5-1
結局その日のうちに松本刑事の行方が判明することはなく、俺は今、いつもどおり学校で日本史の授業を受けている。週の最後、六時間目の日本史。机に突っ伏してしまいそうになるのを必死に堪えているところだ。
昨日の夜以来、百瀬からは何の連絡もなかった。とはいえ、次に俺たちがするべきことは決まっている。もうひとりの美姫の彼氏・木ノ前隼人から話を聞くことだ。
*
「三十分だ。三十分後、いつもの場所で。遅れるやつにはオレがあとから事情を説明する。…………あぁ、頼む」
夜の街、カミイチ。件のキャバクラ『キャリオン』の店先で通話を終え、パーカーのポケットにスマホをしまった百瀬は、なぜだろう、少しだけ悲しい色をその目に湛えた。
「松本さんを捜すの?」
今の流れで『捜してほしい男』といえば松本刑事以外にいないだろう。当然百瀬も「あぁ」と短く肯定する。
「すごいな。電話一本で捜してくれる仲間がいるなんて」
「仲間?」
フン、と百瀬は鼻で笑った。
「そんないいモンじゃねぇよ」
「え、じゃあ友達?」
「どっちも変わんねぇな。オレに言わせりゃ、あいつらはただの知り合いだよ」
言いながら、百瀬はゆっくりと歩き出した。方向的には上市台駅へと向かっているようだが、行き先はどこだかわからない。
「要するに、金だ」
「金?」
「そ。オレのもとに集まってくるやつらの狙いはたいていが金なんだ。ほら、金のあるところには自然と人が集まるもんだろ?」
それはそうかもしれないが、イマイチ話が見えてこない。そんな顔を向けると、百瀬は少し遠くを見つめながら話し始めた。
「オレが家出同然でここへ流れついたのは中学の時の話だ。当時はこのカミイチがどんな場所かなんてことをまったく知らなくて、ただ深夜になっても明るくて人がたくさんいたってだけで、オレはここに迷い込んだ。行き着いたからにはここがどんなところかってことくらい知っておかなきゃまずいよなってことで、誰がどこでどんな商売をして生計を立ててるとか、どの店にどこの組の息がかかってるとか、ここでの掟みたいなこととか……とにかくいろんなことを調べて回ったのさ。その時に情報提供料としてまき散らした金が、今のオレの立ち位置を作り上げたってわけ」
「金を……?」
「そう。もちろんオレの金じゃない。親父のだ」
「お父さんの?」
あぁ、と百瀬は声を低くして言った。
「どうせ汚ぇことして稼いだ金だ。ろくな使い方をされなくて当然だろうよ」
紡いだ言葉に吐息を交じらせ、街の明かりで白む空をそっと見上げる。
「本当はさっさと縁を切っちまいたいところなんだけどな、親父とは。けど姉貴のこともあるし、なかなかうまくいかなくてよ」
いつの間にか百瀬の瞳は、深い愁いの色でいっぱいになっていた。星のない夜空を映しているかのように、そこには少しの光もない。
そのまま百瀬は口を閉ざし、黙ったままゆっくりと足を動かし続けた。煌びやかな背景には不釣り合いな気まずい空気が、俺たちの間を音もなく流れる。
「……金持ちなんだな、おまえんち」
咄嗟に口をついた一言がこれで、俺はすぐさま後悔した。どうしてもっと気の利いたセリフを言ってやれなかったのだろう。
けれど百瀬はなぜか大真面目な顔をして「あぁ」と答えた。
「国会議員ってのはどうも儲かる職業らしいな」
「こッ…………え!?」
予想のはるか上を行く答えに素っ頓狂な声を上げると、百瀬は面倒くさそうに小さく舌打ちをした。
「ちょいとおしゃべりが過ぎたな。ところで池月」
「あ……うん、何?」
「泉習館の連れからその後連絡は?」
「あ、あぁ……一応明日、木ノ前さんの仕事が終わり次第会えるように話をつけてくれてるみたいだよ。優作も一緒に来てくれるって」
「そうか」
だったらいい、とだけ百瀬は答えた。いよいよ駅の出口が見えてきて、どうやら本当に駅が目的地だったことをようやく俺は悟った。
「じゃあな。また連絡する」
「わざわざ送ってくれたのか? ここまで」
「気にすんな、ただの暇つぶしだ。ビビりなキミのためなら、お兄ちゃんはひと肌もふた肌も脱いじゃいます」
「だから誰がお兄ちゃんだって」
ニシシと歯を見せて笑う百瀬につられ、俺も声に出して笑った。じゃあな、と百瀬は今度こそ俺に背を向けて、カミイチの街を戻り始めた。
「百瀬!」
徐々に遠のいていったその背中を、ほとんど無意識のうちに呼び止めていた。百瀬はゆっくりと振り返る。
「百瀬は、誰が美姫を殺したと思ってる?」
わずかに片眉を上げてから、百瀬は真面目な顔で一言だけ答えた。
「おまえ」
「…………は?」
ニヤリと笑い、ひらひらと手を振りながら百瀬は煌々と明かりの灯るカミイチの街に溶け込んでいった。
その背中が語るものが何なのか、俺にはやっぱり読み解くことができなかった。
*
六時間目が終わると同時に百瀬からメッセージが届いた。
【車で待ってる】
返事は書かずに荷物をまとめ、急ぎ足で目的地へと向かった。校門を出てしばらく坂を下ったところに停まっているその車もすっかり見慣れたものではあったが、今更ながら正面に掲げられた王冠のエンブレムに気がついた。クラウン。なるほど、そりゃシートもふかふかなわけだ。
「どういう流れで落ち合う?」
乗り込んだそばから、百瀬は挨拶もなしに今日の段取りを確認してきた。
「えっと、六時に新桜井駅で優作と待ち合わせてる。木ノ前さんの仕事が終わるまで駅前のファミレスで待つって」
「よし。それなら今日はこいつだ」
ひょい、と百瀬は俺の前に何か手のひらサイズの電子機器を差し出してきた。縦長で十五センチほどあるそれは携帯ラジオみたいな見た目をしている。
「外見はただのボイスレコーダーだが、中に盗聴器を仕込んである。それをテーブルに置いて話をしろ。指示はこの前と同じでオレが出す」
もう一つ、俺の手にころんと小さな片耳用のイヤホンが乗せられる。前回のワイヤレスヘッドセットと違い、それは装着すると耳の中にすっぽりと収まってしまうサイズだった。
「……すごいな。ドラえもんみたいだ」
「ドラえもん?」
「うん。次から次へと秘密道具が出てくるから」
「ははっ、なるほどな。言ったろ? オレの金じゃねぇって。無駄遣いしてやったほうがスッキリすんだよ」
本当は何か深いわけを抱えているはずなのに、その口ぶりが妙にガキっぽくてつい笑ってしまいそうになる。けれどそんなことをすればいよいよ拳が飛んできそうだったので、腹に力を入れて懸命に堪えた。
「とにかく、それを持って木ノ前に会いに行け。やることは基本的に矢田の時と同じだ。違うのはおまえの連れが同席していることだが、木ノ前や矢田と同じように、そいつから何か質問されても一切答えるなよ?」
「えっ、優作にも?」
「あぁ。相手が誰だろうと同じことだ」
「……わかったよ」
「何だよ、不満そうだな?」
「いや、だって……優作はただの付き添いなのに」
ぼそりと本音を漏らすと、百瀬はぐっと眉根を寄せた。
「池月」
「なに」
「おまえって本当に何も考えてねぇんだな」
「は?」
「言ったはずだぞ? おまえの先入観で可能性を潰すなって」
真剣な眼差しを向けられ、俺は思わず息をのんだ。
「百瀬、おまえ……もうわかってるのか? 犯人が誰なのか」
「いいや、まだだ。ただ、少し思うところはある」
俺が首を傾げると、百瀬はシートに深く背を預けた。
「いずれにせよ、松本が捕まんねぇことには話が前に進まねぇ。あいつが美姫から何て言われたか……それが事件解決のための最大のキーワードだ」
確かに、と俺も思った。松本刑事がシロにせよクロにせよ、三ヶ月前、美姫との間でどんなやりとりを交わしたのか、それ次第で特に動機の線は大きく変わってくる。美姫が松本刑事に近づいた目的についても同じだ。彼を父親殺しの犯人だと思っていたからなのか、それとも事件の情報を聞き出そうとしたのか、あるいはそのどちらでもなかったのか……美姫が殺されてしまった今、松本刑事本人から訊き出す他にそれを知る手立てはない。
百瀬は少しゆとりのあるジーンズを履いた足を組み、パーカーのポケットに両手を突っ込む。
「……ったく、ざまぁねぇな」
スッと細めた目を車窓の外に向け、百瀬は静かに言葉を紡いだ。
「愛した女に振り回されるなんてよ」
哀愁漂うその横顔に、つい同情してしまう。
思い返せば俺の人生も、気がつけば美姫に振り回されていることばかりだった。でも、この事件が解決したらそんな日々もいよいよ終わる。そうかと思うとぎゅっと胸が締めつけられて、うまく息ができなくなった。