目を開いて眠る夜
前書きを後書きに大移動させましたー。
――また……?
私はおもわずガクリと膝をついた。絶望感が静かに、そして深く精神を蝕んでいく。
――なんでいつも、こうなるの?
少し黄を帯びた日差しが入る、穏やかな昼下がりのワンルームマンション。しかし、まだ残暑は厳しい。
節約のためにクーラーをつけていないこの部屋で、自分の体がザーッと音をたてて冷えていくのを感じた。
地震など起きていないのにぐらぐらと揺れる体を両腕で縛り、備え付けのベッドに半ば倒れこむようにして自身を支える。
そして何かを絞り出すように、一つ、息を吐いた。身肉を掴んだ掌に、じっとりと汗が滲んできた。
お金が、盗まれたのだ。
私は今年の春、大学二年生になった。
今住んでいるワンルームの賃貸マンションは、大学から徒歩十五分、駅から徒歩十分という好条件もあり、大学入学当初に独り暮らしをするため、越してきた。
去年までは、とても快適に何の問題もなく暮らしていたのだ。しかし今年の初めから、家に置いていたお金が盗まれるようになった。
最初は、八万円。
お年玉とバイト代だった。
この時は、本当に錯乱した。みっともなく取り乱した。
自分が自分でなくなったような感覚、離人症。それに近い感覚で、震えて蹲る自分を認知した。
それから今日まで九ヶ月。
多少のバラつきはあるが、平均すると、ひと月に一回はやられている。
人間とは強いもので、微々たるものではあるが、回を重ねる毎に確実にショックが麻痺していく。
馴れだ。
今は最初ほどではないものの、私の心臓がもし小動物のそれであれば、一瞬で動きを止められたかもしれないほどの衝撃ならば、未だあった。
そして私は、私に向かうその衝撃をどうにかして逸らそうと、『今の自分より不幸な人間は大勢いる』と優越感に訴えてみたり、狂人の真似をすることでナルシズムに依存したり、宝くじを買ってお手軽な夢を持ったりと、あらゆる手を使って努力した。
宝くじは当たらなかったが、おかげでどうにか今も『私』を続けている。
ところで私にも悪い所はもちろんあった。
私はアバウトな性格で、多少田舎ということもあり、寝る時は玄関にもベランダにも鍵をかけていないことがままあった。出かける時でさえ、鍵をかけ忘れることもあった。
マンションはオートロックだったため、世間知らずな私はその穴だらけのセキュリティの本質に気づかず、盲目的に信頼していたのだ。
ベランダの鍵も、部屋が四階で、ベランダは車通りが途絶えることのない大通りに面している。
ベランダからの浸入は難しいと考えていた。
だが、流石にこうも盗難が続けば、用心しないわけがない。
ベランダの鍵をかけ忘れることはあったが、それ以外は鍵をかけるように気をつけていた。
それでもお金を盗られることがあった。
しかしそれは、彼が泊まりに来て、朝早く私が寝ている間に鍵をかけずに帰った時だった。
もしかしたら、ちゃんと、鍵をかけていた時に盗まれたこともあったのかもしれない。
出先でお金がなくなっているのに気づいた時は、「鍵をかけ忘れたのか?」と悩んだ。
思い込みが強く健忘症気味の私の記憶は、そんな時は特に曖昧で、自分の行動に自信が持てないという性質も手伝い、「たぶん鍵をかけなかったに違いない」という方向に向かった。
こういった私の性質をよく表している例で、小学生の時のちょっとした出来事がある。
当事、通っていた塾の講師に、机間指導で近づかれる度に体をまさぐられていたのだ。
私は『先生』と呼ばれる人がそんなことをするなど信じられず、その行為を受けた次の日には「こんなことはあり得ない。もしかしたら、私の記憶は間違っていて、空想なのかもしれない」と思い直していた。
すると、途端に記憶は曖昧になる。
それを毎週繰り返し、塾を辞めるまで一年間、自分の記憶を疑い続けて過ごしたのだ。
今では、あれはやはり現実のことなのだと思えるようになった。
それでも、あの時のことを思い出すと、霞がかかったように曖昧で、自分の記憶に自信が持てない。
ただし、今回はあの時とは違う。
私はもう子どもではないし、朝の財布の確認を忘れず行えていた時で気付いたのが早かったため、今回盗られる前の記憶もはっきり残っている。
ちゃんと鍵をかけて寝た。何度思い返しても、それは覆らない。
ということは、犯人は合鍵を持っている人物か、私が家にいる時に私の目を盗んでお金を抜き取ることのできる人物ということになる。
合鍵を持っている見知らぬ人間がいる。
どうにもぞっとする推測だが、それはあまり考えられない。
私の生活は不規則だ。寝る時間もバラバラで、寝る時はテレビも電気もつけて寝る。それに、よく彼が泊まりに来るのだ。ただでさえ狭い部屋に、二人の人間が寝ている横で、家捜しをするのは危険極まりない行為だ。
実際、今回盗られたと思われる時間帯には彼が泊まっていたし、これまでも大体そうだった。
さらに不思議な点は、今回、前の日の夜に布団の下に隠したお金を盗られたということだ。
私が寝ている間に、その上で寝ている私を起こすことなく、布団の下からお金を盗む。
見知らぬ他人に、そんな事が可能だろうか。
恐らく、犯人はよく家に出入りする、私の身近で機を窺うことのできる人物だ。
私の中で、ずっと頭の片隅にこびりついて離れなかったある一つの疑いが、さながら夏の入道雲のように大きく膨らみ、否応なしに内側から私の閉じた目を圧迫し始めた。
堪らず目を開いた私の前には、『犯人は彼ではないか』という疑いしか残っていなかった。
私の目は脳の奥から激しい暴風雨に打ち付けられ、決壊し、閉じ込めていたものが皆、涙と共に溢れ出した。
彼と私は、同い年で、高校生の時にコンパで知り合った。
彼は昔から慎重性に欠け、運の悪いことがまま起こった。
金運は特に悪く、よくお金を落としたり、忘れたり、盗まれたりしていた。
だが、いい人だ。私は、彼を全面的に信頼していた。
いや、信頼しようとしていた。
本当は、薄々疑っていた。
友達のひな子も、私が疑い始める前の早い段階で言ってくれていた。
「犯人、彼氏じゃない?」
と。
ひな子は、同じ大学の親友だ。私の彼とも何度も会っている。彼がいい人であることもよく知っていた。
だから、そのひな子がそんなことを言うなんて、とても驚いたし、愕然とした。
「まさか。ないよ、それは」
そう言って笑って見せたものの、私の胸の動悸は治まらなかった。
『彼を疑うなんて』と考える前に、『なぜ疑わなかったのだろう』と考えてしまったのだ。
罪悪感が胸に広がった。だが、思い返せば彼は怪しかった。
最初に盗まれた時は、「お金を貸してくれ」と彼がバイト先にやって来たのだ。私は家の鍵を渡して、お金の場所を教えた。
彼は必要な分だけ借りて、後は手をつけていないと言っていたが、彼が見たのを最後に、家にあったお金は全て消えた。
彼が借りた分をちゃんと返してくれたので、その時は疑わなかった。
でも、彼はほとんど毎日泊まりに来るし、金運は悪いし、何より、私に自分の財布を見られるのを異常に嫌う。
ひな子はこれらのことを知っていたので、彼を疑ったのだろう。
私は、―――信じたかったのだ。
でも、結局は無意識で疑っていた。だって、私は警察に届けなかった。届けて捜査が入れば、彼が疑われることをわかっていたから。
私は、その日から、見たくないものを見ないことにした。
だけどそのことに改めて気づいた私は、もう溢れ出るものを止める術を知らなかった。
恋で蓋をしていた疑念の泉は、その勢いを増して蓋などものともせずに溢れ出して止まらない。
証拠はない。疑わしきは罰せず。
でも、もうそんな綺麗事は何の効力もない。
彼が犯人かもしれないのがショックなのか、お金を盗られたことがショックなのか、もうわからなかった。
ただ、どうしようもなくて、私はスマホに手を伸ばした。
「今日?うん、今日も来るって。うん、大丈夫。話したら少し楽になった。うん、うん……ありがとう。じゃ、明日。じゃあね。アハハッ、はーい」
私は電話をかける前よりもずっと楽な気持ちで、通話を切った。
ひな子はしきりに私の心配をしてくれていた。
誰かに相談できるのは、救いだ。
ただ、今日もまた、彼が来る。
彼はどんな表情で現れるだろうか。
お金を盗まれたことを言ったら、どんな表情をするのか。
きっと、いつものパターンだ。怒ったような表情でこう言うのだ。
「いくら盗られた?俺が払ってやるよ」
私もいつも通り答える。
「いいよ。いらないよ」
そして、笑ってみせる。
ひな子は、別れた方がいいんじゃないかと言う。私も、そう思う。
彼が犯人かはともかく、彼を信じられなくなっていることが、問題なのだ。
本当は、彼についていくのはとても不安だ。
でも、離れられない。
自分が別れたいのか別れたくないのか、わからない。
別れた方が楽になるのだろうか。
何故、別れられないのか。
私は、どうしたいのか。
いや、もう考えないようにしよう。お金のことを思い出すと辛い。
そうだ、彼が来るまでまだ時間がある。
練習をしよう。笑顔の練習。
ちゃんと、うまく、笑えるように。
あれから、もうすぐ二年が経とうとしている。
大学三年生に上がる前に、私はあの、マンションを引っ越した。今はもうないが、盗難はあのマンションを引っ越す二ヶ月前まで続き、計算してみると総額は十三万円ほどになった。
彼とは、今でも続いている。
私は、あれから家に多くのお金を置かないようにした。
戸締まりも欠かさない。
彼が来たらいつも以上に用心し、わからないように財布を隠す。
彼の金運は、未だに悪い。
つい先日も、お金を盗まれた。
最近私は、彼との関係に失望すら抱いている。だが、彼と別れるつもりはない。
私は一度、彼の財布をこっそり覗いてみた。
中には少しのお金と、消費者金融のカードが二枚入っていた。私は、怒られるのを覚悟して彼にそのカードのことを聞いてみた。
彼は怒りつつも「友達のために消費者金融でお金を借りてやったが、もう返し終わっている。お前に心配させたくなかったから財布を見せなかった」と言っていた。
私は、信じていない。
「もう必要ないなら、ハサミで切って捨てなよ」と言うと、彼は曖昧に頷き、言葉を濁した。
それから半年くらいして、もう一度財布を覗くと、二枚のカードはまだそこに在った。
きっと、彼はそれを捨てられないのだろう。
私が彼を捨てられないのと、同じように。
目を開いて真実を見たからといって、なんだというのか。
私の夜は続く。もういい、と思えるその時まで。
練習をしよう。
夜は暗いけれど、なんでもないように笑うのだ。
このぬるま湯のような夜が明けぬように。目を開いて、笑う。
それでも、私は、いつか陽光を浴びる日を夢に見る。
昔、大学の小説を書く授業で初めて書いた小説が出てきたので、かなり書き直してみました。
一応、私の処女作です。内容、めちゃ暗いよっ。
二作目が、今年の四月からなろうで書き始めた『どうせなら知将になりたかったんだが』(ド下ネタギャグ)なので、内容の落差が凄い……。
当時、先生の講評には『こんな「バカ女」でも主人公になれるのが小説』みたいな感じで、かなり感情移入してもらえたようでした。
上手いかどうかは別にして、読み物として、心に引っ掛かってもらえる作品になっているのかなあと思います。
純文学のジャンルにしたけど合ってるかな……(ドキドキ)