3-1
百瀬の指示どおり、俺は四時間目を保健室のベッドの上でやり過ごし、誰からも怪しまれることなく無事に早退することができた。
風が少し冷たかった。けれど、澄み切った青空に輝く太陽の光がほわりと柔らかな温かさを感じさせてもくれている。足早に校門を出て坂を下ると、約束の場所でその車は待っていた。
「ご苦労さん」
熊さんの白いセダンに乗り込むと、百瀬がニヤリと悪い笑みを向けてきた。懲りもせず睨みつけるが当然のごとくスルーされる。
「んじゃ、まずは腹ごしらえだ」
「え?」
「何びっくりした顔してんだよ? いくら矢田が帰宅部だからってこんな早い時間には帰らねぇだろ。おまえみたいにズルして早退すりゃ別だけどな」
「おまえが早退しろって言ったからだろ!? 俺が悪いみたいな言い方するなよ!」
身を乗り出して反論するも、百瀬はからからと楽しそうに笑うばかりで謝る気配はまるでない。期待するだけ無駄か、と俺は盛大にため息をついた。
十五分ほど車に揺られ、到着したのはそば屋だった。
一階が店舗、二階は居住スペースだろうか。そんな建物の外観は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
古ぼけた看板を恥ずかしげもなく掲げるその店の暖簾を、百瀬はためらいもせずひょいとくぐる。ガラガラと扉を横にスライドさせた百瀬に続いて中に入ると、外観と違って清潔感のある内装にうっかり驚いてしまった。四人掛けテーブルが六つほど並んでいて、カウンター席もある。奥に二つ見えている個室は座敷のようだ。
「いらっしゃい!」
厨房から威勢のいい男性の声が聞こえてくる。俺たちを出迎えたのは割烹着姿のオバチャンだ。百瀬と熊さんを見てにこりと笑い、その後ろに続く俺に目を向けて「おやおや、今日は三人なのかい?」と言った。なるほど、どうやらふたりは常連客らしい。
個室になっている奥の座敷へ案内され、百瀬の右隣に熊さん、向かい側に俺が座った。
「いつものを頼むぜ、ミサオちゃん」
ほかほかと湯気の立つ焦げ茶色の湯飲みを三つ並べたオバチャンに向かって、百瀬は慣れた様子で注文する。〝いつもの〟とは一体何だろう。
「はいよ。お連れさんは?」
「あぁ、オレと一緒でいい」
おまえには選択権などないとでも言いたいのか、百瀬は俺に何の確認も取らず勝手に注文してしまった。オバチャンが気を利かせて「いいのかい?」と訊いてくれたけれど、メニューも見せられていないので首肯するしかない。「あいよ」と言って、オバチャンは障子戸をきっちり閉め、俺たちを残して部屋をあとにした。
「なぁ、〝いつもの〟って何?」
「そいつは見てのお楽しみ」
何だよそれ、と膨れてみせると、百瀬はまた一段と楽しそうに笑う。
「安心しろ。カツヒコさんの作るメシは最高にうめぇから」
カツヒコさん、というのは厨房にいた白髪交じりのおじさんのことか。ミサオちゃんと呼ばれていたさっきのオバチャンとは夫婦なのかな、なんてことをぼんやりと考える。はじめて来る店なのでそわそわしていたけれど、百瀬の一言で急に食事が楽しみになった。おなかもぺこぺこだし、目の前に並ぶのが待ち遠しい。
「おまえ、寝てねぇだろ」
唐突に、百瀬がそんな言葉を浴びせてきた。
「え?」
「ひっでぇ顔。そんなんじゃ弥生ちゃん、すぐにでも寝かせてやりたくなっただろうな」
弥生ちゃんというのは保健室の先生のことだ。確かに彼女は俺の姿を見るなり迷いなくベッドを一つ提供してくれた。思わず、両手で頬を覆う。
「…………そんなに?」
「あぁ。せっかくのイケメンが台無しだぜ?」
「俺はイケメンじゃない」
「おいおい、褒めてやってんだから素直に喜べよ。なぁ?」
そう言って百瀬は隣の熊さんをチラリと見る。「うす」と小さく答える熊さん。はじめて声を聞いたけれど、体格に見合った低くて渋い声だった。
「……それだけ大事に思ってたってことなんだな」
「え?」
ぽつりとつぶやいて、百瀬はすぅっと目を細めた。
「美姫のことをさ」
はっとした。一瞬にして強張った顔がずるずると下がっていく。
「美姫が怒ってたぜ?」
少しだけ視線を上げると、頬杖をついた百瀬の顔がそこにあった。
「『祥ちゃんに龍輝と付き合ってること報告したのに、全然喜んでくれなかった!』ってさ。そりゃ喜ぶわけがねぇよな、惚れた女をオレみたいなちゃらんぽらんな男に取られたんだから」
素っ気なく、けれどどこかもの悲しい雰囲気も醸し出しながら、百瀬は静かにそう口にする。ふぅ、と俺は息をついて、しゃんと背筋を伸ばしてから言った。
「ちゃらんぽらんじゃないだろ」
「は?」
「しっかりしてるよ、おまえは」
本心を告げたというのに、なぜか百瀬は怪訝な顔を向けてくる。
「池月」
「ん?」
「おまえ、絶望的に嘘がヘタだな」
「は?」
思わず目を丸くしてしまった。だから今のは本心だって、と心の中で反論しながら俺は続ける。
「俺、今なら喜んでやれると思う。おまえみたいな賢くて強い男を選んだ美姫の目は間違ってなかったって」
「はっ、本気で言ってんのかよ」
「もちろん。本気だよ」
真剣な顔で言うと、百瀬は大きくため息をついた。
「バカだな、おまえ」
「え?」
「バカだよ……どうしようもねぇ、救いようのないバカだ」
呆れたような、諦めたような目をして百瀬は言う。何度も『バカ』と言われたことよりも、なぜ百瀬がそんな目をして俺を見るのか、そっちのほうが気になった。
「……百瀬はさぁ」
ややうつむいて、俺は小さく問いかける。
「美姫のどこが好きだったの?」
目線だけを上げて百瀬を窺う。百瀬は一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐにどこか遠くを見るような目をして口を開いた。
「どこが、って言うより……オレのことをちゃんと見てくれたから、かな」
いまいちピンとこなくて首を傾げると、百瀬は左の親指と人差し指で短く切った金髪をちょろっと掴み、その指先に目を向けた。
「どうしてオレがこんな色の髪してると思う?」
「え? っと…………趣味?」
「まぁ、それもあるっちゃあるが……」
「本当は違う?」
百瀬は黙って肩をすくめる。その仕草が妙に大人びて見えて、少し驚いてしまった。
比較的目鼻立ちのはっきりした顔をしているものの、堀の深いソース顔というわけではない百瀬。今更ながら、こいつってこんなにかっこいい顔してたっけ、なんてことをつい思う。
「理由はいくつかあるんだが、一番は人を寄せつけないためだ」
「人を?」
「そう。本当は高校になんて通うつもりなかったんだけどよ、いろいろあって卒業だけはしておくかってことになってな。夢と希望にあふれたハイスクールデイズになんざまるで期待しちゃいなかったんで、必要最低限の授業にだけ出て、行事なんかは適当にちょろまかすつもりだった。早坂はそこそこできるやつの集まりだろ? こんな頭でもしてりゃ、誰もオレと関わりたがらないだろうなと思ってさ」
俺がうんうんとうなずくと、百瀬はフンと鼻で笑った。
「けど、美姫は違った」
「え?」
「美姫だけは、最初からオレの意図に気づいていやがったんだ」
『いつ見てもすごいね、その頭』
この学校の中でもっとも人の出入りが少ないのが、四階の東渡り廊下だった。いつものようにその場所を陣取ってスマホ片手に昼休みを過ごしていると、不意に見知らぬ女子生徒が近づいてきた。
『誰だてめぇ』
『ねぇ、どうしたらそこまで綺麗に色が抜けるの? まさか自分でやったわけじゃないよね?』
『おい、人の話聞いてんのか』
二年生になったばかりの春。彼女のブレザーの襟にくっついているピンバッチを見る。ネイビーブルーに縁取られた校章から、オレと同じ二年生であることはわかった。ここ早坂高校では学年ごとに色分け管理が為されていて、今年の二年生の学年カラーは青だ。ちなみに一年が赤、三年は緑。卒業すると次の入学生に卒業生の色が引き継がれる。
オレに睨まれてもまだニコニコとその場に居続ける女に、チッと大きく舌打ちしてスマホに目を落とす。
『用がねぇなら失せろ』
『えー、冷たいなぁ。せっかく褒めてあげようと思ったのに』
その一言に、オレは思わず彼女を振り返ってしまった。オレの視線が自分をとらえたことを知った彼女は、にっこりと大きく笑って言った。
『すっごくよく似合ってるよ、その髪』
はっとした。
――似合ってるよ、龍輝。
そう言ってくれたのは、彼女でふたりめだった。
『ねぇ、百瀬龍輝くん』
なぜかオレの名を知っていた彼女は、オレのすぐ隣にまで歩み寄ってきた。
『確かに高校の三年間なんてあっという間だよ。でも』
ポニーテールをふわりと揺らして、彼女はオレをのぞき込む。
『ひとりきりで過ごすには、あまりにも長すぎると思わない?』
一点の曇りもない彼女の瞳から、オレは目を逸らすことができなかった。
「恐ろしい女だと思ったよ」
半年前を懐かしむように、百瀬は柔らかく目を細める。こんな顔もできるんだな、と俺はまた一つ百瀬の新たな一面を知った。
「同じクラスにだってなったことねぇのにさ。いつどこでオレのことなんて見てたんだろうって」
気のせいかもしれないが、百瀬の吐き出す言葉に苦しみが交じり出したように聞こえた。美姫のことを想ってなのか、それとも他に理由があるのか。
「オレ自身、高校の連中がオレについてあることないこと噂してることには気づいてた。でもオレは他人になんて興味ないし、こんなナリしてるせいで誰からも攻撃されることもなかった。ある意味平和だったんだ、オレの高校生活は。なのに……」
やっぱり、百瀬はどこか苦しそうに見える。話をやめさせたほうがいいのか、このまま吐き出させてやったほうがいいのか迷う。
「美姫がオレの目の前に現れて以来、オレの高校生活はがらりと変わった」
止める間もなく、百瀬は次々と語り続ける。
「それから美姫は、オレを見つけては話しかけてくるようになってな。おかげで一歩学校に足を踏み入れたら最後、ひとりきりで一日を終えることはできなくなった。もちろん、最初のうちは何か意図があるんだろうと思って警戒したよ。けど、完全には拒否できなかった」
「どうして?」
スッ、と百瀬は一度目を伏せ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「姉貴に似てたんだ」
俺が瞠目すると、百瀬は小さく肩をすくめた。
「姉貴と美姫だけなんだよ、この髪を褒めてくれたのは」
嬉しそうに、そして少しだけ恥ずかしそうに、けれどやっぱりどこか苦しそうな顔をして、百瀬はほんの少しだけ口角を上げてうっすらと笑った。普段とは真逆の柔らかな雰囲気に、俺もつい笑みをこぼしてしまう。
「大好きなんだな、お姉さんのこと」
「なっ!?」
百瀬は一気に頬を紅潮させ、バンッと勢いよく机を叩いた。
「て、てめぇなぁ! オレがシスコンみたいな言い方してんじゃねぇよッ!」
「そこまでは言ってないだろ。兄弟を大事にするのはいいことだしさ。俺だって愛菜のことは大切に思ってるし。……本人には絶対言わないけど」
チッ、と百瀬は舌打ちしてそっぽを向いてしまった。意外とガキっぽくて可愛いな、なんて思っていると、俺の背後にある障子戸がスッと開き、ふわっといい匂いが漂ってきた。
「お待ち遠さま」
ミサオさんができたての料理を運んできてくれたのだが、次々と並べられる料理を前に、俺は目が点になった。
「……なぁ、百瀬」
「あん?」
「ここ、そば屋だよな?」
「あぁ、そば屋だな」
目の前にどんと置かれたのは大盛りの天丼。その隣には茶碗一杯分程度のかけそば。
「…………なんで天丼がメインなんだよ」
「うまそうだろ? うまいぞ、実際」
「そういうことじゃなくて!」
「いやぁ、そばばっかりだと途中で飽きちまうんだよな、オレ。日本人ならやっぱり米だろ、米」
じゃあなんでそば屋の常連なんてやってんだ、と俺は軽い頭痛を覚えた。やっぱり俺には百瀬という男のことがまだまだわかっていないらしい。
にしし、と笑って、百瀬は早速箸を握って天丼にがっつき始めた。
食べる直前、見た目に反して律儀に「いただきます」と言ったのが聞こえてきて、つい首を捻ってしまう。確か垣内さんと事件の話をした時、百瀬は自分のことを『育ちが悪くて』どうのこうのと言っていた。しかし、箸の使い方も完璧な今の百瀬を見ているとむしろ育ちのよさを感じてしまう。あの時の発言は嘘だったのだろうか。
「こら、龍輝! ゆっくり食べなっていつも言ってるだろ!」
みるみるうちに丼の山を崩していく百瀬をミサオさんがぴしゃりと叱りつける。常連客というよりも、息子に対して言う雰囲気だ。
「うっせぇなぁ、さっさと向こう行けよ」
百瀬もまた実の母親に対して悪態をつくかのようにミサオさんを睨みつけている。親子ではないだろうが、ひょっとすると親戚関係なのかもしれないなと思った。
ごゆっくり、とミサオさんは俺にだけよそ行きの笑顔を向け、静かに個室を出て行った。ちなみに熊さんの前には俺たちと同じ大盛りの天丼に加えて、こちらも大盛りのざるそばが一枚どーんと並べられていた。なるほど、こちらは見た目に違わぬ大食漢らしい。
しばらくの間、俺たち三人は食事の時間を楽しんだ。百瀬の言うとおり、本当においしいごはんだった。
聞くところによると、ミサオさんたちは店から少し離れた場所にある田んぼで米作りもやっていて、店で出す白飯はすべて自分たちで刈った米なのだそうだ。サクサクの天ぷらも絶品だったけれど、それ以上に、ふっくらもちもちの白米が俺の猛烈な感動を呼んだ。
もちろん、そばもカツヒコさんが丹精込めて手打ちしてくれるものでとてもうまい。二八なのか十割なのかはわからないが、鼻腔をくすぐる芳醇な香りも、歯応えものどごしもよくて箸が止まらなかった。これならそばをメインに食べたかったなぁと、次にここへ来る機会があれば絶対に百瀬には注文させまいと心に誓った。
驚いたことに、大盛り×大盛りの天丼とざるそばをペロリと平らげた熊さんに、食器を下げに再び顔を見せたミサオさんが当たり前のようにおにぎりを三つ差し出した。百瀬が「これはデザート」と言いながらニヤニヤしていて、俺は驚きのあまりどんな顔をすればいいのかわからなかった。デザートにおにぎり。聞いたことがない。
「池月」
「ん?」
むしゃむしゃと無心でおにぎりを頬張る熊さんの隣で、不意に百瀬が俺の名を呼んだ。
「おまえはどう見る? 今回の事件」