戦場乙女6
「薄桜っ!!」
八重の悲鳴とともに影は————女の脚から力が抜けて、地面に倒れ伏した。
「ごめんなさい、八重さま……」
「しゃべんな!早く……早く手当しないとっ」
顔を見るなり謝罪する薄桜を黙らせ、八重は震える手つきで自らの着物の袖を引き千切った。薄桜の止血に当てるが、血は一向に止まる気配を見せない。それどころか。
薄桜の体は異常な痙攣を起こしていた。傷を受けただけでは、こうはならないはずだ。
おそるおそる針を抜こうとする八重の手を、深山の手が素早く止めた。
「八重、針に触れるな!毒が塗ってある!」
おそらく鳥兜の、致死量。
八重は錯乱し、早く解毒薬をちょうだいと喚き散らす。
鳥兜に有効な解毒薬はない。
薄桜がいくら毒に耐性をつけた隠者といえど、限界を超えれば一般人と変わらない。
薄桜を救う術はないのだと伝えることは出来ぬまま、暴れる八重の両腕を必死で押さえつける。
だが隠者である彼女だからこそ、自分が置かれた状況をよく理解しているのだろう。
「八重さま」
薄桜の声を受けた八重は、暴れるのをやめた。
驚くほど穏やかな薄桜の声は、しかし痺れで震えている。もう力が入らないであろう手を必死で伸ばし、八重を側に招いた。
「わたくしは、あなたのお側にいられて……とても、幸せでした」
「そんな最期みたいなこと……言わないでよ!!」
伸ばされた薄桜の手を強く握り、八重は怒鳴りつける。
『ごめんなさい』ひとつなんかじゃ絶対に許さない、ずっと側にいて償いなさいよ!と喚いた。
しかし薄桜は困ったように眉を下げ、
「八重さま」
もう一度、悪夢から呼び覚ますかのように、主人の名を呼んだ。
八重がはっと目を覚ましたように顔を合わせれば、薄桜はいつもみたいに微笑んでいる。
なんでもない毎日のような笑顔を残し、彼女は————。
八重の手に包まれた薄桜の手から、目に見えて力が抜けていった。
閉じた瞼からひと筋の涙が零れてくるが、もう永遠に開かれることはないだろう。
彼女の胸に突き刺さった暗器は、深山によく見覚えがあった。
太くて長い、針のような暗器。あれは……。
「吉野ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!」
折れた肋骨に、周囲の空気に響くほどの激しい咆哮を受け、彼女に刺さったものと同じ暗器が三本ほど深山を狙った。
燕のように飛来した総ての暗器を深山の愛刀が弾き、宙から降ってきた隠者とそのまま刃を交える。
深山の白刃と吉野の隠者刀が激突し、周囲に激しい火花と風を生み出しては散らした。
「なんでそんな怒んの、深山チャン。邪魔者を消してあげたんじゃん?」
鬼気迫った鍔迫り合いのなかで、吉野だけは場違いなくらいに平然と微笑っている。
八重を狙った殺気は偽装。吉野の狙いは最初から、薄桜を表に引き摺り出すことだった。
「殺していいはずないだろ!!薄桜さんはっ……」
隠者刀を弾いた白刃は、それでも殺意の色を見せないまま。
深山の刀に乗せられた『悲しみ』、『迷い』、『葛藤』といった感情の機微は【青い燕】には一切理解不能。
どうしてそんなものに振り回され、彼は刀を振るうのだろうか……そういった目だ。
「なんで?薄桜サンだって、お姫様を狙う隠者でしょ?なんで殺しちゃいけないの?」
「でも!薄桜さんは八重の……!」
八重の大切な人だから————。
深山の言わんとしているところを、しかし。
「それはただの贔屓だよ、深山チャン」
吉野はあっさりと、残忍に切り捨てた。
「オレたちの任務はあくまで、八重チャンの奪取ないし保護。そのためなら誰であっても、多少の犠牲は厭わない。そーゆー世界だ————なにより」
深山の前ではいつだって人好きのする笑顔を作っていた、その顔が。
単純に【悪意】と表現するにはあまりにも幼稚で、しかしまるで出口の見えない真っ暗闇のような本心を覗かせた。
「たっくさんヒトを殺してきたアンタが、今更言えることじゃない。だろ?《万緑の美姫》」
「……っ!!」
言葉を詰まらせたその意味は、深山自身がよく知っている。
自分に代わって死んだ姉。自分自身が生きる為に殺してきたのは、なんの罪もない人々。
任務の為に怨みのない人々に手をかけ、その人たちのことさえ思い出すことはなかった日常。
平和だ、幸せだと笑って過ごし、この手が血に染まっていたのは見ない振り。
ここまで生きてこれた命の、その意味を見つけたい————など、とんだ世迷い言だ。
————俺が殺さなければ意味があったはずの命を、踏み台にして生きている現実にさえ目を瞑って。
「んまぁ……オレは結構楽しかったよ、アンタらとの日々」
交えた白刃の揺らぎを吉野は満足げに眺め、刃を引いた。
深山に本気で戦う意思がないことを、吉野が微細に見抜いているからこその引き。
「でもオレは隠者だ。馴れ合いなんてのは、ただの暇つぶし」
————あぁ、わかった気がする。
こんなにも深山に対して強く激しく感じる、【怒り】という感情の正体。
彼の過去を知ったときから……いや、初めて出逢ったあの日から、感じていたことなのかもしれない。
「アンタもそーゆーとこ、ちっとあると踏んでたんだけどね……まさかここまでナマクラだったとは、思わんかった」
殺意に研ぎ澄まされた刃を、自由に振るう場所。
有り余る憎しみを吐き出してもいい場所を、捜し求めてようやっと得た戦場。
深山も同じ目をしていた。
自分の為なら躊躇うことなく手を汚せる、墨のように永遠に消えることのない【殺意】。
目の前の彼になら、きっと理解してもらえると————歩み寄れると信じていたんだ。
「残念だよ、《万緑の美姫》」
吉野の顔いっぱいに広がる失望は、いまの深山を否定する色。
お前は弱くなった。だからなにも守れないのだ……声高にそう言われている気がした。
「っ!!!!」
「おほっ……」
深山の左手から初めて愛刀が離れ、代わりに作った拳が吉野の頬を歪める。
地面に打ち捨てられて突き刺さる白刃は、主人に対する悲哀の色で光を鈍らせた。
「それそれ!その眼っ……ソレを待ってたんだよ、オレは!」
吉野の目が飢えた獣のような、鋭利な悦びに包まれた光を放った。
ようやく姿を晒した深山からの明らかな殺意が、吉野にとっては心地よい。
最初の一撃で倒れ伏した吉野の腹に乗り、深山の両拳は暴風雨のように止まらない。
「所詮……ヒト殺しはヒト殺しにしか……なんねーんだよ!オレもっ……お前も!!」
もっと、もっとその綺麗な【殺意】を感じたい。
ひりつく痛みを、理不尽な暴虐を……熱量のこもった、仄暗い感情の総てを!
吉野の弾む声が火薬となり、深山の拳は血に染まっていく。
止められなかった。止めることで、自分という存在が崩壊してしまう。
お前の穢れたその手は誰かを傷つける為にしか、生かされないのだ……そう言われているような気さえして。
いつかの忠愨公が諭してくれた、あの言葉を思い返した。
————「その罪で磨き上げた剣技を、今度は誰かの為に振るえばよいではないか」
その言葉に対して、深山はなにも答えることができなかった。
刀を握る度に誰かの命を奪い、今日も何事もなかったように一日を過ごす。
誰かの為に刀を振るいたいと願う瞬間だって、本当はずっと迷い、祈っていた。
どうか俺の心をかき乱さないで。罪はいつか償うから、いまの一瞬だけは『赦し』をください————。
自分勝手な願いだと嗤うのは、姉の影に隠れていた小さくて弱い『高嶺』。
君は姉さんの命を土足で踏み締め、その上で生かされているんだよ、と宝石色の瞳が訴える。
罪を重ねる恐怖から目を背け、奪った命の重みすら背負えない。
そう……どんなに取り繕ったって、過去の俺は変えられない。
姉さんを見捨てた過去も、生きる為に旅人から奪った命も、なんの目的もなく殺してきた屍の山も。
心の純潔は、『高嶺』という存在と一緒に棄ててしまった。
一度でも闇に堕ちて濡れた『深山』は、卑怯な人殺しにしかなれないのだ。
————だったら、一層のこと。
『深山』を構成するもの総てが壊れてしまえばいいと、拳に最大の力を込めたその瞬間。
「————やめなさい、深山っっっっ!!!!」
戦場に響いた乙女の声は、誰よりも毅然とした響き。
八重の声が聴こえたその一瞬で、深山の拳はぴたりと止まった。
それまで誰も手をつけられないほど暴れていた深山を、八重のたった一声が鎮めてしまったのだ。
「やめて。あんたまで、そっちに引きずり込まれないで」
自身の爪が食い込んで血が滴る深山の拳を、八重の手が優しく解きほぐしていく。
彼女の手の温かみを感じた掌から、少しずつ……深山に『現実』が戻ってくる。
地面に突き刺さった愛刀が鏡のように映しだした自身の姿は、あまりにも悲しいものだった。
怒りで艶が失せた髪と肌、大男との死闘で破壊された甲冑に、全身は血を浴びてすっかり汚れきっている。
宝石のように輝いていたはずの瞳は、まるで何者にも縋らない野良犬のように尖りきっていた。
『現実』は更に巻き戻される。
地面に横たわる薄桜の遺体が深山の目に留まり、彼女を救えなかった悲嘆を強烈に実感した。
————守れなかったんだ……。
もっと自分が強ければ……どうしようもない後悔が押し寄せ、それは熱い雫へと姿を変える。
守りたかった日常は、いつも守れないまま終わらせてしまう。
『ごめんなさい』なんて言葉は、後悔がないときにしか使えない。
静かに嗚咽を漏らす深山の背中は、まるで少年のように小さく儚いように……八重の瞳に強く刻まれる。
いまにも消えてしまいそうなその背中を、消えないでと願って抱きしめた。
「……偽善かよ、オヒメサマが」
悲しみに溢れた静寂を破ったのは、吉野の苦し紛れな皮肉だった。
薄桜を喪った悲しみの大きさは八重が一番大きいはずなのに、なぜ彼女は吉野に飛びかかることなく、あまつさえ深山を思い遣るのか。
吉野のことが憎いはずだ。だったらなぜ、深山の手を止めたのか。
彼が訴えたい言葉は、やはり暗がりを這い進む者の闇を匂わせる。
しかしいまは誰も、その闇を打ち返せるだけの強さを持ち合わせていない……悲しみに明け暮れる小田原藩本陣のなかで。
八重だけが無言で立ち上がり、吉野の目の前に立ち塞がって睥睨。
皆が見守るなかでしゃがみ込み……
パァン!
鋭い音が響いた。八重の掌が、吉野の頬を力いっぱい張った音だ。
「ばか言わないで」
張り上げていないはずなのに、こんなにも遠く響いた声。
八重の栗色の瞳は悲しみに屈することなく真っ直ぐに、吉野の姿を映している。
「あんたなんかに偽善を使うのも、もったいないわ」
あまりの迷いない真っ直ぐな光を受けた吉野は、目を逸らすことすら忘却の彼方。本陣にいる者の総てが、八重の姿から目を逸らすことができない。
「わたしは……深山の力は正しいことに使うべきだと、そう言ってるのよ」
深山のことを信じているからこその言葉は、闇から這い上がる力を持たない【青い燕】の耳に空々しい響きを残す。
「くく……オレを手にかけるのは、正しくないって?」
深山にさんざん殴られて腫れた頬を引き攣らせ、八重の言をから嗤う吉野へ向けて。
立ち上がった八重は眩いばかりの陽光を背に受け、毅然と答えた。
「あんたには然るべき者が、然るべき罰を与える。それだけよ」
————【罰】、か。
美しさすら感じてしまう音色を、吉野は鼻で笑った。
「なんだ、それ。わっけわかんねー……」
「お前にはわからないだろうさ。だけど俺が教えてやる」
深山は全身に襲いかかる痛みを無視して立ち上がり、未だ明けない闇に縋る吉野へ……手を差し伸べた。
「お前と俺が友人だからだ————『吉野』」
「…………」
あれだけ呼ばないと、頑固に言い張っていた名前を呼び。
こんなにも強引で力強く、闇から引き揚げてくれる。
「ホンット……お人好しだな、深山チャン」
深山が差し伸べた手に、吉野の手が重なる。
頬を伝う熱い雫の正体がなんなのか、吉野にはようやく……わかりかけた気がした




