3-5
「名前は矢田静馬。県立旭ヶ原高校の一年生」
「おいおい、出来のいいやつばっかりじゃねぇか!」
「そういう君だって早坂の生徒だろう?」
「何寝ぼけたこと言ってんだよ。早坂なんてトップがようやく旭や泉習館の下位連中と肩を並べられるかどうかってところだぞ。なぁ?」
「まぁ……だいたいそんなところかな」
俺たちの通う早坂高校の県内レベルはせいぜい中の上。百瀬の説明はほぼ正解だ。
そうかい、と言って垣内さんは肩をすくめた。そして「泉習館といえば」と言って話を再開する。
「矢田静馬は泉習館中等部の受験に失敗していてね。泉習館だけでなく他の私立中学の試験でもことごとく落とされて、結局地元の公立中学へ通い、高校入試でリベンジを果たして県内屈指の難関校・旭ヶ原へ進学したんだそうだ」
樹里が通っていることもあって旭ヶ原についてはそれなりに知っているけれど、70を超える偏差値を誇るあの高校に入れる人間というのはクラスにひとりいるかどうかだ。それだけで矢田静馬がいかに優秀な頭脳を持つ人物かということがよくわかる。
そして同時に導かれるのは、なぜそんなにも優秀な人材でありながら中学受験に失敗してしまったのかという疑問。百瀬も同じことを考えているのだろう、険しい顔つきで腕組みをしている。
「中学受験に失敗した理由は?」
「それがねぇ」
なぜかため息交じりで垣内さんは軽く頭を掻いた。
「彼は少々手癖が悪いみたいでね。ちょうど受験の直前……四年前の十二月だ。通っていた塾の帰りに本屋で漫画本を一冊万引きしたところを見つかったんだそうだ」
万引き、と俺は鸚鵡のように垣内さんの口から飛び出した言葉を繰り返した。ここでまた、百瀬の顔色が少し変わる。彼の頭の中では今、どんなビジョンが描かれているのだろう。
「運がよかったのか悪かったのかはちょっと判断できかねるけど、彼の万引きに気づいてその手を制したのは、本屋の店員ではなく私服警察官だったんだよ」
「はん。その私服警官が美姫の親父さんだったってか」
「ご明察。当時、その本屋を含め周辺に並ぶ商店の店主たちの間でどうも店の商品が万引きされているようだという話が頻繁に上がっていたらしい。店によっては被害届を出していて、たまたま捜査に乗り出していた村越さんが矢田静馬の犯行に気づいて現行犯で押さえたんだ。当時彼が小学生だったこともあって、事件にはしなかったようだけどね」
「それは矢田本人から聞いた話か?」
「そう。けど当時村越さんとコンビを組んでいた刑事がその時のことを覚えていてね。被害に遭った本屋の店主にも確認したから裏は取れているよ」
つながった――。
三人目の彼氏もまた、美姫のお父さんと過去に関わりのあった人物だった。三分の二。こうなればひょっとすると、百瀬が覚えていないだけで本当は百瀬も美姫のお父さんとどこかですれ違っていたのかもしれない。そうでなければ、美姫が百瀬と付き合うような真似をしたことに説明がつかない。俺がそう思いたいだけかもしれないけれど。
「なるほどな」
百瀬が言った。
「事件にされなかっただけありがたいと思うか、人生を狂わされたと思うかはそいつ次第だ。年頃っちゃ年頃だし、一歩間違えちまったとしてもおかしくはねぇか」
「まぁね。村越さんが殺害された当時、矢田静馬の通っていた中学校は土曜日に行われた体育祭の振り替えで臨時休校だったんだ。彼が昼日中に街へ出かけるチャンスはあった」
「アリバイは?」
「不明。三年も前のことなんて覚えていないと言われたよ。彼の家族にもね」
ふぅん、と百瀬はパーカーのポケットに両手を突っ込み、窓の外へと目を向けた。いつの間にか、西の空の朱色がすっかり薄くなっていた。
けれど確かに、三年も前のことなんていちいち覚えていないのが普通だ。それこそ体育祭当日のように何かいつもと違うイベントごとでもあれば別だが、ただの臨時休校の日に何をしていたかなんて俺だって覚えちゃいない。変にアリバイを立証しようとしない分、矢田静馬と彼の家族の言うことは正直で信用できるもののような気がした。逆に完璧なアリバイがあるほうが疑わしくさえ思えてしまう。
「僕から話せることはこれくらいだけど、他に何か訊きたいことはあるかい?」
垣内さんに問われるも、百瀬は黙ったまま何も答えなかった。十分すぎるほどの情報を得たと俺には思えたが、垣内さんは百瀬の返答をじっと待っている。
しばらく沈黙が続いて、ようやく百瀬はスマホを取り出してどこかへ電話をかけ始めた。
「もういいぞ」
たった一言、それだけ言って電話を切る。そして、改めて垣内さんに向き直った。
「悪かったな、時間取らせて。お袋さん、大事にしろよ」
どうやら電話の相手は熊さんだったようだ。垣内さんのご実家から引き上げさせたのだろう。ふぅ、と垣内さんが小さく息をついた。
「質問がないようなら、僕のほうから一つ尋ねてもいいかな?」
「あぁ、何でも訊いてくれ。こいつは取引だからな。オレにはあんたの質問に答える義務がある」
「助かるよ。それじゃ……三年前の十月七日、君はどこで何をしていた?」
何でも答えると言っておきながら、百瀬の顔つきがあからさまに悪くなる。こんな怖い顔をされたら俺ならビビってしまうところを、さすがは刑事だ、垣内さんは顔色一つ変えず百瀬の睨む目を見つめ返していた。
「……さぁ、具体的には覚えてねぇな。けど」
珍しく歯切れの悪い百瀬は垣内さんから目を逸らし、一呼吸置いてから再び口を開いた。
「その頃のオレは、少なくとも中学にはまともに行ってなかった。姉貴と一緒にいたからな」
「お姉さんと?」
「あぁ。……入院してたんだ、あの頃の姉貴は」