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十月末の午後三時、西の空がうっすらと黄金色に染まり始める頃。俺と百瀬を乗せた熊さんの白い車は今、県立旭ヶ原高校の正門がかろうじて見える位置にひっそりと停車している。
「おい、携帯貸せ」
左隣に座る百瀬がスッと右手を伸ばしてくる。何をするつもりかと訝しみつつ、俺は無言で自分のスマホを差し出した。「スワイプロックだけかよ、不用心だな」とつぶやきながら、百瀬は俺のスマホを慣れた手つきで操作する。
しばらくして俺のスマホを自分の膝の上に置いた百瀬は、今日も変わらず身にまとっている黒パーカーの右ポケットから何か小さなものを一つ取り出した。
「何それ?」
「ワイヤレスヘッドセット。ハンズフリーで通話するためのイヤホンだ」
「イヤホン?」
「あぁ。おまえに貸してやる」
「え?」
「いいか? 矢田から話を聞く時、オレの指示したこと以外は一切しゃべるな」
唐突に下された命令に、俺はすっかり面食らってしまった。けれどすぐに百瀬の意図を察して「なるほど」とうなずいてみせる。
「そのためのイヤホンってことか。質問事項を俺に伝えるための」
「そういうこった。矢田と話す時は通話状態を維持しろ。矢田の声も拾えるようになるべく近い位置で話せ」
「了解」
「わかっちゃいると思うが、こっちから事件についての情報を話すような真似はするんじゃねぇぞ? おまえが口にできるのはオレの指示した質問だけだ」
「えっ、なんで」
「んだよ、鈍いなぁ池月」
俺のスマホを再び握る百瀬。右手にワイヤレスヘッドセット、左手に俺のスマホ。どうやらBluetoothでの接続設定を始めたらしい。
「隠し事をしてる人間ってのは、質問攻めにされればされるほどボロを出しやすい。『いつ?』『どこで?』『誰と?』……正直に話せることなら何のためらいもなくスラスラと答えが出てくるが、何か一つでも事実を隠ぺいしなくちゃならない場合、そのたった一つの事実を隠すためにいくつもの嘘を重ねなくちゃなんねぇ。一瞬でも戸惑った素振りを見せればすぐに嘘だとバレちまうから、瞬間的に作り話を構築しようとする。質問が長く続けばその分組み立てるべき作り話が大きく複雑化していって、どこかで必ず綻びが生じるんだ」
「なるほどな。こっちの掴んでる情報を明かすなっていうのは、相手にうまい嘘をつくための手数を増やされちゃ困るからってことか」
「正解。できれば話してる時の相手の表情や仕草もしっかりと見ててほしいんだが、口下手なおまえのことだ、どうせおしゃべりだけで手一杯だろ」
う、と俺は頬を引きつらせた。百瀬の言うとおりになる未来しか見えない。百瀬の指示どおりきちんと話せるかどうかすら怪しいくらいだ。
そうしていつものように自己嫌悪に陥る俺には一切目もくれず、百瀬は俺のスマホをいじりながら話を進める。
「気にすんな、おまえはそれでいい。あれもこれもって押しつけた結果、こっちがボロを出しちまうんじゃ意味がねぇ。矢田の挙動についてはオレがここから観察する。とにかくおまえは一言でも多く矢田から言葉を引き出せ。最初から最後まで聞き役に徹しろ。たまには相手の言葉を拾ってやるといい。そのほうが相手はこっちがきちんと話を聞いてくれてるんだと思って安心するからな。ただし、逆に相手から質問された時は絶対に答えるなよ? 適当にはぐらかせ」
「適当にって……」
「そう心配することねぇよ。いざとなったらオレがフォローする。自分の中にある言葉をきちんと口にする訓練だとでも思ってろ。多少の失敗は大目にみてやるよ」
ほい、と百瀬は俺にスマホを手渡してきた。続いてワイヤレスヘッドセット。横一センチ弱、縦は四センチほどの長方形をしたそれは、どうやら左耳に引っかけて使うもののようだ。
「はじめてか? そういうの」
「うん。っていうか、高校生がこんなの持ってるほうが珍しいって」
「そうか? ……まぁいい。マイクは先端に搭載されてる。感度がいいから、矢田の声もベンチで隣に座るくらいの距離なら難なく拾うと思うぜ」
「わかった。適当に距離を取って話すよ」
よし、と言って百瀬は早速俺のスマホ宛てに電話をかけてきた。
「電話に出る時は横についてるボタンを押せばいい。切る時も一緒な」
百瀬は自分の左耳をトントンと指で差す。俺はヘッドセットを左耳に装着し、側面についている小さなボタンをポチッと押した。「降りろ」と言われ、指示どおり車の外へと出る。百瀬は自分の耳に自らのスマホを押し当てた。
『聞こえるか?』
「うん、聞こえる」
『オーケイ、こっちも聞こえる。じゃあ行け』
「行けって、どこに?」
『決まってんだろ。校門の前で待ち伏せすんだよ』
ニッ、と白い歯を見せて笑って、車の中から俺に向かってひらひらと手を振る百瀬。びゅっと少し強めに風が吹いた。この時期は夕方が近づくと急に寒さが増してくる。
「ずるいぞ、自分だけ暖かいところで待機なんて」
『いやー、警察に追われる身はつらいっすよー』
心底愉快だといった声色で言い、百瀬はこれ見よがしにフードをかぶって派手な金髪を隠してみせる。なんてやつだ。自分に都合のいい時だけ容疑者のフリをするとは。
はぁ、と大きなため息をつき、俺は車を離れて校門の前へと移動した。あんまり近づきすぎると露骨なので、道を挟んだ反対側で待つ。陽の当たる場所を選んで立つと、制服の濃紺が太陽の光と吸収してぽかぽかと暖かく感じた。
時刻は午後三時十五分。校門の向こうには体育館が見えていて、その奥が運動場。パラパラと生徒たちが姿を現し始め、それぞれ体育館へ向かったり運動場のほうへ走ったりしている。おそらくは運動部の下級生で、上級生に先んじて準備をしなければならないのだろう。
三分もすれば校舎の外は一気に人であふれかえった。ほとんどの生徒が私服姿の中、美姫の通夜で樹里が身につけていたベージュのブレザーを着ている生徒もごく少数だが見かけた。みんな頭がよさそうな顔をしてるなぁ、なんて思いながら目的の人物を探していると、見知った顔とばっちり目が合ってしまった。
「うわ、祥太朗じゃん」
その相手、幼馴染みの宮鹿野樹里はくっきりと眉間にしわを刻んだ顔で俺を睨みつけてきた。制服ではなく、赤いブルゾンに黒のレザースカート、足もとはハイカットのスニーカーという私服姿だ。一緒にいた友達らしき女の子ふたりをその場に待たせると、小走りで道を渡って俺のほうへと近づいてきた。
「信じらんない。マジで待ち伏せする気なわけ?」
「うん、それしか矢田に会う方法がないし」
「ってか、何これ? もしかしてあんた、誰かに指示されて動いてんの?」
俺の左耳を覗き込んだ樹里はさらに表情を歪めて言う。さすが、と俺は目を大きくした。
「樹里、やっぱりおまえって頭いいんだな」
「はぁ? 何それ、殴るよ?」
ごめん、と小さく謝ると、樹里は右手を腰にあててため息をついた。
「おかしいと思ったんだよ。いつも受け身なあんたが美姫の事件について調べてるなんてさぁ」
「だよな。俺もそう思う」
ふん、と樹里は少し馬鹿にしたように鼻で笑った。
「で、誰なの?」
「え?」
「あんたのご主人様は誰なのかって訊いてんの」
「……ごめん、それは言えない」
「警察?」
「あー……まぁ、そんなとこかな」
「歯切れ悪いなぁ。違うってこと?」
「えーっと……」
本当に歯切れが悪いと自分でも思うし、さっきの百瀬の話が身に染みる。人は咄嗟に隠し事をしなければならない時、質問攻めにされるとひどく動揺する生き物らしい。
「いいよ、答えなくて。どうせ『絶対にしゃべるな』とか、そんなことを言われてるんでしょ?」
「ごめんな、助かるよ」
肩をすくめると、樹里は考えるように目を細め、指で唇を撫でた。
「ねぇ、祥太朗」
「うん?」
「そのイヤホンって、マイクついてるよね?」
「え? あ、うん……一応」
ふぅん、と樹里はいたずらっぽい顔でニヤリと笑った。
「ねぇ! 祥太朗のご主人様!」
唐突に樹里は、俺の左耳に向かって声を張った。
「聞こえてるんでしょ? あたしの声。どこの誰だか知らないけど、よくもあたしをこき使ってくれたね?」
おい、と慌てて樹里を制す。百瀬を相手に喧嘩を売るなんて。
「覚えてなよ……いつか祥太朗からあんたの正体訊き出して、絶対仕返ししてやるから」
びっくりするほど冷ややかな口調で、脅し文句を百瀬に突きつけた樹里。もはや喧嘩を売るなんていうかわいいいものでは済まされない事態になってきて、俺はおもいきり頭を抱えることになった。どうしてこうなる。
『おー、こわ』
イヤホンから百瀬の声が聞こえてくた。
『次はオレが刺される番、ってか?』
くつくつと楽しそうな笑い声が上がり、頭痛がした。百瀬は樹里を知らないから余裕をかましていられるのだろうが、彼女をよく知る俺からすれば、まるで笑いごとじゃない。
樹里は割と本気で言っていると思う。顔がマジだ。俺なら秒で許しを請う。
「気をつけなよ、祥太朗」
怖くしていた表情をやや緩め、樹里は改めて俺を見た。
「要するにあんたのご主人様は、矢田クンが美姫を殺したのかもって思ってるわけでしょ?」
「あ、いや……まだわからないけどな。それをこれから確かめるんだ」
「けど、可能性はゼロじゃない。違う?」
言葉に詰まった。樹里の言うとおりだ。俺が今から接触しようとしているのは、殺人犯かもしれないのだ。
樹里が小さく息をついた。
「なんで使いっ走りにされてんのか知らないけどさ、やめられるならさっさとやめたほうがいいよ、犯人捜しなんて真似」
圭と同じことを言われ、俺は少し目を大きくした。
「……あんたまで刺されたら、マジでシャレになんないって」
とくん、と胸が脈打った。本当にそのとおりだ。
だが、ここまで来ておいて尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。もしも矢田静馬が美姫殺しの犯人なら、その罪を見逃すことなどできやしない。
「ありがとう、樹里。刺されないことを俺も祈るよ」
顔を上げ、肩をすくめながら小さく答えると、樹里はうっすらと微笑み返してくれた。
『泣かせるねぇ』
樹里が友人たちとともに立ち去ると、左耳から再び百瀬の声が聞こえてきた。
『びっくりするほど眩しい友情だな』
「茶化すなよ」
フンッ、と百瀬は鼻で笑った。
『大事にしろよ? 信頼できる友達はひとりでも多いほうがいい』
抑揚のない声で紡がれたその一言に、俺は何と答えたらいいのかわからなかった。
『来たぞ』
答えあぐねていると、百瀬が低くピリッとした声を上げる。慌てて校門に目を向けると、目的の人物・矢田静馬がひとりで最寄り駅方面に向かって歩いている姿が目に留まった。
『呼び止めろ』
指示を受け、俺は矢田を追いかけて道を渡った。そのまま彼との距離を縮め、ぽんとその肩を一つ叩く。
「あ……」
何事かと振り返った矢田静馬のきょとん顔に、俺はすっかり言葉を失ってしまった。初対面のその人を目の前にして、頭の中が真っ白になる。
『名前を確かめろ』
即座に百瀬の指示が飛んでくる。はっと我に返り、俺はようやく口を開いた。
「あ、あの……矢田静馬くん?」
「はい、そうですけど」
「突然ごめんね。早坂高校の池月って言います。実は君にちょっと訊きたいことがあって」
「早坂? ……もしかして、美姫先輩のことですか?」
「そ、そうそう! 美姫のことで」
はぁ、と矢田はうんざりしたような顔で息をついた。
「……すみません、そっとしておいてもらえませんか? 僕は何も知りませんから」
「えっ、あ……」
祥太朗が答える前に、矢田は背中を丸めて再び歩き始めてしまった。その姿がどんどん小さくなっていく。
『何やってんだよ! 引き留めろ!』
「引き留めろって、どうやって!?」
小声で聞き返すと、百瀬は盛大に舌打ちをした。
『万引きのことを知ってるって言え。そうすりゃ断れねぇはずだ』
「矢田を脅せって言うのか!?」
『文句の言える立場かよおまえは! いいからさっさと行け! 電車に乗られたらアウトだぞ!?』
くそ、と吐き出しながら俺は矢田の背中を追って走った。確かに百瀬の言うとおり、ここまで来ておいてみすみすチャンスを逃してしまうというのはあまりにも馬鹿らしい。
「ちょ、ちょっと待って!」
一六〇センチほどしかない矢田の小さな体を追い抜いて、俺は彼の正面に立った。彼はあからさまに嫌な顔を向けてくる。
「何なんですか? 放っておいてって言ったでしょ!」
くるりと丸い瞳で睨まれ一瞬怯んでしまったけれど、ぐっと拳を握り直して自らを奮い立たせた俺は、一歩彼に近づいて言った。
「君さ……小学生の頃、万引き事件を起こしてるよね?」
矢田は瞠目した。みるみるうちに表情が凍りついていく。
「大丈夫だよ、誰にもバラすつもりはない。その代わり、少しだけ話をさせてもらえないかな?」
青ざめた顔でうつむいてしまった矢田を見て、ぎゅっと胸が締めつけられた。
まるで垣内さんみたいだな、と今の自分を思って苦笑がこぼれた。こんなことをよく平気でやっていられるものだ。将来刑事にだけは絶対になるまいと、俺は固く心に誓った。