4-2
「どうしよう」
コツン、とピンヒールが大理石調のフローリングを鳴らした。
「祥太朗……私……!」
ふらりと碧衣の体が揺れる。咄嗟に立ち上がって傾いだその体をすんでのところで抱き留めると、そのまま碧衣と一緒に膝を折って床へ座り込んだ。
「碧衣!」
「私のせいだ」
「え?」
「ごめんなさい…………私の……私のせいで、美姫が……死んじゃった…………!」
碧衣の瞳から、大粒の涙があふれ出した。どうやら俺たちがここへ来た理由を察したらしい。
何度も何度も「ごめんなさい」と口にしながら、碧衣は俺の腕の中で声を上げて泣いた。戸惑いながらも碧衣の背中をさすりつつ、百瀬と垣内さんを振り返る。百瀬はスッと細めた目で碧衣を睨み、垣内さんはやれやれといった風で無造作に髪を触っていた。
しばらくの間、碧衣は滾々と涙を流し続けた。俺が碧衣を慰めていると、百瀬は黒服の男にキャストの送迎について尋ねた。「希望があれば出勤時も送迎をつけます」と答えた黒服に対し、百瀬は納得したように「そうか」と頷く。
「百瀬……?」
どうしてそんなことを、という意味を込めて百瀬を見やると、百瀬は事もなげにさらりと答えた。
「おまえの幼馴染み……圭とか言ったっけ? そいつが夏休み明けにこいつのことを見たっていう話。こいつは彼氏のところへ行くために夜な夜な出歩いていたわけじゃねぇ……キャバクラの送迎車へ乗り込むために家の外へ出たんだ」
あっ、と俺は小さく声を上げた。なるほど、それなら碧衣がどことなくそわそわしていたという圭の証言にも納得だ。
「本来なら自宅の前に車をつけてもらうんだろうが、知り合いに会ったんでわざわざコンビニまで行くフリをしたんだろうな」
「ってことは、俺がこの前見かけた車も……?」
「あぁ、送迎車だった可能性は高い」
そういうことか。やはりあの時、カミイチを走る車の中にいたのは碧衣だったのだ。
俺たちが話をしているうちにようやく碧衣が落ち着いてきて、俺は碧衣を向かい側のソファに座らせた。
「お金が、必要だったんです」
黒服に渡されたハンカチで目もとを拭い、碧衣は静かに重い口を開いてくれた。
「私、バカだから……唯一褒めてもらえるテニスをどうしてもやめたくなかったの。特にうちの高校のテニス部は公立だけど外部コーチなんかも雇って本格的に上の大会を目指すチームで、そんな環境の中で私の実力を買ってくれることがすごく嬉しくて。でもうちは母子家庭だから、正直部活なんかやってる場合じゃない。本来なら私もバイトして、少しでも楽に生活できるようにしなくちゃいけないの。なのにお母さんは『そんなこと気にしなくていいからテニスを続けなさい』って言ってくれた。高いお金を払ってテニス用品を揃えて、コーチに払うお金の分だけ他の部活より部費も高いのに、きちんとみんなと同じだけ出してくれて……」
訥々と語る碧衣の言葉の端々から、お母さんへの深い愛情が感じられた。俺たちにはわからないひとり親家庭特有の悩みを抱えながらも、碧衣は毎日笑顔で過ごすことを決して諦めない子だった。その根底にあったのは、自分のことを懸命に育ててくれた母親への感謝の心。元気で明るく日常をこなしている姿をお母さんに見せることこそ、当時の碧衣にとって精一杯の親孝行だったのだ。
「確かにテニスは続けたいけど、お母さんだって自分のやりたいことがたくさんあるはずなのに、私のために毎日一生懸命働いて、バイトなんてしなくていいって言ってくれる。でも私、もう十七だよ? 法律的にも働ける年齢だし、高校の同級生でバイトしてる子だっていくらでもいる。だから私も、お母さんにバレないようにこっそり働いて、これからは部費やテニス用品を全部自分で払おうって思って……そんな話を友達にしたら、ここでの仕事を紹介してくれて……」
「西口のことか」
百瀬がつぶやくと、碧衣は驚いた顔で百瀬を見る。
「香奈を知ってるの?」
「あぁ、オレの中学の同級生だ」
「なるほどね……それでバレちゃったってわけか」
「そうでなくても、いずれはバレてたと思うぜ? 世の中ってのは、悪いことができねぇようにうまく回ってるもんだ」
そうかもね、と碧衣は力なく笑った。
「香奈も親に黙ってここで働いてるって言ってた。年上の彼氏の家に泊まってるって嘘をついてたらしいけど、うちの場合はお母さんが夜勤のある仕事だったから、その日に限って働かせてもらえば絶対にバレないって言ってくれたの。アフターは絶対にダメって全部断ったし、体力には自信あったからそこまでつらい思いをせずに済んでた。違法だってわかってたけど、部活を引退するまでの間だけなら大丈夫だろうと思って……」
うなだれる碧衣の頬を、再び涙がほろりと伝う。正直、これ以上聞いているのはつらい。
「君の話はわかった。でも、それでどうして美姫ちゃんが死んだのは自分のせいだと思ったのかな?」
話の切れ目を見計らい、垣内さんがやんわりと質問を投げかけた。
「……美姫に、脅されたんです」
脅された、と垣内さんが繰り返す。俺と百瀬は顔を見合わせた。
「三ヶ月くらい前かな。どうしてかわからないけど、ここで働いてることが美姫にバレて……。それで、黙ってる代わりにお客さんのひとりと会わせてほしいって言われたんです」
「お客さん?」
「はい……松本さんっていう方なんですけど」
俺と垣内さんが驚いた素振りを見せる中、百瀬だけはその答えを見透かしていたかのように冷静な態度を崩さなかった。
松本。
かつて、美姫のお父さん――村越陽一刑事とコンビを組んでいたという、生活安全課少年係の刑事だ。
「その男が刑事だってことをあんたは知ってたのか?」
百瀬に問われ、碧衣は首を横に振る。
「何度かテーブルについたことはあったけど、うちの店を特別贔屓にしてくれてた常連さんじゃなかったし、私たちには普通のサラリーマンだって名乗ってた。いろいろしゃべってると、そういうのって結構わかったりするんだよね。あぁ、この人は何か探りを入れに来たんだな、みたいな雰囲気とか。でも松本さんは全然そんな感じじゃなかったし、特に指名する女の子がいたわけでもないから、この辺りのお店を趣味で飲み歩いてるだけだと思う」
「じゃあどうしてあんたは美姫が自分のせいで死んだなんて思ってる? 美姫から直接聞いたのか? 親父さんの事件を追ってるって」
「ううん、美姫は何も言わなかった。でも、美姫に指示されて松本さんとお酒をのんで、そのままアフターに誘って美姫の前に連れて行った時に気づいた……あの子、松本さんの前で『村越美姫です』って名乗ったから」
なるほど、あえて旧姓を名乗ることで相手にその真意を悟らせようとしたってわけか。しかし。
「碧衣……おまえ、知ってたのか? 美姫の名字が會田に変わってたこと」
俺の問いに、碧衣は「うん」とうなずいた。「美姫とは引っ越した後もちょくちょく連絡取り合ってたからね。ほら、うちらってどっちも母子家庭だし」と。
「で? そのあと松本と美姫はどうなった?」
百瀬が話の軌道をもとに戻すと、碧衣は小さく首を振った。
「あのふたりがどんな話をしたのかまではわからない。きっとお父さんの事件に関することなんだろうけど、あの時私だけは美姫に帰れって言われて、それっきりだから」
ふぅん、と相づちを打った百瀬は垣内さんのほうを見やる。即座に立ち上がった垣内さんは、スマホを片手に一旦ソファから離れた。
「他に何か美姫と話をしなかったか?」
「ううん、特には」
「じゃあ松本って刑事とは? そのあとも店に来てたか?」
「……そういえば、あの日以来一度も見かけてないかも。私がお店に出ていない日には来ていたかもしれないけどね」
「おい、あんたは知ってるか? 松本のこと」
百瀬は碧衣の後ろに控えていた黒服の男に問いかける。
「えぇ、もちろんでございます。しかし、確かにここ三ヶ月ほど、ご来店いただいていないと記憶しています」
「百瀬くん」
黒服の男と入れ替わるように、今度は俺たちの背後で垣内さんが声を上げた。どこかへ電話をかけていたようで、振り返ると垣内さんはスマホを握りしめたまま俺たちのことを見ていた。
「松本は数日前から休暇を取っているらしい。手のあいている捜査員に彼の自宅へ向かうように言ったけど、おそらくは……」
「ま、そう簡単には捕まらねぇだろうな」
スッと百瀬は立ち上がり、ひどく冷たい目をして碧衣を見下ろした。
「さっさとやめちまえ、こんな仕事。親のすねをかじれるうちは素直に甘えておいたほうがいい。たとえ金がかかったとしても、今のあんたを見てるほうがお袋さんもつらいだろうぜ」
邪魔したな、と黒服の男に短く告げ、百瀬は俺たちを気遣う素振りも見せずひとりこのVIPルームを出て行った。「ご協力、感謝します」と垣内さんも黒服に深々と頭を下げてそのあとに続く。
「あの!」
黒服に呼び止められ、垣内さんは「はい?」と振り返った。
「うちの店は、どうなるのでしょう?」
「……さぁ、あいにく僕は担当が違いますので。何かやましいことがあるのなら、今のうちに清算しておくことを強くオススメしておきます」
「そうですか……ずいぶんと甘い方のようで助かります」
「僕らにもシマというものがありますから。無闇に荒らすと後始末が面倒なのでね」
軽く会釈をし、今度こそ垣内さんは部屋を出て行った。残された俺は、最後に碧衣とまっすぐ向き合う。
「祥太朗……」
「大丈夫だよ、碧衣」
不安でいっぱいの目をした碧衣にすがられ、俺は精一杯微笑んでみせた。
「おまえは何も悪くない。美姫のせいで巻き込まれただけだ」
「でも……」
「心配ない。事件のことは、百瀬がなんとかしてくれる」
「百瀬って、さっきの金髪の子?」
うん、と俺はうなずいた。
「とにかく、自分を責めちゃダメだ。お店もやめて、少しの間ゆっくり休んだほうがいいと思う」
「祥太朗……」
「大丈夫、誰にも言わないから。な?」
ぽんぽん、と軽く肩を叩いてやる。部屋は暖かいはずなのに、むき出しになっている碧衣の肌はすっかり冷たくなっていた。
俺が店の外へ出た時、すでに垣内さんの姿はなかった。松本刑事の行方を追う捜査員に合流するためだろう。
「百瀬」
その背中に声をかけると、百瀬はゆっくりと振り返った。左手に握られたスマホを耳に押し当て、誰かに電話をかけている様子だ。
「どうするんだ? これから」
「そう焦るな。やることはまだまだある」
答えてすぐ、どうやら電話がつながったようだ。
「オレだ。今からすぐに動けるやつをできる限り多く集めてくれ――捜してほしい男がいる」




