憂悶乙女
君が笑っていてくれるのなら、それが俺の答えの『すべて』だから。
俺が強くあるための理由は、たったそれだけでいい。
空を彷徨い揺蕩い、淡雪にようにひらりゆらりと舞い、流れゆく花筏。
薄氷なんて一瞬で溶かしてしまう、その温かな手をとる。
幼きあの日————見たこともない幻の八重桜に誓ったものを、俺は忘れない。
いつか、いつか。
希わくば、君の手を引いて、すぐ隣に立って本物を眺めたい。
どんなに遠く離れたって、こうしてもう一度出会えたんだから。
過酷な運命なんて、ぶち破ればいい。
どんなに難しい願いだって、奇跡のようにいつかきっと叶う日が来る。そう信じることに決めたんだ。
小田原藩と加賀藩の戦は膠着状態のまま、気候は雨季へと突入した。
毎日しとしと雨が降りそそぎ、田圃の稲や草花に栄養を与えている。
しかし今日は見事な晴れ間が差しており、数日ぶりに心地のいい陽気だ。
八重は墓参りにはぴったりだと喜んで、久しぶりに深山とふたりで出かけている。
薄桜の為に小田原藩内の墓地でも一等に陽射しのよい場所を、忠愨公御自ら用意してくれた。
酒匂川を見渡せる河川敷を、ゆったりと歩き続けているうちに着く広い共同墓地。
春になったら満開の桜が望めるであろう、淑やかな場所だった。
彼女の墓標には本来、刻むべき名はない。
しかし真新しい墓標には、『薄桜』の名が閑かに刻まれていた。
薄桜が見守っているであろう墓前で、深山は戦の前に八重と交わした約束を果たす。
八重が捜していた『深山』が自分であること、犯した山ほどの罪過。そして……。
「俺の本当の名前は————『高嶺』」
「たか、みね……」
八重は唇に馴染ませるように、ゆっくりと高嶺の名を呟いた。
何年ぶりだろうか……この名を誰かの口から聴けた日は。
ずっと深山の心のなかで死んでいた『高嶺』は、きっとこの日が来ることを待ち侘びていたのだ。
やっと、やっと————君に逢うことができたのだ、と。
小さな高嶺も、微笑んでいるような気がした。
しかし。
高嶺はここではない遥か遠くを見つめ、大事に仕舞いすぎていた気持ちを、そっと告白する。
「俺は姉さんが自分の代わりに死んだ事実と、未だに向き合うことが出来ない」
いまでも考える後悔は、あの日のこと。
姉さんと入れ替わりなんかしなければ、俺の代わりに姉さんが死ぬことなんてなかった。
俺が怯えることなく自分の正体を奴らに明かしていれば、姉さんだけでも助かったかもしれないのに。
毎日くよくよ考えていたこと。強くいようと、忘れようとしたけれど。
いつでも『強く』なんて、いられないから。
弱ってしまったそのときは、誰かに寄りかかってもいいんだよ。
それは隣に佇む彼女が教えてくれたこと。君の背中が教えてくれたんだと、そっと呟く。
だから————
「だから……泣いてもいいよ、八重」
薄桜を喪ったあの日も、八重は泣いたりしなかった。
誰かの前では決して泣かない彼女だから、その柱が折れやしないか心配になる。
だからせめて。
俺の前でだけは、素直に泣かせてやりたい。
風に乗って優しく響いた高嶺の声は、八重の瞳に涙を呼んだ。
「っ……、うん……」
穏やかな栗色の瞳からようやっと流れた涙は、青空よりも深く透き通っている。
ここに来る前に、ふたりで薄桜の荷物を整理してきた。
彼女の文机には八重へ向けた手紙が残されており、それを読めば深く理解できる。
彼女がいかに、八重を大切に想っていたか。
読まなくてもわかっていたことだが、今更になってより強く感じたことだろう。
八重が墓前で再び開き、薄桜の想いを噛み締めるように、胸へ抱いた。
あなたのいない世界なら、要らないとさえ思っていた。
あなたがいない世界なんて、真っ黒に塗りつぶされた闇そのものだから。
あなたを想い、憂いて悶える日々はいつ終わるのでしょうか。
だけどあなたが望むのなら、わたしはこの世界で生きてみよう。
生きて、生きて。
大切な誰かを、愛し続けようと決めた。
あなたがくれた桜の蕾————探して見つけて、芽吹かせてみようと思うの。




