表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/33

日常乙女3

「あねさま、僕のお着物でなにするおつもりなんです?」

双子の姉が箪笥から持ち出したのは、彼の着物。

この日は戦巫女の義母が戦場に出ていて、義父も江戸まで用を済ませに行っていた。だから小物たちもすっかり気を抜いており、子供たちのことはほとんど放ったらかし。

お稽古の時間以外は、束の間の自由を満喫していたところだ。

姉は満面の笑みで彼の着物を自分の体に当てて、鏡台を覗いている。

「おもしろいことよ」

「?」

自分と瓜二つの可憐な顔が、悪戯めいて光っていた。

姉は頭がよく回ってすばしっこく、少年のように活発な性分なものだから、大人たちを困らせることが得意だった。その反面に料理や裁縫など女の子らしいことが苦手で、棒切れを剣に見立てて振り回して遊んでいるのが常だ。

弟は真逆に気弱で鈍臭く、いつも姉の後に付いて回っていた。剣術よりも勉強や読書が好きで、一人遊びといえばまず本を手にとる。料理も得意で、小人たちに紛れて自作の飯を振る舞うのが楽しみだった。

『あんたたち、性別が逆だったらよかったのにね』というのが義母の口癖になるほど。

一見して気が合わないようなふたりだが、どこの家の兄弟よりも通じ合っていたはずだ。

農村に生まれてすぐに売られた姉弟だからこその絆が、ふたりにはある。

「いーい?これからあんたは『深山』、私は『高嶺』よ」

などと唐突に謎かけみたいなことを言い出すものだから、彼の頭に疑問符がたくさん浮かび上がった。

「あねさま?僕が高嶺で、あねさまが」

「だから!」

察しが悪いわね、と言わんばかりに姉は弟と自分を交互に指差し、にやりと笑う。

「とりかえっこ、しましょ」

隠れ鬼でもやるような気軽な感覚でやる遊びを、姉は最近になって思いついた。

姉が『高嶺』になりすまし、弟が『深山』になる。誰かに正体が割れたら負けの、単純だけど緊張感のある遊び。

たぶんきっかけは、義母の口癖だろうか。

姉は考えた。

————もし私が本当に男だったら、好きなことができるのだろうか。

剣の稽古が好きなだけできて、料理や針仕事をしなくて済むのだろうか。遊びまわって着物を泥だらけにしても、怒られないのだろうか。

弟は思った。

————もし僕が女だったら、父上に『女々しい』と叱られることもなくなるのかな。

台所に立つのも当たり前で、料理を振る舞えば誰もが喜んでくれる。剣が強くなくてもいい。座敷でおとなしく読書していられるかも。

子供らしい短絡的な欲求が上回り、自然に姉と同種の笑みを浮かべていた。姉の着物を手にとって、元気に答える。

「やる!」

この時までは彼にとって、とても幸せでいつも通りの日常だった。

入れ替わっている間に戦巫女が狙いの賊が屋敷を襲い、姉が『高嶺』と間違えられて殺されなければ。

『深山』になっていたから生き残れた、この地獄。

————もしあのとき、俺が答えなければ……反対していれば。姉さんが死ぬことはなかったのだろうか。

俺は『深山』として生き残り、賊の都合で戦巫女として育てられた。

八重と出会い別れた後。旅人や浪人を狙って野犬そのもののような、まさに泥水をすすって生き抜いた過去がある。

苦しかったこともあったが、楽しい思い出もそれなりにできたような気がする。こうして立派な命もある。

それらは本来なら姉が手にするはずのもので、俺が手にしてはいけないものなのではないか。

たくさんの命を犠牲にして生きている俺は、罪そのものではないのか。

その俺が今更『誰かの為に』剣を振るうことは、果たして許されるのだろうか。

「なにぼーっとしてんのよ?」

「!」

目と鼻の先で、不満に膨れた八重の顔が覗いていた。

深く考え込んでいるうちに、公との密談は終わったらしい。城に奉公している小人に案内されるがまま座敷に上がり、こうして八重に声をかけられるまで深い思考の海のなかだった。

間者から身を守る為に常々から側を離れぬようにと、今日は八重も連れて入城していた。

「終わったなら帰るわよ。さっさと歩きなさい」

薄桜は留守を任されていて供はせず、深山を待つ間はよっぽど暇を持て余していたのだろう。

用意された座布団から立ち上がり、八重は風を切って先へ歩く。

その細く小さな背中と揺れる栗色の髪を眺め、ほんの先日に交わした彼女との約束を思い返して目を細める。

————「俺は君のことを、命を懸けて守り通す」

本当に、約束を果たすことは叶うのか。

『あの頃』よりも強くなったと、心の底から自信を持てるのか。

隙を見せたら這い上がってくるのは、弱い『己』。

闇の底から囁く声が言っている。

「お前なんかに、なにを守れるというんだ」

自惚れるな。

お前は所詮、『偶然に守られた高嶺』なのだから。

「……どうかしたの?」

不安そうな八重の声にはっと顔を上げると、いつのまにか。

眉間に深い皺を寄せて、重く俯いていたことに気がついた。

重く垂れこめた『らしくない』深山の様子に、八重は不安もあろうがなにより……深山のことを心配していたのだろう。

————俺のこと、あんなに嫌がっていたくせに。

自然、深山の口端に笑みが生まれた。

こんなにもお人好しで、どうしようもなく優しい少女を。

『守りたい』とひたむきに願って刀を握る自分。

だが同時に、過去の弱きを引き摺る自分。

どちらに勝つのか、あるいはどちらを砕くのか。それは————

図らずも解されて緩んだ頬を、いつもの人を喰ったような微笑みに変え、すっと八重の先を歩く。

「いや。次は君をどういじくり回してやろうかなと、思案していただけだ」

「あんた、ほんっとに性格悪いわね」

なんて呆れる八重の声は、心なしか安心しているように深山には感じた。

『ありがとう』などと素直に言ってもきっと、意地っ張りの八重のことだ。

「別にあんたのことなんて、これっっぽっちも心配してないし!勘違いしないでよね!」

などと言い張りそうだと、想像してひとりでに笑う。

いますぐに答えを急くことで、納得できるものではない。

きっといつか、自分の中に揺るぎない気持ちが生まれるだろうと。

それまではとりあえず『いま』を、なんとなく歩いてみればいい。

————それだけは、お許しください……姉さん。

「————!」

ぴぃん、と。

深山のなかに、わずかな緊張が生まれた。

この活気付いた平和な町中にあって、相応しくない気配が複数ある。ぎらぎらと鋭く、しかし不用意な殺気。

彼らはいまにも、事を起こしそうな雰囲気だった。どうにも此方には、あまり時間の猶予はないかもしれない。

立ち止まって感じ取れるその気配を静かに伺い、喉を鳴らした。同時に緊張感がさらに高まる。

殿と自分の予想よりも、動きがいささか早い気がする。計画も雑に感じるし、腕前も懐疑してしまう程だ。

それだけ相手側は焦っているのか、それとも……此方が汲み取れない意図があるというのか。

しかし深山も腕に覚えがあり、伊達や酔狂で『守護役』を任された藩士ではない。

ぽす、と頼りなげな重みが、深山の背中に響いた。深山に追いついた八重が、急に立ち止まった彼とぶつかったらしい。

「んもう!さっきからなんなのよ、ぼーっとして」

「————八重、走れるか?」

ぷんすかと怒る八重の言葉尻を待たずして、深山の鋭さが効いた声が尋ねる。

「え?」と八重の疑問符が乗った声が聴こえる前に。

「返事が遅い!」

「きゃっ……」

深山がほとんど怒鳴って強引に八重の尻と肩を抱えて、走り出したその途端に。

「逃げたぞ!追え!」

とこれまで息を潜めていた侍たちが、一斉に姿を露わにして怒声をあげる。長屋の影から、店先から、道行く駕籠のなかから、立派な太刀を携えた侍たちが現れた。

侍に突き飛ばされた町人の呻き声と、驚いた町娘の悲鳴で町は一気に沸く。

自然、侍の群れと深山たちの間に埋まっていた人垣が、さざ波のように割れていく。

「なんなの、あの連中!?」

風を切って走る深山の腕のなかで、八重が驚愕に声を裏返した。

ざっと見て、その人数は十人ほど。よくもまあ、ここまでかき集めたものだと感心する程だ。

「八重の魅力に取り憑かれて酔わされた男共、ってところかな?君はまったく罪深いな」

「冗談言ってる場合なの!?」

乾いた笑いによく合う阿呆な冗談だが、八重の鋭意な突っ込みと正面の道を受けて、深山の額にわずかな汗が浮かぶ。

「……場合じゃないかもね」

京の町よりすっきりと区画整理された町は、誰も見たことがないだろう。

天下の江戸も区画整理を何度も図ってはいるものの、お上の手が行き届かない細かな道が多くある。初めて上京した旅人が迷った、なんて話は、よくある土産話だ。

小田原の町も昔ながらの無闇矢鱈な造りで道が入り組んでおり、大通りを一歩でも外れるとどん詰まり……ということが多い。

いま深山が八重を抱えて走るこの道の先も、

「行き止まりじゃない!!」

八重が叫んだ通りである。

行く手に迫るは小田原名物の白い土壁、背後からは十人の追っ手。

逃げ場はない————はずなのに。

深山の口の端に、笑みが滲んだ。

「落ちないように捕まれ」

そう言うが早いが。深山の脚は地面を踏みしめて、思いきり跳躍した。

侍というより、隠者のように軽やかな身のこなし。

しかしこの壁の先に抜けたとて、人数が勝る追っ手も壁を越えれば、追い掛けることができるはず。しかし。

壁の向こうは、飛び降りるのをちょっと躊躇うほどの高さの崖だった。

その昔、山を切り開いてできたこの町には、こういった激しい高低差がいまだ各所に存在する。地の利がある者を味方するそれは、深山たちに微笑んでくれたようだ。

冷やっとする浮遊感が体を襲い、八重は深山の首を抱きしめる。

深山の肩の向こうから、追っ手の侍たちが壁を越えて、しかし崖の存在に足踏みする姿が見えた。

ここから見える小田原の町並みは、やはり真珠のような白だった。

「ここまで来れば……大丈夫かな」

崖の向こうへ飛び込み、東海道の道沿いまで逃げてきたところでそう判断し、深山は八重を降ろした。

人をひとり抱えて走り込み、流石の深山もすっかり息が上がっている。

「あははははっ!」

座り込んで息を整える深山の横で、八重が腹を抱えて笑いだした。その笑い声にはいままであった険がないように、深山には聴こえるから不思議に思った。

なにに対して笑ったのかわからない、と疲労で声が出せない深山が視線で訴える。八重は再会してからこれまでより、優しい声音で語り出した。

「初めてみたの」

「なにを?」

ようやっと喉から出した深山の声に、八重は少女らしい柔和な表情と声音で答える。

「小田原の、景色」

心のうちに仕舞いこんで隠していた、その想いを凪いだ海のような穏やかさで吐露しはじめた。

「わたしが望んでここに来たわけじゃないって、守護役のあんたなら聴いてるでしょ?」

「……きかなくても、想像つくよ」

八重の守護役を仰せつかるにあたって、主人から粗方の成り行きは聴かされていた。

深山と別れた直後のことはわからないが、彼女は流れに流れて常陸国まで移り、戦利品として大久保公が譲り受けたそうだ。

その時にはすでに八重という戦巫女の評判は、まさしく天にものぼる勢いだった。

神に愛された《最上の戦巫女》、それが八重という少女が持つ価値。

大久保公は彼女の人格を慮って戦巫女の任から解こうと思ったが、たとえ自由を与えても他の藩主が目をつけている。自由など仮初めに過ぎない。

彼女ひとりではきっと、人らしい生活は望めないだろうと考えた。

常陸国でも重宝されたが、それは心がある『人』という扱いより単なる『物』の扱いだ。

そこに『八重』という個人の気持ちを汲む余地はなく、絡繰人形のように、命令されるがままに舞うことだけを許可される。

藩という、町という檻の中でただただ呼吸するだけの生活が、八重の心を蝕んだ。

「わたしを閉じ籠めるこんな町……壊れちゃえって、割と本気で思っていたのよ。ひどいでしょ、わたしも守らなくちゃいけないのに」

自分の素直な想いに、いまの八重はどんな感情の色を浮かべたのだろうか。

苦みと、そして年齢らしからぬ渋み。

深山が知りうる限りの言葉すべてを注いだとしても、彼女の苦悶もしくは憂悶は表現しきれまい。

そのような生活を強いられ、彼女のなかにある『他人を信用する心』は時間とともに収縮していった。

さらに言えば『侍』という人種に対しての、嫌悪感が生まれたのだろう。

初めて出逢った『藩士の深山』を拒絶した理由は、おそらくそういうことだ。

だから大久保公がいくら気にかけていても、八重から見て自由を与えない公には反発心しか生まれない。

「でもね」

いま一度、道の向こうにあるはずの町、憎いはずの真珠色の町へ目を向ける。

ようやっと望めた栗色の眼差しは、深山が再会してから初めて見たような、温かくも柔らかい色彩を放っていた。

あの幼き日々のような、優しくも淡い色合い。

空の色も草の色も、町さえも違うというのに。

浮かぶのはやはり、八重と一緒に見た桜。八重の隣で見たかった、八重桜の微かな幻影。

「いま初めて————綺麗だって、思えたの」

豊かな緑も、青々とした涼やかな海も、どこまでも広がる空も。

白を基調とした町並みに、活気付いた町人たち。

そこに住まう活き活きとした人々。

穏やかな農耕の風景に溶け込む、快活な農民たち。

いつでも側にいてくれて、怒ると怖いけど本当は誰よりも優しい、姉のような薄桜。

戦がどうのとか。

侍同士のしがらみとか。

なにかを大事にしなくちゃいけない理由とか。

なにかのために生きなきゃいけないとか。

そんな難しくて面倒くさいことはわからない。

考えたこともないし、ぐちゃぐちゃと考えるのは苦手だ。

でもわたしの気持ちは、なによりも単純明快だ。

「わたしが、守りたい……この景色ぜんぶ、失くしたくない」

そう言う八重の横顔は、少女らしい柔らかさのなかに、凛とした決意が満ち満ちていた。

眩しい、といまの深山には感じる。

昔から憧れていて、惹きつけられていた。彼女の向日葵にも似た強さと快活さの理由は、いったいなんなのか。

うじうじと悩んで、いつまでも過去に縛られる自分が惨めで、でも他人が言うほど簡単には変えられなくて。

いくら手を伸ばしても届かない、月や太陽を掴みたいときのように。

深山の手が自然、八重へと伸びかかる。

————君はどうして、そんなに強いんだ?


「おやおや?まさかオレのとこにお姫様が転がってきてくれるなんて」

八重が生み出した優しい空気を破るのは、唐突の声。

その声に存分な殺気が乗せられていることに気づき、深山は気持ちを素早く切り替えて強く警戒した。

「これって運命?」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ