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――学校なんて行ってられるか。
そんな風に投げやりな気持ちになったのは、高校生になって以来はじめてのことかもしれない。
とにかく今は事件のことで頭がいっぱいだし、どうせ授業を受けたところで内容なんてろくに頭に入りゃしないのだから休んだって問題はなかったのだろうけれど、からだに染みついた感覚とは恐ろしいもので、いつの間にか、足が勝手に学校へ向かっていた。
一時間目の授業中。昨日の夜のことを思い出して、俺の心はいつにも増して鬱々としていた。
*
熊さんに自宅まで送ってもらったあと、俺は自分の部屋の机の中を引っかき回す作業に追われた。三年前、垣内さんから個人の連絡先が記載された名刺をもらった記憶があったからだ。手紙など、個人的なやりとりのあったものを捨てられないのは俺の悪い癖だと思っていたけれど、まさか役に立つ日が来るなんて。人生、何が起こるかわからない。
上から二段目の引き出しの奥底から出てきた名刺を握りしめ、俺は垣内さんの個人携帯あてに電話をかけた。「百瀬のことで大事な話がある」と伝えると、電話越しでも向こうの空気が変わるのがわかった。
『どういうことかな? さっき学校の近くで会った時には百瀬龍輝の行方など知らないと言っていただろう?』
「それはそうなんですけど、ちょっと事情が変わったというか……」
垣内さんは『刑事相手に隠し事はよくないねぇ』といくらか棘のある言い方で俺を責めてくる。
「あの時は本当に知らなかったんです! 垣内さんと別れたあと……」
俺はあれから起こったことをかいつまんで説明した。
百瀬が自らの手で真犯人を追っていること。真相解明のために捜査情報をほしがっていること。取引条件として警察の聴取に応じ、さらに覚醒剤密売ルートを教えることも付け加えていいと言われたこと。
『だいたいの事情はわかった』
話を終えると、真剣な口調で垣内さんは言った。
『取引としては十分成立の余地がある。しかし、どうにも僕の負うリスクのほうが高いのは気に入らないなぁ』
「リスク?」
『いいかい? 警察関係者以外の一般市民に捜査情報を流すなんてことは本来あっちゃならないことなんだよ。たとえこちらにとって有益な情報を提供してもらえることが条件だとしても、僕のような現場の一刑事が勝手な判断で動いていい問題じゃない。そういうのは司法取引といって、事件の被疑者に対して情報提供の見返りに裁判での減刑を認めるっていう法制度のもとに成立することであって、捜査段階で通用させていいことじゃないんだ。特に僕なんて、一応刑事部の人間ではあるけど麻取や組対とは係が違う。……まぁ、百瀬くんから得た情報を流して彼らに貸しを作ってもいいんだけど、それでもやっぱり僕の背負うリスクのほうが大きいと思うわけさ。わかるかい?』
警察の内部事情についてはよくわからないが、垣内さんが渋る理由はなんとなくわかる。要するに、一般市民に手の内を明かしたことが上層部にバレて首を切られるのが怖いということだろう。
こいつは困った。意外と乗ってこない。
『ところで池月くん、君は今百瀬くんと一緒なのかい?』
答えられずに黙っていると、垣内さんは間を埋めるかのように問いかけてきた。
「いえ、もう別れました」
『じゃあ百瀬くんは今どこに?』
「それは言えません。取引だと言ったはずです」
『うーん、なかなかガードが堅いねぇ』
さりげなく訊けば俺がうっかり口を滑らせるとでも思ったのだろうか。馬鹿にするのもたいがいにしてほしい。
しばらく沈黙が続いたのち、ふむ、と電話の向こうから小さく声が聞こえてきた。
『……いいよ、わかった。取引に応じよう』
「本当ですか!」
『ただし、こちらの捜査情報は僕が百瀬くんに直接伝える。僕の目で百瀬くんの姿を確認できなければこの取引はナシだ』
「わかりました。百瀬から、もし垣内さんが自分に会いに来ようとした場合はひとりで来るように言えと言われているんですけど……」
『もちろん。そのあたりは弁えているつもりだよ』
「了解です。すぐ百瀬に連絡します」
『待って。実際に会うのは明日にしよう。もう七時だ、事件の話をするとなるとそれなりに長くなりそうだし』
「わかりました。じゃあ、明日また改めてってことで」
『そうだね。学校の授業が終わってからにしようか。僕の仕事は他にも山ほどあるし』
「学校なんていいですよ。どうせ百瀬は来ないし、俺も休みますから」
『ダメダメ! それだと僕が休ませたみたいじゃないか! いいかい? ズル休みはしないこと。高校生は高校生らしく、スクールライフを満喫しないとね』
バカな。俺は顔をしかめた。
この状況でどうやってスクールライフを満喫しろというんだこの人は。幼馴染みは殺されるわ妹を人質に取られて事件の捜査に巻き込まれるわ、目の前の現実に気持ちが全然追いついていない。たとえ体調が悪くなかったとしても、一日くらい休ませてくれたっていいじゃないか。
『それじゃ、明日学校まで迎えに行くから。百瀬くんによろしく』
ほぼ一方的に押し切られ、垣内さんとの通話は終了した。
しばらくその場から動けず、ようやく詰まらせた息を吐き出すと、どっと疲れが押し寄せてきた。
百瀬にしろ垣内さんにしろ、どうしてこうも自分本位なのだろう。俺にだって選択する権利くらいあるはずなのに。
はぁ、と大きく息をついて、制服のままベッドに倒れ込む。
「美姫……」
枕に顔を埋めた俺は、またしてもその名をつぶやいていた。
*
「池月」
昨晩の出来事を振り返っているうちに一時間目の授業が終わり、休み時間特有のゆるゆるとした空気が教室内を満たし始める。
結局授業の半分以上を机に突っ伏して過ごし、そのまま休み時間に突入した俺の上から、耳慣れた声がかけられた。
「よかった、今日は休むのかと思ってた」
重い頭をもたげると、廊下の外にバレーボール部部長・中井がふんわりと優しい微笑みを浮かべて立っていた。俺の今の席は一番廊下側の列の前から三番目だ。
「中井……」
「どうだ? 調子は」
「うん、昨日よりはずっといいよ。ありがとな、わざわざ」
「そっか。よかった」
中井は一つ隣、三組の生徒だ。ふと、三組なら百瀬と同じだな、なんてことが頭を過る。
「なぁ、今日百瀬って来てる?」
「百瀬? ……いや、来てないけど」
だよな、とつぶやくと、中井は怪訝な顔を向けてきた。
「なんで百瀬のことなんか気にするんだよ」
「あ、いや……別に」
「……あいつかもしれないんだろ?」
少し言いづらそうにしながら、中井は俺からそっと視線を逸らした。
「會田さんを殺したの」
「――違う」
無意識のうちに即答していた。「えっ」と中井が目を丸くしたのを見て、俺自身も驚いてしまった。
「いや、違うっていうのはその…………ごめん、何でもない」
「池月……おまえ、やっぱり変だ。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫。本当に」
「体調のことじゃないぞ? なんていうか……妙なことに巻き込まれてるとか、そういうんじゃないだろうな?」
驚いた。さすがは中井だ、勘がいい。
けれど、いくら中井だからといって百瀬との件について正直に答えるわけにはいかない。今の俺には、うつむいて時が流れるのをただ待つことしかできなかった。
「おいおい、勘弁してくれよ。来月の新人戦、このままいけばおまえだってこれまでどおりスタメンとして試合に出てもらうんだぞ? 今のタイミングで問題を起こされちゃ困る」
そうだ。十一月三週目の土曜日はバレーの大事な公式戦が控えている。下手なことは自覚しているがなぜかスターティングメンバー入りを果たしている俺の身を、同じくスタメン起用される中井は案じてくれているのだ。……まぁ、中井が心配しているのは俺のことじゃなくてチームの勝敗についてなのかもしれないけれど。
「昨日言ったよな? 絶対戻ってこいって。何かやばいことになってるんだったら……」
「大丈夫だって」
窓枠から身を乗り出す中井に、俺は精一杯の笑顔を向けた。
「おまえが心配するようなことにはなってないから。体調が整ったらちゃんと部活に戻るよ。俺だって試合には出たいしさ」
ちょうど二時間目の開始を告げるチャイムが鳴った。少しだけ不満げに、そしてたいそう不安げな目をして中井は「わかった」とだけ言うと、走って三組の教室へと戻っていった。
――やばいな、さっさと終わらせないと。
これ以上中井やバレー部のみんなに迷惑をかけるわけにはいかない。巻き込まれてしまったからには、事件の解決に向けて全力を尽くさなければ。
ずっしりと重かった腰を、ようやく上げることができそうだった。
いつまでも下ばかりを向いていちゃいけない。
今は百瀬と垣内さんだけが頼りだ。あのふたりの相性がいいとはちょっと考えられないけれど、それでも前に進むしかない。
――俺のせいで。
俺のせいで、美姫は死んだかもしれないんだ。
だったら、俺が美姫の無念を晴らしてやるのが筋じゃないか。
決意を新たにし、俺は残り五コマの授業を粛々とこなした。
そして、午後三時半。
約束どおり、校門の前には垣内さんの乗ったシルバーのプリウスが待ち構えていた。