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「ひとりめは木ノ前隼人。十九歳の土木作業員。私立泉習館大学高等部に在籍していたが、一年生の六月に退学処分を受けている」
「退学? 理由は?」
「薬物所持――覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されたからさ」
な、と俺が目を見開くと、百瀬も同じように驚いた顔をして垣内さんを見た。
「おいおい、泉習館っつったら秀才の寄せ集め学校だろ」
「そうだね。この辺りじゃ一、二を争う進学校だ。木ノ前隼人は地元じゃ有名な資産家一族の出身でね。お父様はかなりの権力者なのだとか。何がどう転んでクスリに手を染めることになったのかはわからないけど、退学の件についてはご実家の口利きがあってひそやかに処理されたそうだ」
ふぅん、と百瀬は気のない相づちを打った。『資産家一族』という言葉が出た時、一瞬顔つきが変わったように見えたのは気のせいだろうか。
「……いくら勉強ができたって、性根が腐ってりゃ意味ねぇよな」
どこか遠い目をして、百瀬はぽつりとつぶやいた。それは木ノ前隼人に向けての言葉か、あるいは百瀬自身に覚えのあることなのか。
百瀬の視線の先、窓の向こうには沈みゆく真っ赤な夕陽。宵闇の迫るこの街は、まもなくきらびやかな夜の世界へと変貌を遂げる。できればそれまでにこの場を立ち去りたいという気持ちが少しずつ強くなっていくのを感じた。重くなるばかりの心を引きずって、大人の遊び場をうろつく勇気はまだ持てそうにない。
「美姫とはどういう経緯で知り合ったんだ?」
百瀬の質問をきっかけに、垣内さんは話を再開させた。
「公園の猫だそうだ」
「猫?」
「うん。彼が三ヶ月ほど前から仕事で入っている工事現場のすぐ目の前に公園があって、どうやら美姫ちゃんはそこでこっそり猫の世話をしていたらしいんだ。その猫がふたりの縁結びに一役買ったというわけさ」
「ほう、そいつはまたよくできた話だな」
確かに。美姫が最初から木ノ前隼人に接触する目的で猫の世話をしていたのだとしたら驚き以外の言葉は出てこない。そして実際に作戦を成功させてしまうところがなんとも美姫らしくて惚れ惚れする。
美姫は昔から何でも器用にこなす子だった。目的を成し遂げるためなら嫌いな相手に笑顔を振りまくことも厭わない。そんな子だ。
「その木ノ前って男と美姫の親父さんとの接点は?」
「直接的な関わりはないけど、村越さんが長らく目をつけていた若者が木ノ前に覚醒剤を流していたことがわかってね」
「芋づる式につり上げられたってわけか」
垣内さんはうなずき一つで返事をする。
「木ノ前が逮捕されたのは三年前の六月。その後鑑別所に入り、保護観察処分が下され鑑別所を出たのが九月。で、村越陽一殺害事件が起きたのが十月七日」
「一ヶ月か……」
難しい顔をした百瀬がそうつぶやいたけれど、『一ヶ月=長い』なのか、『一ヶ月=短い』か、俺にはどちらとも判断がつかなかった。
ただ、木ノ前隼人に美姫のお父さんを襲う動機があることは理解できる。美姫のお父さんによる捜査が巡り巡って自らの人生に影響を及ぼすことになったのだから、恨みに思うことは十分にある話だ。特に彼は権力者の息子だというのだから、後継者としてずいぶんと将来を期待されていたに違いない。根本的には覚醒剤なんかに手を出した彼が悪いわけだけれど、人生設計が狂ってしまったことへの怒りを刑事にぶつけるなんてことがまったくないとは決して言い切れないだろう。
結局百瀬はそれ以上何も言わず、質問を変えて話を続けた。
「事件当時のアリバイは?」
「なし。その日は保護司との面談が予定されていて、朝から自宅で待機していたそうだ。実際に保護司と顔を合わせたのは午後二時頃で、事件の起きた正午頃は自分の部屋に籠もっていたらしい。当時家には彼の母親もいたんだけど、家族の証言は明確な証拠として採用されないからね」
そういうものなのか。けれど確かに、母親なら子どもを守るために嘘の一つや二つ簡単につくかもしれない。
百瀬は何やら深く考え込む様子で窓の外を見つめている。学校での成績はまるでよくないのに、ここでの百瀬を見ているとテストの結果が嘘みたいだ。こんなにも頭の回転が速いやつがどうして半ば不登校で問題児みたいなことを平気でやっているんだろう。きちんと学校に来て勉強すれば全国トップレベルの大学へ行くことだって夢じゃないだろうに。
……いや、もしかして。
もしかして百瀬は、わざと問題児を演じているのか?
中学の時には警察に補導されたっていう話だし、百瀬の過去なんて知りもしないけれど、ただなんとなく、今の百瀬を見ているとついそんな気持ちになってしまう。誰のことも信用しないなんて言っていたが、考えてみればそんな風に他人を拒絶して生きていく道を選んだのにはそれなりの理由があるに決まっている。何もないのにひとりぼっちになろうとするなんて、そんなこと、あるはずがない。
――なぁ、百瀬。
どうしておまえは、自分から孤独の中へと潜っていこうとするんだ……?
「なんだよ、池月」
はっ、と我に返ると、百瀬の強烈な視線がまっすぐに突き刺さった。
「言いたいことがあんならはっきり言え。腹ん中でこそこそ探られるのは嫌いだ」
「あ、いや…………別に」
つい口ごもって視線を逸らすと、はぁ、と百瀬は俺に聞こえるようわざと大きくため息をついた。
「おまえ、そういうとこ直したほうがいいぞ。本音を垂れ流せとは言わねぇが、せめてうまく嘘をついてその場を乗り切るスキルくらい身につけておくといい。困ったら黙るってのは事態を悪化させるだけで何の解決にもならねぇからな」
なぜか対話術についてのアドバイスをしてくれた百瀬は、最後にこう付け足した。
「思ってるだけで口にすることができないんじゃ、いつか大事なものを無くしちまうぞ」
その一言に、おもいきり後頭部を殴られた。
――祥ちゃんはさ、もっと自分に自信を持ったほうがいいよ。
少し前に言われた、美姫の言葉がリフレインする。
どれだけの時間を費やせば、俺は自分の言葉に怯えることがなくなるのだろう。
「悪いな、刑事さん。話の腰を折っちまった」
打ちひしがれる俺を無視して、百瀬は脱線しかかっていた事件の話を軌道修正する。
「いや、構わないよ。ちなみに木ノ前隼人は三年前の事件だけでなく、美姫ちゃんが殺された日のアリバイもない」
そうか、と百瀬は相づちを打った。「他に何か訊きたいことは?」と垣内さんが尋ねるも、百瀬は特にないと答えた。
「じゃあ、もうひとりの彼氏のほうへ移ろうか」
「おう、頼む」
よし、と気合いを入れる一言を添え、垣内さんは最後のひとりについての情報を提示し始めた。