日常乙女2
小田原城の天守閣は、いつも通りに質素でありながら美しさを兼ねている調度だった。
職人技が光る壺に活けられた季節の花もまた、鮮やかな彩りを与えて目を喜ばせる。
「はっはっは!うぬらが楽しそうでなにより!」
優しげな面立ちに剛毅な笑いを添えて、相変わらずに手酌で淹れた薫り高い茶を深山に勧める殿。
手入れの行き届いた風通しのよい和室に、足柄茶の薫香が澄み渡る。
「どこが楽しいのですか……」
主人が淹れた茶を啜る深山の頬には、くっきりと赤い手の跡が付いていた。
男前も台無しなぶすくれた顔の深山を、小田原藩主の大久保忠愨が面白そうに眺めて宥める。
「まぁ若いうちの特権だ、深山よ。————と、すまんの。本題に入ろう」
完全に人払いを済ませてから、殿は深山に山盛りの菓子を勧める。きな臭くて長話になりそうな予感だ。
「やはり本多家の差し金だと、調べがついておる」
練り菓子に手を伸ばした殿の第一声には、深刻さも重々しさも特段に感じることはなかった。むしろ予想の範疇だったのだろう。
話せば長いことながら、大久保家と本多家の確執は、それこそ百年単位で長きにわたって蓄積されたもの。
互いにちょっかいの掛け合いなどは日常茶飯事で、今回に限っては大久保家が手にした戦巫女————八重が上質すぎたことが起因だと、殿も深山も見解の一致をみている。
「目的は八重を『手中に収める』こと……だけでしょうか」
と深山が尋ねると、大久保公はほとんど肯定したいところを僅かばかり控えた。
「一番の目的はそうかもしれんの。八重の価値を鑑みれば、どれだけ危険を冒してでも手にしたい藩主は、それこそ星の数ほどおるだろう」
相手が因縁の相手なだけに、目的がたったひとりの戦巫女だけでは済まない気がする。
例えばの話。
この機に此方側の弱みでもひとつ握られてしまえば、たったのそれだけで大久保家は崩壊してしまうかもしれない。それだけ両家の力関係は拮抗している。
その弱みが、八重という戦巫女だとしたら……?
深山がもっとも懸念している事態は、殿もわかっている。
だからこそ、と。
空になっていた深山の湯呑みに、茶のお代わりを淹れて笑った。
「しかしこちらには深山、うぬがおる。なにも心配することなかろうて」
「お言葉ですが、殿は私を過信しすぎです!私はっ……」
思わず立ち上がるまで反抗を強める深山だが、大久保公はここであえて毅然とした声を響かせた。
「大久保忠愨は、深山を我が小田原藩において最高の守護役であると認める。これ以上の異論は認めん」
「……っ!」
ここまで言われてしまえば、深山も喉を詰まらせてしまうのは自然。
侍にとって主人の言は絶対で、気軽に意見するのも憚られる。それはいかに深山だとしても例外ないことで、主人が許しても曲げられない。
しかしそれでも、俺はそこまで言わせるほどに相応しい人間なんかじゃあない。という葛藤と悩み、迷いと悲しみが鬩ぎ合う。
深山のなかに渦巻く混沌を見抜いている公も、悲しげに眉をひそませた。
「うぬが己の罪を悔いておることは、儂とてもよく知っておるつもりだ」
その言葉が出た途端に、深山の右手が腰に差した古い刀に手が伸びたのを、主人は決して見逃さなかった。
深山を拾ったその日のことを、公も鮮明に覚えている。
翠緑の髪は伸び放題で、同じ色の瞳には常闇のような濁りと、野犬のそれと同じ鋭さ。
どこからか簒奪した襤褸の錆刀一本で切り結ぶ姿は、痛々しくも荒々しいものはず。しかし公には洗練された舞のように感じられたのが、なんとも不思議な話だ。
深山はずっとずっと、己の罪にひとりで苦しんで生きてきた。
どうせ穢れた手だからと罪を重ねて、重ねて。時には隠者紛いの泥仕事さえ引き受けた。
悪運が強いのか、死ぬような怪我を負ってもなかなかどうして、生き長らえる。
犬畜生のようにその辺の道で野垂れ死ぬ刻を、いまかいまかと待ち焦がれていた日々。
絶望と、罪過と、後悔ばかりに塗り固められた彼のすべて。
彼の右腰に据えられた、古びた太刀。
無骨な細工が成されたそれは、深山が持つには些か骨太過ぎるように感じられる。
それは彼の罪過が具現化したものなのか、或いは……。
だが、と。
殿はその苦しみを知った上で……否、知っているからこそ彼に提案する。
「その罪で磨き上げた剣技を、今度は誰かの為に振るえばよいではないか」
大きな罪と思えばこそ、持っているものを誰かの為に生きる糧とするべきだ。
世界が【黒】ばかりでは、あまりにも残酷ではないか。
染め上げられてしまった彼にほかの色を見せてやりたい、と手を差し伸べたのはきっと間違いなんかじゃあない。
そう信じてみたい。
侍を『人殺し』と詰る者が多くなってきた世の中で、刀はただの凶器だという。
しかしそれはほんの一面に過ぎないのだと、ひとりの武士として広く知ってもらいたい。
「どんなに禍々しい呪詛とて、要は使い方次第。であろう?」
公の屈託のない笑顔は、やはりあの頃となにも変わらない輝きだと、深山は目を細めた。
それと同時に思い出されるのは、深山が大切に仕舞っていた想い。
————『あねさま、あねさま』
遠く懐かしい記憶のさざ波で、幼い自分の声が響いた。