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『碧衣!』
アパートの共用部に設置された外灯に照らされたその少女が碧衣であることにはすぐ気がついた。オレは漕いでいた自転車に迷わずブレーキをかけ、軽く片手を挙げて碧衣の名を呼んだ。
『圭……!』
だが、なぜか碧衣は怖い顔をしてオレを見た。幼馴染みの突然の登場に驚いたというよりは、姿を見られたことに動揺したって感じだ。
『なんだよ、こんな時間に出かけるのか?』
『う、うん……ちょっとそこのコンビニまで行こうかと思って』
そこ、というほどコンビニまでは近くない。住宅街を抜けるのに徒歩で五分、広い通りに出てからさらに五分ほど歩いてようやくたどり着くのが最寄りのコンビニだ。
『ひとりでか? ……そんな格好で?』
制服姿のオレとは対照的に、碧衣はジーンズのショートパンツに黒いノースリーブ、足もとは少しヒールの高いサンダルと、ちょっとコンビニに行くにしては洒落っ気のある服装をしていた。おまけに化粧までバッチリだ。
『べ、別にいいでしょ! どんな格好で出かけたって』
『いや、普通に危ねぇだろ。乗ってくか? 後ろ』
『いい。やめて』
ぴしゃりと即答で断られ、オレは驚いて目を瞠った。
『あ……ごめん、違うの。ほら、友達が来てて。ちょっと迎えに行くだけ』
『友達? 明日も学校だろ?』
『大丈夫、少し会うだけだから』
『なんだよ、彼氏か?』
『まぁ、そんなとこ』
『母ちゃんは夜勤?』
『うん。……ごめん、もう行かなきゃ』
『お、おう』
オレがそう答えた時にはすでに、碧衣はオレの横をすり抜けて広い通りに向かって走り出していた。『気をつけろよー!』と声をかけたらちらりと振り返ったけれど、止まることなくそのまま走り去っていった。
「……ってなことはあったな。あの時の碧衣、なんか妙におどおどしてて変だなって思ったんだ」
よほど印象に残っていたんだろう、圭は事細かに当時のことを教えてくれた。
碧衣の家は母子家庭で、お母さんは近所にある市民病院で看護師として働いている。交代で夜も仕事に出なければならず、昔はおばあちゃんが碧衣の面倒をみてくれていたのだが、俺たちが小学校五年生の頃に亡くなってからは夜も碧衣ひとりで過ごすことが多くなった。『慣れだよ、慣れ』なんて気丈に振る舞っていたけれど、内心ものすごく寂しかったに違いない。そんな気持ちを俺たちには少しも見せなかった碧衣。たいしたものだ。
しかし、今の話は気になる。先ほど、百瀬と別れたあのビルの下で見かけた女の子。あれはやっぱり碧衣だったのではないだろうか。
「なぁ、どうして碧衣のことなんか訊くんだよ?」
「え?」
「何かあったのか? 碧衣と」
「あ、いや……別に」
「でた。おまえは困ったらすぐそうやって黙るんだ。さっきだってあの垣内って刑事と一緒にいたしよ。おかしいだろ、絶対」
ずい、と圭がデカい図体を引っさげて詰め寄ってくる。くそ、さすがの圭でも唐突に尋ねられたら怪しむか。
「言えよ、祥太朗。おまえ、何隠してんだ?」
端から見れば、今の俺はジャイアンに詰め寄られるのび太くんだ。けれど俺はのび太くんと違ってドラえもんに泣きついたりしないし、圭が相手ならひとりでだって対等に渡り合える。もちろん、腕力では到底敵わないけれど。
「……ごめん、圭」
「あ?」
「もう少しだけ時間をくれ。全部終わったら、ちゃんと話すから」
相手は百瀬じゃない。怯むことなんて少しもない。まっすぐ突き刺さる圭の眼差しの奥には、あふれんばかりの優しさが見えている。圭は必ず、わかってくれる。
「……美姫の事件のことなんだな?」
しばらく黙って俺を見下ろしていた圭が、ようやく静かに口を開いた。
「うん」
「おまえ、あの事件を調べてるのか?」
「警察の捜査に協力してるだけだよ」
ふぅん、と圭は納得のいかない顔で目つきを鋭くする。
「碧衣も事件に関係してるのか」
「それはまだわからない」
「んだよ、碧衣は疑われてるってことかよ」
その質問には答えられなかった。碧衣と美姫の事件との関係を怪しんでいるのは今のところ俺ひとりだけだ。
黙っていると、はぁ、と圭はため息をついた。
「なぁ、祥太朗」
「ん?」
「悪いことは言わねぇ……さっさと手を引け」
「え?」
「おまえ、自分がどれだけ危ないことしてるかわかってんのか? 事件に首突っ込んで、おまえまで殺されるなんてことになったら……オレ…………っ」
圭は俺からスッと視線を外した。握った拳は震え、下まぶたに涙が浮いているのが薄暗がりの中でもわかる。
「圭……」
通夜の席で、美姫が三年前のお父さんの事件を独自に調べていたせいで殺されたのではないかという話が出た。圭がそのことを考えているのだとすぐにわかった。
やっぱり、悔しいんだ。美姫が殺されて、圭だってすごく傷ついている。それなのに俺は、無神経に事件と関わりのありそうなことを訊き出そうとして……。
「ごめん」
小さく謝ると、圭がズズッと洟をすすった。
「ありがとな、圭。俺なら大丈夫だ。垣内さんがいるし、ひとりじゃないから」
名前は出せないが、今の俺には百瀬もいる。見た目はちょっと怖いしやり方が汚いところもあるけれど、いざとなったらきっと誰よりも勇敢に戦ってくれる、そんなやつだと思っている。
百瀬は強い。弱虫な俺とは違って。だからきっと、大丈夫。
「死ぬなよ、祥太朗」
声を震わせ、圭は言った。
「もう、誰にも死んでほしくねぇんだ」
遠くを見つめ、必死に涙をこらえる圭に、「うん」と俺は精一杯力強く答えた。いかつい肩をぽんぽんっと叩いてやると、ようやく圭は笑顔を取り戻してくれた。