」
「そうなんだ。やっぱり警察も隼人先輩たち三人の彼氏を疑ってるの?」
「あー、うん、たぶん。樹里の後輩の子も警察から話を聞かれたって言ってた」
「じゃあきっと隼人先輩もそうなんだろうね。君の同級生の金髪の子も、かな?」
「さぁ……百瀬は行方不明だから」
「行方不明?」
「うん、ずっと学校に来てなくてさ。この前垣内さんにも百瀬の居場所を知らないかって訊かれたんだ」
「垣内さんか……あの時の刑事さんだよね」
あの時、というのが三年前の事件のことを言っているのだということはきっと百瀬にも伝わっただろう。優作も俺と同じ、美姫のお父さんが殺された事件で疑われた子どものうちのひとりだ。
「美姫のお父さんも包丁で胸を刺されたって話だし、やっぱり美姫を殺したのと同じ人間なのかな……?」
「さぁ、どうだろうな。手口が同じだから、疑わしいことではあると思うけど」
「ねぇ、祥太朗は誰が犯人だと思ってるの?」
「え?」
「調べているからには、ある程度疑わしい人物なんかに心当たりがあるんじゃない?」
俺が昨日百瀬にした質問とほぼ同じことを問われ、ここにきて答えに詰まってしまった。百瀬からの指示はない。今こそ助けてほしいというのに。
「あー……どうかな。全然見当もつかないや」
「何だよそれ。君、本当に事件について調べてるの?」
その質問にはもはや苦笑いするしかなかった。百瀬の言うとおり、俺は本当に何も考えていないんだということを思い知らされた。
「志水」
その時、俺たちのテーブルにひとりの男性が近づいてきた。
「隼人先輩」
優作が口にした名でその人物が待ち人である木ノ前隼人だと知った。立ち上がった優作に倣って俺も腰を上げ、「はじめまして、池月です」と頭を下げた。
「こちらこそ、木ノ前です。話は志水から聞いているよ」
さわやかな笑顔と穏やかな口調がなんだか優作とよく似ていて、やっぱり優秀な人材というのは所作にも知性が出るものなんだと改めて思った。
夕飯は後回しにし、飲み物を揃えたところで、早速事件についての聞き取りを開始した。ちなみに木ノ前さんは今、俺の正面、優作の左隣に座っている。ボイスレコーダーもふたりから許可をもらってテーブルの隅に置かせてもらった。
「美姫とはどのようにして知り合ったんですか?」
百瀬が最初に尋ねるよう言ったのはこの点だった。すでに垣内さんから情報を得て答えは知っているのだが、確認のためにもう一度問えという意図だろう。
「猫だよ」
「猫?」
「うん。今の職場に不満があるわけじゃないんだけど、お昼休みくらいはひとりでゆっくりしたくてね。どこの現場に入っても近くに公園を探してそこでお弁当を食べるようにしてるんだ。で、今入っている現場の近くでも同じように公園でランチをしていたら、一匹の白猫に気に入られちゃったみたいでね。特に餌付けをしたということもないのに、お互いひとりぼっちだったからなのかなぁ、僕がごはんを食べに公園へ立ち寄ると必ずその猫は僕の足もとで昼寝をするようになったんだ」
へぇ、と俺は素直に感嘆の声を上げた。猫が気まぐれだというのはよく聞く話だけれど、毎回決まって同じ人のところへ足を運ぶこともあるのか。
「でも、七月の終わり頃のことかな。僕がごはんを食べ終わってもその猫が姿を現さなかった日があってね。気になったものだから、少し公園の中を探してみたんだ。そうしたら……」
『いい子だね、シロ』
僕がその猫を木陰の中で見つけた時、ひとりの少女があどけない笑みを湛えてその猫に餌を与えていた。立ち止まる僕に気づいた彼女は顔を上げ、猫に向けていた笑顔をそのままおれに傾けて言った。
『かわいいですよね、この子』
土埃や木屑で汚れ放題の作業服姿だった僕に、彼女は戸惑うことなく話しかけてきた。戸惑ったのは僕のほうで、『そうだね』と答えるまでに変な間があいてしまった。
『君の飼い猫なのかい?』
『いいえ、違います。本当は飼いたいんだけど、うちのアパートじゃ飼えなくて』
『そっか。だからここでこっそり世話を?』
はい、と彼女は猫をなでながら答えた。なるほど、どうりで人懐っこいはずだ。
『その制服……早坂高校?』
『そうです。よくご存じですね』
『まぁね。でも、いいのかい? 学校は』
『もう終わりましたよ。今日は終業式だけだから』
『そうか……もうそんな時期なんだね』
ぽつりと本心を漏らすと、彼女はすくっと立ち上がった。
『もしかしてお兄さん、定時制の人?』
『え?』
『あ、違ってたらごめんなさい……このシャツとスカートだけでうちの高校の制服だって見抜いてたから、もしかしてうちの定時制に通ってるのかなって』
へぇ、と僕は心の底から驚いた。確かに彼女の通う高校についてはシャツの胸ポケットに刺繍された緑色の校章で判断したし、早坂には県内に指折り数えるほどしかない定時制課程のクラスがある。そして僕はこうして日中仕事に出ている。彼女がおれのことを定時制高校に通う者であると考えたのにも納得だ。
『残念だけど、はずれ。いい推理だと思うけど、もし僕が定時制課程の生徒なら「もうそんな時期なんだね」なんてセリフは言わないだろう?』
『そっか、定時制にも夏休みがあるもんね』
ぺろっと舌を出す彼女の姿に、冷え固まっていた僕の心がゆっくりと溶け出していくのを感じ、僕はしばらくその場を動くことができなかった。
「それから彼女とはシロを通じてよく話すようになった。付き合うとか付き合わないとか、そういったことを明確にした覚えはないんだけど、なんとなく男女の仲、みたいな雰囲気になっていったんだよね」
照れ隠しなのか、少しはにかみながら木ノ前さんは美姫との馴れ初めについて詳しく語ってくれた。俺も優作もただ黙ってその話に耳を傾けていたが、ここで百瀬から新たな指示が入る。
『美姫が殺されるような理由を抱えていたかどうか、何か知っていることはないかって訊いてみろ』
「あー……えっと、木ノ前さんは、美姫が殺された理由について何か心当たりはありませんか? たとえば、美姫が気になる話をしていたとか」
「うーん、実は警察にも同じようなことを訊かれたんだけど、美姫ちゃんが殺されたって聞いた時は本当に驚いてね。僕が知る限り、彼女が何かトラブルを抱えているというような話をしたことはなかったし、僕の他にちゃんとした彼氏がいたっていうのも刑事さんが教えてくれたんだ」
「美姫のお父さんについては?」
「あぁ、それそれ! そっちのほうがびっくりだったよ。まさか僕の逮捕に絡んでいた警察関係者の中に美姫ちゃんのお父さんがいたとはね。三年前にも村越刑事が殺された件で事情聴取を受けたから、ひょっとして美姫ちゃんは僕のことを疑って近づいてきたのかなって思ったりもしたよ」
「でも実際は、美姫からは何も聞かされなかった?」
「あぁ。僕が昔覚醒剤に手を出して泉習館の高等部を中退したことは美姫ちゃんから聞かれる前に自分から話したけど、それでも彼女はお父さんが警察官だってことも三年前に殺されたってことも言わなかったよ」
「覚醒剤!?」
知らなかったのか、優作は眼鏡の奥で目をまんまるにして木ノ前さんを見やった。「内緒にしてね」と木ノ前さんは肩をすくめる。
優作はそれ以上何も言わなかったので、俺は話を先へ進めた。
「クスリをやってたことについて、美姫は何て?」
「そうなんだ、としか言わなかったかな。どちらかというと興味なさそうな感じだったよ」
そうですか、と答え、百瀬からの次なる指示を待つ。
『二つの事件について見聞きしたことをすべて教えろって言え』
ん? と俺は思わず眉を寄せてしまった。質問の意図がうまくくみ取れなかった。木ノ前さんが俺たちの知らない情報を何か握っているのではないかと睨んでいるのか?
『早くしろ。黙ってると怪しまれるぞ』
確かにこのまま黙っていては不自然だ。百瀬に促されたとおり、俺は木ノ前さんに問いかける。
「木ノ前さんは、美姫が殺された事件と三年前の村越刑事殺害事件について、どれくらい詳しく知っているんですか?」
「事件について? さぁ、ほとんど何も知らないよ。刑事さんたちはもちろん何も言わなかったし、ただ殺されたとしか……」
『もうちょっと具体的に訊け。殺害方法とか、犯行時刻とか』
百瀬の言葉どおりに問うと、木ノ前さんは曖昧に首を振った。
「刃物で胸を刺されたっていうのはテレビのニュースで見たよ。あとは……そうだね、美姫ちゃんの死亡推定時刻が十五日の夜だってことは知ってる。『十五日の午後九時から十一時まで、どこで何をしていましたか?』って刑事さんに訊かれたから」
「アリバイの確認ですね。証明できたんですか?」
「いいや。鑑別所を出て今の職に就いてからはずっとひとり暮らしをしているからね。さすがにそんな遅い時間まで仕事が長引くことはないし、アリバイの証明なんてできっこないよ」
『三年前の事件についても訊いてみろ』
相づちを打つ間もなく百瀬からの指示が入る。「じゃあ、美姫のお父さんの事件についてはどうですか?」と俺もすぐに尋ねた。
「そっちも同じだよ。通り魔に刺されて亡くなったっていうことくらいしか知らないし、アリバイだって証明できない」
木ノ前さんはやや大きめに息を吐き出した。
「正直、三年前の事件が起きた頃はようやくクスリを断ち切ったばかりで、他のことに構っている余裕なんてこれっぽっちもなかったんだ。高校は退学になったし、実家からも『おまえに木ノ前の家を継がせる気はない』って言われて縁を切られちゃうし、さぁこれからどうやって生きていこうかって真剣に悩んでいた時だったからね」
そういえば木ノ前隼人は地元の資産家一族の出身だって垣内さんが言っていたな、と今更ながら思い出した。頼れる家を失ったのは言うまでもなく木ノ前さん本人の責任だけど、それでもお先真っ暗な状態に陥ってしまった当時の彼にちょっとだけ同情の念が湧いた。
「特に僕は村越さんから直接取り調べを受けたわけじゃなかったから、面識だってないのにさ。なんで僕に話を聞きに来たのか、警察は僕が覚醒剤依存者ってだけで疑ってるんじゃないかって、終始イライラしながら聴取に応じていたくらいだよ」
当時のことを思い出したせいか、木ノ前さんの口調にはあきらかな怒りの色が混じっていた。同じように当時取り調べを受けた身としては、その気持ちが痛いほどわかる。身に覚えのないことで疑われるというのは想像以上につらいことだ。
『もういい』
「え?」
しまった、と声を上げてから思った。当たり前だが手遅れで、優作も木ノ前さんも俺の上げた声に何事かと首を傾げている。
「あ……あの、ちょっと休憩しませんか? おなかすいちゃって」
苦し紛れにそう言うと、ふたりは顔を見合わせながらも了承してくれた。
なぜ今のタイミングで木ノ前隼人からの聴取を打ち切ったのか、百瀬の真意が俺にはまるでわからなかった。




