3-5
『美姫の親父さんのことを恨んでるかどうか確かめろ』
矢田から話を聞き始めた最初の頃よりもわずかに声を低くして、百瀬は俺に次なる指示を与えてきた。ちらりとだけ車に目を向けてみると、百瀬は再び俺たちのほうをじっと見つめていた。
「美姫のお父さん……村越刑事のことは恨みに思わなかった?」
「恨み、ですか?」
「うん。だって、君を本屋で捕まえたのは美姫のお父さんだろ?」
「それはそうですけど、恨みになんて思いませんよ」
「本当?」
「はい。どうして刑事さんを恨まなきゃならないんです? 万引きした僕が捕まるのは当たり前のことですし、刑事さんたちは真面目に仕事をしただけでしょ?」
「けどさっき『もし中学受験に失敗していなかったら』って……?」
「それも僕の責任です。刑事さんたちにはまるで関係のないことですよ」
バカなことを訊く人ですね、とでも言いたげな顔で矢田は俺を見上げてくる。俺が訊きたかったわけじゃないのにと言い訳してやりたかったが、もちろんそんなことができるはずもない。ぐっと気持ちを押し込めて、「そっか」と俺は短く答えた。
「池月さんは、美姫先輩を殺した犯人を捜しているんですか?」
会話が途切れると、今度は矢田から質問を投げかけられた。
「あ、えっと……」
相手から質問された時は絶対に答えてはならない。百瀬からそうきつく言いつけられていた。適当にはぐらかせとも言われていたけど、俺に〝適当にはぐらかす〟なんていう超高等技術が備わっているわけもなく、いつものようにただ口ごもって視線を泳がすことしかできなかった。
『そっちはどう思う? って訊いてみろ』
すかさず百瀬がフォローを入れてくれる。ちょっと怒っているような口調だ。
「……矢田くんは、どう思う?」
「どう、とは?」
『誰が美姫を殺したと思うか』
「誰が美姫を殺したと思う?」
「誰、ですか……それはちょっと、僕には何とも……」
思案するような素振りを見せつつも、矢田は明確な答えを口にしなかった。そりゃそうだよな、俺でもそう答えると思う。
『十月十五日の午後九時から十一時の間のアリバイを確かめろ』
百瀬からの新たな指示。俺はほとんどそのまま百瀬の言葉を矢田に伝えた。
「夜の九時ですか? その時間ならもう家にいましたよ」
「それ、誰かに証明してもらえる?」
「警察の方にも同じことを訊かれましたけど、家族以外でとなると無理です。ついでなのでお答えしますが、三年前に村越さん……美姫先輩のお父さんが殺された日のことも全然覚えていないので、僕が疑われてしまうのは仕方がないことだと思っています」
「でも、君はやってない?」
「当たり前じゃないですか! さっき言ったでしょ? 村越さんのことも松本さんのことも全然恨んでいないって。もちろん、美姫先輩のことだって……」
少しだけ言葉を切り、伏し目がちで再びゆっくりと口を開いた。
「美姫先輩にとっては遊びだったかもしれないけど、僕は本気で美姫先輩のことを愛していましたから。殺すだなんてとんでもない」
どくん、と心臓が大きく鼓動した。矢田もまた、美姫に恋をした男のひとりであるということを、今になってようやく思い知らされた。
「……美姫は遊びで男と付き合うような子じゃないよ」
なんでこんなことを口にしたのか、自分でもよくわからなかった。たぶん、美姫のことを悪く言われるのが俺の中で一番許せないことだからだろう。
「そうですね。でも、少なくとも僕との関係は本気の恋愛ではなかったと思っています」
「どうして?」
「美姫先輩、言ってました。『君と手をつないで歩いていると、弟ができたみたいで嬉しい』って」
ひとりっ子だったそうですね、と矢田はどこか諦めたような顔で肩をすくめた。なるほど、彼が『遊び』だと言ったのにはきちんと理由があったわけか。
「実際、美姫先輩には他にも付き合っていた男の人がいたらしいですしね。まぁ、僕が美姫先輩と付き合い始めたのは夏休み中のことですし、僕の他にも彼氏がいたことを知ったのも美姫先輩が殺されたあとでの話なんですけど」
そうなんだ、と俺は小さくうなずき返し、百瀬から聞いた話と今の矢田の話を頭の中ですり合わせてみた。
美姫が三股をかけていたと知ったのは、百瀬も矢田も美姫が殺されたあとでのことだと答えている。しかし、百瀬と美姫が恋人同士になったのは今年の四月で、矢田と美姫とが出逢ったのは三ヶ月前……七月の話だ。もしも美姫が本当に百瀬・矢田・木ノ前隼人の三人を父親殺しの容疑者だと考えて接触を図ろうと目論んでいたのだとしたら、どうして矢田との接触は百瀬と付き合い始めてから三ヶ月も遅れたのだろう? 百瀬を最有力候補だと考えてじっくり観察したかったから? そこで芽が出ず、矢田に切り替えて接触した? なら、木ノ前隼人と付き合い出したのはいつのことなのだろう。
……いや、ちょっと待て。
そもそも百瀬は美姫のお父さんが殺されたことすら教えられていなかったはずだ。百瀬が知らないことについて、美姫はどうやってしゃべらせるつもりだった? お父さんの事件について話を振ってボロを出させるよう仕向けるならわかる。だが、百瀬の話を聞く限り美姫がそんな素振りを見せたことはなかったようだ。
同じことが矢田にも言える。矢田もまた、美姫のお父さんが殺されたことについては美姫が殺されるまで知らなかったと言っていた。もちろん嘘をついている可能性もあるが、さっきの口ぶりからは彼の話に嘘があったようには思えない。不自然な受け答えをした瞬間はなかったし、わからないことに対してははっきり『わからない』と答えていた。何かを隠そうと思ったらきっと咄嗟に別の回答を用意したはずだ。
「あの、池月さん……?」
我に返り、そっと俺を覗き込む矢田を見やった。
「あ、ごめん」
つい黙考してしまった俺に、矢田は怪訝な顔を向けてくる。『もういいぞ』と百瀬から指示が入ったので、すくっとベンチから立ち上がり、「ありがとう」ときちんと頭を下げて礼を述べた。