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百瀬が会合の場に指定したのは、高校の最寄り駅から五つほど離れた駅の裏通りに広がる繁華街。その一角にそびえる雑居ビルの三階だった。ビルの下から眺めてみると、『テナント募集』の貼り紙が窓に施されている。どうやら空き部屋であるらしい。
繁華街といってもそれは夜の話だ。昼間は閑散としていて、歩道のコンクリートはビラやら何やらが踏みつけられていて汚らしい。昼夜問わずこの地を訪れることなど滅多にないため、どうにも居心地が悪くて仕方がない。何に追われているわけでもなかったけれど、コインパーキングから件の雑居ビルまで、俺は垣内さんの後ろに隠れるようにして歩いた。
エレベーターはなく、階段で三階まで上がる。二つの部屋のうち空きテナントのほうの扉を垣内さんは何のためらいもなく引き開ける。ふたり揃って中に入ると、がらんとした空間の奥で、百瀬がぽつんとひとり窓に背を預けて立っていた。
「ようこそいらっしゃいました、刑事さん!」
寄りかかっていた窓から離れ、百瀬はわざとらしく両手を広げて俺たちを出迎えた。垣内さんはぐるりと部屋の中を見渡している。電気は通っているようで天井の蛍光灯には明かりが灯っているが、今はまだ窓から差し込む西日の明るさが勝っていた。
「ここが君の牙城かい? 百瀬くん」
「いいや。あんたと話をするためにわざわざ借りたんだ」
「借りた?」
「このビルのオーナーが知り合いでな。何せ空きテナントだ、机も椅子もねぇから立ち話になっちまうがそこは我慢してくれ。ちなみにお茶も出ないぞ。育ちが悪くてな、一般的な礼儀作法は教えられてねぇんだ」
なんていう挨拶文句だ。俺は目を丸くした。大人を、それも刑事を相手にいきなりケンカ腰とは。
フン、と垣内さんは鼻であしらう。
「構わないよ。手厚くもてなされるとむしろ恐縮してしまうしね」
「そう言ってもらえると助かるよ。んじゃ、早速だけど」
百瀬は昨日と同じ黒いパーカーの左ポケットに手を突っ込み、一枚の名刺らしきものを垣内さんに差し出した。
「ここからちょっと行ったところに『キャリオン』っていう名前のクラブがある。踊るほうのクラブな。オレが聞いた話だと、羽丘組の息がかかったブローカーが若いやつら相手に覚醒剤を捌いてるらしい」
刑事の前に姿を現しただけでは足りないと思ったのか、百瀬はいきなり大きな手札を切った。本気で取引を成立させるつもりであることをまずは自分から示したというわけか。
ふぅん、と垣内さんが小さく声を上げた。
「その情報がガセでないという証拠は?」
「今渡した名刺。そいつはオレの中学の同級生だ。本名は西口香奈。ヤク中で、クスリを買うために作った借金の肩代わりに系列のキャバクラでキャバ嬢やらされてる。風営法だっけ? 引っかかんだろ、まだ十八になってねぇんだから」
「なるほどね。別件で挙げることもできるってわけか」
「どうせオレのことは調べ尽くしてるんだろ? 中学の卒業アルバムでも当たってみるといい。そうすりゃ今の話が嘘じゃねぇってことがわかるはずだからな」
また垣内さんは「ふぅん」と漏らし、右手の中で名刺を弄んでいる。
「いいのかい? 同級生を売るような真似をして」
「構わねぇよ。他人の人生になんてさっぱり興味ねぇからな」
「そういう割に、美姫ちゃんの事件にはひどくこだわっているようじゃないか」
百瀬がわずかに眉を寄せた。対照的に、垣内さんは嫌らしく口角を上げる。
「警察の捜査情報をほしがっているらしいね。どういうつもりだい? 自分が逮捕されるまであとどのくらいなのか……そんなことが気になっているのかな?」
「は?」
百瀬と垣内さん、二つの視線が交わる一点で火花が散る。
「池月くんをどう言いくるめたかは知らないけど、あまり調子に乗らないほうがいい……僕ら警察を甘く見てもらっちゃ困るよ。君は會田美姫殺害事件の最重要参考人だ。このまま僕が君を相手においそれと情報を開示するとでも?」
「垣内さん!!」
さすがに黙ってはいられなかった。しかし、俺の張り上げた声に垣内さんはぴくりとも反応しない。
「そんなのズルいでしょ!? 百瀬は約束どおりあんたに情報を提供したんだ! もらうだけもらって自分のカードは伏せておくなんて……!」
「まぁ待て、池月」
「百瀬!」
「そう焦るな。向こうの出方なんてとっくの昔に想定済みだ」
突然余裕を見せ始めた百瀬に、俺と垣内さんは同時に眉をひそめた。百瀬はパーカーのポケットに突っ込んでいた左手を抜く。その手にはスマートフォンが握られていた。
「いいねぇ、あんた。お袋さん、まだまだ長生きしそうじゃねぇか」
スマホの画面をこちらに見せながらニヤリと笑う百瀬。はっ、と垣内さんは身を乗り出した。
「君は……一体何を……!?」
画面の中には、丸まった背でにこやかな笑みを浮かべるおばあちゃんと、見覚えのある熊みたいなその人が仲よく並んで収まっていた。今日の写真なのか、スカジャンの色は赤ではなく白だ。陽の光をテラテラと反射しているせいもあって、昨日よりもいかつさが増して見える。
……というか、あの熊さんを前にしてこれだけ爽やかに笑っていられるおばあちゃんもどうかと思うんだが。
「けどまぁ」
論点のズレた心配をする俺をよそに、百瀬は淡々と脅し文句を垂れ流す。
「いくら元気だからって、このでけぇのに痛めつけられちゃあひとたまりもねぇだろうなぁ」
あくどい笑みを浮かべる百瀬に、ギリ、と垣内さんは歯を食いしばった。
「池月くん……まさか君も同じ手を?」
「はい。俺の場合は妹でしたけどね」
「なるほど……これが百瀬くんのやり方ってわけか」
「おいおい、オレを悪者扱いするのは筋違いってもんだろ? こちとら自分から手の内を明かしてんだ。あんたさえ素直に取引に応じてくれればオレだってこんなことせずに済んだってのに。なぁ、池月?」
百瀬は勝ち誇ったように同意を求めてくる。ため息しか出ない。
「それにしてもあんた」
少しだけスマホを操作してから、百瀬は再びポケットに両手を突っ込んだ立ち姿に戻った。
「そのルックスで未だに独身って、よっぽど性格に難アリなんだな」
「未だにって……君、僕の年齢を知ってて言っているのかい?」
「具体的には知らねぇよ。けどせいぜい三十五、六ってとこだろ」
「ほう、いい目をしているね。三十代に見られることでさえ少ないのに、ほぼ正解を言い当てるなんて。どうだい? 将来警察官になってみるってのは」
「ハッ、勘弁してくれ。サツは嫌いなんだ」
「おや、それはそれは。――当時中学生だった君を補導した警官がよほど態度の悪いやつだったかな?」
――補導?
反射的に百瀬を見る。こいつ、補導歴があるのか。……なるほど、昨日の『どうせ警察はオレを犯人だって決めつけてる』っていうセリフは、非行に走った過去が言わせたものだったってわけか。当の百瀬は、とんでもなく怖い目をして垣内さんを睨みつけている。
「まぁいい、冗談はこのくらいにしておこう。君が本気だということはよくわかったよ」
そう言って垣内さんが肩をすくめると、百瀬もいくらか目つきを和らげた。
「心配すんな。あんたがきちんと情報を渡しさえすりゃお袋さんに危害が加わることはねぇよ。ちょっとした用心棒がついたとでも思っててくれ。ばあさんのひとり暮らしじゃ何かと不安だろ?」
「そいつはどうも。お心遣いに感謝致します」
一応話はまとまったみたいだが、やはりこのふたりの間を流れる空気はピリピリと張り詰めたままだ。間に挟まれる俺の身にもなってほしい。いつか打ち解ける日が来るのだろうか、なんてことは考えるだけ無駄な気がした。
「それじゃあ、始めようか。美姫ちゃんの事件と三年前の警官殺し、どちらからにする?」
「そうだな、まずは美姫の事件の詳細から聞かせてくれ」
わかった、と垣内さんはまるで同僚の刑事を相手にしているかのような口調で答えた。こうしてふたりの会話を聞いていると、百瀬が高校の同級生だということをつい忘れてしまう。
「知ってのとおり、事件が起きたのは十月十五日。被害者は會田美姫、十七歳。県立早坂高校の二年生」
詳細はすべて頭に入っているのだろう、垣内さんはメモなどを見ることなく必要な情報だけを拾って端的に述べ始めた。