約束乙女2
嘉永四年三月、春章。
あの日に似た美しい桜が咲き誇る季節が、何回も何回も、何回も繰り返された。
あの少女————八重との別れから、もう何年経ったことだろうか。
桜を見る度に思い出す、彼女の満開の桜にも負けないほぐれた笑顔。
あの頃の八重は幼かったから、もしかしたら『深山』のことなんて忘れてしまったかもしれない。
だけどもう八重が知っている『深山』には、永遠に逢うことが叶わない。だからそれでいいのかもしれないと、深山は毎日のように言い聞かせて今日まで生きてきた。
相模国は小田原藩。
数多くの国が鬩ぎ合い、凌ぎを削る厳しい江戸の世にあって、実に穏やかな空気を纏った土地だ。まるで城主の性格を、そのままに模しているよう。
賑やかな城下に沿って桜の木が多く植わっており、いまはまさに絶好の花見日和。真珠のごとく美しいと評判の本丸と併せて、しかし柔らかな薄紅の色合いから楚々とした印象を与える。
「私を『戦巫女』の守護役に……?」
自身の身分と比較した勿体ない大役に、深山が驚きの声をあげた。
天守閣に呼ばれるのはもう何度も経験したことだが、やはり緊張するものだ。背筋を正して、真っ直ぐに敬愛すべき主人へ顔を向ける。
殿もお人が悪い、私のような者をしょっちゅうここに呼び寄越すなど。
と頭の隅で溜息を零しながら、威風堂々と上座で胡座をかく自らの主人に問いを返す。
すると城の主人は刻まれた皺をより一層深めて笑った。人好きのする、優しい顔だ。
「うぬほどの実力があれば、容易い役目であろう。深山」
「勿体ないお言葉です。……が、私はまだまだ二十の若造。殿のご期待に添えられるかどうか」
恐縮する深山が危惧する理由を、しかし主人はきっちりと見定めきれなかったようだ。
かかか、と深山の不安を笑い飛ばし、自らの手酌で注いだ熱い茶を勧める。
「かような噂を気にしておるのか知らんが、儂はうぬの力を見誤ったつもりはない。存分に発揮せよ」
主人手ずからの茶を有り難く受け取って、返事の代わりとする。
「ときに」
足柄で採れた新茶の瑞々しさを感じながら、主人の言葉の続きに耳を傾けた。
「次の戦に向けて、新しい戦巫女を手に入れた。なかなかに優秀らしいが、とんでもないじゃじゃ馬だ。よく面倒を見てやれ」
面白い娘だから期待しておけ、と笑う主人からの見送りを受け、深山は真っ直ぐに延びた廊下を進んだ。
仰せつかった大役が果たして自分に務まるのか、というよりは。
彼を取り巻く良からぬ噂話に、また尾ひれが付くのではないかと。我が身よりも主人への偏見が気に掛かって仕方ない。
深山の外見は、良くも悪くも誰かしらの目を惹くものだ。
毎日きちんと櫛解いてはいるが、髷にはしていないざんばら頭。右差しの、やけに古びた刀。
黒のはずだが光に透かすと、様々な種類の青にも翠にも見える宝石のような髪と瞳。睫毛が長くて切れ長、色白のきめ細かい肌。
背は高くそこそこに細身で、一見すれば役者のように整った容姿だ。
着物の着こなしは裃がないにしろ、色も含めてきちんとしているが、どうにも歌舞いた印象は拭えない。
見るからに出自が怪しい特徴だし、実際に元を辿れば農民上がりだから聴けば「あぁ、成る程」の悪い意味で一言。そこから先は疑いしかない。
曰く「殿を誑し込んだ」、曰く「殿の寵愛を受けている」、曰く「殿と寝た」。
何者にも穢されぬ確固とした絶世の美しさ所以に、下世話な噂が好き勝手に飛び交っている現状は、敬愛する主人のことを想えば許しがたい。
しかし見た目を変えることは叶わないから、深山自身は誰よりも言動に気を配っているつもりでいる。
だがそれでも、人は物事を斜めに見がちだ。
あのように大らかな主人だから「言わせておけ」なんて一笑して吹き飛ばすが、普通の大名が聴けば切腹ものの噂だって紛れている。
彼のためにも、ここはしっかりとこの務めを果たさねば……と気合一閃、本丸から出てしばらく離れた屋敷にたどり着く。
とても立派なお屋敷だ。
門構えも垣間見える庭園も、金と手間がかかっていると一目でわかる。とても年若い少女ひとりと、最小限の小物だけで住んでいるとは思えない。
『戦巫女』というものは、大昔から続く伝統の儀式。
戦の前に必勝祈願として神社で祝詞を詠みあげる代わりに、戦場の陣地で巫女に舞を踊らせる。
当然ながら戦績の良し悪しで、彼女たちを物のように奪い合う。
大名にとって、戦巫女も大きな財産のひとつ。このように立派な屋敷を丸々ひとつと世話係の小物を数人ばかり与えることも、なんら不思議なことではない。
だから戦巫女の側には常に腕の立つ守護役が付けられて、敵に奪われることは勿論、彼女らの足で逃げ出すことも許さない。
こんなに美しいお屋敷なのに、まるで牢獄だ。
「ごめんください」
と深山が声を掛けると、ぱたぱたと廊下を走る軽やかな音が響いた。
やがてがらりと門扉が解き放たれ、この屋敷に奉公している小物の女が顔を出す。
女は深山の顔を見るなり「あら」なんて頬を染めてしばらくの間、よく作られた人形でも眺めるみたいな視線を向けた。一見して不躾な光景だが、女には不思議と薄暗い印象を感じない。
「深山さまですね?お話は伺っております。どうぞこちらへ」
女は慌てて取り直してにこりと微笑み、屋敷の中に深山を招き入れた。
本丸もさながらの、掃除が隅々まで行き届いた日差しを受けて暖かそうな廊下を進みながら、女は深山に話しかける。
「申し遅れました、わたくしは薄桜です。このお屋敷に関することであれば、何なりとお申し付けください」
薄桜と名乗った小物の女は、顔を綻ばせた。
どことなく落ち着いた印象が先行していたが、その人好きのする気さくな笑顔をよくよく見れば、深山とあまり歳が離れていないように感じる。
「よろしくお願いします」と深山が丁寧に返すと、薄桜はきょとんとした不思議そうな顔を浮かべた。
「私なにか、おかしなことをしましたか?」
不安げに尋ねると薄桜は「お侍さまとは思えない畏まり方ですね」などところころ笑う。
「普通はわたしのような小物相手に、そんなに下手に出ませんよ」
士農工商が当たり前の世の中であって、武士というだけで偉いという風潮が強い。
だから薄桜の言う通り、彼女のような身分の者に対して腰が低い武士など何処にもいないだろう。
でも私だって褒められた出じゃないしなぁ、と思いつつも、薄桜の言が間違っていない世の中なのだと自分に言い聴かせた。
「お嬢様、深山さまがお越しになりましたよ」
すら、と薄桜が襖を開けたその奥に。
美しい栗色の長い髪が、まず目に飛び込んだ。とても長いのに丁寧に梳られており、見事な艶が出ている。世話をしている薄桜の、苦労の賜物だろうか。
髪だけで十分に目を惹くものがあるが、顔を見ればさらに感嘆の溜息が漏れてしまう。
人形のように可憐な顔だ。ふっくらと柔らかそうな白い頬と、桜色の紅をさした瑞々しい唇。小振りな鼻梁が、彼女の少女らしさを残している。団栗のように可愛らしく丸い瞳は、髪と同じ鮮やかな色。
身につけた目に眩しい紅色の着物もまた、彼女の魅力を存分に引き立てている。身体に肉が足りないようだが、それも匂い立つ彼女の『少女らしい』魅力のひとつとして彩りを与えていた。
深山も思わず息を呑んだ。
ただし、彼女の美しさにではない。
「……や」
————八重!?