日常乙女3
「あねさま、僕のお着物でなにするおつもりなんです?」
双子の姉が箪笥から持ち出したのは、彼の着物。
この日は戦巫女の義母が戦場に出ていて、義父も江戸まで用を済ませに行っていた。だから小物たちもすっかり気を抜いており、子供たちのことはほとんど放ったらかし。
お稽古の時間以外は、束の間の自由を満喫していたところだ。
姉は満面の笑みで彼の着物を自分の体に当てて、鏡台を覗いている。
「おもしろいことよ」
「?」
自分と瓜二つの可憐な顔が、悪戯めいて光っていた。
姉は頭がよく回ってすばしっこく、少年のように活発な性分なものだから、大人たちを困らせることが得意だった。その反面に料理や裁縫など女の子らしいことが苦手で、棒切れを剣に見立てて振り回して遊んでいるのが常だ。
弟は真逆に気弱で鈍臭く、いつも姉の後に付いて回っていた。剣術よりも勉強や読書が好きで、一人遊びといえばまず本を手にとる。料理も得意で、小人たちに紛れて自作の飯を振る舞うのが楽しみだった。
『あんたたち、性別が逆だったらよかったのにね』というのが義母の口癖になるほど。
一見して気が合わないようなふたりだが、どこの家の兄弟よりも通じ合っていたはずだ。
農村に生まれてすぐに売られた姉弟だからこその絆が、ふたりにはある。
「いーい?これからあんたは『深山』、私は『高嶺』よ」
などと唐突に謎かけみたいなことを言い出すものだから、彼の頭に疑問符がたくさん浮かび上がった。
「あねさま?僕が高嶺で、あねさまが」
「だから!」
察しが悪いわね、と言わんばかりに姉は弟と自分を交互に指差し、にやりと笑う。
「とりかえっこ、しましょ」
隠れ鬼でもやるような気軽な感覚でやる遊びを、姉は最近になって思いついた。
姉が『高嶺』になりすまし、弟が『深山』になる。誰かに正体が割れたら負けの、単純だけど緊張感のある遊び。
たぶんきっかけは、義母の口癖だろうか。
姉は考えた。
————もし私が本当に男だったら、好きなことができるのだろうか。
剣の稽古が好きなだけできて、料理や針仕事をしなくて済むのだろうか。遊びまわって着物を泥だらけにしても、怒られないのだろうか。
弟は思った。
————もし僕が女だったら、父上に『女々しい』と叱られることもなくなるのかな。
台所に立つのも当たり前で、料理を振る舞えば誰もが喜んでくれる。剣が強くなくてもいい。座敷でおとなしく読書していられるかも。
子供らしい短絡的な欲求が上回り、自然に姉と同種の笑みを浮かべていた。姉の着物を手にとって、元気に答える。
「やる!」
この時までは彼にとって、とても幸せでいつも通りの日常だった。
入れ替わっている間に戦巫女が狙いの賊が屋敷を襲い、姉が『高嶺』と間違えられて殺されなければ。
『深山』になっていたから生き残れた、この地獄。
————もしあのとき、俺が答えなければ……反対していれば。姉さんが死ぬことはなかったのだろうか。
俺は『深山』として生き残り、賊の都合で戦巫女として育てられた。
八重と出会い別れた後。旅人や浪人を狙って野犬そのもののような、まさに泥水をすすって生き抜いた過去がある。
苦しかったこともあったが、楽しい思い出もそれなりにできたような気がする。こうして立派な命もある。
それらは本来なら姉が手にするはずのもので、俺が手にしてはいけないものなのではないか。
たくさんの命を犠牲にして生きている俺は、罪そのものではないのか。
その俺が今更『誰かの為に』剣を振るうことは、果たして許されるのだろうか。
「なにぼーっとしてんのよ?」
「!」
目と鼻の先で、不満に膨れた八重の顔が覗いていた。
深く考え込んでいるうちに、公との密談は終わったらしい。城に奉公している小人に案内されるがまま座敷に上がり、こうして八重に声をかけられるまで深い思考の海のなかだった。
間者から身を守る為に常々から側を離れぬようにと、今日は八重も連れて入城していた。
「終わったなら帰るわよ。さっさと歩きなさい」
薄桜は留守を任されていて供はせず、深山を待つ間はよっぽど暇を持て余していたのだろう。
用意された座布団から立ち上がり、八重は風を切って先へ歩く。
その細く小さな背中と揺れる栗色の髪を眺め、ほんの先日に交わした彼女との約束を思い返して目を細める。
————「俺は君のことを、命を懸けて守り通す」
本当に、約束を果たすことは叶うのか。
『あの頃』よりも強くなったと、心の底から自信を持てるのか。
隙を見せたら這い上がってくるのは、弱い『己』。
闇の底から囁く声が言っている。
「お前なんかに、なにを守れるというんだ」
自惚れるな。
お前は所詮、『偶然に守られた高嶺』なのだから。
「……どうかしたの?」
不安そうな八重の声にはっと顔を上げると、いつのまにか。
眉間に深い皺を寄せて、重く俯いていたことに気がついた。
重く垂れこめた『らしくない』深山の様子に、八重は不安もあろうがなにより……深山のことを心配していたのだろう。
————俺のこと、あんなに嫌がっていたくせに。
自然、深山の口端に笑みが生まれた。
こんなにもお人好しで、どうしようもなく優しい少女を。
『守りたい』とひたむきに願って刀を握る自分。
だが同時に、過去の弱きを引き摺る自分。
どちらに勝つのか、あるいはどちらを砕くのか。それは————
図らずも解されて緩んだ頬を、いつもの人を喰ったような微笑みに変え、すっと八重の先を歩く。
「いや。次は君をどういじくり回してやろうかなと、思案していただけだ」
「あんた、ほんっとに性格悪いわね」
なんて呆れる八重の声は、心なしか安心しているように深山には感じた。
『ありがとう』などと素直に言ってもきっと、意地っ張りの八重のことだ。
「別にあんたのことなんて、これっっぽっちも心配してないし!勘違いしないでよね!」
などと言い張りそうだと、想像してひとりでに笑う。
いますぐに答えを急くことで、納得できるものではない。
きっといつか、自分の中に揺るぎない気持ちが生まれるだろうと。
それまではとりあえず『いま』を、なんとなく歩いてみればいい。
————それだけは、お許しください……姉さん。
「————!」
ぴぃん、と。
深山のなかに、わずかな緊張が生まれた。
この活気付いた平和な町中にあって、相応しくない気配が複数ある。ぎらぎらと鋭く、しかし不用意な殺気。
彼らはいまにも、事を起こしそうな雰囲気だった。どうにも此方には、あまり時間の猶予はないかもしれない。
立ち止まって感じ取れるその気配を静かに伺い、喉を鳴らした。同時に緊張感がさらに高まる。
殿と自分の予想よりも、動きがいささか早い気がする。計画も雑に感じるし、腕前も懐疑してしまう程だ。
それだけ相手側は焦っているのか、それとも……此方が汲み取れない意図があるというのか。
しかし深山も腕に覚えがあり、伊達や酔狂で『守護役』を任された藩士ではない。
ぽす、と頼りなげな重みが、深山の背中に響いた。深山に追いついた八重が、急に立ち止まった彼とぶつかったらしい。
「んもう!さっきからなんなのよ、ぼーっとして」
「————八重、走れるか?」
ぷんすかと怒る八重の言葉尻を待たずして、深山の鋭さが効いた声が尋ねる。
「え?」と八重の疑問符が乗った声が聴こえる前に。
「返事が遅い!」
「きゃっ……」
深山がほとんど怒鳴って強引に八重の尻と肩を抱えて、走り出したその途端に。
「逃げたぞ!追え!」
とこれまで息を潜めていた侍たちが、一斉に姿を露わにして怒声をあげる。長屋の影から、店先から、道行く駕籠のなかから、立派な太刀を携えた侍たちが現れた。
侍に突き飛ばされた町人の呻き声と、驚いた町娘の悲鳴で町は一気に沸く。
自然、侍の群れと深山たちの間に埋まっていた人垣が、さざ波のように割れていく。
「なんなの、あの連中!?」
風を切って走る深山の腕のなかで、八重が驚愕に声を裏返した。
ざっと見て、その人数は十人ほど。よくもまあ、ここまでかき集めたものだと感心する程だ。
「八重の魅力に取り憑かれて酔わされた男共、ってところかな?君はまったく罪深いな」
「冗談言ってる場合なの!?」
乾いた笑いによく合う阿呆な冗談だが、八重の鋭意な突っ込みと正面の道を受けて、深山の額にわずかな汗が浮かぶ。
「……場合じゃないかもね」
京の町よりすっきりと区画整理された町は、誰も見たことがないだろう。
天下の江戸も区画整理を何度も図ってはいるものの、お上の手が行き届かない細かな道が多くある。初めて上京した旅人が迷った、なんて話は、よくある土産話だ。
小田原の町も昔ながらの無闇矢鱈な造りで道が入り組んでおり、大通りを一歩でも外れるとどん詰まり……ということが多い。
いま深山が八重を抱えて走るこの道の先も、
「行き止まりじゃない!!」
八重が叫んだ通りである。
行く手に迫るは小田原名物の白い土壁、背後からは十人の追っ手。
逃げ場はない————はずなのに。
深山の口の端に、笑みが滲んだ。
「落ちないように捕まれ」
そう言うが早いが。深山の脚は地面を踏みしめて、思いきり跳躍した。
侍というより、隠者のように軽やかな身のこなし。
しかしこの壁の先に抜けたとて、人数が勝る追っ手も壁を越えれば、追い掛けることができるはず。しかし。
壁の向こうは、飛び降りるのをちょっと躊躇うほどの高さの崖だった。
その昔、山を切り開いてできたこの町には、こういった激しい高低差がいまだ各所に存在する。地の利がある者を味方するそれは、深山たちに微笑んでくれたようだ。
冷やっとする浮遊感が体を襲い、八重は深山の首を抱きしめる。
深山の肩の向こうから、追っ手の侍たちが壁を越えて、しかし崖の存在に足踏みする姿が見えた。
ここから見える小田原の町並みは、やはり真珠のような白だった。
「ここまで来れば……大丈夫かな」
崖の向こうへ飛び込み、東海道の道沿いまで逃げてきたところでそう判断し、深山は八重を降ろした。
人をひとり抱えて走り込み、流石の深山もすっかり息が上がっている。
「あははははっ!」
座り込んで息を整える深山の横で、八重が腹を抱えて笑いだした。その笑い声にはいままであった険がないように、深山には聴こえるから不思議に思った。
なにに対して笑ったのかわからない、と疲労で声が出せない深山が視線で訴える。八重は再会してからこれまでより、優しい声音で語り出した。
「初めてみたの」
「なにを?」
ようやっと喉から出した深山の声に、八重は少女らしい柔和な表情と声音で答える。
「小田原の、景色」
心のうちに仕舞いこんで隠していた、その想いを凪いだ海のような穏やかさで吐露しはじめた。
「わたしが望んでここに来たわけじゃないって、守護役のあんたなら聴いてるでしょ?」
「……きかなくても、想像つくよ」
八重の守護役を仰せつかるにあたって、主人から粗方の成り行きは聴かされていた。
深山と別れた直後のことはわからないが、彼女は流れに流れて常陸国まで移り、戦利品として大久保公が譲り受けたそうだ。
その時にはすでに八重という戦巫女の評判は、まさしく天にものぼる勢いだった。
神に愛された《最上の戦巫女》、それが八重という少女が持つ価値。
大久保公は彼女の人格を慮って戦巫女の任から解こうと思ったが、たとえ自由を与えても他の藩主が目をつけている。自由など仮初めに過ぎない。
彼女ひとりではきっと、人らしい生活は望めないだろうと考えた。
常陸国でも重宝されたが、それは心がある『人』という扱いより単なる『物』の扱いだ。
そこに『八重』という個人の気持ちを汲む余地はなく、絡繰人形のように、命令されるがままに舞うことだけを許可される。
藩という、町という檻の中でただただ呼吸するだけの生活が、八重の心を蝕んだ。
「わたしを閉じ籠めるこんな町……壊れちゃえって、割と本気で思っていたのよ。ひどいでしょ、わたしも守らなくちゃいけないのに」
自分の素直な想いに、いまの八重はどんな感情の色を浮かべたのだろうか。
苦みと、そして年齢らしからぬ渋み。
深山が知りうる限りの言葉すべてを注いだとしても、彼女の苦悶もしくは憂悶は表現しきれまい。
そのような生活を強いられ、彼女のなかにある『他人を信用する心』は時間とともに収縮していった。
さらに言えば『侍』という人種に対しての、嫌悪感が生まれたのだろう。
初めて出逢った『藩士の深山』を拒絶した理由は、おそらくそういうことだ。
だから大久保公がいくら気にかけていても、八重から見て自由を与えない公には反発心しか生まれない。
「でもね」
いま一度、道の向こうにあるはずの町、憎いはずの真珠色の町へ目を向ける。
ようやっと望めた栗色の眼差しは、深山が再会してから初めて見たような、温かくも柔らかい色彩を放っていた。
あの幼き日々のような、優しくも淡い色合い。
空の色も草の色も、町さえも違うというのに。
浮かぶのはやはり、八重と一緒に見た桜。八重の隣で見たかった、八重桜の微かな幻影。
「いま初めて————綺麗だって、思えたの」
豊かな緑も、青々とした涼やかな海も、どこまでも広がる空も。
白を基調とした町並みに、活気付いた町人たち。
そこに住まう活き活きとした人々。
穏やかな農耕の風景に溶け込む、快活な農民たち。
いつでも側にいてくれて、怒ると怖いけど本当は誰よりも優しい、姉のような薄桜。
戦がどうのとか。
侍同士のしがらみとか。
なにかを大事にしなくちゃいけない理由とか。
なにかのために生きなきゃいけないとか。
そんな難しくて面倒くさいことはわからない。
考えたこともないし、ぐちゃぐちゃと考えるのは苦手だ。
でもわたしの気持ちは、なによりも単純明快だ。
「わたしが、守りたい……この景色ぜんぶ、失くしたくない」
そう言う八重の横顔は、少女らしい柔らかさのなかに、凛とした決意が満ち満ちていた。
眩しい、といまの深山には感じる。
昔から憧れていて、惹きつけられていた。彼女の向日葵にも似た強さと快活さの理由は、いったいなんなのか。
うじうじと悩んで、いつまでも過去に縛られる自分が惨めで、でも他人が言うほど簡単には変えられなくて。
いくら手を伸ばしても届かない、月や太陽を掴みたいときのように。
深山の手が自然、八重へと伸びかかる。
————君はどうして、そんなに強いんだ?
「おやおや?まさかオレのとこにお姫様が転がってきてくれるなんて」
八重が生み出した優しい空気を破るのは、唐突の声。
その声に存分な殺気が乗せられていることに気づき、深山は気持ちを素早く切り替えて強く警戒した。
「これって運命?」