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旭ヶ原高校周辺の土地勘がなかったので、矢田にどこかふたりで話ができるところはないかと尋ねると、少し歩いた先に小さな公園があると教えてくれた。
重い足取りながら前を歩く矢田に続いて、俺はその公園へと足を踏み入れる。公園全体を背の低い垣根がぐるりと囲っていたものの、幸い出入り口から覗き見られそうな位置にベンチが設置されていて、俺は迷わずそこへ矢田を案内して左隣に座らせた。ちらりと右に視線を向けて公園の外を確認すると、熊さんの白いセダンが完璧な位置取りで路駐していて後部座席の百瀬とばっちり目が合った。辺り一帯が住宅地なのでそう広くない道路だが、車がすれ違うには十分なゆとりのあるのでしばらくの間停めていても問題はなさそうだ。
「僕じゃないですよ」
開口一番、矢田はそうはっきりと言い放った。
「警察からもいろいろ訊かれましたけど、僕、本当に何も知らないんです! どうして僕が美姫先輩を殺さなくちゃならないんですか? そもそも、美姫先輩が殺されなきゃならない理由って何なんです!?」
「ま、まぁまぁ……。一旦落ち着こう。な?」
キャンキャンと子犬のように吠えまくる矢田の肩をぐいと下方向に押さえつける。この調子ではいつ飛びかかられてもおかしくないし、子犬に噛まれると案外痛い。うちで飼っているトイプードルに昔はよく噛まれたけれど、犬にとっては甘噛みのつもりでも人間の皮膚には鋭く刺さるような激痛が走るものだ。
『まずはお前の身の上を明かせ』
興奮気味の矢田をなだめていると早速百瀬からの指示が飛んできた。俺が口にしていいのは質問だけじゃなかったのかというツッコミは野暮だろう。こちらが何者であるかを知らなければ、どんな質問をしたって相手に警戒されるだけだ。
「俺、美姫とは幼馴染みなんだ」
百瀬の指示に従って、俺は自分と美姫との関係を少しだけ語った。
「美姫が昔住んでた家が俺んちから近くてさ。小学生の頃は毎日のように一緒に遊んだよ。中学の時に美姫が引っ越しちゃった時はもう二度と会えないんだって思ったけど、偶然って怖いよね。高校で再会したんだ」
「へぇ、運命的ですね」
本当にそう思っているような顔をして、矢田は右隣の俺をそっと見上げてきた。
「矢田くんは、どうやって美姫と知り合ったの?」
話の流れでつい百瀬の指示とは違う質問をしてしまったが、百瀬は何も言ってこない。これくらいのアドリブなら入れても大丈夫だということか。
尋ねてからしばらくの間、矢田はじっと座り固まったまま口を開こうとしなかった。百瀬からは『相手がしゃべり出すまで待て』との指示。ひゅうっ、とやや冷たい秋の風が頬を叩く。
「……美姫先輩から聞いたんですか?」
「え?」
「僕が昔、万引きで警察のご厄介になったこと」
ようやく話し始めたかと思えば、矢田は思いがけない一言を繰り出してきた。すぐに百瀬から『何も答えるな』と指示が入る。
『美姫はおまえの万引きについて知っていたのかって訊け』
「……美姫は、君が万引きをしていたことを知っていたの?」
百瀬の言葉をほとんどそのまま繰り返すと、「はい」という小さな返事が聞こえてきた。
「あ、いえ……最初からそうと知っていて僕に近づいてきたかどうかはわかりません」
「そうなんだ。じゃあ、何か万引きについて美姫に知られるようなきっかけがあったってこと?」
「はい、三ヶ月ほど前の話です。学校の帰りに寄った駅前の本屋で、僕、どうしても欲しいと思った漫画に手を伸ばしたりやめたりを繰り返していたんです。おこづかいがもらえるまで少し日にちがあって、財布の中は漫画を一冊買えるほどの余裕すらない状態でした。昔の自分だったら何のためらいもなく万引きしていたでしょう。今でもうまくやれる自信はあります。……何の自慢にもならないですけどね」
まったくだ、と思ったことが顔に出てしまったのか、矢田はばつの悪そうな顔をややうつむけた。
「すごく迷ったんです。フィルムがかかっていなければその場で立ち読みすることもできたんでしょうけど、あの本屋ではそれができなくて。読みたい気持ちをおこづかいがもらえる日まで我慢できたらそれで話は終わりなんですが、当時の僕にとってそれは耐えがたい苦痛でした。昔から自分の感情をコントロールすることが得意ではなくて。小学生の頃も中学受験のための勉強でストレスがたまってしまって、それで万引きを繰り返していたんです。三ヶ月前のあの日もちょうど高校に入ってはじめてのテスト結果が返ってきた頃で、あまり成績がよくなくて親を怒らせてしまったばかりだったから……それで、つい」
「えっ、盗んだの!?」
『バカ! 黙ってろよ!』
「いえ、盗んではいません」
何の気なしに声を上げてしまった俺に対し、百瀬は電話越しに怒鳴り、矢田は静かに首を振った。
「盗みかけたところを、美姫先輩が止めてくれたんです」
「美姫が?」
「はい」
『やめなよ』
棚に向かって伸ばした手に、誰かの手が重なった。
はっとして声のするほうを振り返ると、真剣な目で僕を見つめるひとりの女性が立っていた。
『たかだか漫画一冊のために、人生を棒に振ることなんてない』
強い力を込めて僕の手をぎゅっと握ったその人は、伸ばした腕を一緒に下ろし、反対の手で件の漫画を棚から取り出した。そして、にっこりと微笑みながら言った。
『読み終わったら貸してあげるよ』
ポニーテールのよく似合う彼女の優しい笑顔から、僕は目を逸らすことができなかった。
「結局その漫画は美姫先輩が買ってくれて、そのままふたりで近くのファミレスに入りました。そこで僕は、過去に万引きを繰り返していたことをすべて彼女に話したんです。まさか僕を捕まえた刑事さんが美姫先輩のお父さんだったなんて、その時はまったく気づきませんでした。美姫先輩の名前は聞いていましたけど名字が違っていましたし、美姫先輩も父親が刑事だってことは言わなくて。もちろん、三年前に殺されてしまったことも」
「じゃあ、美姫のお父さんが矢田くんを捕まえた刑事だって知ったのは……?」
「一週間くらい前でしょうか。美姫先輩が殺された件について警察から事情を訊かれた時です。『村越陽一という刑事を覚えているか』と……」
「覚えてた?」
「忘れるはずがありませんよ。もうひとりの松本さんって方のこともね。あの日を境に、僕の人生はガラッと変わってしまいましたから」
青白い顔をして、矢田は力ない笑みを湛えて言う。
「今でも思いますよ。あの時中学受験に失敗していなかったらって。僕、中学でいじめに遭っていたんです。もし私立の中学に通っていたらこんなことにはならなかったかもしれないって、あの頃は毎日そう思っていました。死にたい、なんてことも数え切れないほど考えましたしね。ほら」
ぐっと右手で左手首の辺りを掴み、矢田はカーキのジャケットごと袖を肘のほうへとまくり上げた。白くて細い、今にも折れてしまいそうな彼の腕に刻まれたそれを見て、俺は一瞬、息の仕方を忘れた。
「最初は死ぬつもりで切りました。でも、いつしかこうして手首を傷つけることが精神安定剤みたいな役割になっていて」
手首を中心に、矢田の腕には無数の切り傷が刻まれていた。くっきりと残るその蚯蚓腫れは、自傷行為の跡だという。
『…………っ』
その時、左耳から百瀬が息をのんだらしい音がかすかに聞こえてきた。
――百瀬?
反射的に熊さんの車のほうへと目を向けると、百瀬は俺たちのいる公園から目を離し、やや背中を丸めて片手で口もとを覆っていた。
「すみません、嫌なものを見せてしまいましたね」
矢田の一言にはっとさせられ、俺は慌てて車から矢田へと視線を戻した。どうやら矢田は俺が自傷行為の跡から目を逸らしたと思ったらしい。
「あ、いや……俺のほうこそごめんな。つらいことを思い出させちゃったみたいで」
「いえ。こうでもしないと自分を保てなかった弱い僕が悪いんです。高校に入ってからはいじめられることもなくなりましたし……まぁ友達は今でも少ないですけど、それでも今の生活に不満はありませんし、リストカットはもう二度としません。もちろん、万引きも。美姫先輩と約束しましたから」
顔を上げ、力強い口調で矢田は決意の言葉を紡いだ。その一言に嘘はないと、なぜか俺は自信を持つことができた。